№1018 佐伯・中島・豊田町長   

 廿日市町役場就職当時は中島町長であった。しかし翌年10月の町長選挙で中島町長は落選され豊田町長と交代された。
 当時、下っ端の者にとって町長は雲の上の存在のようで言葉を交わすような事は稀であった。しかし当時は職員数も少なく、新採用されたのは二人のみであり顏と名前くらいは覚えてもらい、たまに中島町長と顔を合わすことがあれば、「仕事に慣れたか」「分からないことがあれば、何でも上司に相談するように」程度の会話をすることもあり、わりと親しみを持てる町長であった。

 選挙で選ばれた豊田町長は近寄りがたい雰囲気で、会話を交わすようなことは殆どなかった。たまに職場を廻ってこられることもあったが、屑籠に丸めて捨てた紙をを伸ばして「裏側が白紙の紙でもメモ紙に使える。無駄なことをするな」と言われた記憶があるが、それ以外の印象は残っていない。

 旧廿日市町は昭和31年9月に、「旧廿日市町」「平良村」「原村」「宮内村」「地御前村」の五ケ町村が対等合併し「新廿日市町」となったが面積45.74㎢、人口19,211人であった。その年の11月に町長選挙が行われ、初代町長に中島勇夫氏が当選された。

 合併前にはそれぞれの町村に町長・村長がいたが旧廿日市町最後の町長は佐伯好朗氏であった。この町長は昭和22年1月に76歳で町長に就任され、昭和31年まで在住された旧旧廿日市町最後の町長であった。

 この町長は幼いころより神童と呼ばれ、明治18に明治天皇が廿日市に立ち寄られた際、氷水を献上するという大役を務めておられる。

 その後当時としては破格であったらしいが早稲田大学を卒業し、言語学者・英語学者・法学者・歴史学者として活躍され、20世紀前半の日本を代表する多才な学者として名声を残されている。

 町長時代、暴力団が廿日市町役場に押し掛けた際、「喧嘩なら外でやろう」と近くの天神山の石段に連れて行き、その男を辟易とさせた言う逸話が残っている。

 佐伯町長とは直接面識はないが、当時の役場内で佐伯町長よりは佐伯博士として敬まられ何かと話題にのぼっていた。

 佐伯町長は昭和40年に94歳で亡くなられた。このように素晴らしい方が、過去 廿日市町長に在職しておられたことを知る人も僅かとなってしまった。

# by hirosan_kimura | 2025-02-17 10:48 | Comments(0)

№1017 町長選挙   

 昭和39年10月31日、廿日市町長選挙が行われた。阿品の投票所は阿品公民館であったが今の公民館でなく、国道に近い阿品部落の進入路沿いにあった集会所である。

 投票当日は早朝に集合しなければならないため、投票所の設営は前日の午後三時ころから行った。準備を行ったのは鰆浜の長門さん、阿品の瀬土さんとの三名で行った。
 最初に板の間のふき掃除を行い、土足で上がれるよう床全面にゴムマットを敷き詰める。受付・立会人用の机と椅子、記載台、投票缶用台等を所定の場所に設置。

 その他掲示用の張り紙、や事務用品の点検を行い2時間余りで準備は終了した。これで終了かと思ったら、少し待っているように言われるので何があったるのかと思っていると、すぐそばに自宅のある瀬土さんがお酒ととつまみを持参され話をしようと言うことであった。

 よく聞いてみると、投票所の準備が終わると酒を酌み交わすのが習慣で、これが楽しみであったそうである。今までは阿品から役場に勤務するのは二人だけであったが「これからは生まれも育ちも阿品同士三人で仲良くやっていこう。」と言うこととなった。

 役場に奉職して一年半余りであるが、投票するのも会場の設営も初めてでなにもかも一からの経験であった。そのうち投票所の責任者になることもあるので、良く頭で覚えるように言われた。お酒を飲みながらいろいろなことを教えてもらったが、その中に「しかまえ」と言う言葉が良く出るので何のことか聞くと、「しかまえとは選挙前に投票所の設営を行うことで(仕構え)の文字である」と教えてもらった。
 初めて聞く言葉であるが、このようにお役所独特の言葉が結構あるものだ。その後、投票事務や様々なことを教えてもらったが、平素の業務ではなかなか気の付かないことをたくさん教えてもらった。その後、数えきれないくらい投票・開票事務に従事したがこの時教えてもらったことが随分役に立ったものである。

 翌31日は6時30分に集合し7時から投票作業にあたった。ほどなく立会人の二人の方が来られる頃には、気の早い投票する人もボチボチ来られる。

 投票前に見落としは無いか最後の点検を行い、ラジオの時報を合図に7時ピッタリに玄関を開ける。最初に一番最初に来られた投票する人と、立会人の方に投票箱の中が空であることを確認してもらい投票蓋の施錠する。

 受付では入場券と選挙人名簿を照合し、入場券と名簿に割り印を押し、投票用紙を交付する。一人の人に二枚渡していないか来場者の人数と投票用紙の余りが合っているか時々、照合してみる。

 立会人は地域で信望の厚い人にお願いするが、一日中 座りぱなっしも大変でお願いしても断られることも多かった。中にはいつでも声をかけてくださいと言う人もあったが、そういう人に限って、後で地域の人に「なんであんな人に頼んだのか」と苦情が出ることが多かった。

 当日の有権者は、廿日市町全体で13,519人、阿品では僅か381人であった。阿品の有権者が少ないようであるが、当時の阿品は田んぼの中に農家が散在しているようなのどかな地域であった。自分の記憶の範囲では阿品全体で100世帯前後、人口500人前後と言う時代が長く続いた。人口が増えたのは団地の開発が始まってからである。

 投票時間は7時から夕6時まで長時間であるが有権者が少なく、その中で投票する人は更に少ないので、投票所内に投票人が誰一人いないという時間も結構あった。
 投票が始まってしばらくは来られるが、しばらくすると誰も来られない時間があり、昼前に少し来られ午後になると誰も来られない時間が続き、投票所の閉まる前ごろ少し来られるような状態である。

 投票に来られる人は、生まれも育ちも阿品の人ばかりで大半が名前と顔が一致する人ばかりであった。たまに見かけない人が来られると「何処の誰だろう」と噂しあったが、このような人は極まれであった。

 このような状況であるので、立会人も投票事務に当たる者も暇を持てあます時間が結構あった。いくら人が来られなくても席を外すことも出来ないので、世間話で時間を潰すこともあった。

 時には一時間以上誰一人来られないこともあった。すぐそばに従兄の家があったので、週刊誌や雑誌を借りに行き皆で読んで時間を潰すこともあった。

 夕6時を過ぎると大急ぎで最後の作業を行った。立会人に立ち会ってもらい、不在者投票の封を切り中の投票用紙の数を確認しながら投票箱に入れ、施錠していた。
 投票者の数と、残りの投票用紙の枚数が整合しているか確認する。数が合うのが当たり前であるがあった時はほっとしていた。

 7時から7時半くらいから開票作業が開始するので大急ぎである。開票所は中央公民館が整備されるまで廿日市小学校の講堂で行っていた。

 長門さんは投票所の管理者で、投票録・投票缶を開票所まで、立会人一人同行の上大急ぎで運ばれた。残りの物は会場の掃除。後かたずけを行い帰宅していた。
 この時は上司の方の言われることをそのまますればよかったが、後に投票管理人に指名されることが多かったが、投票が終わるまで気が抜けなかった。また投票事務のみでなく開票事務まで従事していたこともあった。この時は最後の一票が合うまで解散できず、ある時は前事務が終了した時に東の空がうっすら明るくなることもあった。

この選挙では、新人豊田正夫氏6,068票で当選。現職中島勇夫町長は4,962票で落選。投票率82.34%であった。

 ちなみに阿品公民館は有権者男178人、女203人 計381人。 投票者男126人、女156人、計282人。 投票率男70.79%、女76.85% 計74.02%であった。

町全体の投票率に比べ、阿品では投票率が低かったが、それでも現在と比べると高投票率であった。 

# by hirosan_kimura | 2025-02-15 11:49 | Comments(0)

№1016 行路人   

 行路人とは金銭を殆ど持たず、あちこち放浪する人である。今の時代の状況は分からないが、昭和40年代にはかなりの人が自由気ままに行き来する人が多かった。

 この人たちは放浪の途中、町村役場に立ち寄り旅費を貰っていた。廿日市役場は国道に面しているので目につきやすくこのような人たちが立ち寄ることが多かった。この人たちが来られると行き先を聞き、大阪方面に行く人には広電五日市まで、九州方面に行く人には国鉄の「大野浦駅」までの運賃を渡していた。五日市町が広島市と合併すると市内までの電車賃を渡していた。

 食事時であれば「パン・牛乳代」とわずかなお金を割り増ししていた。中にはこれでは少なすぎると文句を言う人もあったが、「廿日市はこのように決めている。不服であれば隣町の役場に行ってお願いするように」と告げると僅かのお金を受け取ってすごすごと帰って行かれた。

 寒くなると九州方面に、暑くなると大阪方面に向かう人が多くなっていた。この人たちの中にはわずかなお金が入ると、商店を探してお酒を飲む人があった。今と違ってお酒の自動販売機などはなく、お店の人に頼んでコップ酒を飲んでおられた。中には午前中に来た人が午後に来られて、「お金を落としたので、もう一度欲しい」と言う人もあったが、僅かなお酒の量でも飲んだことが分かるので断っていた。お金をくれるまで動かないと粘る人もあったが、大声で怒鳴り散らしてあきらめて帰って行かれた。

 ある時、広島・大野浦までの乗車券を購入して置き、行き先を聞き乗車券を渡すこととした。乗車券でなく現金が欲しいと言われても「これが廿日市町の決まりです」告げるとすごすご帰って行かれた。

 暫くして国道に面した潮音寺の奥さんが「以前からお金をねだる通りがかりの人が居られたが、最近立ち寄る人が多くなって不思議だ」と言われたことがあった。事情を説明して「役場に来られたら現金を渡していたが、代わりに乗車券を渡すことにした。きりがないのでお金を渡さず役場に行くよう断ってください」と話したことがある。

 それぞれ勝手に行き来している人同士ではあるが、情報網か連絡網があるのか不思議に思うばかりであった。
 勤務時間中に行路人が旅費の請求に来られると担当係で対応するが、夜間や休日等の為に僅かではあるが現金を渡していた。たまたま夜遅く残業していると、宿直の人が行路の人が来られて対応したが次の駅までの乗車券では納得せず困っている。何とか対応してほしいと相談に来られた。

 たまたま上司の方が居られたので相談し、寒い日でどこかで凍死されても、やけを起こして「廿日市の対応が冷たい」などと書置きして自殺されても、死体の処理は廿日市でしなければならないことを考えると何とかしようとすることになった。岩国駅まで行けば待合室で夜を過ごす手立てもある。廿日市の住民がどこかで他の自治体のお世話になっているかもしれないこともあろうと例外措置をとったものである。ただ岩国までの現金を渡すとどこかでお酒を飲む恐れもある。

 廿日市駅まで同行し下りの列車に乗車するのを確認しようということにした。案の定、途中で酒屋さんを見ると一杯で良いから酒を飲まして欲しいと言われた。この寒空の中、自費ででも良いから願いを聞いてあげようかとも思ったが、心を鬼にして断ったこともあった。

 どのような事情があるのか分からないが、このような人にもどこかに身内が居られ、どこかに住民登録があるのだろう。身内の援助を受けるか、居住地の福祉担当に相談すれば何らかの対応策が講じられるのに、なぜ行わなかったのか残念である。

 行路人の支援は住民登録の有無にかかわらず何らかの対応策が講じられる。行路人には限られているが旅費。行路病人には入院・治療費。行路死人には遺体の処理が依頼先の自治体が行っている。
 これらに対する費用は後に県費を請求することとされている。いくら県費で賄われるとは言え、経験したくない業務であった。

# by hirosan_kimura | 2025-02-10 12:23 | Comments(0)

№1015 計算事務   

 新しいブログは「ふるさと 阿品 よもやま」を整理せず続けているので「役場 市役所 四十二年」で検索しても閲覧できない。また新しいブログ開設は公表してないので、閲覧する人は皆無に近い。偶然、閲覧しても面白くもおかしくもないので、また開いてみようと思う者も少ないだろう。

 新しいブログを再点検してみると、ほとんどの画像が閲覧できなくなっている。出来るだけ早く原因を調べて画像を再現したい。

 現在まで様々な事務処理を行ってきたが、計算を要することが多々あった。現在では個人個人に電卓が配備され、またパソコン等でも簡単に計算事務を行っている。しかし、当時は電卓などは無く、主な計算手段はソロバンであった。ソロバンは事務処理を行う上での必需品で、一人一人が使い慣れたソロバンを使っていた、貸与でなく個人所有が普通であった。

 ソロバンは学校の科目で習ってきたが、使い方は個人個人で大きく異なっていた。自分はソロバンが苦手ですと言っても、ソロバンなしでは通常の事務をこなすことも出来ない。足し算・引き算は何とかなっても、掛け算・割り算となるとどうしようもなく、筆算で行い上司から何とかならないかと嫌味を言われることもあった。

 しかし必要とする計算の大半は加算であったので、何とかなっていた。加算が大半と言っても合計があっているかの確認は、同じ計算を二度行い同じであれば正しいということである。しかし、何回行ってもすべて数が違うこともあった。このようなときは他の人にお願いして計算してもらい正しい数を出すこともあった。

 現在では電卓は百円ショップでも売っているが、当時は計算機は普及していず今では考えられないくらい高価なものであった。計算機は大掛かりでレジスター位のものが庁舎内でも財政担当や税務担当にあるくらいであった。その代わりに手回し計算機といって、片手で持つのは重過ぎるものがあった。各部署に1・2台あり使うのに取り合いになるくらいであった。掛け算割り算用で足し算・引き算には不向きであった。

 掛け算をする場合は先ずかける数字を手で操作し、三桁の場合は先ず一の位をハンドルで回し、次は十の位をかける数だけハンドルを回す、次に百の位を数だけハンドルを回す。廻すときは一桁ごとにガチャガチャ音がし、必要な数廻すとチンと音がしていた。傍に使う人があれば、ガチャガチャ・チンチンと煩かった。

 使用方法を文章に表すのは難しいが、今から考えると非効率な計算機であった。これ以外に土木関係の人は計算尺を使っていた。操作はそんなに難しくないが素人が使うのは至難の業であった。

 文具関係の業者が見本を置くから使ってみて欲しいと一台おいていたが、とても高価で購入できなかったが、イタリアのオリベッティと言うようなメーカの機器であったように思う。

 その内、安価な計算機が普及したり、パソコンなどの導入により奪い合いで使っていた手回し計算機は見向きもされなくなり、いつの頃か廃棄されてしまった。今思えば一台でも保管して置き、若い人に試しに使ってもらえばと後悔するばかりである。

 計算と言えばソロバン、非効率な手回し計算機を四苦八苦して使っていたのが噓のようでもあり、懐かしく思う今日この頃である。

# by hirosan_kimura | 2025-02-06 16:02 | Comments(0)

№1014 文章の作成・印刷・保存   

 現在、文章を作成・印刷・記録はパソコンで簡単にできるが、当時は筆記用具で作成し複数枚必要であればカーボン紙で複写していた。必要枚数が多ければガリ版を切り謄写版で印刷していた。ガリ版は蝋原紙に鉄筆で文字を書いていたので、個人により字は異なっていた。以前は学校でお知らせやテスト用紙など頻繁に使われていたが、今ではガリ版など使っているなど皆無であろう。

 正式な文書や住民へのお知らせなどは、タイピストにお願いし蝋原紙にタイプライターで印字してもらい、輪転機を廻して印刷をしていた。しかし議会前などになると作成を必要とする文書が多く、通常の文書のタイプをお願いしても後回しにされていた。

 文書のタイプまではタイピストが行っていたが、印刷はそれぞれで行っていた。輪転機に原紙を張り付けるのが難しく、少しでも皴があればその部分から原紙が破れていき使い物にならなくなった。

 税金や使用料など納付書は一枚ずつカナタイプで印字していたが、町民税や固定資産税などの納付書の発行時はその数が膨大になり、保育料などの納付書の作成まで手が回らず断られ、担当で手書きをすることもあった。手書き複写は力を入れて書かないとならないので手首が痺れる様になることもあった。何百枚も力を入れて作成するのに泣きたくなるようなこともあった。

 これ以外に戸籍係は専用のタイプライターで戸籍謄本などを作成していた。戸籍謄本などには専用の薄い美濃紙が使われ、謄本の請求などがあれば今では余り見られない湿式の複写機で複写し発行していた。少し以前までは戸籍の請求があれば、原本を見ながら筆で一字,一字手書きしていたので、請求日の翌日くらいでないと発行できなかったそうである。

 担当部署に何故か一台の和文タイプ機があった。これを使いこなせる人はタイピスト以外では極まれで、何故か年金係の上司が使いこなされていた。和文タイプ機は現在はまず使う人は皆無であろうが、とても難しいものであった。現在ではパソコンでひらがなを打ち文字変換すればよいが、和文タイプは文字を選択するのが一苦労であった。文字は鉛の活字があり一文字・一文字選択し原紙にタイプしていた。ひらがな・カタカナ・算用数字・それに加えて漢字数が膨大で、文字盤に並んだ文字は使用頻度に応じて一級・二級・三級に分類され、文字数の漢字は全部で2400字あった。この中に無い文字が必要な時は、この文字のみを手書きで代用していた。アルファベットは26文字活字があれば対応できるが、これと比較にならない100倍近い活字を要した。

 この活字は「あいう」順でなく「イロハ」順に配列してあった。おまけに選んだ摘まみ上げてそのまま印字するの、活字は反転しており文字の向きは上下逆転していた。
 なれない当初は活字一文字を探すのも容易でなく、時には字をタイプする時間より活字を探す時間の方が長いのではないかと思われる場合もあった。不思議なもので数ある活字を探すのに苦労していたが,そのうち使用頻度に応じて活字の場所が分かるようになっていった。

 活字を探すのも大変であったが、今では文字の大きさ・均等割り付けなどボタン一つでできるが和文タイプではいちいち手間を要した。文字の大きさを変えようとすれば、重い文字盤を入れ替えていた。均等割り付けも面倒で、文字を入れる行の幅と文字数を割り出してピィッチ間を調整していたが、ぴったり割り切れない場合は文字間隔が微妙にずれていた。

 このように素人が使うには至難の業の和式タイプであったが、上司の方の「タイプが本業でないので、事務の合間に気楽に遊びのつもりで習得してはどうか」の言葉に勧められ、最初は簡単な文書の作成から始め作表などを習得していった。

 通常の文書は何となくこなせても表を作るのは素人には至難の業で、今の人がワードやエクセルを活用するが当たり前となっているがその比ではない。
 はじめはとても使いこなせないと思っていた和文タイプライターであったが、そのうち何とかこなせるようになった。

 その後、ワープロやパソコンが出現したが、以前の作業がなんと手間暇かけ非効率なことを行っていたかと感慨深いものがあった。当時の文章の保存は「手書き書類」「印刷用蝋原紙」等しかなかったが、現在の記録媒体から考えれば、原始的なものを使っていたものと呆れるようである。

 長年使用されたこの和文タイプライターは需要が減り続け、平成15年には製造が完全に停止されたようである。しかし旧戸籍謄本等を扱うには和文タイプライターの方が利便であり、驚くことに京都府笠置町・北海道夕張市などでは旧和文タイプが近年まで活用されていたそうである。しかし、平成31年に戸籍業務が電算化され和文タイプを活用する自治体は皆無のようである。

# by hirosan_kimura | 2025-02-04 11:15 | Comments(0)