№895 厳島合戦と五輪塔   

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 今は無き「火立岩」は、毛利元就がこの地に陣を置き、天文24年(1555年 467年昔) 9月30日西の刻、風雨に乗じ兵三千を率いて厳島に上陸しました。

 塔の岡に本陣を置いていた陶晴賢の軍勢約二万人と戦い、陶晴賢を破りました。毛利方は要害山を本陣としていましたが、元就は包ケ浦に上陸し、尾根を越えて紅葉谷に攻め込んだのです。弘治3年3月周防長門を平定しました。

 JR阿品駅の裏側の山際に五輪の塔が祀られています。以前は五輪の塔が幾つかあるだけでしたが、周囲に開発(団地造成)で樹木が切られ、五輪の塔を一か所に集め小さな祠の中に納められています。

 この祠に納められている五輪の塔は、弘治元年(1555年)に、毛利元就と陶晴賢が戦った「厳島合戦」において多くの戦死者が出て、その遺体が潮流によって阿品の海岸に流れ着きました。

 この辺りはかって海際で「大洲」と呼ばれていました、この山伝いに通リがかった旅のお坊さんが、現在の五輪の塔の場所にお寺を建てて、多くの討ち死にした兵を葬ったといわれています。

# by hirosan_kimura | 2022-06-20 09:01 | Comments(0)

№894 伊能忠敬の阿品測量   

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 この地図は、伊能忠敬が文化3年(1806年 216年昔)3月28日に阿品地域を測量をして作成したものです。当日の天気は 曇天。午前6時から大野村(現在廿日市市)丸石峠から測量を始め、地御前神社まで測量を行っています。

 翌9日は朝曇り、午前7時に出立し地御前神社鳥居より測量開始。当日は井口村(現在広島市〉境まで測量を行っています。

 伊能忠敬は、全国を測量して回り日本地図を作製し、当時の地図としたら極めて正確で欧米の人でもその正確さに驚嘆したといわれています。

 伊能忠敬が津和野藩の堀田仁助の弟子で教えを受けていたことはご存知ですか。堀田仁助は寛政11年(1799年)7月に江戸幕府から蝦夷地の測量を命じられ、様々な測量機器を作製し蝦夷地に赴き、天度や海路を測量し蝦夷地の地図を完成させました。

 堀田仁助は、老齢を理由に自分の代わりとして推挙したのが、弟子である伊能忠敬でした。地図製作では伊能忠敬の方が有名ですが、堀田仁助の弟子として色々指導を受け、その結果として技術が備わり地図製作のの一人者として認められたのではないでしょうか。このように世界に誇れる人材を育成した「堀田仁助」の功績は素晴らしいことです。

 堀田仁助は、延享4年(1747年)正月に、廿日市の津和野藩御用船屋敷で嘉助の長男として生まれた。天明2年(1782年)幕府に招かれて天文方の属員となり、暦の作製などに才能を発揮する。寛政11年(1799年)3月に幕府から蝦夷地の測量を命じられ、蝦夷地の地図を完成させた。廿日市の佐方の八幡神社境内に堀田仁助寄進の石灯籠が有る。「文化五年戌辰年四月十一日建立 天文生堀田仁助藤原泉伊」と銘文に記されている。

# by hirosan_kimura | 2022-06-19 09:49 | Comments(0)

№893 阿品の移り変わり(その2)   

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№892より続く

 そして640年余り前、応安4年(1371年 651年昔)今川貞世(号 了俊)の紀行文「道ゆきぶり」に「廿一は此佐西から出て、地の御前といふ社の西ひがたより山路に入るほどに」と記述があります。
 阿品の地名は出てきませんが、佐西・地の御前・おほの・おふのうら等が記されています。地御前神社より海岸を通リ、阿品を経て大野の中山を越えた様子が伺われます。

 古代山陽道は、伴、石内と山間部を通っていましたが、今川貞世は海田から沿岸部を通過し、新しい山陽道を開拓したといわれています。

 今川貞世は、南北朝・室町時代の武将・歌人でもあり、足利義満の命で九州探題として、九州に着任する途次の中で歌人としての句が読み込まれています。その内の一区ですが。

 おおのうらを これかと とえば やまなしの かたえの もみじ 色に出でつつ

 大野浦の駅名は この歌からとったものといわれています。

 江戸時代になると地御前村の内となり、地御前神社あたりから東方一帯を本郷(ほんごう)とよぶのに対し、当地は「阿品組」という枝郷(えだごう)となりました。この地は、江戸時代の初めごろには「あし原」という地名があり、葦の原が生い茂っていたようです。
 田11,7㌶,畑0,7㌶の耕地が開かれ7軒の屋敷があったそうです。

# by hirosan_kimura | 2022-06-18 09:15 | Comments(0)

№892 阿品の移り変わり(変遷)   

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 阿品の地名が文献に見えるのは何時の時代?

 阿品の地名は、安土桃山時代で天正8年(1580年 442年昔)の「厳島文書」に記されています。この頃 荒れ地を開拓したと記されています。
 「木村重信譲状(厳島野坂家文書)」に、「あしなに四百田五段新給候。永荒候をひらかせ候、元就様隆元様てうたい申候」とあり、女子「おかう」へ譲られており、荒廃地の開発地として、当地の田五反が木村氏へ給されています。

 今から400年前の毛利の時代には、この辺りを「阿字名(あじな)村」と呼んでいたそうです。
 それよりも以前 800年も前文治元年頃阿品、鰆浜の開発が行われています。

# by hirosan_kimura | 2022-06-17 09:34 | Comments(0)

№891 阿品の水は味が無い?   

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№890続き
  更に、神武天皇 弘法大師がここで水を飲んだ時「味が無い」と言ったことによるという説もありますが、どうでしょうか。ことの真意ははかりかねます。

 神武天皇は、紀元前711年2月13日生まれで、紀元前585年127歳で亡くなっています。天皇としての在位は、紀元前660年前から紀元前585年の75年間です。

 一方、空海は774年生まれで亡くなったのは835年で、享年61歳でした。平安時代の代表的な仏僧、弘法大師とも呼ばれ日本全国に伝説やゆかりの地があります。

 阿品に人が住み始めたのが今から1200年前と言われていましたが、今では500年ぐらい前と言われ、これから考えると紀元前の神武天皇の名は、言い伝えとは言っても若干疑問が残りますね。

 空海は1245年前に生まれていますが、阿品に人が住み始めた年代と、空海の全国にゆかりの地とを重ねると、少しは関係があると考えられますが、やはりしっかりした証拠がありません。

 このように、はっきりした証拠もなく、言い伝えをどこまで真実化できるのか?????
 弐奈さんは、どちらの話を信じますか?????

# by hirosan_kimura | 2022-06-16 09:12 | Comments(0)