№1095 再度 富士登山   

 昭和52年8月に再度富士登山に挑戦した。職場の同僚のYHさん・HTさんとの三名である。YHさんは同年代であるが、HTさんは少し年下である。WSさんを加えた四名で飲みをしたり旅行に行く仲であったが、この時はWSさんは何か所用があったのか三名での登山旅行であった。

 数年前の46年8月には高校の同級生と二人で富士山に登ったが、この時は日曜日の夜遅く広島駅を出発し新大阪駅から三島駅まで新幹線を利用している。三島駅を10時10分に登山バスで出発し12時15分に富士山五合目に到着している。その日は山頂の山小屋に宿泊した。翌日は山頂を周遊し下山している。須走を飛ぶように駆け下りて御殿場から沼津駅を経て、11時51分から新幹線で新大阪駅。大阪駅を15時に急行城山で乗車し、20時59分に宮島口到着と言う慌ただしさであった。山頂からの夜景、山頂火口の雄大さに圧倒され、いつか再度ゆっくり登りたいと思っていた。

 今回は旅程にゆとりを持っての計画であった。8月31日(土)21時30分発のあさかぜ2号で広島駅を出発し三島駅に8時42分到着した。登山バスで富士山五合目まで登った。今回は余裕をもって登山を開始し、ゆっくり登っても早めに頂上小屋に到着する予定であった。最初は意気込んで登っていたが、登るにつれて急坂となっていき休み休み登って行った。その内、歩く時間より休む時間の方が長くなった。他の登山者に次々追い抜かれていったが、高度が上がるにつれ見下ろす景色は雄大になっていった。空気もだんだん薄くなり歩く歩調は遅くなるばかりであった。無理をすれば頂上小屋迄たどり着くことも出来ようが、今夜は八合目小屋に泊まることとした。

 ゆっくり休んだので体調も回復し早朝に小屋を出発し、何とかご来光を山頂で迎えることとした。暗かった東の空もほんのり明るくなっていった。ご来光は何とも神々しく、これぞ富士登山の醍醐味と登山中の苦しみも忘れるようであった。その後山頂を周遊し須走口に向かった。急な斜面は砂地で一歩飛べば着地と同時に数メートル滑降し、登りの登山と異なり短時間で麓まで滑り進んだ。このような豪快な体験は二度と得られないだろと大感激であった。

 その後、伊豆半島に廻り、川端康成の「伊豆の踊子」に登場する暗いトンネルを歩いたり、近隣の滝などを観光した。その日は伊豆湯ヶ島温泉の「湯川屋」と言う旅館に泊まった。領収書によると宿泊料は三人分で16,722円と不思議な端数となっている。今と比較すると安宿のようであるが、それほど粗末な施設でなかったような記憶がある。ビール6本2,500円とあるが3人で6本とは信じられないくらい少なかったものである。その他追加料理代2,500円とあるが、何を注文して食べたのだろう。その他奉仕料・入湯税・飲食税・電話代390円等含めて総合計27,542円を支払っている。室名は「青嵐の間」となっていた。

長い役所生活中様々な体験があったが、この富士登山も生涯忘れることの出来ない思い出の一つである。行きの交通は記録しているが、なぜか帰りの記録が残っていないのが不思議である。

# by hirosan_kimura | 2026-03-08 11:41 | Comments(0)

№1094 児童手当   

 昭和47年に児童手当の支給が開始された。それまではひとり親家庭に児童扶養手当、扶養している子どもが精神または身体障害児であれば特別児童扶養手当が支給されていた。福祉関係者は「じふて」及び「とくじ」と省略していたが、これに「じて」が加わり関係者以外は「何のことなのか」と不思議がっていた。

 新しい子どもの手当ては、十八歳以下の子どもを三人以上養育し、三人目以降が義務教育終了まえであれば子ども一人に対して月3,000円の手当てが支給された。高校生が一人・中学生一人・小学生一人を養育していれば3,000円支給される。一番上の子が十八歳になれば至急は停止となる。高校生一人・中学生一人・小学生二人なら二人分の月6,000円が支給されることになる。

 月3,000円と言えば家計の助けにもならないと思われるが、当時としては貨幣価値も異なり現在とは異なる感覚であったろう。手当受給者の反応は様々で、3,000円程度では貰わないよりましくらいで手当てに手を付けない人、貰うのが楽しみだと受給を待っている人等様々であった。支給は2か月分纏めて金融機関に振り込んでいたが、支給事務は結構手間がかかった。遠い昔なので記憶違いもあるかも分からないが、金融機関は銀行か農協等であった。阿品台ニュータウン造成当時は世帯もまばらで金融機関は皆無であった。阿品に佐伯中央農協阿品支店が開設された当時は、阿品台に受給者は阿品の平地まで降りて農協で支払いを受ける人が多かった。当時は阿品行きのバス便も無く、子どもを背負ったり手を引いて山道を歩いていく人は苦労されていた。その内人口も増え広島銀行阿品台支店が開設され、不便は解消した。

 児童手当は子どものための手当てであるが、中には子どものためでなく父親が酒代や競艇に使い果たす不届き者があった。母親の中には「手当を振り込みでなく現金払いにしてほしい。」と田のみに来られる人もあった。預金通帳を主人が管理し、手当てが振り込まれるのを待っていたように主人が使い果たす例も多かった。母親が泣くように頼み込まれても支払いは振り込みに限定しているので、条例を変更してまで要望に応えることも出来なかった。

 子どもが六人家庭の場合は支給対象児が4人で二月分で24,000円となる。ある例であるが父親が散財するのでなく、日頃質素な生活をしておられるのでこの時ばかり豪遊しておられた。信じられない話であるが両親と子どもとで8人となるが、タクシーを呼びつけて全員が乗り込み廿日市に食事に行かれていた。運転手も定員オーバーで断ればよいものをゾロゾロ強引に乗り込んげ来るので打つ手も無いようである。後で子どもに8人もタクシーにのれないであろうとこ聞くと、「前の席にお父ちゃんが座り、後ろの席に五人座り小さな子二人を膝に乗せた。」とケロッとして話していた。このことは近所でも話題になったが、気の毒なのは運転手さんで警察に見つかればただでは済まないだろう。これは一度ならず二・三度あった。

 この当時は少子化問題も余り懸念されていず、むしろ高齢者対策に重点が置かれていた。各自治体もこぞって老人福祉センターなど箱物の建設、老人医療費の無料化、老人手当の支給などに競って公費をつぎ込んでいた。

 これに対して児童対策は微々たるものであった。後の平成二年には合計特殊出生率が昭和41年の丙午の年の1.58を下回る1.57となり、1.57ショックと言われる社会問題となった。人口学者はこのままでは日本の人口は急激に減少し、遠くない日に人口が半減すると警鐘を鳴らしたが政治家は「机上の空論」と相手にしなかった。むしろ高齢者対策に力を家れた結果、医療・年金・介護関係等の経費が増大し、国家財政はパンクしそうである。

# by hirosan_kimura | 2026-03-07 11:47 | Comments(0)

№1093 ハワイ珍道中   

 昭和49年の夏前のある日、MAさんと宿直業務を担当することになった。MAさんは7歳くらい年下であったが何故か気が合い親しくしていた。布団に入り眠れないまま時間を持て余し、世間話や仕事の話をしていたが何故かハワイの話になった。MAさんは親戚がハワイに居住しているとのことであった。地御前は昔から海外に移住した人が多く、親戚をたどれば誰か海外に住んでいるのは当たり前であった。我が家も父の姉家族がアメリカ西海岸に移住し、その後帰国したがいとこなどからアメリカの話をよく聞いていた。母親の親しかった同級生もハワイに居住しており、地御前小学校の同窓会などには何度か帰国し、同級生が集まり親交を深めていた。

 小さかったころにはハワイの知人などからコーヒーや砂糖など送られていた。子どもなのでコーヒーは飲まないが砂糖は日本と違ってさらさらしていたのを思い出す。終戦後の物資の少ないころ地御前の子どもたちは、派手な子ども用のアロハシャツを着せられて走り回って遊んでいた。現在のような薄い生地でなくごわごわしていたような記憶がある。

 現在では学生でも気軽に外国旅行に行くが、当時は外国旅行は一部の者が行くもので庶民には夢のような話であった。雑談をしているうちにハワイに行ってみようかと言う話になった。最初は冗談話のようであったが、真剣に検討してみようかと言うことになったが実現するとは思っていなかった。その後ことあるごとにこの話となり、MAさんと仲良しのMYさんとの三人で行こうと具体的な話になった。一番心配なのは言葉の問題で、英語は学校で習ったくらいで通常の会話も苦手同士であった。食べ物も心配で三度三度和食しか食べなれていないので、気が重かったが何とかなるだろうと言うことにした。当時は役所でも外国旅行の経験者は殆ど無く、ハワイに行くと公表すると皆びっくりしていた。またメンバーを見て不思議がられた。MA・MYさんは同年齢で仲が良かったが、年の離れた者が加わり不思議がられた。

 8月24日土曜日は羽田空港近くのホテルに宿泊し、翌25日19時30分に空港集合。21時50分に離陸した。飛行機は初めてではないが、飛び立つまで緊張していた。航空会社はパンアメリカン航空であった。当時は世界有数の航空会社であったが、放漫営業で破綻し今は無い。旅客機は内装の壁紙が中国風模様が残されたままの中古機であったが、何もかも物珍しいばかりで落ち着かなかった。翌10時10分にホノルル空港着とあるが現地時間か日本時間か分からない。
 当日はオアフ島観光でヌアヌパリ・パンチボールの丘・イオラニ宮殿・カメハメハ王像等定番の観光地を巡り,アラ・モアナホテルに宿泊している。

 26日(月)終日ホノルルに滞在しワイキキ海岸で遊んだり散策する。夕方は市街地から少し離れたダイアモンドヘッド麓にあるMAさんの親戚に招待され夕食をごちそうになった。知らない家庭なので緊張したがとても気さくな方で、日本の話などで盛り上がり打ち解けることが出来た。洋風の食事ばかりでうんざりしていたが、手作りの日本食でもてなしていただき、久しぶりにおいしい食事を頂いた。

 27日(火)終日ホノルルに滞在し、貸自転車で市内を地図を頼りに廻った。貸自転車は普通の大人用であったがとても高かった。ほかの二人は足が長いので何とか乗りこなしていた。こちらは足が短いので漕ぐのにとても難渋したが何とか、就いていくことが出来た。
 午後は再びワイキキビーチで泳いだりして遊んだ。昼食や夕食は現地の食堂で食べたが、注文や支払いは片言の英語と身振りでもどかしい思いをしたが何とかなった。学校ではもう少し真面目に英語の勉強をしてよかったと後悔した。現在では携帯で翻訳できるが当時は無かった。

 28日(水) ホノルル空港を小さな飛行機でカウアイ島に向かった。小さな島なのに驚くほど森林も多くワイルア川を小型船で周遊した。川の両岸は熱帯の植物がジャングルのように生い茂っていった。映画でも有名なシダの洞窟やワイメア峡谷を実際に見ることが出来て夢のようであった。川を引き返し海岸に出てポイプビーチと呼ばれる砂浜に行った。広いきれいな砂浜で海岸に椰子の木が茂りこれぞ南洋のビーチと感激した。ワイキキ海岸と違い泳いでいる人たちもまばらで天国にいるような心地であった。
 最後に有名なココパームホテルに行った。このホテルは有名な映画「ブルーハワイ」のロケ地で富豪が良く泊まるホテルで庶民には縁のないホテルらしい。夕闇の中、現地の人による「松明の儀式」の勇壮な出し物も行われ二度と体験することも無く感激しっぱなしであった。

 29日(木) ホノルル発12時
 30日(金) 15時05分羽田着 18時25分東京発 あさかぜ1号寝台 6号車12番中段
 31日(土) 7時 廿日市着

 現地に宿泊したのは4泊のみであったが、生まれて初めての外国旅行で何もかも珍しく、一生忘れることのできない思い出である。
 これまで一般職員で外国旅行に行くのは稀であったが、この旅行をきっかけに若い職員も連れだって外国旅行に頻繁に行くようになった。

*帰国後に121ドル52セントの外貨が残り、日本円36,334円に両替した。1ドル299円。

# by hirosan_kimura | 2026-03-06 11:11 | Comments(0)

№1092 当直業務   

 いつ頃まで行われていたのかは分からないが、以前は当直業務は職員全員が交代で行っていた。当直業務には宿直と日直・半直があった。宿直は就業時間終了後から翌日の就業時間開始まで、日直は日曜・祝祭日等の昼間、半直は土曜日の午後で当時は土曜日は正午までの勤務であった。全職員全体と言っても管理職は除かれていた。女性職員は宿直は無く、日直と半直のみであった。

 月末になると総務課より当直の割当表が配布された。宿直は男性のみ二人ずつ、半・日直は男性・女性一人ずつの二人体制であった。割り当てはローテーションが組まれ、相手が誰になるかは配布されるまでは分からなかった。とは言え自由に交代出来たので当日になって相手が分かるのが通常であった。年配の職員は宿直を行うことは稀であった。当時の当直代は一回で200円か300円くらいではなかったかと思う。今から見ると随分安すぎるようであるが、貨幣価値も異なり給与も安かったのでこれくらいが当たり前と思っていた。若い職員の中には複数の職員分を請け負い、中には家で寝る日より役場で寝る方が多いのではないかと思われる職員もあった。

 終業後、夜遊びをすればお金を使うばかりであるが、宿直すればわずかな額も回を重ねれば良い小遣いになるためである。宿直は二・三か月に一回くらい割り当てられるが、相手は同じ顔の職員と一緒になることが多かった。宿直当番になった時は家が近い職員は夕食を食べに帰るものもあったが、大抵の場合は弁当を買ってきたり近くの食堂に食べに行っていた。二人が同時に不在になれないので、残業する職員があれば出前を頼むこともあった。

 当直の役割は、宿直室隣の電話交換業務・来客の対応・夜間の見回り施錠等があった。朝7時くらいに町内放送のお知らせ原稿を読むこともあった。空いた時間は雑談をしたりテレビを見ていた。相手が気心の知れた職員なら良いが、気の合わない職員と一緒になればあまり話もせず気まずい思いで早く朝になればよいのにと思うこともあった。夜遅く酔っぱらった職員が家に帰れないので止めて欲しいと来て(川の字)になって寝ることもあった。今の時代なら許されないことだろう。のんびりした時代であった。

 時には無銭行路人が来られるらこともあるが, 規定の汽車賃や僅かな飲食代を渡していた。渡した、拇印やサインをしてもらっていた。中には印鑑を持参する人もあり「良く印鑑を持っておられますね。」と聞くと「どこの役所でも受け取りを向止められるので印鑑を用意している。」答える人もある。無銭で役所を尋ねまわる常習犯なのであろう。

 他の職員が宿直した時のことであるが、寒い日の夜遅くの来客者が「寝るところがないので一晩泊めて欲しい。」と懇願されたことがあった。宿直室に止めるわけにもいかず、寒空に追い出すことも出来ず、無得ない措置として待合室の長椅子に寝てもらったことがあった。翌朝、様子を見に行くと長椅子で亡くなっておられびっくり仰天であった。当直者は直ちに福祉課の職員に連絡して対応してもらった。この件には直接関わらなかったが一大事であっただろう。

 以前も記述したことがあるが、身元不明の変死者があった場合福祉担当者が対応していた。発生時間によりその日中に処理できなかった場合には、棺桶に収めた死体を玄関脇の人目につかないところに安置していた。夜間トイレに行くとき宿直者は棺桶の傍を通らなければならないが、気の小さい職員は怖がり何とかして欲しいと苦情が出ていた。死体の入った棺桶があるときは福祉職員が宿直をして欲しいなど言う職員もあった。
 これに対して「死体は恐ろしくない。むしろ生きた人間の方が何をするか分からない。生きた人間の方が恐ろしいのだ。」など言い返していたが納得するはずもなかった。そのうち「廿日市町火葬場霊峯園」が整備され、何かあればこの施設の安置室を利用できるようになり、宿直者が怖がることはなくなった。

# by hirosan_kimura | 2026-03-05 11:01 | Comments(0)

№1091 重度障害者施設への入所   

 昭和46年5月の終わり、ある中年女性が鉄道事故で亡くなられた。この女性は寝たきりで重度障害者の娘さんと祖母の三人世帯であった。昼間は寝たきりの娘さんの世話を祖母が行い、近くの工場に勤めておられた。昼休みになると大急ぎで自宅に帰り、娘さんの世話をし急いで午後の勤務のため職場に帰っておられた。自宅は鉄道沿いにあったが踏切は遠回りになるので、いつも自宅前の鉄道線路を横断しておられた。この日はいつもの通り線路を渡ろうとされたが急いでおられたので、近づく列車に気が付かれなかったらしい。大黒柱の方が亡くなられて大変であったが、後に残された障害者の娘さんの面倒をどうするかが問題であった。お祖母さんは高齢で障害のある娘さんとの生活は不可能である。

 たちまちは親せきと行政で何とか乗り越えたが、今後の対応を関係者が集まって協議を行った。 同じ所属であったが障害関係は担っていなかったので、直接この件に関わることはなかったが、問題の解決に向けて随分難航したらしい。当時は今と違って福祉施策は不十分であった。特に施設整備は不十分で、重度障害者の入所施設は近辺では皆無に近かった。

 関係者で協議しても解決策は見当たらなかったが、県児童相談所より入所申請書の提出依頼があり、6月2日に「入所希望調書」を提出した。当事者が未成年の場合は障害者であっても児童相談所の所轄となるためである。児童相談所からは「できる限りの努力はするが、希望調書を出したからと言って安心しないで欲しい。」とくぎを刺された。県は国への対応の依頼等あらゆるて手立てを模索されたらしいが、その後、音も沙汰も無かった。この間、当事者や祖母の対応に明け暮れていた。入所希望調書を提出して三か月近くたったころ、やっと入所施設が決まったと県から連絡が入り、関係者一同ほっとして肩の荷が降りたようであった。

 入所施設は群馬県高崎にある「国立コロニー」と聞きなれない施設であった。とんでもない遠方の施設であったが、当時は重度の障害者に対応できる施設は国内でも限られていた。この施設は現存の施設では対応困難な、重い障害のある人たちの自立を目指し総合的に支援する施設で4月に受入れが開始された新施設であった。総合的な施設の整備が皆無に近かったが関係者の長年の努力がやっと認められ、やっと叶った念願の施設であった。高崎市が選ばれた理由は○居住条件が良い。○近くに群馬大学医学部があり協力が得られる。○群馬は手工業が盛んで入所者の社会復帰が可能である。等によるものであった。

 直ちに,諸準備・諸手続きを行い8月28日18時30分の「あさかぜ1号」で複数の関係者付き添いの上、高崎に向けて出発された。広島駅まで見送りに行ったが、これまでの様々な情景が頭をよぎり感慨深いものがあった。
 
 先日、遠い親戚の方に偶然出会いこの話が出たが、当の娘さん…と言ってもお婆さんになっておられるが・・・は「入所が長いので施設ではボスになり、顔を利かして元気である。」と伺った。遠い昔のことであるが、今でも忘れることのできない一コマである。

# by hirosan_kimura | 2026-03-03 11:35 | Comments(0)