住民組織の一つとして「公衆衛生推進協議会」がある。この組織は県下各地にあるが廿日市では昭和34年に組織化された古い組織である。この組織は「環境と健康」の推進を目的としている。構成員は各町内から一名づつ役員が選出された任意組織であるが、会長・副会長等その他の役員で組織化されている。この会の役員は熱心な人が多く、会の活動を生きがいとしている人もあった。特に会長は熱心で、行政が振り回されることも多々あった。
日頃の活動としては、家庭ごみの収集場所の管理などを行って居られたが、地区によっては熱心さのあまり厳しく取り締まり、時には住民から担当課に苦情があることもあった。ある地区では異常な位熱心な会員がおられた。川の清掃に熱心に取り組まれ上流から流れ出たごみを熱心に集めておられたが、大潮などの際海から押し寄せるごみ中州などに取り残されることもあった。
取り除いても取り除いても押し寄せる漂流ごみに業を煮やされ、ある時 海のごみが川に入らないよう河口にネットを張って欲しいと申し込まれた。そんな無茶なことは出来ないと言い含めても執拗に引き下がれなかった。何度断っても何度も言って来られるので、出来ないことは承知の上で「そこまで言われるのなら河口にネットを張りましょう。海からのごみは川に入り込ま仲も分からないが、大水などで上流から流れ出た草木やごみは河口でに溜まるが、その都度ネットを外せないので、皆さんで取り除いてもらいますが良いですね。」と告げるとしぶしぶ諦めて帰られたことがあった。
年に一回「町内一斉清掃」と称して町と協会が共催で多くの住民の協力の下で清掃を行っていた。会長は町民に感謝の気持ちを表するので庁用車を出してほしいとのことであった。町民の方が汗を流して頑張っておられる中を、車中から声を掛けない方が良いのではと断ったが、引き下がれないので従うこととした。そこらじゅうで大勢の人が作業をしておられる中、会長は手を振りながら「ご苦労さん。」と声を掛けられると、住民の中には「車に乗って声を掛けるくらいなら、降りて清掃を手伝え」とか「うるさいから早く立ち去れ」とか罵声が飛んできた。さすがに会長も気が引けたのか「引き上げよう」と早々に退散したこともあった。
会長は献血の推進にも熱心であった。二か月に一回くらい日赤の移動献血車が巡回してきた。この際は会長自ら献血を行っていたが、合わせて家族や近隣の人にも呼び掛けて献血にきておられた。会長の命でスピーカーの付いた庁用車で、協力を呼び掛けながら町内中放送して回った。 お陰で当時は献血の協力者が多く、日赤の血液センターから「廿日市は献血に理解がある。」と感謝されていた。当時から献血の重要さを認識していたので、機会があれば必ず自らも献血を怠らなかった。退職後も機会があれば献血を行っていた。血液センターの方が「以前は廿日市は行政の理解があったが最近は無関心である。行政に働きかけて欲しい。」と頼まれたことがあったが、「行政を離れているので、自分から口出しはできない。」と答えておいた。
ある時、明石峠の頂上付近の道路のり面に大量の不法投棄ごみが山積していた。今ではこの付近も道路改良がされ交通量も多いが、当時は「明石の七曲り」と称するくらい道路は曲がりくねり、道幅も狭く難所であった。今では交通も途切れることも無く、車で乗る付けて不法ごみを投棄していれば通報されるので不法投棄も少ないようである。
当時の不法投棄は目に余るもので、協議会を中心にごみの撤去を行ったことがある。当日はたくさんの会員が参加し、会員所有のトラックが数台提供されごもの回収を行った。よくもこんなに投棄できたと感心するくらい、大型ごみやありとあらゆるゴミが一日中掛かって回収された。行政も早くから何とかしなければと声が掛かっていたがどうしようもなかった。公衛協の支援がなければ行政のみでは行えなかった。不思議なものでゴミが放置してあればその場所にゴミが廃棄され、きれいな場所にはごみを捨てにくいのが人間の心理であろう。その後、この場に不法投棄は見られなかったが今の明石峠はどうであろう。
前回投稿したが、荒れ果てて不良少年のたまり場となっていた「住吉土手」が桜の名所になり、人々の憩いの場所に生まれ変わったのも「公衆衛生推進協議会」の活動の賜物である。
以前の公衛協は熱心さのあまりとんでもない要求が行政に出され、困惑することも多かったが今の公衛協はどうなっているのであろうか。