№1105 公衆衛生推進協議会   

 住民組織の一つとして「公衆衛生推進協議会」がある。この組織は県下各地にあるが廿日市では昭和34年に組織化された古い組織である。この組織は「環境と健康」の推進を目的としている。構成員は各町内から一名づつ役員が選出された任意組織であるが、会長・副会長等その他の役員で組織化されている。この会の役員は熱心な人が多く、会の活動を生きがいとしている人もあった。特に会長は熱心で、行政が振り回されることも多々あった。

 日頃の活動としては、家庭ごみの収集場所の管理などを行って居られたが、地区によっては熱心さのあまり厳しく取り締まり、時には住民から担当課に苦情があることもあった。ある地区では異常な位熱心な会員がおられた。川の清掃に熱心に取り組まれ上流から流れ出たごみを熱心に集めておられたが、大潮などの際海から押し寄せるごみ中州などに取り残されることもあった。

 取り除いても取り除いても押し寄せる漂流ごみに業を煮やされ、ある時 海のごみが川に入らないよう河口にネットを張って欲しいと申し込まれた。そんな無茶なことは出来ないと言い含めても執拗に引き下がれなかった。何度断っても何度も言って来られるので、出来ないことは承知の上で「そこまで言われるのなら河口にネットを張りましょう。海からのごみは川に入り込ま仲も分からないが、大水などで上流から流れ出た草木やごみは河口でに溜まるが、その都度ネットを外せないので、皆さんで取り除いてもらいますが良いですね。」と告げるとしぶしぶ諦めて帰られたことがあった。

 年に一回「町内一斉清掃」と称して町と協会が共催で多くの住民の協力の下で清掃を行っていた。会長は町民に感謝の気持ちを表するので庁用車を出してほしいとのことであった。町民の方が汗を流して頑張っておられる中を、車中から声を掛けない方が良いのではと断ったが、引き下がれないので従うこととした。そこらじゅうで大勢の人が作業をしておられる中、会長は手を振りながら「ご苦労さん。」と声を掛けられると、住民の中には「車に乗って声を掛けるくらいなら、降りて清掃を手伝え」とか「うるさいから早く立ち去れ」とか罵声が飛んできた。さすがに会長も気が引けたのか「引き上げよう」と早々に退散したこともあった。

 会長は献血の推進にも熱心であった。二か月に一回くらい日赤の移動献血車が巡回してきた。この際は会長自ら献血を行っていたが、合わせて家族や近隣の人にも呼び掛けて献血にきておられた。会長の命でスピーカーの付いた庁用車で、協力を呼び掛けながら町内中放送して回った。    お陰で当時は献血の協力者が多く、日赤の血液センターから「廿日市は献血に理解がある。」と感謝されていた。当時から献血の重要さを認識していたので、機会があれば必ず自らも献血を怠らなかった。退職後も機会があれば献血を行っていた。血液センターの方が「以前は廿日市は行政の理解があったが最近は無関心である。行政に働きかけて欲しい。」と頼まれたことがあったが、「行政を離れているので、自分から口出しはできない。」と答えておいた。

 ある時、明石峠の頂上付近の道路のり面に大量の不法投棄ごみが山積していた。今ではこの付近も道路改良がされ交通量も多いが、当時は「明石の七曲り」と称するくらい道路は曲がりくねり、道幅も狭く難所であった。今では交通も途切れることも無く、車で乗る付けて不法ごみを投棄していれば通報されるので不法投棄も少ないようである。
 当時の不法投棄は目に余るもので、協議会を中心にごみの撤去を行ったことがある。当日はたくさんの会員が参加し、会員所有のトラックが数台提供されごもの回収を行った。よくもこんなに投棄できたと感心するくらい、大型ごみやありとあらゆるゴミが一日中掛かって回収された。行政も早くから何とかしなければと声が掛かっていたがどうしようもなかった。公衛協の支援がなければ行政のみでは行えなかった。不思議なものでゴミが放置してあればその場所にゴミが廃棄され、きれいな場所にはごみを捨てにくいのが人間の心理であろう。その後、この場に不法投棄は見られなかったが今の明石峠はどうであろう。

 前回投稿したが、荒れ果てて不良少年のたまり場となっていた「住吉土手」が桜の名所になり、人々の憩いの場所に生まれ変わったのも「公衆衛生推進協議会」の活動の賜物である。

 以前の公衛協は熱心さのあまりとんでもない要求が行政に出され、困惑することも多かったが今の公衛協はどうなっているのであろうか。

# by hirosan_kimura | 2026-03-27 10:49 | Comments(0)

№1104 鳥獣戯画   

 町が行う予防接種や健康診断などでは、町内の開業医の医師に来てもらっていた。休日などにお願いするわけには行かないので、平日の午後にお願いしていた。当番の先生は午前中の診察を終えると大急ぎで昼食を済まされ、検診等の会場まで来てもらっていた。4時頃から午後の診察も有り、2時間か2時間30分程度が限度であった。

 何かの事情で予定時間を過ぎると、それぞれの診療所で医師の帰ってこられるのを待っておられるので、お医者さんも町職員も気が気でなかった。中には機嫌の悪くなるお医者さんも居られ、「今後は町の業務に協力しない。」など言う医師もあったが必死になだめていた。

 反対に、滅多に無いことであるが何かの事情で予定時間より早く終えることもあった。お医者さんが帰られると大急ぎで会場を片づけて役場庁舎に帰り、溜まっている事務を行っていた。

 時にはお医者さんの中の一人が「早く片づけて診療所に来て欲しい。お茶を一服御馳走する。」など言われることもあった。堅苦しいだけでお茶を頂くことは遠慮したいが、お世話になっている手前 断るわけにもも行かず会場を片づけて、保健婦二人と一緒に医師宅に伺った。

 伺うと離れの茶室に招き入れられ、すでにお茶を点てる用意をしておられお茶を頂いていた。お医者さんは真面目くさってお茶を点てられるが、こちらは作法も分からず正座して所作をを見守り、おもむろにお茶を頂くが足はしびれ早く済めばと思うばかりであった。三人が飲み終えると「珍しいお菓子があるので味わってください。」など言われても、菓子の味わうどこり出なかった。お茶やお菓子も終わり「足を崩して寛いでください。」と言われるとホットしていた。

 寛いでいると「誰にでも見せるわけでは無いが、珍しいものをあなたたちだけにみせてあげる。」と丁寧に包まれた巻物を出された。おもむろに広げられた巻物は、図画の教科書で見たことのある絵画で、「うさぎ」と「かえる」が相撲をしている鳥獣戯画であった。

 国宝級の巻物でお医者さんが本物を持っておられるわけはないが、二人の保健婦さんは食い入るように見ておられた。お医者さんは「本物」とも「複製品」とも言われなかったが、保健婦は本物と信じたのか「二度と見られないものを見せてもらった。目の保養になった。」と感心していた。お医者さんに「本物ですか。贋作ですか。」と聞くわけにもいかなかったが、偽物と言うより精巧な複製品だったのだろう。その他複数見せてもらったが、骨董を見る目も興味も無いがどの品もかなりのお金をつぎ込んで手にいれられた貴重品であろう。

 このお医者さんは、どのお医者さんも敬遠される変死体の検死を気軽に受けてもらいお世話になった方である。数々の思い出のある先生であるが亡くなられて久しい。

# by hirosan_kimura | 2026-03-26 10:52 | Comments(0)

№1103 廿日市桜まつり   

 今年も間もなく住吉土手で「第35回 廿日市桜祭り」が開催される。毎年4月第一日曜日に開催され約5万人の人出があるそうである。住吉土手には240本のソメイヨシノ桜が植えてある。

 住吉土手は江戸末期に住吉新開が築調された際、堤防として整備されたもので内側は調整池、外側は海面で干潮時には広い浜が広がっていた。昭和51年に県による木材港として整備され海側が埋め立てられ、堤防としての役目を終えている。

 堤防の沖側が海面の頃は、堤防を散策したり魚釣りなどで賑わっていたが、沖側が埋め立てられ、内側の調整池は汚水が流れ込みゴミが廃棄され、悪臭が漂っていた。土手を訪れる人が少なくなると,ごみが廃棄され雑草が生い茂り不良少年のたまり場になっていた。旧庁舎の沖なので昼休みに散歩がてら堤防に行くこともあったが、荒れ果てて散歩どころでなく、その内訪れる人も殆ど無くなっていた。

 この現状を見かねてなんとかしなければと、公衆衛生推進協議会が立ち上がった。何回か会議をした結果、雑草を刈りはらい不法投棄のごみを片づけ、桜並木を作ろうと言うこととなった。桜の苗木は町の観光協会に提供してもらうこととした。

 昭和55年3月9日、公衆衛生推進協議会の会員、近隣の町内会、保健課の男性職員等が土手に集合し桜の苗木を植えることとなった。人数は全員で100名以上が集まった。先ず生い茂る草木を刈り取ったり、散乱するごみを集めた。

 土手の長さは数百㍍あるが、調整池側斜面に手分けをして穴を掘って152本の桜の苗木が植えられた。翌年は堤防の海側に80本の苗木を植えた。植えた当初は一年違いで苗木の育ちにあまり差異はなかったが、年数がたつにつれて段々差が付き海側は枯れ木や育ちに差が出てきた。日当たりの違いか土質が異なるのか分からないが、内側より海側の方が木の育ちかたが劣っているようである。

 その後、苗木の手入れや清掃活動が続けられ内に沢山の花が咲くようになった。最初は訪れる人もだんだん多くなり、花見客で賑わうようになった。

 昭和の終わりごろから隣接の広場を会場に「さくら祭り」が開催され多くの人出で賑わうようになっている。荒れ果てた堤防が整備され多くの人が訪れるようになり、隔世の感がある。今では桜の時期のみでなく散歩やランニングなどで人通りが絶えないが、50年近く前の風景を連想すると感慨深いものがある。桜の寿命は良く分からないが、古木となり朽ち果てそうな樹木もある。樹木医にでも診断して貰っては思うばかりである。

「阿品ざくら」も今が見どころであるが、こちらも枯れ枝が目立ち何とか対策が必要であろう

# by hirosan_kimura | 2026-03-24 10:41 | Comments(0)

№1102 がん講演会   

 昭和50年代、脳血管障疾患・悪性新生物(がん)・心疾患が国民の三大死亡原因であった。脳血管疾患の割合は下がり続けていたが、悪性新生物による死亡率は増加し続けていた。国もがん患者の予防に取り組み、町でもがんの早期予防に向けて重点事業として力を入れていた。

 こうした中、その一環としてがんの講演会を行うこととした。講師は国立呉病院の内科部長にお願いし、昭和55年2月27日(火)の13時から中央公民館で行うこととした。

 当時は国の取り組みにより「がん」に対する関心は高まっていたので、周知すればたくさんの町民が講演会を聞きに来るだろうと高をくくっていた。それでも一名でも多くの参加者を期待して、可能な限りの周知対策を図ることとした。

 日程が確定すると全世帯に配布される「廿日市町広報」2月号への掲載。町内会への回覧。実施数日前より繰り返し町内放送での周知。保健課の検診等の際にチラシの配布。開業医の窓口にポスター掲示、その他機会あるごとに周知した。職場内では周知のし過ぎで多くの来場者があり、会場に入りきれなかったらどうしょうと危惧するものもあった。

 当日は午前中に会場の準備をし、早めに昼食を済ませて会場受付で一時間程度前から来場者を待っていた。気の早い人は早く来られるだろうと予想していたが、なかなか来られる気配はなかった。その内、ぽつりぽつりと来場者がある程度でさすがに焦ってきた。広報誌や回覧場の実施日を間違っていたのではないかと、再確認したが日時とも間違いは無い。

 会場30分前くらいになっても、広い会場にまばらに席が埋まっているのみである。さすがに待機している職員も落ち着くことも出来なかった。このままでは講師の方にも気の毒で何とかしようとすることとなった。役場で庁内放送してもらい「手の取れる職員は業務を中断して、大急ぎで中央公民館に来るよう。」頼んだ。各課長に電話で事情を説明して至急、中央公民館に来るよう職員の説得を頼んだ。

 中央公民館にで待機している職員は、公民館近辺の家庭を戸別訪問して来場をお願いして回ってもらった。急にお願いに行って怒られるどころか、こちらの窮地を理解してもらい「家人のみでなく近所にも声を掛けてあげよう」と協力してらえる例もあった。これも平素から行政と住民との繋がりの賜物で、今なら「勝手なことを頼みに来るな。」と怒鳴り返されるかもしれない。

 そうこうするうちに役場職員や近隣住民が、ゾロゾロとまでは行かないが集合し始められた。全席満員迄とは行かないが、急な呼びかけにも関わらず予想以上の参列者があり何とか体面を保つことが出来た。一時はどうなるか絶望したが良い体験をさせてもらった。

 これ以上の周知方法は無かろう。これだけすれば溢れるほどの人が来るだろうなどの自己満足への戒めを実感でき、のちの業務でも大いに参考としたものである。

# by hirosan_kimura | 2026-03-17 10:16 | Comments(0)

№1101 医師会新年会   

 昭和54年1月15日、廿日市町医師会新年会が行われた。町から半明町長・古川保健課長・片山保健師と共に四名が招待された。広島総合病院長をはじめ町医師会員を含め全員で27名であった。会場は広島駅近くにあった「ホテルニュー広電」であったが何年か前に閉店し今は無い。
 国鉄廿日市駅に14時37分に集合し、15時開宴・18時閉宴で行われた。当時、様々な組織の総会や会議・祝宴等に案内を受けていた。中には心づけは入りませんと事前に言われることもあったがそうも行かず、折詰弁当の場合は3,000円・飲食店等の場合は5,000円-滅多に機会はないがホテル等の場合は10,000万円包むと自分なりに決めていた。町長などは秘書が準備していたが、自分たちは自腹であったが、様々な団体や組織から案内を受けるので一年間では馬鹿にならない額であった。

 様々な招待が受けるが、気軽な場合・堅苦しく気の進まない場合もあった。医師会は平素の業務を通じてどの医師とも親しくさせてもらっていたので、気まずいと感じることはなかったが宴会場がホテルであるためとても堅苦しかった。他の組織では、新年会・送別会・総会・忘年会等の案内を受けていくが、最初は開会の辞・乾杯等があれば後は無礼講で酒を注いで廻ったり、手拍子で歌ったり羽目をはずし楽しい時間は過ぎていくが、医師会の会合ではそうも行かない。

 最初は会長や来賓の挨拶が続き乾杯が終わる「料理を食べたり、お酒を飲みながらご歓談ください。」となるが、隣席の人と静かに語り料理をナイフとフォークをぎこちなく使い、ビールなどもがぶ飲みできず静かに飲み、コップが空になりそうになるとスタッフの人が静かに注ぎに来る、料理も一品づつ出され皿が空くと次の料理が出され、堅苦しかったり手持無沙汰なことこのこの間、席を立ってほかのテーブルの人に注ぎに行けるような雰囲気でなかった。

 しばらく静かなひと時が過ぎると進行の人が「これから余興に入ります。」と紹介される、まず長谷川先生がめでたい尺八の曲を二・三曲披露される。この先生は昼休みになると職員に尺八を教えに来てもらっていた。つぎに林先生が手品を紹介され場の雰囲気も和やかになった。この両先生はとても気さくな方で業務上も助けてもらった。すでに亡くなっておられるが温和な顔を思い出す。

 両先生の余興が済んだ頃になると会場も和やかになる。中には席を立ち他のテーブルに談笑に廻る先生も見受けられるが、我々は相変わらず自席に座ったままで静かにちびりちびりビールを飲んだり、隣席の先生と他愛も無い話を静かにするだけであった。そのうち長い緊張の時間が過ぎて、終わりの挨拶が済むとほっとしたものである。ある医師が「木村さん、これから飲みに行くが一緒に行こう。」と誘ってもらうこともあった。我々が安酒を飲みに行くようなところでなくとてもついていく気にならず断っていた。

 翌年の1月は会場は「広島グランドホテル」であった。1月15日に「広島美術館」に集合した。最初に美術館で名画を鑑賞し、それから健康のためホテルまで歩いていく趣旨であった。16時30分にホテルに到着し、18時30分に散会。前年の新年会と比較すると少し気軽な気分であったが、美味しい料理も食べた気分もしなかった。他の職員は「ホテルで美味しい料理が食べられて羨ましい、いい身分だ。」などと揶揄うものもあったが、気の置けない仲間とめざしをつまみに安酒を飲む方がよほど良いと冗談を言い合ったこともあった。

 その後,保健関係業務を離れて医師会の新年会と縁がなかったが、退職前の福祉保健部では縁あって再度ご招待を受けていた。会場はグランビアに変更となっており、最上階の会場からの風景は素晴らしかった。

# by hirosan_kimura | 2026-03-16 12:03 | Comments(0)