№10 広島電鉄「新宮島駅」   

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現在の広電宮島線に今は無い駅があった。それは「新宮島駅」である。西広島バイパス出口が国道2号線を跨いだ橋脚の下の海岸添い附近である。

 広島電鉄宮島線は、己斐~草津間が大正11年8月22日、草津~廿日市間が大正13年4月6日に営業開始された。

 廿日市~宮島口間は地御前以西が海岸の埋立を要し、完成までに日数を要するため開業はとりあえず地御前までとされ、大正14年7月15日に営業が開始された。

 宮島に渡航するには地御前駅から連絡船乗り場まで離れているため、そこまで歩いて行くか自動車を利用するため、人々は不便を強いられていた。

 大正15年7月15日には線路が延長され「新宮島駅」の開業により、宮島へ渡航する人々の利便性が一層増すこととなった。

 新駅は仮停車場であったがその設備は、乗降場・側線・本屋・便所・電話機とあり、列車保安法は閉塞信号機とある。

 昭和6年2月1日に宮島線が宮島口まで延長され、同時に新宮島~厳島間の航路が廃止されたため、同日に「新宮島駅」は廃止された。
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 上の写真は小さな物を拡大したので鮮明でないが当時の駅舎で、左上は今は無い「火立岩」である。

 下の写真は反対方向から見た、駅のあった附近の現在の様子である。

# by hirosan_kimura | 2008-12-22 05:25 | 広電 | Comments(0)

№9 「あじな」は昔、独立した村であった   

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 現在の阿品は廿日市市の一部であるが、昭和31年9月には旧廿日市町・平良村・原村・宮内村・地御前村が合併し、新廿日市町となり昭和63年4月1日に市制施行されたものである。

 阿品は地御前村の一部であったが、かつて阿品は独立した村であったことがある。

 元和5年(1619年)7月13日の「厳島社家・供僧・内侍三方給地等付立文書」に「河井村(下平良の可愛か?)・宮内村・阿字名村(今の阿品)・地御前村」などの村名が載っている。

 同文書には「座主領として一、地御前・四十五石余 一、阿字名村・九石壱斗」と記されている。

 しかし、慶長6年(1601年)の検地において「阿字名村」は余りにも小さく、時代は不明であるが芸藩成立以前に地御前村の一部となった。

 現在でこそ阿品地域は世帯は5,000世帯以上、人口も15,000人程度の地域となっているが、僅かな世帯・人口しかない地区が、独立した村であった歴史があるのである。

# by hirosan_kimura | 2008-12-21 10:58 | 行政 | Comments(0)

№8 阿品から宮島へ連絡船   


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 現在、宮島へ渡るのは宮島口から連絡船が出ているが、かつて広電宮島線が地御前までしか開通していない時代、鰆浜から宮島への連絡船があった。

 当時、宮島線は地御前小学校の体育館附近に停留所があったが、宮島への乗船客はそこから約800㍍離れた連絡船乗り場まで歩いて行くか、厳島「岩惣旅館」の自動車で行っていた。

 しかし電車で宮島へ参拝する人にとっては余りにも不便なので、地御前より連絡船乗り場附近まで線路が複線で延長され、大正15年7月16日に「新宮島」駅が開業した。

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 連絡船は三菱造船所で建造され、「第一宮島丸」46.53㌧、「第二宮島丸」46.53㌧、「第三宮島丸」71.92㌧の三隻があった。

 船は40分間隔で発着し船賃は15銭であった。この航路は大野町赤碕まで電車が延長し、宮島口に連絡船航路が新設されたため、昭和6年2月1日に廃止された。

 下の写真は、西広島バイパスが整備される前の渡航乗船場のあった附近の写真である。

# by hirosan_kimura | 2008-12-20 07:12 | 海運 | Comments(0)

№7 おしえ地蔵   

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 旧岩鏡神社奥の谷に入った古道は、途中で大野の「更地」と「中山」に向かう道で分かれていた。

 このお地蔵さんはその分岐点に設置され、旅人や村人が道を迷わないよう、また旅の安全を見守るために安置されていた。

 地元の人々はこのお地蔵さんを「おしえ地蔵さん」と親しみを込めて呼んでいた。

 阿品台団地造成のため古道のあった谷が埋立てられたため、ふじタウンから阿品に下りる道の傍に安置されている。

 阿品の地域では団地造成等のため、かつての古道の大半が消滅しているが、大野側では当時と余り変わらない状態で残っており、今でも当時の雰囲気を伺うことができる。

 お地蔵さんの横には、由来を詳しく書いた説明板が設置されている。

 地蔵菩薩の手の形にははっきりした決まりは無いが、手に持ち物の無い空手地蔵もあれば、宝珠を持つ宝珠地蔵等がある。持ち物のない場合は「施無畏敬印」か「与願印」と言うのが普通の形である。

 「教え地蔵」は向かって右の手が西の方向を指しており、他に例を見ない形状である。

追記 12月30日 コメント戴いた方の情報
  昔、地蔵さんそばで遊んでいた男の子が、誤って地蔵さんの指を折ってしまった。後にその子が日露戦争で亡くなった時、地元の人は「地蔵さんの罰があたった」と噂したという。

# by hirosan_kimura | 2008-12-19 11:43 | 伝説民話 | Comments(0)

№6 昔の主要道路   

№6 昔の主要道路_e0125014_17135076.jpg 阿品の海岸沿い道路の無い頃、地御前から山を越え阿品を抜け大野に至る道路があった。

 この道は地御前神社附近から山に入り、「光の園」附近から山越えをし阿品に通じていた。鰆浜の「大谷」に下り今の阿品台下水処理場の下附近に抜けていた。

 其処から少し鰆浜の谷を奥に入り、「見ノ越」を越え山道を下り阿品に通じていた。峠を降りて阿品の東側山沿いを奥に抜け、「旧岩鏡神社」附近から奥の谷を抜け、山道を越えて大野方面に至っていた。

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 これらの小道は阿品台を造成する以前には、随所にその痕跡を伺うが出来たが、山を削り谷が埋められ、残った道路も拡幅・改良され殆ど残されていない。

 僅かに残されているのは、「見ノ越」を越え阿品の谷を下る部分と、花野宅裏と丸市宅前のほんの一部のみである。

 「見ノ越」は「蓑越し」「見ノ越峠」と標記されることもあった。

# by hirosan_kimura | 2008-12-18 10:11 | 道路 | Comments(0)