№15 「カルバルト」   

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 鉄道の下を潜り阿品の奥に入るガード下を、地元では「カルバルト」と呼んでいる。外国語の引用であろうが語源は分からない。

 今では阿品の奥に入る道は鰆浜側・阿品台から武田団地経由・ふじタウンからと整備されているが、かつては自動車の通れる唯一の道路であった。

 壁部分の沖側半分は石組み、奥側はコンクリート造りと中央から丁度半分部分で構造が異なっている。

 石組み部分は明治30年(1897年)9月25日に、山陽鉄道の広島~徳山間が単線で開通したものである。コンクリート部分は昭和3年(1928年)6月27日に廿日市~宮島(宮島口)が複線化されたものである。

 普段何気なく通っているが、鉄道の歴史が直接目で覗える面白い場所である。

 この道は天井高が低く荷物を高く積んだ車は通れない。昔、他の地域から阿品に嫁入りする場合、少しでも高く嫁入り道具を積み、わざわざ入口前で荷物を降ろし車だけを通し、奥側でまた荷物を積み直して通ったそうである。

 これで、この嫁入り道具は豪華で沢山あるということを自慢したのだそうである。子どもの頃、年寄りから聞いた話である。今はこんな馬鹿なことをする人は居ない。

 それにしても「カルバルト」とは不思議な名称である。どなたか語源の分かる方はないであろうか。

12月29日 追記
 コメント頂いた方により、「カルバルト」は「カルバート」と判明する。
「カルバート 暗渠(あんきょ)」 用水や排水のための水路が、道路・鉄道・堤防などの下に埋設されたもの。

# by hirosan_kimura | 2008-12-27 03:22 | その他 | Comments(4)

№14 宮島競艇   

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 宮島競艇場は阿品に隣接した宮島口にある施設であるが、開催日には阿品にもボートのエンジンの騒音がなり響く。

 この施設は昭和29年11月1日に初開催が行われている。入場者の多い時代は、広電・国鉄とも大混雑する時もあった。

 中にはお金を使い果たし、帰りの運賃も無く広島方面まで歩いて帰る人もあり、阿品の国道をトボトボと歩く姿も見受けられた。

 当初、地御前村・宮島町・大野町で共同開催する計画もあったが、地御前村は賭博のお金で村の財政が潤っても、青少年に悪影響を与えると脱退し大竹市が参加した。

昭和29年6月25日 競艇場設置に反対する、地御前村教育委員会の意見書。
 教育全般に渡って思わしくない影響を及ぼすものと憂慮する。
1 村民の浮薄的気分を醸成し、家庭の生活に円満を欠く恐れがある。
2 特に青少年不良化の誘因である。
3 児童・生徒の教育的見地から、思わしくない環境をつくることとなる。
4 一旦設置すれば永久に賭博的施設として、村内の風紀を甚だしく乱す恐れがある。
5 その他教育行政上、種々の弊害を有する。

 この競艇場は宮島町の主体といいながら、事実上本村内に設置するも同様であって、これに反対することは村民全体の与論である。

 今は入場者も激減しているらしいが、競艇のお陰で宮島町・大野町・大竹市は財政が潤ったものである。

# by hirosan_kimura | 2008-12-26 03:54 | 娯楽 | Comments(0)

№13 「阿品の水」は「味が無い」?   

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  昔、神武天皇が阿品に来られ水を飲まれて「此処の水は味が無い(あじがない)」と言われた。これが阿品の地名の由来である。子どもの頃、お年寄りから良く聞いた話であるが本当のことだろうと思っていた。

 しかし神武天皇は神話の中の人で、歴史学者の中には神武天皇の存在そのものを否定する説もある。

 神武天皇は前667年10月5日に日向の国を出発され、大和国を目指し東征され、その途中で宮島に寄られた後、船で地御前の「有府の水門」に着岸された。有府の水門は地御前神社南の入江で、現在でも僅かに面影が残されている。

 地御前で休憩された後、海岸沿いに船を進め串戸に入られしばらく宮内に滞在され、12月27日に府中埃宮を訪問された。 「宮内」「串戸」等の地名は神武天皇に由来すると伝えられている。

 伝説によると神武天皇が阿品に寄られた形跡は無く、神武天皇が阿品で水を飲まれ「味無い」と言われたのが、阿品の地名の由来と伝えられているのは疑わしい。

 この言い伝えは後世の人の作り話で、いつの時代か分からないが阿品の人々に語り継がれてきたものであろう。

1月9日追記
 阿品の水を飲んで「味無い」と言われたのは、神武天皇でなく弘法大師との説もある。弘法大師伝説は全国至る所にあり、その大半は後世の人の作り話が後に、あたかも真実の如く伝わっているものと云われている。果たして弘法大師が阿品に来られて水を飲まれたかは、永遠の謎であろう。

# by hirosan_kimura | 2008-12-25 04:32 | 伝説民話 | Comments(0)

№12 阿品にあった飛行場   

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 昭和8年10月に下田尻の海岸に「田尻飛行場」が開設された。場所は現在廿日市高校の艇庫があるあたりである。

 飛行場と言っても水上飛行機が使用され、滑走路は無く簡単な設備が設けられていたのみらしい。

 この飛行場は「鼓ケ浜航空学校」と「宮島航空研究所」として開設されたものであるが、事実上は二枚看板の一施設で、航空士の養成をするかたわら、遊覧飛行も行っていた。

 遊覧飛行は水上飛行機による宮島一周で、料金は一人五円・飛行時間は約15分・飛行距離は約30㎞であった。

 遊覧希望者は多かったが安全性に欠けていたため、開始されて間もなく遊覧飛行は中止となった。

 養成所は昭和16年頃廃止された。

# by hirosan_kimura | 2008-12-24 05:38 | 交通 | Comments(0)

№11 監視山   

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 鰆浜と阿品を分断し海岸まで伸びた丘を「監視山」と言う。また「神馬山」「勘七山」との呼称もある。

 先端部は「神馬鼻(じんねいばな)」「神めいの鼻」「神馬山鼻」「神馬ガハナ」等の地名が伝えられている。

 高さは約40㍍で、拝床山と田尻山の中間にあり、前面に海を控え似の島や厳島が眼下に見える。

 阿品谷の奥から更地峠を越えれば、大野村海岸方面の情報が入手でき、中山峠を通れば旧山陽道の情報が入手できる。

 又、尾根伝いに神能山に登れば遠方まで見渡せるため、敵軍の行動を見守るという軍事上の情報蒐集の拠点と言われた古地名である。

 国道の新設のため先端部は大きく削られているが、かつては松の木も生茂り昭和30年代頃までは「まつたけ」も沢山採れていた。

 今では信じられないが、国道側の丘からから清い水が流れ落ちていたが、いつの間にか涸れてしまった。

 阿品側は一時「新宮島遊園地」として整備され、皐月や桜の鑑賞に人々が訪れていた時代もあったが、次第に廃れて行き今は荒れ放題となっている。

# by hirosan_kimura | 2008-12-23 04:00 | 地名 | Comments(0)