№20 阿品の沖に「蓬莱島」出現   

№20 阿品の沖に「蓬莱島」出現_e0125014_722940.jpg むかしから阿品の沖の海上に「蓬莱島」が見えると言う、言い伝えが残っている。

 蓬莱島と言うのは、中国の伝説に出てくる絶海にある仙人の住むと言う、目出度い島である。

 4月から5月ごろの天気が穏やかで、波の立たない暖かい日に、阿品の沖合いはるか、金色に光輝く白砂青松の美しい景色が現われ、金の屏風を連ねたように見えたと伝えられる。

 これは蜃気楼と考えられ、宮島の「聖崎」や「能美島」の風景が、空中に浮かび上がるように見えたり、遠くの景色が近くに見える現象である。

 むかしの人は大蛤(おおはまぐり)か、大蛇に似た蛟(みずち 龍の一種で蛇に似て脚が4本ある)が気を吐いた仕業と考えていた。

郡辻書帳雑事奇談より
 往古より四月(旧暦)頃、海上が穏やかな日、沖合いに当って「蓬莱島」が浮くことがある。見受けた者も間々ある。このことは多くの人々が全く承知していることである。海上での珍しい出来事なのでこのことを書いておく。

芸藩通史より
 そのよそおいは、金色に光輝くうちに、洲や渚も見え青い松などの景色も現われ、金の屏風を引き回したように見えるという。これは蜃気の類かもしれない。霊亀が浮かび揚がったというよりは、蓬莱島と呼んだほうが似つかわしい。今もこれを見た人が少なくない。土地の人は丑(うし)の日に現われるといっている。

 見受けた者も間々あるということであるが、阿品に長年住んでいても「蓬莱島」を見たことがない。

 旧暦の三・四月の丑の日、風静かで波穏やかな暖かい日に、宮島の「聖崎」方面に目を凝らしてみてはどうだろうか。
 

# by hirosan_kimura | 2009-01-01 06:55 | 伝説民話 | Comments(2)

№19 鰆浜部落 昭和29年1月   

№19 鰆浜部落 昭和29年1月_e0125014_514592.jpg
 地御前村広報紙による部落紹介

 郷土史によると、当部落は承安四年三月十九日、後白河法皇が宮島に参詣された時、ここから西方の風景をご鑑賞になったので「ショウランバ」と称されたのが「鰆浜」となったということです。

 今から二十年も前は、数得るほどしか家並みの無かったこの部落も総戸数 二十三、世帯数三十八、人口 三○二と相当の発展を遂げています。

 また、東側山の手は別荘地として適し、今でも盛んに埋立てられスマートな家が次第に多くなっています。

 さて最近部落内では、お互いに明るい生活を送りましょうというので、いわゆる生活改善の第一歩を踏み出しております。以下参考までにその申し合わせや取り決めたことをお伝えして、皆様のご支援を仰ぐわけです。

 まず環境衛生面では、一, 便所掃除 毎月二回。 一, 薬品噴霧 輪番制。 一, 下水掃除 毎月一回。 一, 井戸さらえ 年一回。 一, 野壷の蓋 来春までに。

 次に社会面では、一, 葬儀 1 講中葬家の飲食取り止め。 2 酒三升以内とする。 3 お布施 本坊五百円以内 役僧二百円以内。

 一, 見舞(病気)・出産 50円。返礼は一切しない。 一, 旅行のみやげ物禁止。   一, 訳の分からない寄附や募金は部落として拒否。 一 ,年一回の親しみを増す部落のレクレーション。

 以上大まかではありますが、このようなことが各部落に次々と作られ、範囲の広い運動になるよう鰆浜から希望します。

 「野壷の蓋」「井戸さらい」など今の人はなんのことか分からないであろう。

# by hirosan_kimura | 2008-12-31 05:37 | 鰆浜 | Comments(0)

№18 広い「阿品」・狭い「阿品」   

№18 広い「阿品」・狭い「阿品」_e0125014_5482542.jpg 一口に「阿品」と言うが「阿品」には二つの意味がある。。広義の「阿品」と狭義の「阿品」である。広義の「阿品」は地御前村の飛郷としての「阿品」。狭義では「字」としての「阿品」の二つである。

 文政2年(1819年)の地御前村下調帳では「当村には49の字があり、この内 阿品・鰆浜・上田尻・下田尻の肩には「飛郷」と記されている。」 この4つの「字」が広義の「阿品」である。4つの「字」の中の「阿品」が狭義の「阿品」を指す。

 現在、広義の「阿品」は住居表示により、阿品と阿品台に町名設定されているが、阿品台は山地を開発した団地である。

 「鰆浜」は新住居表示で「阿品一丁目」となっている。この中の「阿品一丁目1番~5番」は本来の阿品でなく地御前に所属していた。1番から3番は新しく出来た小規模団地「光が丘」であるが、4番・5番は古くから家屋があり鰆浜部落と一体となって生活していた。

 狭義の「阿品」は、ほぼ現在の「阿品二丁目」である。「上田尻・下田尻」は狭義の「阿品」と一体となり長年生活を送ってきたが、現在では「阿品四丁目」となっている。四丁目はふじタウウンが大半を占めている。

 「阿品三丁目」は昔は当然海の中である。

 「阿品台一丁目・東・北」の大部分は本来の「阿品」で無く地御前であった。「光の園」は現在でも地番は「地御前」となっている。当然「阿品台東」の日赤看護大学も本来の「阿品」ではない。

 阿品地域以外の人が言う「阿品」は「阿品・鰆浜・上田尻・下田尻」を指し、この中の「鰆浜」の人が言う「阿品」は狭義の「阿品」、現在の「阿品二丁目」のみを指す。

 ややこしい話であるが、阿品に生まれ育った人でないと、何が何だか分からないのではなかろうか。

# by hirosan_kimura | 2008-12-30 06:38 | その他 | Comments(3)

№17 地名「鰆浜 さわらはま」   

№17 地名「鰆浜 さわらはま」_e0125014_753104.jpg
  鰆浜の地名は文政2年(1819年)の「国郡志御用下調書出帳」に「此浜、鰆を引き上げたる事あるにより以来、鰆浜と言うとの説あり」とあり「阿品」の地名の由来が不祥なのに対して、極めてはっきりしている。

 「鰆浜」以外にも様々な古い呼称がある。

「聖覧場 しょうらんば」
 承安4年(1174年)3月19日に、後白河法皇が伊都岐島(厳島)に参詣された際、この地より四方の風景をご鑑賞になられたことに由来する。

「上覧場 じょうらんば」
 聖覧場の別標記。

「上覧浜 じょうらんはま」 
 上覧場の別標記。

「勝覧場 しょうらんば」
 天文24年(1555年)9月30日、毛利元就がこの地より出陣した「厳島の合戦」で勝利したので、「聖」を「勝」と当てはめた。

「相覧場 そうらんば」
 聖覧場の「聖」が「相」に変わったもの。この呼称が一番近年まで使われている。自分達が子どもの頃 極普通に使っていたが、同一場所に「鰆浜」と「相覧場」の二つの名称があるのを不思議にも思わなかった。今でもたまにお年寄りの中には極稀に使う人もある。

# by hirosan_kimura | 2008-12-29 08:04 | 地名 | Comments(0)

№16 地名「阿品」   

№16 地名「阿品」_e0125014_5122221.jpg

 「阿品」の地名の由来は諸説あるが、残された文書も少なく確定できる証拠はない。天正8年(1580年)の文書には「アシナ」、元和5年(1619年)の文書には「阿字名村」と記されている。

 阿品の標記には「あしな」「アシナ」「アジナ」「阿字名」「阿品」等が古文書に残されている。

 地元では、神武天皇由来説、阿品の神社の氏神の一つ「足摩乳命(アシナツチノミコト)」に由来説が言い伝えられているが、神武天皇由来説は信憑性が薄く、足摩乳命由来説は学者によると祭神を地名とするのは極めて例が少ないと言われている。

 現在の標記「阿品」は「阿」にも「品」にも意味は無く、「あじな」の発音に漢字を充てたに過ぎないらしいが、「あじな・あしな」も「あ」と「じな・しな」でなく、「あじ・あし」と「な」と解釈するほうが、地名の解明に繋がると言われる。

 「あし」「あじ」は低湿地・崖地・端・谷の奥・葦の生えた所・網等を意味し、「な」は魚・波・鳴るの古語・場所・野・沼地・浦等の意味がある。

 以上推測すると、「漁業関係由来説」と、自然・地形に由来し「低湿地の土地」「崖のある土地」「谷の奥の土地」等から来た地名との考えもあるが、何れも推測の域を出ない。

 近辺に宇品(うじな)・丹那(たんな)・日宇那(ひうな)・温品(ぬくしな)と語尾に「な」の付く地名がたくさんあるが、「あじな」の「な」と関係あるのではなかろうか

 別の説では、昔阿品の海岸沿いは海水と淡水が入り混じり、アシ(芦)やハマツナ等の植物が沢山生えていた。アシの沢山あったところから「アシナ」の地名が生まれた説もある。

 岩国市の山間部にも「阿品」という地名がある。この地名の由来は行基菩薩がこの地を訪れた際、山の峯に「阿」の字を見たと言われるもので、「阿」は密教では特別の意味があるらしい。
 この地の「阿品」は「阿志南」「阿字名」とも標記された。

 岩国の「阿品」は、我々の住む「阿品」とは何の関係も無いらしい。

# by hirosan_kimura | 2008-12-28 06:16 | 地名 | Comments(0)