№25 貴重な写真   

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 1月3日の中国新聞に、戦前の広島市を写した写真が2,000枚も見つかったとの記事が大きく出ていた。

 此れは私の父の姉さんのご主人が、戦前に広島市で写真店を営んでいた時写した写真で、昭和2年から原爆投下直前までのもので、広島市の戦前の資料は原爆投下により殆ど残されていない中、今まで残された物の中で質・量とも群を抜く大変貴重なものであるということだそうである。

 原爆投下前に地御前の実家に避難さしていたものであるが、よくも今まで保存されていたものだと感心する。

 上の写真は、兄の家に珍しい写真があるということで複写した写真の一部を拡大したものである。阿品で行われた祖母の葬儀の際の写真であるが、横が1㍍近くもあるパノラマ写真で、今回見つかった写真の一部かも知れない。

 親戚の中でも写真撮影の好きな人もあったが、その人が亡くなった際、殆どの写真が処分されており、誠にもったいないと思うばかりである。

# by hirosan_kimura | 2009-01-06 05:46 | 写真 | Comments(0)

№24 十兵衛岩(じゅうべい)と伝説   


№24 十兵衛岩(じゅうべい)と伝説_e0125014_1332767.jpg「国郡志御用下子志らべ書出帖」より
「阿品山はなより凡百間程沖ニ、十兵衛岩と申ス磯砠有リ常ニ見へ不申候」

 今から何年昔のことか分からんが、阿品の沖へ行くとのー、だいたい四十間のぐらいのところの海の底へのー、大けな大けな岩があるんじゃいのー。

 昔も今も子どもちゅうもんは分からんもんじゃけえのー、その岩まで泳いで行っちゃー帰ったり、その岩に立って休んだりしていたものよ。

 ある年の夏のことじゃが、子どもが泳ぎよったらの、ひょこっと十兵衛が見えんようになったんじゃげな、「十兵衛がおらん」「十兵衛がおらん」と皆んな大さわぎになってしもーた。
 
 「どうも岩まで泳ぎにいきよって、おらんようになったらしいで」 子どもたちゃー急いで大人を呼びに行ったんよー。

 そうこうするうちに、大人も集まってきてのー。みんなで岩の近くを探しておったら、あんた、その岩の下にのー大けな大けな穴があるんじゃ。

 どうもその中がおかしい言うんで、もぐっていって調べてみたらのー、その中にのー、目の光ったいびせー怪物がおるんじゃー。

 大人が二人行って「ガンツキ」でついたりしてのー、とうとう引っ張り出したんじゃ。あんた、一体何じゃったと思いさるんかいのー、大けな大けな「たこ入道」じゃったんじゃげな。

 どうでも足が五尺ぐらいもあって、その足で十兵衛を引っ張り込んどったげな。十兵衛を抱えたまんま、一緒に揚がってきたげな。十兵衛は可哀そうに、はー死んどったげな。

 「まあ、なんちゅうても、大けなたこ入道じゃのー」「可哀そうに。十兵衛はたこ入道の足でしめ殺されたんでー」

 それからちゅうもんは、あの大けな岩を「十兵衛岩」ゆうようになったんよのー。今も十兵衛岩はあるし、その下にゃー大けな穴があるんで。ほいじゃけー 今、だれも近寄るもなーおらん。

 海の埋立により、今は十兵衛岩はみられない。海岸より岩までの距離が異なるのは、国鉄・国道・広電等で海が埋立てられる前と後で測定場所が違うため。

# by hirosan_kimura | 2009-01-05 11:59 | 伝説民話 | Comments(3)

№23 阿品の沖合いに「あしか」   

№23 阿品の沖合いに「あしか」_e0125014_6135588.jpg

明治20年(1887年)9月22日 芸備日日新聞
 鮔(きょ 大きな魚?)
 佐伯郡地御前沖合いに於ひて去る19日、漁りたる「あしか」は身丈け一丈ありて、身幅は一尺五寸、鰭(ひれ)は三尺あり。

 又た口地先に二尺許りの尖りたる針状をなしたるものあり。

 総身青黒にて宛(あたか)もさわらの如くに見え、一昨日より天満町の河原に於て観物となし居るとのことなるが。

 此の魚は東京辺にては多く見る魚なれど、何分当地にてハ稀なるが故へ見物人多しと云ふ。
 

# by hirosan_kimura | 2009-01-04 06:29 | 動物 | Comments(0)

№22 阿品部落 昭和28年   

№22 阿品部落 昭和28年_e0125014_9501341.jpg

 地御前村広報紙による部落紹介 阿品の巻

 阿品は人口二九八 世帯数六五(9月2日現在)で、隣村大野と境を接する部落です。

 主として農家が多く、地域的に文化施設に恵まれないところ處なので、独立した公民館が青年の手によって運営され、最大限に活用されています。

 また近年では、海岸端のお上がり場が、相当夏季避暑地として人気を集めております。
 

# by hirosan_kimura | 2009-01-03 09:57 | 阿品 | Comments(0)

№21 「明治天皇」阿品に御上陸   

№21 「明治天皇」阿品に御上陸_e0125014_12113784.jpg

 明治18年(1885年)7月26日、明治天皇は北白川能久親王殿下、参議兼宮内卿伊藤博文侍従長、徳大寺実則等を従え、東京を出発され、海路山口県に向かわれた。

 7月31日に広島県に入られ、厳島の大聖院に一泊された。翌8月1日に厳島を出発され海路阿品に上陸された。陸路広島に向かわれる途中、廿日市の岩尾澤太郎・草津小泉甚右衛門宅で小休止された後、行在所の偕行社に向かわれここで三泊された。

 当日は午後一時に厳島を出発され阿品に上陸されたが、その日は御召馬車の他、付き添う文武官用の騎馬や人力車等が数多く用意された。その他一般民衆の奉迎もあり、三伏(夏の暑さが一番厳しい)の暑さといわれる八月一日の午後は、阿品始まって以来の一大行事であった。

 お上がり場は、明治天皇が上陸されるために造られた施設で、ご上陸決定するや、長さ四十二間・幅三間・高さ一丈と、長さ十二間・幅二間・高さ一丈の二箇所の桟橋が築造された。

# by hirosan_kimura | 2009-01-02 12:31 | 出来事事件 | Comments(0)