№1008 秘境   

№1008 秘境_e0125014_16373750.jpg 
 旧廿日市町時代に後畑部落を「秘境」と呼んでいた。この地区は現在の湯来町の白砂村に属していたが、分離して原村に編入していた。しかし原側からの自動車道は無く、谷筋の細い川に沿った細い山道を徒歩で行くしかなかった。原から自動車で行くには平良村を下り国道二号線に出て、楽々園手前か五日市町から奥に入り途中で山道に入り後畑まで行っていた。

 当時の旧廿日市町は五か町村が合併しても、面積は僅か42.71㎢しかなかった。現在は佐伯・吉和・大野・宮島町と合併し489.36㎢と広くなったが、広大な佐伯・吉和の人から見ればつい目の先のような後畑を、秘境となどと呼ぶのは可笑しかったかもわからない。

 当時、後畑の小学生は原小学校後畑分校に通学していたが、中学は七尾中学が校区であった。後畑から平良村にあった七尾中学校に通学は困難なので、後畑の中学生は原や平良の親戚や知人の家に下宿していた。土曜日の午後に下宿先から後畑の自宅まで歩いて帰り、日曜日の午後に後畑の自宅から下宿先まで歩いて行っていたそうである。

 そのうち後畑から原まで蛇行した自動車道が開通し、スクールバスで自宅から原小学校・七尾中学校まで通学していた。その内、後畑の子ども数が激減し町がタクシーを借り上げて通学していたが、現在はどうなっているのであろうか。

 後畑には数年前までは市が経営する温泉宿泊施設「アルカディアビレッジ」と言う施設があったが、来場者が激減し史宿泊施設は閉鎖されている。体育館等も併設され、個人客のみでなく学校・其の他団体等の利用を見込んでいたが、道路も狭く大型バスが乗り入れられないのが影響したようである。

 かつては秘境と呼ばれていた後畑ではあるが、湯来町の白砂に向かう道路の途中から山道に入り五日市町との中間に「中伏」と言われる部落がある。テレビで「ポツンと一軒家」と言う番組があるが、当時でも一・二軒しか家がなかったらしいが現在はどうなっているのであろうか。

 当時、この部落に「○○甚六さん」というお年寄りが居られ、たまに廿日市町役場に来られることがあった。この人が来られると珍しいのでみんなが取り囲んで「今日はどの道を来られたのか」と聞いていた。通常は山道を通リ後畑を抜け谷沿いの道を原まで歩き、バスに乗り換えて来ておられた。時には白砂を回ってきた。山道を回り五日市の河内経由で来たなど話しておられた。随分前、「中伏」を通ったことがあった。この時でも人が住んでおられるのか、無人なのか分からないくらい荒れ果てていた。今はどうなっているのだろうか。もう訪れることも無いであろう。

# by hirosan_kimura | 2025-01-21 11:47 | Comments(0)

№1007 老齢福祉年金   

 昭和60年より開始された国民年金は、20歳から60歳までの全国民が対象であった。年金の受給資格は保険料の納付機関が25年必要であった。制度発足当時50歳以上(明治44年4月1日以前出生者)には救済措置として70歳から老齢福祉年金が支給されることになった。50歳以上であっても最低10年保険料を膿すれば、拠出年金が受給できる暫定措置も設けられた。これらの人は任意加入か福祉年金のいずれかを選択できた。

 福祉年金は保険料を納付しなくても受給できるが様々な制約があった。老齢福祉年金は月額1,000円支給された。しかし他の年金を受給していたり、本人・配偶者・扶養義務者のいずれかの前年所得が一定以上であれば、年金の支給は停止された。高齢任意加入の人は年齢が来れば所得に関係なく、保険料を納めた年数に応じた額の年金が支給された。

 老齢福祉年金の支給額月1,000円は、現在の価値から比較すると驚くほど低額で、子どもの小遣いにも満たないと思われるかもしれない。しかし当時は高齢者に収入があったり裕福な家は別であるが、僅かの現金でさえ手にすることも無く「これで孫に飴玉の一つでも買ってやれる。」と感謝されたものである。所得制限等で年金支給が停止されるものもあった。停止された一部の人は「なぜ支給されないか。」と役場に怒鳴り込んでくる人も珍しくなく、いくら説明しても納得されない人もあり、この人たちの対応に苦慮したものである。
 
 福祉年金は4・8・12月の年三回支給されていた。一回の支給額は4,000円であったが、支給日になると金融機関にはたくさんの高齢者が訪れ、年金の活用に花が咲いたそうである。

 勤務し始めの昭和38年の福祉年金受給者は、町内全体で927人との記録がある。この人数は高齢者数の増加により年々増えていった。年に一回は定時届けと称し、所得状況による支給・不支給の決定をする申請の受付を行っていた。この届をするため高齢者に役場まで来ていただくのは困難なため、担当者が受付場所に出向いていた。旧町村ごとに集会所・公民館等を会場としていた。明石・後畑地区は余りにも遠方なので別の会場を設けていた。

 各会場に出向くのに上司と二人で行っていた。当時は事務用の庁用車は無く、自転車の荷台に段ボール箱を括り付け事務用品を運んだ。明石と後畑は余りにも遠方で坂道が続き自転車で行くのは難しかった。上司の方の私用オートバイに二人乗りで行っていたが、事務用品を入れた段ボール箱を抱え後席に乗っていた。片方の手で段ボール箱を抱え、もう片方の手で手掛りを掴み油断すれば落ちそうで必死であった。

 明石はバスも通る道であったが、当時は舗装もされていず曲がりくねっていた。集会者を会場としていたが来場者も僅かで、受付事務より世間話に花が咲いていた。お年寄りから随分いろんな話をしてもらったものである。

 後畑は当時廿日市の原側からは谷底に沿った細い道しか無かった。自動車などで行く場合は五日市町の奥から山道に入り、川沿いの細い道を経由して行った。廿日市の原経由で通行できるようになったのは随分後のことである。
 後畑は明石地区より辺鄙で、当時は廿日市の秘境とも呼ばれていた。受付会場は民家を借りていた。この家は商店もしておられたが土間の一角に僅かの商品が陳列してある程度であった。福祉年金受給者も僅かで、ここでも受付事務に要する時間よりたまに来られる人との世間話に花が咲いた。

 受付事務は提出された定時届書に記入漏れ・押印漏れは無いか点検。年金証書を預かり年金の受給漏れは無いかの確認をしていた。受領日が来ると待っていたように、金融機関で年金の支払いを受けられるので受領漏れは皆無であった。

 受け取った定時届書と年金証書を元に、全員の所得状況を確認期限までに大わらわで整理していた。これらの書類と年金証書は広島西社会保険事務所への提出が終了して、やっと安堵したものである。
 
 西社会保険事務所では所得状況を確認し、支給者には証書に支給額の記入・支給停止者には「支給停止」と記載される。証書の整理が終わると西社会保険事務所まで受領に行き、申請書の受付を行った会場まで出向き受給者に交付していた。
 高齢者は支給額の記入された証書の受領を楽しみしておられた。ごく一部の方ではあるがは所得制限等で不支給になり、がっかりされる顔を見るのは忍び難かったものである。

 証書支給事務が終わっても、不支給になった本人はもとより身内の方などが、役場に入れ替わり立ち代わり来られ泣き言を言ったり、納得できないと粘られることを思うと憂鬱になってしまうのであった。

# by hirosan_kimura | 2025-01-17 11:51 | Comments(0)

№1006 国民年金   

 国民年金は昭和34年に法が制定され福祉年金は昭和34年、拠出年金は昭和36年に発足している。当初は職員一人で年金事務を行っておられたが、業務量の多さからか担当者の性格によるものからかは分からないが、事務が滞り精神的に行き詰まり、欠勤される日が続いたそうである。

 このまま放置するわけにも行かず、優秀な職員が配置された。就任された方も何処から手を付けて分からないくらい業務が溜まりに溜まっていたが、少しづつ整理していかれた。いくら頑張っても一人の担当では難しいので、職員を一人増員することとなり、その部署に配属され勤務することとなった。

 当初は停滞した事務を整理していくことと、西も東も分からない新任職員の育成で混乱する日々が続いたようである。それでも少しづつ業務の整理が出来、新しい仕事にも慣れて軌道に乗っていった。

 国民年金は加入者と国が一部負担する拠出年金。制度発足時に一定の年齢を超えていた人のための福祉年金があった。福祉年金はともかく拠出年金については様々な抵抗があった。
 既存の企業年金・公務員の共済年金等に加入していない自営業者等は強制加入で、年金保険料を納付する義務があった。

 その保険料は発足当時は35歳未満は月100円、35歳以上は月150円であった。この額は改定が続き増額され今年4月から17,510円と、発足当時と比較すると100倍以上となった。

 掛け金が一か月100円・150円と現在では考えられない額であるが、これでも当時は強い拒否反応があった。様々な考えがあり、将来の年金原資を国民に負担さすのはとんでもない、国費で賄うべきとの考えがあった。何十年も先に年金を受給できる頃には国政が変わり、すべて国費で賄うこととなる。年金保険料を払っていようが、払っていなくても等しく全員に年金が支給される。国民年金制度に加入しなくても良い。今保険料を納めているものは支払う必要はないと強硬に運動をする勢力があった。

 当時は、強制加入でも国民年金に加入しない人。加入していても納付を拒否する人もありこれらの人を説得するのが大きな業務の一つである。保険料を納めない人には「あなたが納めなくて将来年金を受給できないのは勝手であるが、真面目に納めている人に対して納めるなと言うのはやめて欲しい。」とお願いに行っても自分たちの主義に凝り固まっている人たちには聞く耳が無いようである。

 納めていない人には二通りあって、自分の主義で納めない人と、納めていなくても将来年金がもらえるのなら納めないほうが良いと思う人である。

 毎日のように納めない人宅を訪問して「将来は分からないが、国民年金法と言う法律があるのだから納めて欲しい。将来政治がどうなるか分からないが、納めていない人・納めた人に同じ対応は無い。他の人が年金をもらう年になっても、あなたはもらえないこととなるが良いのか。」等、説得する日々であった。

 この程度で了解してもらえることは少ないが、「納得は行かないが、国民なら法を守る義務がある。」「納得するわけには絶対行かないが、若い職員が何回も来て気の毒だから払おう。」などと渋々でも了解してもらったときはうれしかったものである。

 現在、ごく一部の人を除いては、一定の年齢がくれば額はともかく月々年金が入っているが、当時、年金加入・保険料の納付を拒否した人は後悔はないのだろうか。納付を拒否して年金を受給できないのは当然であるが、他の人達に年金の加入・保険料の納付を否定する言動をとった人たちは責任感を感じているのであろうか。

# by hirosan_kimura | 2025-01-13 11:52 | Comments(0)

№1005 住民課厚生係   

 勤務して最初の配属先は「住民課厚生係」であった。この年の新規採用者は2名。もう1名は「水道事務所」に配属された。この人とはとても縁があった。後に同じ部署に配属された際、何もわからず困った時 一から親切丁寧に押しえてもらった。とてもユーモアがあり大変お世話になり、生涯忘れられない人の一人であったが、惜しくも若くして亡くなくなられた。

 住民課は住民係・厚生係の2係のみであった。このうち厚生係の国民年金担当であった。係と言っても所掌範囲は広く、福祉・国民年金・国民健康保険・生活保護・戦傷病者・遺族関係・保健衛生・廃棄物・火葬・公害関係等の事務があり、今でいう福祉保健部関係を1係で行っていた。

 厚生係は、係長・福祉担当2名・国民健康保険2名・国民年金2名・保健関係は保健婦と若い男性の2名・ごみ処理火葬公害関係で1名等10名であった。

 課長は日比野さんで旧宮内村役場から廿日市町へ移籍された。とても温厚で小柄な方であった。当時はとても高齢者の方と感じたが50代後半の方ではなかったろうか。

 厚生係長は岡さんで平良村役場より移籍された方である。この方は後に教育長を務められたがあるが、長期間 懇意にしてもらい忘れられない方の一人である。

 国民年金担当は2名であったがもう一人は増井さんで30代くらいの男性であった。この方は働き始めて初めてご一緒させてもらった方で何もわからなかったのを一から指導してもらった、生涯忘れられない方である。国民年金では二年のみであったが、水道事務所に移動すれば後に一緒になり、福祉関係に移動すれば後に一緒になり、不思議な縁を感じたものである。通算42年勤務した役所であるが、四分の一位の期間ご一緒させてもらったこととなるが、残念なことに定年を前に病気で亡くなられた。

 退職するまで十数か所の部署を担当したが、最初に勤務した部署と上司の方が一番印象に残っている。少ない人数の中で家族のような付き合い、懇意にしてもらったことが忘れられない。

# by hirosan_kimura | 2025-01-11 14:00 | Comments(0)

№1004 廿日市町に勤務   

№1004 廿日市町に勤務_e0125014_12420489.jpg
  昭和38年4月今から62年前、廿日市町役場に勤務することとなった。
 前年より伝染病の赤痢が廿日市で大発生し全国的に名を留めた。やっと終息を迎えようとしていた時期であったが、庁舎内にはまだ慌ただしい雰囲気が残っていた。

 三階建ての庁舎は、一階が住民がたくさん来られる住民課が大半を占めていた。
 二階は役所の中枢の町長室・助役室・行政課があった。三階は議会関係で議場・議会事務局・委員会室等があった。

 現在では部制となっているが、当時は行政課・住民課と産業建設課の三課のみでその下に各係があった。

 行政課は総務係・税務係で構成されていた。来客の多い住民課は一階に配置され、住民係・厚生係の二係、産業建設課は産業係・建設係・水道係の三係で構成されていた。

 その他に教育委員会・会計室があり、企画室等があった。遠い昔のことであり、間違い・思い違いがあるかも分からない。


 本庁舎の裏側は、消防庁舎があった。この建物は昭和36年4月に旧廿日市町役場を解体した木材を利用した、木造モルタル瓦葺二階建て、建坪50坪・延70・5坪の建物であった。一階は車庫で消防車・救急車が格納され隊員の仮眠室もあった。二階は消防署の事務室となっていた。

 消防署と並列で「青年研修所」と呼ばれていた、あまり大きくない平屋の建物があった。この建物は本来の研修所として使われたことは殆どなく、昼休みは職員が休憩室として使ったり、会議室として使われていた。

 中庭を挟んで庁舎と並行して簡易な駐車場があった。当時、庁用車としては町長車・住民課に一台・産業建設課にジープが一台あった。住民課分は検診や予防注射等の際、お医者さんを各医院から検診会場まで送迎するためにあった。産業建設課のジープは旧宮内村より廿日市に引き継がれたものと聞いていた。

 記憶違いでなければ当時、役場の自動車はこの三台と消防用の車のみであった。職員が公務で出かけるときは徒歩か自転車を利用していた。今では考えられないが、税金の滞納分を徴収するのに税務の担当者は広島市内まで自転車で行くこともあった。中には岩国まで自転でに徴収に行ったことがある聞いたことがあるが、今の若い職員が聞いたら何と思うであろうか。在職中は平地部の佐方地区から阿品方面、平良地区は速谷神社付近まで・宮内地区では畑口付近まで自転車で行くのは日常であった。原方面は急な坂があるのでバスを利用していたが、中には川末・長野方面まで自転車で行ったと言う強者もいた。

 今の職員が聞くと信じられないようなことも沢山あった。思いで多いこの庁舎も自動車学校跡に立派な庁舎が建てられ今は跡形もない

# by hirosan_kimura | 2025-01-09 13:39 | Comments(0)