素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

<   2018年 12月 ( 4 )   > この月の画像一覧

№777 小さな駐車場

e0125014_11050544.jpg

 阿品地域では田畑が埋め立てられ宅地化が急速に進んでいる。最近JR駅すぐ傍の畑が埋め立てられ住宅地となっている。
 
駅のすぐ傍で便利は良いが、あまり広くなくその上、変形の細長い敷地である。
 
あまり広くないので3棟くらいの建物が建つのかと思っていたが、敷地が5分割された。


e0125014_11052286.jpg

 すでに3棟の建物が建てられ、1棟は入居済みである。2棟建築中であるが完成間近かである。もう1棟は空地であるが、地面に建物の位置が示されているので間もなく着工されるであろう。

 残りの1区画は数坪しかなく、とても建物が建つ広さもなく何が出来るのか不思議に思っていた。

e0125014_11054179.jpg

 この狭い敷地に何が出来るのか不思議に思っていたら駐車場が作られていた。

 とても狭い敷地なので3台しか駐車できない。2台は普通車が並列駐車出来るようになっているが、1台は斜めに駐車しそれも軽自動車しか駐車できない。

 駐車料金は8時から20時までは30分100円、20時から翌8時までは30分で100円となっている。入庫から24時間までは800円となっている。

 完成して間が無く十分周知されていないのか、今の所車が駐車していることは余りないが、JR阿品駅のすぐ傍なのでPRが行き届けば、この駐車場を利用する人も多くなるであろう。


 それにしても、狭いとは言え用地を購入し、施設を整備すればかなりの初期投資が必要だったと思われるが、たった3台分の駐車料金で経営が成り立つのか心配するのは素人の杞憂であろうか。

by hirosan_kimura | 2018-12-19 11:42 | 交通 | Comments(7)
e0125014_10220523.jpg
 鰆浜部落は今でこそ新しい住宅が立ち並び、マンションも建ち県病院跡地には60区画の住宅用地が造成され、次々と新築住宅が建ち続けている。しかし昭和40年代に入る前頃には世帯数40、人口300人程度の小さな部落であった。小さな部落ではあったがとても団結力が強かった。この間、部落の将来を左右するような出来事があったが、その都度部落が一致協力して乗り切っている。

 その一つは昭和40年に西広島バイパス工事が事業化決定した際、部落の存続が危ぶまれるほどの計画が発表された。このブログ「№548 鰆浜部落の危機」でも紹介したが部落の半数近くの家屋の立ち退きを余儀なくされると言うものである。
 西広島バイパス出口に当たる部落の国道を拡幅する為、道路沿い20㍍程度区域内の家屋を立ち退かすものである。この計画が発表されるや立ち退き家屋も残される家屋も大騒ぎとなった。立ち退き補償金を目当てに金融機関は預金獲得に各家庭を訪問したり、立ち退き先を検討したり部落始まって以来の出来事となった。

 国道沿いの我が家も立ち退き先となったが、代替地と指定されたのは鼓ケ浜の埋め立て地であった。当時としては阿品の住民から見ればとんでもない地と考えられ、今と違って電車駅も無く阿品で生まれ育った母などは嘆き悲しんでいた。国が計画し発表したものを小さな部落が反対し覆すことは無謀と言われたが、その後部落を挙げて反対活動を粘り強く続けた結果国も折れて、海を埋め立てて広電宮島線を沖側に移設し道路を拡幅することになった。

 部落内で大きな敷地を占めていた「県立地御前病院」の廃止が決定した際、県は跡地に隔離病舎整備する予定であった。隔離病舎は伝染病予防法により感染症患者を収容するための病棟である。今では伝染病患者が発生することも少なくなっているが、当時は珍しいことではなく昭和30年後半に当時の廿日市町では赤痢が大発生し全国でも有名になったこともある。特に高齢者は隔離病棟を「避病院」と呼んで余り良い印象を持っていなかった。この計画も部落を挙げての反対運動を行い、県も撤回せざるを得なかった。この隔離病棟も平成11年の伝染病予防法の廃止に伴い無くなっている。

 山陽自動車道は昭和62年12月に廿日市・大野間、昭和63年3月に大竹・岩国間が開通しているが、大野・大竹間が開通したのは平成2年11月と大幅に遅れている。この3年近くの遅れは阿品とは全く関係ないように見えるが、鰆浜部落が大いに関係しているのである。大竹の山陽自動車の通貨予定地に大きな病院があったが、高速道路を通過させるためにはこの病院の移転が必要であった。公団はこの病院の移転先として鰆浜の県病院跡地を予定していた。

 この計画が発表されるや鰆浜部落では再び反対運動が展開された。折角県病院が廃止されたのに狭い部落内に大病院が新設されることと、その病院が精神病院のための抵抗感もあったようである。公団としては敷地を挟んで大野まで反対側の岩国までは開通し、病院部分を残して両側から工事は勧められているので必死の説得が行われたが、それ以上に鰆浜部落の反対に対する団結力は強く結局は説得を断念せざるを得なかった。

 大野を通過し大竹に入ると山でもないのにトンネル状の道路が現れる。病院は移転できず園部分のみ大きく迂回さすことも出来ず、病院部分のみ遮音等の対策でトンネル状の道路が覆ってある。
(№45 山陽自動車道と阿品)

 


by hirosan_kimura | 2018-12-13 11:30 | 鰆浜 | Comments(0)

№775 そうらんば

e0125014_08551498.jpg

 かつて阿品には「鰆浜」「阿品」「田尻」と三つの字名があった。今では阿品一丁目から四丁目、阿品台一丁目から東・北・西・山の手と無粋な地名に変わっている。
 
 阿品一丁目は「鰆浜」と由緒ある地名であったが、地域では「そうらんば」と呼び親しまれていた。これ後白法皇が厳島に参詣された際、この地より厳島をご覧になったので「聖覧場(しょうらんば)」が訛って「そうらんば」と呼ばれるようになった。「そうらんば」の呼称は自分たちが子どもの頃にはごく当たり前に言っていたが、いまでは使われることもなくこの呼称が分かる人も僅かとなってしまった。

 なお「聖覧場」は毛利元就がこの地より出陣した厳島合戦で大勝利したので、「聖」に「勝」の字を当てはめて「勝覧場(しょうらんば)」と呼称されることもあった。

 鰆浜は小さな部落であるが、厳島合戦の際はこの地に陣地が設けられたり、広電宮島線が宮島口まで開業されていない頃は電車の終着駅の「新宮島駅」もあった。
 宮島航路も現在地でなくこの地より連絡船が運航されていた等、阿品の歴史上由緒ある地である。

 鰆浜の地名はかつて「鰆」が沢山採れる所から付けられた由緒ある地名である。現在の「広電阿品東駅」は阿品にJR駅が開業するまでは「阿品駅」と称していたが、駅名が改められた際せめて「鰆浜駅」にでも改名されていたらと残念な思いがある。

 数年前に亡くなられたが鰆浜には「長門太郎」さんと言う方がおられた。この方は長年町内会長を務められ、鰆浜地区の発展にご尽力された方であるが、郷土の文化や歴史を大切にされ生前「そうらんば 鰆浜の昔ばなし 残したい話」の小冊子を発行されている。ページ数は30ページ余りの小冊子であるが貴重な記録が残されている。この序文に「残したい話は数々あるが、今回は紙数の関係から二十話にとどめた。将来は「鰆浜町内史」をまとめたいと考えているので、適当な箇所があればそこで取り上げたい。」とある。

 自分が退職後に「阿品のことをまとめた資料が無いので、少しづつ調べて将来は阿品の歴史とでも称し本を作りたい。」と話すと大変喜ばれて、「今は体調が悪いので無理だが、元気になったら一緒に調べて行こう。資料は自宅に沢山あるので整理して行こう。」と言われていた。長門さんが元気になられるのを楽しみにしていたが亡くなられてしまった。程なく奥さんも後を追うように亡くなられ自宅は空家のままである。

 もう少し早く一緒に阿品のことを整理しておけば良かった。自宅にたくさん残されている資料を見せて貰えば良かった思うが後の祭りで、残念で仕方ない。

by hirosan_kimura | 2018-12-09 10:01 | 鰆浜 | Comments(0)
e0125014_13370282.jpg

 犬の散歩で阿品二丁目を散歩していると、田圃が埋め立てられているのが目についた。恐らく宅地造成でまた新しい住居が建築されるのであろう。
 阿品地域では近年、次々と田畑が埋め立てられ、残る田畑も少なくなるばかりである。

 かつての阿品で田畑の中に住居が散在し、夏には稲の緑で一面が覆われ、秋には実った稲穂で黄色に覆われていた、所が近年では家屋に囲まれた田畑が窮屈そうに散在している状況である。稲作が耕作される田圃も年々少なくなり、今のままでは阿品での田圃が見られなくなるのも遠い先のことではないのではなかろうか。
 
 阿品ではこの数年のみで新築住宅が次々建てられている。更に田畑が埋めら住宅地になるのに加え、県病院跡地の宅地造成地にも新築住宅が次々建てられている。おかげで若い世代や子どもたちが引っ越してくるので阿品一・二丁目の高齢化率は20%越え程度である。すぐ隣接地の阿品台一~四丁目では驚くことに50%を超え超高齢社会となっている。同じ阿品でも四丁目は高齢化率が高く40%を大きく超えている。

 同じ阿品地域でこれほど若い人が多い地区と、高齢者が多い地区に分かれるのは平地と高台の違いによるものである。かつては高級住宅地と言われたり、整然と区画された住宅地を阿品の人たちは羨ましがっていたが、いまではそれらの地域から阿品のマンションに移り住んだり立場が逆転したようである。

 阿品台地区では「阿品台地区空き家対策勉強会」が行われるようである。すぐ目と鼻の先の隣接した地域でかたや田畑が埋め立てられ次々住宅が建ち、かたや空き家対策を講じなければならないとは、何かすっきりしないものを感じる。
 

by hirosan_kimura | 2018-12-04 14:40 | 人口 | Comments(0)