素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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 先日より阿品の東端(地御前五丁目地内)の海岸沿い道路で工事が開始されている。その工事は阿品地域に公共下水道管を埋設するための縦抗を掘るための工事である。上図のB地点。

e0125014_11462935.jpg阿品地域でも大半の家庭の便所は水洗化されており、汲取り便所の家は数えるほどしかないのではなかろうか。しかし阿品地域には未だ公共下水道は整備されていない。阿品台とふじタウンには小規模下水道が整備されそれぞれの団地に汚水処理場がある。マリナタウウンの900世帯のマンションには大型処理槽、その他の家庭には個別の処理槽が設けられ汚水を処理し海に放流されている。

 阿品地域に公共下水道が整備されるのは当分先のことと思っていたが、数年先には待望の公共下水道が整備されることになった。今回の工事はA地点(地御前神社前)からB地点まで下水道本管を敷設するための縦抗を築造するものである。

 下水道工事に当って素人考えであるが不思議に思っていたことがある。
①今回敷設する下水管の内径は800㎜であるが、この口径では中に人が 入って掘削できずどのように掘って行き掘った土はどうなるのであろう。前 に進むたびに新しい管を後ろに継ぎ足すのはどうするのだろう。
②A地点とB地点の間の国道は広電軌道を橋で渡るため急勾配となってい る。阿品側の汚水を一旦高いとこ ろに汲み上げるのはどうするのだろう。
③阿品台・ふじタウンの汚水を今回新設する下水管に放流するためには、 間にJR・国道・広電軌道が通って いるがどうするのであろう。

 先日、市の下水道担当課を訪問しこれらの疑問を聞いてみた。聞いてみれば成程と思われ素人考えの浅はかさを思い知れた。
①本管を埋設するのは縦抗より先端にドリルの付いた装置で堀進み、掘っ た残土は縦抗より外部に排出し、一定程度掘り進むと後部に排水管を継ぎ足し圧力を掛けて前に推し進めることを繰り返すらしい。埋設は直線のみでなくカーブしていても前に進めるらしいが、どのような構造になっているのか不思議でならない。
②下水管の埋設は国道の傾斜に沿ってされるのかと思ったが、管はA地点とB地点で水平になるように埋設されるので汚水は自然に流れるそうである。従ってA地点とB地点の中間あたりの埋設深度は地上よりかなり深い地点になるらしい。
③阿品台・ふじタウンの処理水は現在でも国道・広電軌道の下に埋設された排水管で海に放流されているので、C・D地点で排水管と新設される下水管を接続すれば良いそうであるが、聞いてみれば何のことは無い疑問であった。

 A~B間の埋設が終わればC地点、B~C地点が終わればC~D地点と埋設工事が行なわれるのだろうが一日も早い公共下水道の整備が待たれる。

 廿日市市の公共下水道整備率は廿日市地区で42㌫、大野地区38㌫、佐伯地区37㌫程度であるが、宮島・吉和地区はほぼ100㌫となっている。

 現在、阿品台3,500戸・ふじタウン550戸が小規模下水道で汚水処理されている。この他マリナタウンのマンション900戸の大型処理槽による処理、その他の個別処理の阿品・阿品台地区すべてに公共下水道が整備されれば、廿日市の公共下水道普及率は一気に上がり60㌫程度になるそうである。
 
by hirosan_kimura | 2013-08-31 12:04 | 衣食住 | Comments(0)

№566 えんこう

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 夏休みの残り僅か3日となってしまった。真面目に宿題をしなかった子どもたちは今頃必死で宿題を片付けているのかも分からない。

 かつての阿品では夏休みになると、海に野山に子どもたちの歓声が一日中続いていたが、今では夏休みでも町中はひっそりしている。子どもたちは一日中どこで何をして遊んでいるのか不思議に思う。

 今では海で泳ぐことは禁止されているのであろうが、昔は一日中海で遊んでいた。泳いだり釣りをしたり砂浜で貝を掘ったりして飽きもせず海で遊んでいたものである。

 海で遅くまで泳いでいたり、盆を過ぎて泳いだりしていると親に良く「えんこう」にさらわれるとか肝を取られるとか言って脅されていた。

 「えんこう」は「猿猴」のことで河童の異名で中国地方西部で呼称されている。伝説上の動物であるが、「えんこう」が泳いでいる子どものお尻から手を突っ込んで肝を抜くそうである。

e0125014_11283081.jpg 広島には今でも「猿猴川」「猿猴橋」と言う地名も残されている。

 高学年になると信じる者はは居ないが小さな子どもは本気でそのような動物が居るものと信じ、親から「えんこう」にさらわれる。「えんこう」に肝を抜かれると脅されると恐ろしかったものである。

 今の子どもは少々のことは本気にしないであろうが、昔は架空の話や幽霊の話などをして子どもが悪いことや危険なことをしないよう子どもに言い聞かせていたのだろう。

 子どもが暗くなるまで海に居るのも危ないし、盆を過ぎて海水の温度が下がって泳ぐことは風邪を引くことのないよう「えんこう」が出ると脅かしていたのだろう。

 今のこどもに「えんこう」と言っても何のことか分からないし信用もしないであろう。むかし阿品でも使われていた「えんこう」と言う言葉を聞くことも無くなった。

 その他に夜遅くまで遊んでいると「ことり」にさらわれる。ことりは肝を薬にするため子どもをさらって肝を取る人のことで小さな頃は「ことり」の言葉も恐ろしかった。「ことり」は「子捕り」か「子盗り」ではなかろうか。
by hirosan_kimura | 2013-08-29 12:00 | 伝説民話 | Comments(2)

№565 道路の補修

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 現在の道路では余程の路地裏か田舎などに行かないと舗装してない道路は見当たらない。しかし昭和20~30年代頃までは舗装してない道路が殆どで、阿品でも舗装してあったのは国道のみであった。新国道が完成したのは昭和7年3月であったが、当初は砂利道で舗装されたのは完成して4年後の昭和11年であった。舗装は車の通る中央部分のみで両端は砂利道のままであった。

 国道以外の道路は全て砂利道のままで、車が通ると道路が削られそこらじゅうの道は凸凹だらけで雨が降ると水溜りがたくさん出来ていた。現在では道路に破損箇所などがあれば市役所に連絡すればすぐ補修してもらえるが、当時は道自体が崩れて通行不能にでもならない限り行政が対応することも無かった。水溜りなどが出来ると近所の人が土を入れて埋めるぐらいであったが、あさりを食べた貝殻などを道路の穴に蒔いてあるのが良く見かけられた。

 昭和20年代の終わり頃までは年に二回くらい部落民総出で道路の補修が行なわれていた。この作業は「道つくり」と呼んでいたが、地域の住民が自発的に申し合わせて道路の補修に当っていたのだろうと思っていたが、大正の終わりごろ「地御前村村道修繕規則」が制定され、村内を8箇所に分割して村を挙げて行なわれていたものである。

その内容は
 本村道路維持保存し交通の便を図るため、本村住民は規則事項を守る義務がある。毎年、春と秋の彼岸中日の前日に各部落に配分された区域により道路の修繕を行なうものとする。ただし必要ある時はこれ以外に臨時に行なうこともある。

 作業を監督励行するため各部落に世話係五名を置く。世話係は村長が嘱託し任期は五ケ年とする。特別な事情が無い限り世話係を辞することは出来ない。

 修繕当日は各戸で元気な男子大人が従事することが原則であるが、男大人が居ない家庭は婦女。男女大人が居ない家庭は子どもが代わることも出来る。当日事故などで出動出来ない場合はその代償として、一戸につき一円を当日支払わなければならない。補償金は進んで自発的に拠出する気持ちを醸成すること。特別な事情がある場合は世話係が協議して減額することが出来る。

 村事業重要期間である小学校教員・神官・僧侶・駐在巡査・役場職員は道路補修作業出動は任意であるが、可能な限り出動することとし出動しない場合の補償金も随意とする。役場員はなるべく出動して各区作業の連絡等に従事すること。

 世話係は毎作業実施前に予定計画書を作り、決定次第予め村役場に提出しなければならない。村予算の物質援助の要否、地主との関係等の協議を行なって当日の作業進行に期すること。

 道路補修作業のみでなく、学校・役場・隔離病舎その他の公共の物件の補修作業には各区より出動して共同作業にあたること。

 このような規則がいつまで適用されていたのかは分からないが、村の予算や人でも足らず現在では役所が行なう事業にも村人挙げてなかば強制的に協力していたことが分かる。

 それにしても男子大人のいない家では女性、女性もいない家には子どもにまで出動させていたのは驚きである。これに対して教員・神官・僧侶等は出動も補償金も任意とは当時の世相が伺える。

 昭和12年3月19日に「鰆浜」「阿品」「田尻」を一区域として委嘱された方は「堀本繁太郎さん」「原田信太郎さん」「谷野秀雄さん」「中山岩一さん」「中田丈一さん」「山崎勇一さん」となっているがいずれも亡くなっておられる。規則では世話係一区域五名となっていたが、規則の改正でもあったのだろうか。
by hirosan_kimura | 2013-08-25 16:28 | 道路 | Comments(0)

№564 恐ろしい話

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 阿品にテレビが普及していない昭和30年代頃、夕食が済んだ頃毎晩のように阿品(今の阿品二丁目)から我家に話に来られるお婆さんがあった。良くも話が続くものだと思われるくらい母などと延々と遅くまでおしゃべりが続いていた。

 話す内容は取り留めの無いものばかりであったが、眠気を堪えて傍で聞いていた。中でも夏になると幽霊の話や原爆の話、その他恐ろしい話が多く途中で便所に行きたくなると恐ろしくて我慢して、誰かが行くのを待っていたりした。何処までが作り話か本当の話かは分からないが、記録にでも取って於けばと悔やまれる。

 今では原爆の話が出ることはあまり無いが当時は原爆が落ちて十数年、何人かが集まると必ずこの話が出ていた。原爆の翌日くらいから阿品の浜辺にもたくさんの死体が流れ着いた。地元で死体を処理しようにも阿品の火葬場は一度に何体も火葬出来ない。阿品のある地域の身元不明の死体を埋葬する場所に葬ったり、流れ着いた死体を引き潮の時に沖に流したりもしたそうである。

 また原爆が落ちて数日間は、体や着物が焼け爛れてぼろ屑を垂らした人が阿品の国道を下り方面に歩いて行く姿がたくさん見かけられ、「水を飲ましてください」「食べ物を分けてください」と沿道の家々に立ち寄られたが、水こそ充分あったが食べ物は我家で食いつなぐのがやっとのことで他人に分ける余裕は無かったが、重症の人たちの多くは間もなく亡くなる人が大半であったろうに、もう少し親切にしてあげれば良かったと悔やんだ話もあった。

 阿品に「神馬の窪」と言う地名があるが、厳島から地御前神社に船に乗せて神馬を運ぶ際、嵐で船が沈んで神馬が溺水死し馬の死体をこの地に埋葬したのが地名の由来であるが、夜にこの地の付近を通らかかるとヒーン・ヒーンと馬の悲鳴が聞こえて来る話しを聞いたことがあったが、子ども心に恐ろしくあった記憶がある。

 その他、狐や狸にどこどこの誰々さんが化かされたと言う話なども良く聞いていた。この話などは恐ろしいと言うよりは愛嬌があり笑い話のように聞いていた。

 阿品には広電と鉄道の軌道が通っている。広電に轢かれて人が死んだ話は聞かなかったが、鉄道では人が轢かれて亡くなることがあったのでこれに纏わる話が良く出ていた。

 夜鉄道のトンネルを偶然見ると、トンネルの輪郭で亡くなった人の顔が現れ、恨めしい目つきでじっと自分の方を睨むことがあったそうである。このような話を聞くと恐ろしくて体がゾクゾクしたものであった。

 鉄道で人が轢かれたりすると、死体の処理は地元でしなければならなかったそうである。死体処理は部落の各家で回り持ちに行なう必要があったが、我家では父は戦地に行っており残されているのは母と子どものみ。
 我家に轢死体処理の順番が回ってきた時は、恐ろしいので隣のおじさんに無理を言って一緒に手伝ってもらい、恐る恐る処理に当るのが情けなかったと母が話していた。

 本当の話かどうか分からないが、ある時ある人に夜間に鉄道に人が轢かれたので死体を収容して欲しいとの依頼があったそうである。薄暗いカンテラの明かりで線路沿いに死体を探したが見つからず、行ったり来たりしていると突然足を捉まえられ腰が抜けるくらいびっくり仰天したそうである。良く見ると列車に引かれて血だらけの人が、線路の脇に横たわっており死に切れず傍を通った人の足を無意識に捉まえたとのことであった。
 足を捉まえられた人は死体の処理どころかホウホウのていで家に逃げ帰り、当分寝込まれてしまったそうである。この話もどこまで本当の話か分からないが何回も聞かされた話である。

 クーラーも扇風機も無い時代、暑い夏でもうちわで扇ぐだけであったが、このような話を聞きながら夜を過ごしたものである。

 余談であるが毎晩のように我家に話に来られるお婆さんは、話中も煙管で絶え間なく煙草を吹かしておられた。学校に入学する前から煙草を吸っておられ、親が何かを言いつけても動かなかったが、煙草を吸わしてやると言うと喜んで用事をしていたそうである。これほど煙草を吸われても肺がんにもならず長生きをされ、随分前に老衰で亡くなられた。
by hirosan_kimura | 2013-08-19 12:00 | その他 | Comments(2)

№563 阿品の出産

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 阿品のある高齢者より、戦前の出産について話を聞かせてもらった。この例が特別なものでなくどの場合もほぼ似通っていたのだろう。

 妊婦になっても特別栄養を付ける言うことも無く、食事は家族と同じものを食べるのが当たり前であった。その食事も今と違って野菜中心の粗末なものであった。

 妊婦に余程のことが無い限り出産の前日まで、皆と同じように働くのが当たり前であった。

 出産の準備は今と違って大量の「おしめ」が必要なので、古い浴衣などを解いてたくさんのおしめを作っていた。赤ちゃんの着るものも古い着物などを解いて作っていた。

 当時は妊婦検診などは無く、ときたま産婆さんの所にいったり、産婆さんに家に来てもらって赤ちゃんの様子や妊婦さんの体調などを診てもらう程度であった。

 出産は自宅でするのが当たり前で、病院や妊婦の里で行なうことは無かった。

 産気づくと家の人が大急ぎで自転車などで産婆さんを呼びに行っていた。

 出産は家の奥まった部屋などで行なっていたが、産婆さんは出産を看取り姑さんが湯を沸かすなどおおわらわで準備した。

 出産後妊婦は赤ちゃんに付添っていたが、10日くらいで炊事・洗濯などに当っていたが、今と違って便利な家電もなく休む間がない位忙しく働いていた。洗濯機も無くおしめも手洗いで大変であった。姑さんがいない家庭など出産数日で家事を全部行なう必要があり、今では考えられないほどであった。

 出産後33日くらいは赤ちゃんと一緒に家に居ることができたが、それを過ぎると田畑に出て皆と一緒に農作業を行なわなければならなかった。

 乳の出が悪いときは今と違って粉ミルクなどもなく、「おもゆ」を飲ましていたがそれでも赤ちゃんは何とか育っていた。

 今と違って、妊婦や赤ちゃんの栄養状態や衛生状態も悪く、出産中に妊婦さんが亡くなったり、たくさん生んだ赤ちゃんも大きくなる前に亡くなることも珍しいことではなかった。 
by hirosan_kimura | 2013-08-08 13:45 | 冠婚葬祭 | Comments(0)