素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:子どもの生活( 22 )

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 これは鰆浜に生まれ育ち現在は阿品台に居住しておられる方が、老人クラブの冊子への投稿文をご本人の了解を得て掲載するものです。一部修正した部分もあります。

 「昭和初期に生まれ、戦中戦後昭和二十四年まで、幼少から小学校・中学校・現高等学校に通学、就職までを阿品の地で育った記憶を辿り、今年六十五歳(投稿当時)まで生かして戴いた感謝の気持ちで投稿します。

 阿品の地名は地御前村字阿品(鰆浜・田尻)でした。鰆浜は広電阿品(現 阿品東)電停地区、阿品はJR阿品北地区、田尻は現阿品四丁目地区でした。「お上がり場」より西ナタリー・阿品三丁目は砂浜の綺麗な海でした。広電阿品(現 阿品東」駅に一番近い処が私の生家です。

 私の幼少時代の阿品地区は山あり、谷あり、川あり、海はいつも綺麗で、四季を通じて子供達の遊びには最適の地域でした。
 
 春
 春は今の一丁目(鰆浜)付近は梅樹があり、四月三日は各戸弁当を作り、家族揃って山に登って花見の会をしたり、城を作って戦争ごっこをしたものです。五月の節句は「馬とばし」、地御前神社から役場(シルバー人材センター 註現在は寿司屋さん)までの間を、野武士姿で弓と矢を持って馬に乗り疾走するお祭。神社付近には出店が並び、賑やかな祭だったと記憶しております。今想うと、あんな狭い道路で左右から馬を囃したて、事故もなくよくやったものだと思います。
 
 夏
 七月は管弦祭。その頃の管弦祭は宮島から地御前神社まで、各地から集まったお供船が連なって、御座船の神踊管弦で盛大な祭でした。管弦祭の前日には着飾った牛十頭が地御前神社の浜辺を鋤を曳いて清掃していました。
 又、阿品海岸は海水浴場の適地として,お上がり場・広電阿品駅(現阿品東)はキレイな浜辺であり、飛び込み台等も作られ、子供達の水遊びの天国でした。汐の満ちた時は防波堤から飛び込んで水泳を楽しんだものです。又、私の家の前にはイリコ干し場の広場があり、昭和十年頃は広島市商の生徒や泳ぎの出来ない兵隊さん達の夏季強化訓練で一週間位テント生活で水泳訓練に励んでおりました。疲れをとるために大釜でアメ湯を炊き、それを御馳走になるのが楽しみでした。昭和十六年位まで数年間、毎夏続いたと思います。
 
 秋
 秋祭は、鬼の面をかぶり青竹を持って部落内を走り回り、ガキ大将達は鬼の後を追って走ったものです。その日は若い女性の厄日で、女性を見掛けると相手構わずお尻を竹の棒で突くのです。鬼になる若者も結構楽しそうでした。豊作を願ってのお祭です。
 又、この阿品はキノコの宝庫でした。松茸やオカンスケ(白いキノコ)・黒っこう・ヒメジ等が豊富に生え、山を一日中歩き回る事もあり、キノコ狩りの面白さ、秋の味覚一杯の山と谷と小川のある土地でした。赤トンボ・夕方になるとコーモリ等、網で捕まえられる程飛んでいました。
 
 冬
 正月は早起きをして宮島の弥山に登り、初日の出を拝むのが年初めの行事でした。今の鰆浜運動場(県病院跡地)は全部田んぼで、トンドの行事の場所でした。トンド焼の材料集めは、現阿品台の山林の手入れ掃除を兼ねて行いました。下刈り雑木を部落民全員が持ち寄り、太い青竹十数本とで大きな櫓を組み、注連縄(シメナワ)を張り、火を着けます。竹の割れる音、下刈雑木のパチパチと激しく燃え盛る火柱は盛大でした。皆さんが持ち寄ったお正月の飾りモチを焼いて食べたり、書き初めに一年の願いをこめ、トンド祭を楽しんんだものです。
 子供の遊びは、ハネ突き、タコ揚げ、コマ回し、パッチン、ビー玉等戸外の遊びが中心でした。広場に輪を書いての相撲の取組み、当時は郷土出身の安芸の海が連勝中の双葉山を破った時期で、ひいき力士名を付けての子供相撲も盛んでした。

 纏まりのない文章ですが、数十年前の阿品は私のふるさとである事は間違いない事実です。私の親父さん達が築いた阿品を愛し、我々の時代から孫子まで住み佳い故郷であるよう願うものであります。」
by hirosan_kimura | 2016-11-03 14:04 | 子どもの生活 | Comments(4)
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 学校は今日で一学期が終わり来週から夏休みに入る。夏休みは昔の子も今の子も楽しみであるが、今の子は家族で旅行に行ったりするが、昔は家族旅行などする家は僅かで、近所の子どもたちと朝から晩まで勉強もせず遊びまわるのが普通であった。
 
今でも夏休みの思い出として残っているのは、小学校五年生の時に子ども・先生・母親などで宮島の裏にキャンプにいったことである。

 キャンプと言えば今では立派なテントや炊事道具・シェラフなど何でもあるが、当時はそんな便利なものは無かった。炊事は家で普段使う鍋や釜を使い、煮炊きは転がっている石を並べ小枝などを拾い集め行なった。

 テントは家庭で使っている蚊帳で代用し雨でも降れば大変なことになるが、幸い天候に恵まれ蚊帳の中で夜遅くまで皆と大騒ぎをしながら寝た。

e0125014_918341.jpg 炊事は殆どの母親が付添いで来ていたので、子どもたちが遊びまわっている中母親たちが作ってくれた。食料も現在のような保存食も無く単調なものであったが、子どもたちはいつもと違う環境の中で美味しく頂いた。

 母親たちは炊事以外のときは木陰に茣蓙をを引き寝転んで、皆で他愛の無いおしゃべりに華が咲いていた。普段は家事や仕事などでゆっくり出来る時間も無いので、こんな何でもないくつろぎの時間を持っただけで、「命の洗濯が出来た」と喜んでいた。

e0125014_919571.jpg キャンプをした浜辺は砂浜と松林があるのみで勿論水道施設などは無い。炊事に必要な水は海水を使ったが、米を磨ぐのは浜辺の海水で子どもたちが行なったが、普段と違うので面白がって米を研いだ。

e0125014_9192915.jpg 地御前漁港からキャンプをした砂浜までは同級生の家庭が牡蠣養殖をしておられたので、牡蠣の作業船に乗せてもらい行った。今の時代なら小さな船に大勢が乗れば危険だと許可も出なかっただろうがのんびりした時代であった。

 潮の良いときに地引網をしたが、取れた魚は小さなものまで大はしゃぎで拾い集め、海水で骨や内臓を皆で取り除き焼いたり煮つけにして食べたのも忘れられない思い出である。

e0125014_9195130.jpg 宮島は神の島と言うことで農業も許されていなかったが、戦後の食糧難の時代に開拓の人が入植され、キャンプをした浜辺の山裾にも数件の農家があった。

 この地は土地の関係か米を耕作することが出来ず、持参した米を持っていくと喜んで野菜や西瓜などと交換してもらった。米と交換した西瓜で西瓜わりを皆としたのも楽しい思い出である。

 楽しいひと時はあっと言う間に過ぎ去り、子どもたちや母親には忘れられない楽しい思い出として残ったが、引率された先生方はキャンプが終わり地御前港に到着するまで、事故は無いかと緊張ばかりであっただろう。

 キャンプに引率された先生の多くは既に亡くなり、子どもたちの中でも何人かはこの世を去っておられる。

 キャンプをした入浜海岸は、白い砂浜と鬱蒼とした松の木が生い茂り、これぞ「白砂青松」と絵に描いたような美しい景色であったが、今では松枯れで浜辺の松の木は一本もなくなり悲惨な風景に変わってしまった。
by hirosan_kimura | 2014-07-18 10:57 | 子どもの生活 | Comments(2)
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 毎年暖かくなった頃、地御前の子どもたちは「貝殻通し」の小遣い稼ぎをよくしていた。「貝殻通し」と言っても牡蠣を養殖する地域以外の人には何のことかも分からないだろうが、牡蠣の種付用に針金に帆立貝の殻と竹の管を交互に通す作業である。

 鰆浜にも牡蠣を養殖する家が一軒あり、阿品の子どもたちはこの家の作業を手伝って小遣い稼ぎを行なっていた。

e0125014_949030.jpg この家の空き地に片方に小さな曲がりを付けた長さ2m位の針金、長さ1.5cmくらいの細い竹の管、真ん中に小さな穴が開けられた帆立貝の空殻が沢山用意されていた。

 最初は針金の先が丸められた方を下にして、貝殻・竹の管・貝殻・竹の管を交互に針金に通して行く。針金の真ん中近くまで貝殻と管を通すと、30cmくらい余裕を残して今度は貝殻の向きを反対にして貝殻・竹の管・貝殻・竹の管と通して行く。

 貝殻の枚数ははっきり記憶に無いが、片方で40枚前後ではなかっただろうか。

e0125014_9513839.jpg 最後は針金の先を5cmくらい残して一本の作業は終わるが、針金の先をペンチで挟んで一・二回廻して小さな輪を作る。これは貝殻を通した物を持ち上げても貝殻が抜け落ちないようにするものである。

 貝殻と竹の管を通す作業は低学年の子どもでも出来るが、針金の先にペンチで小さな輪を作るのは難しいので、この作業のみは高学年の子どもたちに頼んでしてもらっていた。

 高学年の子どもたちは自分の作業が忙しいのに、小さな子が頼みに来る都度自分の作業を一時中断しなければならないので、面倒くさいと思いながら手伝っていた。

e0125014_950225.jpg こうして一本の作業が終わるが、手間賃は遠い昔なのではっりは覚えていないが、最初頃は二本完成させて一円、後に一本で一円になったような記憶がある。

 この作業は単純であるが高学年の子どもたちは根気よく行なっても、小さな子どもたちは二・三本完成させて止めてしまうことも多かった。その日に完成させた本数は記録してもらっておき、ある程度まとめてお金を貰っていた。小さな子どもたちは十円・二十円しか無いこともあったが、お金稼ぎ半分、遊びがてら半分の状況なので僅かなお金でも結構喜んでいた。
 
 高学年の子どもでも100円単位でお金が貰えば、大金を稼いだような気持ちになったものであった。

 今考えれば子どもの手では一本完成さすにも結構時間が掛かり、随分安い手間賃のように考えられるが、当時としてはお祭りや特別な時以外に小遣いを貰うことも少なく、自分で稼いだお金で自由に駄菓子などを買うことが出来、貝殻通しの季節が来るのが楽しみであった。

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 こうして子どもたちが一生懸命作業したものは、浅瀬で潮の干満のある干潟に吊り下げられ、貝殻に稚牡蠣を付着させ更に長い針金に長い管を挟んだものに通し変えられ、沖の筏に吊り下げて牡蠣を生育させている。

 当時は貝殻の間の管は細い竹を切ったものであったが、今ではプラスチックのような物に変わり、浜辺に散乱し海を汚染している。

 かつて子どもたちが楽しみでしていた作業は、今ではどこで誰が行なっているのであろう。
by hirosan_kimura | 2013-03-17 11:02 | 子どもの生活 | Comments(2)
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 これは地御前小学校の同級生A・Hさんの作文である。今から60年近く前の子どもたちの様子が良く分かるので載せてみた。

 近所のガキ大将が仲間にいれてくれて良く遊んだ。竹で造ったソリで、誰が一番長く滑るか枯葉の斜面を滑って遊んだこと。蝉取りに夢中で蜂の巣を叩き、段々畑を夢中で飛びながら帰った。さんざん刺されてしまい小便を友達同士で付け合ったこと。山の中で猪とばっちり目があって溝を飛び越えて畑に逃げたら、追いかけてきてギャーッと思ったらサツマイモの堀り残しをあさりだして、夢中で逃げ出したこと。雷の火柱が前の山道にあがって死んだと思ったこと。焼け残った大木の思い出が今もある。頂上の砲台跡で鉄砲の玉と水晶探し。マツタケもよく取りにいったが小物ばかりで大物の記憶はない。

 蚕を飼っている家が沢山あって桑畑の桑の実取り。やまの上から全て見られているとも知らないで服は泥だらけ、ポケットを真っ赤にしていちご歩伏前進取り、家に帰って説明が省けたこと。栗の実ゆすり落としこれはひどい目にあった。登った木に取り残されたのは私だったから。カッポン取りでおやつを調達。うなぎ釣りの仕掛けで雨蛙を餌にしてたんぼの畔に居る蛇を釣り、へびの卵がいつのまにか学校の机の上に。池で鯉やフナを釣り、ついでに泳いでいて水温が違う所でおぼれそうになったこと。

 近くの山で近所中が集まっての花見は毎年楽しみだった。家の周りでは、釘刺しやコッケン、パッチン、石蹴り、マーブロ。自分で造った竹とんぼで怪我をし、鉛筆の蓋にマッチの火薬をつめてロケット遊び。紙飛行機を崖から飛ばしてあそび、屋根の上に着陸した飛行機を、家主立会いで取らされたこと。

 夏は、地御前海水浴場の涼み台で、たしかH君が溺れそうになったこと。飛び込み台で宙返り飛び込み・水平飛込みでは腹に傷が絶えなかった。モグリでは馬の背岩に張り付いて、手製水中銃でチヌを取ったり、板火薬拾い、貝堀、干潮の時藻に浮かんだ蛸やカニを追いかけて取り・夜泳いで夜光虫を見るのが好きで、夏休みは結局朝、昼、夜泳いで昼寝の記憶しかない。

 ラジオ体操は皆勤賞だったと思う。隣のシマと縄張りを巡ってチャンバラごっこ。強い奴から並んで行軍して川を挟んで宮内のガキ連と石投げ合戦。祭りで50円のこずかいを分からんうちに吸い上げられ、騒いでおっさんを悪い奴にしてしまったこと。西部劇遊びの最中に祭りで連発銃火薬をしこたま買って夢中でパンパンやっていたらポケットが爆発炎上してパンパン破裂しだして大慌て、股の付け根を大火傷したこと。馬飛ばしで人が跳ねられそうになったこと。

 下駄で学校に通って、運動靴をよく洗濯したこと。体操着や靴を中々買ってもらえなかった。教科書は大抵お隣のお姉ちゃんのお下がりだった。ドッジボールではO君が横投げ技で女の子を泣かせていたこと。運動会の徒競走では後ろばかり走って家族の落胆がはっきり分かったこと。IやOがかっこよく長鉢巻をたなびかせて走るのがうらやましいこと。でも、ゴザを敷いて家族で食べた昼飯は美味かった。

 カキ打場で殻付カキを貰って浜辺で焼いて食べたこと。ゴザに干したイリコの中のタコの子供を探して食べたこと。総代で卒業証書を受取りに行ったのを出席順と知らず一番出来ると喜んだ母親。先生が近くに住んでおられてよく遊びにいったが、なぜか勉強の記憶が無い。

 目一杯書いてみました。〇〇〇〇 〇〇〇の思い出です。

註 ゴザに干したイリコ 
 当時の地御前では小鰯をイリコ(煮干)に加工するのが盛んに行なわれており、湯がいた小鰯を乾燥さすため国道の脇や空き地など、いたるところにゴザが敷き詰められ天日干ししていた。 
by hirosan_kimura | 2013-01-27 11:35 | 子どもの生活 | Comments(0)
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六月六日 火曜日 晴れ 午前七時~午後七時

託児  二十六名
奉仕  生徒 九名  女子青年 三名  婦人会 二名

午前  十時半 間食 飴 バナナ 菓子
     遊戯 レコードを聞かせる

午後  四時 間食 煎餅 飴
     紙芝居 お話

寄付  メリケン粉 玉葱 馬鈴薯 ○○様

三宅校長来所

 期日が早いため準備不足 子守少なく、託児が案外多く忙しかった。実施前の計画打合せが必要。


六月七日 水曜日 晴れ 午前七時~午後七時

託児  三十六名
奉仕  女子青年 三名  婦人会 四名  その他 一名

午前  十時半 間食 玉葱と馬鈴薯の潰し団子
     レコード 夕焼け小焼け 結んで開いて を聞いてお遊戯

午後  三時五十分 間食 おせんべい
     子どもの遊び ままごと 積み木 絵本 まりつき

 一郷先生 吉本農業組合長 来所
 
 今日は学童のお手伝いがないので、大変忙しい。おしめの洗濯をした人は、最後まで責任を持つようにしてほしい。欄干が朽ちて落ちたる所もあり、余程注意が必要である。


六月八日 木曜日 雨 午前七時~午後七時

託児  五十名
奉仕  生徒 二十名  女子青年 二名  婦人会 二名

午前  十時半 間食 飴 2ケ  煎餅 二枚
     お遊戯

午後  四時 間食 飴 3ケ
     子どもの遊び 積み木 まりつき

午前八時二十分 塩谷医師訪問

寄付 金百円 ○○様  馬鈴薯 ○○様

 雨天の割りに託児多し。玩具が乏しいので長時間のお守はあきる。

八本村長来所


六月十日 土曜日 晴れ 午前七時~午後七時

託児  四十名
奉仕  小学 五名  中学 七名  女子青年 二名  婦人会 三名

午前  十時半 間食 蒸甘藷
     遊戯 レコード 前日の通り及び砂遊び

午後  四時 間食 菓子 ミルクを飲む子ども二人
     子どもの遊び 積み木 絵本

午前  婦人副会長来所
午後  婦人会長来所

寄付  甘藷  ○○○さん  玉葱 ○○○さん
     金50円・玉葱 ○○○さん


六月十二日 月曜日 晴れ 午前七時~午後七時

託児  五十名
奉仕  小学6名 中学4名 女子青年2名 婦人会2名

午前  十時 間食 蒸馬鈴薯
     遊戯 かくれんぼ 積み木

午後  四時 間食 菓子
     汽車ごっこ 縄引き 砂遊び

午後四時  三宅校長来所
午後四時半 婦人会長来所

寄付  馬鈴薯 ○○○様
      同   ○○○様
by hirosan_kimura | 2012-09-24 14:36 | 子どもの生活 | Comments(0)

№475 ラジオ体操

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 今年も子どもたちが楽しみにしていた夏休みがはじまった。昭和30年代頃は夏休みになると、阿品では海岸や広っぱなどでは一日中子どもたちが飛び回って遊び、家の外では子どもたちの歓声が途切れることはなかった。

 今では夏休みになっても、近所で子どもたちの遊びまわる姿を見掛けることは少ない。よそでは子どもの数が減って寂しくなった地域もあるらしいが、三丁目付近は結構こどもはたくさん居る筈であるが、日中子ども達は何をして過ごしているのであろうか。

 唯一子どもの姿をたくさん見掛けることが出来るのは、毎朝の犬の散歩の際近くの公園にラジオ体操のため集まっている子どもたちを見掛けることが出来るくらいである。

 阿品三丁目は一戸建ての住宅地とマンションがある。800世帯くらいあるマンションでは子どもの数が増えすぎて、ひとつの子ども会では運営が難しくなり、子ども会を二つに分けた時期もあったが、世話をする人が大変なのかその内の一つは子ども会が廃止されてしまった。

 毎朝行われているラジオ体操に参加するのは、一戸建て住宅部分とマンションンの中の子ども会が残っている地域の子どもたちである。残りの地域は子ども会が無いのでラジオ体操も行われていないようである。

 ラジオ体操は子どもの頃の30年代にも行われていた。阿品には鰆浜と阿品の二つの子ども会があり、それぞれが様々な子ども会活動を行っていた。

 鰆浜の子ども会でも夏休みになると毎朝ラジオ体操を行っていた。今のように公園が近くにある訳でなく、道路の端っこや空き地で行っていた。その場所は何故だか同じ場所でなく、自分の記憶に残っているもので四箇所くらい場所が変わっている。

e0125014_1145291.jpg 何年生の夏休みであったか分からないが、今は無い県立地御前病院の事務棟前の広場で行っていたこともある。病院側も敷地内でのラジオ体操を許可したものの、朝早くから子どもたちが騒ぐので入院患者さんに迷惑で一時期のみ行ったものか分からない。

e0125014_1145223.jpg 今も残されているお上がり場で行ったこともある。今では見る影も無いが、もう少し敷地も広く、松の大木も繁り涼しい木陰もあったが部落の中心から西の端っこで、別荘辺りから来る子どもにとっては遠い過ぎたような気がする。

 なぜこの地をラジオ体操の場に選んだのか、なぜこの場所を止めてたの場所に変更したのかも良く分からない。この地で何年行ったのかも良く分からない。

e0125014_1146549.jpg 吉田病院の前の国道の端っこで行っていたこともある。今の人から見ると国道の一角でラジオ体操など行うのは危険極まりないと思われるが、当時は車の数も今では考えられないほど少なく、国道の一角で子どもが走り回っても危険とも思わなかった。

 ラジオ体操を行っていたのは、旧国道と新国道が分岐する地点で僅かではあるが広場のようになっていた。この場所は自宅のすぐとても便利だった記憶がある。

e0125014_1146319.jpg 六年生の時は家の東側の国道と山裾の間の広場のような場所で行っていた。

 小学校の6年間の間だけでも、ラジオ体操を行った場所が4箇所も変わっていたが、どの地も特別問題のある場所でもなく、何故何回も場所が変わったのか、今考えても良く分からない。

 当時も今と同じく出席カードに紐を付けてもらい首からぶら下げ、出席した印を押してもらうのが楽しみであった。最後の日にはエンピツかノートを貰った記憶があるがそれも楽しみであった。

 ラジオ体操は当時も今も変わらないが、今のラジオ体操には保護者が一緒にたくさん参加して居られるのにビックリする。当時は家の人がラジオ体操に付いて来ることはまず無かったような気がする。

 当時は夏休み中ラジオ体操が行われていたが、今では短期間しか行われないようであるが何故だろう。
by hirosan_kimura | 2012-07-26 12:41 | 子どもの生活 | Comments(0)

№471 ある宿題

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 昭和31年7月21日の夕刻7時より、鰆浜部落東の丘にある瀬川さんの家で鰆浜部落の子ども会が行われていた。鰆浜子ども会の会員は皆で24名であったが、当日の参加者は22名。小学校からは菱田先生・その他何人かの保護者も出席しておられた。

 当日はラジオ体操のこと・泳ぐ時の注意・その他夏休みの決まりごとなど、夏休みの生活など話し合ってそろそろ会が終了する頃、突然沖野のおじさんが立ち上がって、「それではおしまいにおじさんが宿題を一つ出します。一個20円で買えるキャラメルの空箱を二つ持って来た人には、その人にキャラメルを一個あげます。40円あればキャラメルは全部で幾つになるでしょう。」

 子どもたちは勢い良く手を挙げて、「二つだ」「いや三つだ」と口々に答えるとおじさんは「全部で三つになります。それでは100円あれば幾つもらえるかが宿題です。 分かった人はおじさんの家に一週間以内にこっそり言って来てください。当たった人には何か景品を出すかも分かりません。」と言われてその日の子ども会は終了した。

 暗い夜道を帰る時も、家に帰ってからも、子どもたちはその話に夢中になり、「五つだ」「七つだ」などと一生懸命考えることに夢中になった。

 子ども会では土曜日に駅の下の浜、日曜日はお上がり場の海岸を皆で清掃することに決めていた。翌日は三時から皆が集まって駅の下の浜辺を掃除した。その時も宿題を出されたおじさんも参加され、皆と一緒にカキの殻や、ビンのかけらなどを皆と一緒に拾い集められた。

 その日の夕方、おじさんは家に帰られて気分が悪いと言われ近くの病院に行かれたが、病状が急変されそのまま亡くなられてしまった。

 狭い部落なのでおじさんの亡くなられたことは子どもたちににもすぐ知れ渡ったが、前日には子ども会で宿題を出され、数時間前には一緒に海岸清掃をされたおじさんが突然亡くなられたことは、子どもたちには大きな衝撃であった。

 そのおじさんには小学校低学年の女の子と、小さな男の子がおられた。その男の子には父親が亡くなられたという意味が理解できず、葬式の際には家にたくさんの人が参列されたのが不思議だったのか、はしゃぎ廻っているのを見て参列者はもらい泣きするばかりであった。

 このおじさんこそ、№470で紹介した毎日仕事前に山羊を野原に連れて行き、夕方家に連れて帰っておられたやさしいおじさんである。

 この出来事は鰆浜の子どもたちにとって忘れることが出来ないのか、小学校の文集に何人かの作品が残されている。
by hirosan_kimura | 2012-06-27 08:00 | 子どもの生活 | Comments(0)

№465 遠足の弁当

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 今の小学生も遠足は学校の年中行事のひとつとして楽しみにしているが、戦時中も遠足は行われており今の子どもたち以上に楽しみにしていた。

 遠足といっても徒歩で行ける場所で、速谷神社・海老山・大野の滝などで自分たちが小学校時代に行っていた所と余り変わっていなかった。

 遠足の楽しみといえば弁当を食べることであるが、食料の乏しい時代であったので「おにぎり」に「梅干」か「たくあん」くらいしか持って行ってはいけなかったそうである。それでも麦ご飯や代用食などの貧しい食事ばかり食べていたので、白いお米のむすびと梅干のみの弁当でも嬉しかったそうである。

 遠足の前にたまたま玖波の人が、阿品に小エビを売りにこられたそうである。阿品の人たちは買った小エビを味付けして煮たものを弁当のむすびの中に入れたそうである。むすびに包んであるので中に小エビの煮付けが入っているのが分からないだろうと思ったのかもしれない。

 学校に集合した際、子どもの誰かが喋ったのかも分からないが、阿品の子どもたちの弁当のむすびの中に小エビの煮付けを入れているのが先生に知れてしまった。

 先生は弁当の中におむすびと梅干以外の物を入れているので、阿品の子どもたちにすぐに家に帰って弁当を作り直してもらって来るように言われたそうである。

 阿品の子どもたちは家に帰ったが、弁当を作り直してもらって再び学校に行かなかったそうである。その日は遠足の行き先が大野の妹背の滝であったのかも知れないが、阿品の子どもたちは国道を見下ろす山の上に登り、山の上から遠足に歩いて行く行列を見下ろしたそうである。

 これは阿品のある人から、子どもの時代の思い出のひとつとして聞いたことであるが、遠足をずる休みして後から先生にひどく叱られた記憶もないそうである。

 小エビの煮付けをくるんだむすびは、皆で楽しく山の上で食べたのであろう。今の子どもたちが、遠足の弁当はおむすびと梅干しか入れてはならない話を聞くとどんな思いをするのであろうか。
by hirosan_kimura | 2012-06-02 09:57 | 子どもの生活 | Comments(0)
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 今から50数年くらい前に、鰆浜には県立地御前病院と吉田病院の二つの病院があった。長期入院患者の人は県病院で190名くらい吉田病院は20名くらいであったのではなかろうか。

 県立病院は公立なので規則も厳しく、入院患者の人と地域の人との交流も少なかったが、吉田病院は私立のせいかも分からないが、入院患者の人は比較的自由に病院外に出入りなどをして時間を過ごしておられた。

 吉田病院は家のすぐ隣であったので、子どもたちも入院患者さんと様々な交流をしていた。長期入院していた人の病室は殆どが個室で、中には6畳から8畳くらいの畳敷きの部屋もあった。

 入院患者の人は結核の人が多かったように思うが、親からは結核が移るので余り患者さんと接しないように言われることもあった。入院患者の人は病状が固定していたのか寝たきり状態の人も見かけず、見た目には体に異常は見受けられない様子で、長期入院で暇を持て余して居られる状態であった。

 病院の先生公認なのかこっそりなのかは分からないが、すぐ前の海岸でアサリを掘ったり釣りをする人もあった。時には患者さんと一緒に小船で沖に出て魚釣りをすることもあった。釣った魚を病室で電熱器で焼いてこっそり食べたこともあった。患者さんは病院の食事に飽きてたまには変わったものを口にしたかったのかも分からない。

 このようなことをしているのをお医者さんや看護婦さんに見つかって怒られることもあったが、ひどく怒られる訳でもなく性懲りもなく何回か同じことを繰り返していた。

 親に見つかっても一応は怒られるが、怒鳴りつけられるようなこともなかったように思う。時には患者さんがお見舞いで美味しいお菓子を貰ったので食べにくるように誘われることもあった。当時は今のように美味しいおやつがある訳でもなく、喜んで食べに行っていた。

 病室に行くと数人の患者さんが花札などしておられることも良くあった。傍で見ていて何となくルールを覚えたり、分からないことは教えてもらったりしてその内、子ども同士で花札をして遊ぶこともよくあった。

 「猪鹿蝶」「あかたん」「ななたん」などの言葉を覚えた記憶が残っている。

 病室に入り込んでお見舞いのお菓子を一緒に食べたり、花札で遊んだり、患者さんと小船で釣りに行ったりなど、今の時代では考えられないがのんびりした時代であったのだろう。
by hirosan_kimura | 2012-05-03 15:54 | 子どもの生活 | Comments(0)

№421 先生の激怒

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 小学校の5年生くらいのことである。

 現在阿品台一丁目にある「光の園」が広島市より移転してくることとなり、山を削って敷地を造成するため岩国基地の兵士がたくさん来ていた。

 昼休みになるとこの兵士たちが、小学校の近くにある地御前神社付近によくやって来た。学校が昼休み時間になると、子どもたちは兵士が珍しいので学校を抜け出して遠巻きに見に行っていた。

 最初のうちは恐ろしさもあり近づくこともなかったが、その内兵士の方から子どもたちに笑いかけたり、手招きしたりする内にだんだん慣れてくると、言葉は通じないながらも兵士と子どもたちの間で交流とまでも行かないまでも打ち解けるようになった。

 大人からは、兵士は恐ろしいので近づいてはならないと言われていたが、みんなやさしい人ばかりと思えるようになった。

 しばらくすると兵士がチューイングガムやチョコレートなどを呉れたりするようになると、子どもたちはそれを目当てに兵士に付きまとうようになった。

 そのうち子どもの方から催促するようになり、兵士は面白がって走るジープの上からガムや10円玉を投げるのを、子どもが追いかけまわすようになった。

 これを知った先生が「日本は戦争に負けたが、乞食のようにお菓子やお金をねだったりするようなことをしてはならない。涙が出るほど情けないことだ」と、男の先生であったが本当に涙を出しながら、子どもたちに諭された。

 時には怒られることもあったが、この時ほど先生が嘆かれ涙を流されるようなことは初めてであったので、子どもたちも先生の心情を肝に銘じたものである。

 これ以降、子どもたちが菓子やお金をねだって兵士たちを追い回すこともなくなった。

 きびしい先生であったが、子どもたちに慕われたこの先生も亡くなられて十数年が過ぎた。
by hirosan_kimura | 2012-01-13 15:08 | 子どもの生活 | Comments(2)