素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:娯楽( 15 )

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 鼓ケ浜町内会宮島口寄りの端っこに競艇選手の宿泊施設が建てられている。 この施設は敷地面積860㎡にRC8階、建築面積418㎡延べ面積1992㎡で宿泊室25室とある。
 この施設の建築計画が広島県モーターボート競争会より地元町内会に申入れられた。これに対して町内会は平成8年5月20日付けで廿日市市長宛に陳情書を提出している。

 申入れが寝耳に水で町民一同驚き、豊かな環境が破壊されるのではないか、当該地は第一種住居地域で大部分が低層住居専用地域で景観・日射・風害等の影響は出ないか。使用目的から推察して町内の風紀が乱されないか不安である等の理由が挙げられている。

 現在でこそ競艇場に行く人は激減しているが、最盛期には沢山の人が訪れ近隣地域で風紀上問題を起すような例を目にすることも珍しくなかった。このため競艇場に対して何となく悪印象を持つのは当たり前という風潮があった。

 この後、市に依る地元説明会、町内会と業者との話し合い等が何回か行われている。その間の詳しいやりとりなどは分からないが、最終的には選手宿舎は建てられている。

 e0125014_13495310.jpg 新しい選手宿舎が整備される前は、競艇場正門向かいJR線路の上側に昭和43年12月に完成した「水交会館が」があった。新しい施設の完成により平成9年の夏に閉鎖されている。
by hirosan_kimura | 2016-03-28 10:54 | 娯楽 | Comments(0)
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 今はない「遊園地ナタリー」では冬場のみ屋外スケート場が営業していた。リンクは30㍍×60mで1,800㎡の規模であった。
 スケート場が開設する前に、地元町内会と会社(廿日市観光開発㈱)との間で様々なやり取りが行われている。


昭和六十一年十月三十一日
廿日市観光開発株式会社(ナタリー)より鼓ケ浜町内会長宛

屋外アイススケート開催について
 次の要領にて営業開始致したく計画実施中ですが、地元町内会のご理解とご協力をお願い致したく懇請致します。
一、営業形態
 廿日市観光開発㈱所有駐車場の一部を<大阪市藤井寺市 ㈱カヤノに毎年十月一日より翌年三月七日迄賃貸し、㈱カヤノが屋外スケート場を営業する。但し廿日市観光開発㈱は当営業の責任を回避しない。
一、営業時間(休日なし)
(イ)平  日 午前十時~午後九時迄
(ロ)土曜日 午前十時~翌午前四時迄
二、入場料
 大人 1,300円
 中高 1,000円
 小人   700円
三、場内形態
 (イ)売店(飲食)  (ロ)貸靴  (ハ)貸ロッカー  (ニ)休憩室  
(ホ)事務所(券売を兼ねる)


昭和61年11月23日 
地元町内会長よりナタリーへ
 
この度アイススケート場開催についての説明書を受取りましたので、町内会で一次的に検討しました。本町内会としては次の事項についてお願い致します。
一、深夜営業は絶対反対です。
二、特に音楽による騒音を回避すること。
三、町内の道路への不法駐車を回避すること。
四、スケート場横の道路を通行する町民と、利用者の間でトラブルが起きないようにすること。
五、その他問題が起きた場合には、速やかに誠意をもって解決に当たること。
 今回貴社の申入れが急であったため、取敢えず役員会で検討したもので、町内会総意に基づくものではありません。今後町内会内部で意見調整を行う予定であることを申し添える。


同十一月二十四日 
ナタリーより町内会長宛

 十一月二十三日付、貴町内会よりの申入れについて当社及び運営会社㈱カヤノ社長と協議の結果、当面次の通り回答する。
一、深夜営業について
(イ)オープン日である来る十一月二十九日(土)は広告宣伝等の都合もあり、午後十一時まで営業を行いたい。当日は町内各位の理解を得るため、ご来場頂きご意見を賜りたい。
(ロ)以降については、貴町内と協議しながら理解を得られる時期に午後十一時まで営業させていただきたい。
二、騒音について
(イ)平日は午後9時までであるが、この間と言えども騒音にならないよう配慮する。
(ロ)午後十一時までの営業をする場合は、午後九時以降は一切音楽等は流さない。
三、不法駐車について
 当社の駐車場の利用方法等により、貴町内に迷惑をかけないよう努力する。
四、町道とスケート場との関係
 町道との境にフェンスを設置し、トラブル防止に努める。
五、その他について
 貴町内と密接に連絡しながら,且話合いの中で問題点の解決に臨みたい。
by hirosan_kimura | 2015-06-05 12:24 | 娯楽 | Comments(0)

№707 地宮館2

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 「706 地宮館」を見た方より珍しい写真を提供していただいた。このような写真が残っていたとは思いもよらないことである。右下に「松本若次」撮影とあるが、地宮館を絵葉書にしたもので左上に「地御前海水浴場ト魚掛舟」とある。

 左の瓦ぶきの屋根が地宮館の建物で、後に国鉄の保養所となり昭和40年代頃までは残されていた。国鉄の職員のみでなく地域にも開放され、宴会や研修などで利用されていた。この建物の前に海にせり出したように「桟敷席」があった。これらの施設には覚えがあるが、中央より右側の施設には記憶がないので早くから取り壊されていたのかも分からない。

 ちなみにこの写真を提供して頂いた方の祖父が撮影者「松本若次」さんで、若次さんの奥さんは私の父の姉に当たる方である。
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 この写真も「松本若次」さんが撮影され絵葉書にされたものである。管弦祭前にお宮前の砂浜を「お洲堀」をしている風景であるが、驚くほど沢山の人々が行事に参加しておられる。海岸沿いの「桟敷席」の様子も良く分かる。右下には浮き輪を持った海水着姿の子どもも見られる。
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 この写真は地御前出身で東京に在住して居られる方が、昭和44年1月に帰省された時に撮影されたものである。

 地宮館の建物で後に「鉄道会館」と呼ばれていた施設の様子が良く分かる。この建物は今では取り壊されて跡地にはどこかの会社の研修施設のような建物が建てられている。

 写真手前は暗くてよく分からないが、夏の海水浴シーズンのみ宮島線電車が停車していた「地御前海岸」臨時停車場である。小学校に登下校時にはいつも目にしていた懐かしい風景である。
by hirosan_kimura | 2015-04-20 07:23 | 娯楽 | Comments(0)

№706 地宮館

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 地御前の人と話しているとたまに「地宮館」と言う言葉が出て懐かしい思いをすることがある。「地宮館」は地御前神社前にあった海水浴場の施設で今は無い。昭和40年代頃までは堤防の上に桟敷の名残と思われるものや、国鉄の保養所に転用された施設が残されそこで何回か宴会をした記憶もある。

大正十四年七月十五日 中国新聞
「電車の開通と共に 十九日海水浴場開場
  地宮館は薄利主義 地御前村の一大発展」
 
 長汀曲浦に富んだ佐伯郡地御前村の海岸線は、到る所風光絶佳であるが就中(なかんずく)、地御前神社の鎮座します辺はその粋を集めている。奇岩怪石に富んだ沖山を隔てて、日本一の名勝厳島を呼べば答えんとする目睫の間(極めて接近している)に優雅な島影を海面に投げて、那沙美水道を剘して大小の那沙美島はその名の如き優麗なる姿をのぞかせて居る。

 尚忘れたように置かれて居る弁天島の背後には、能美及安芸の連山が緩やかな起伏を搖曳(ようえい)し、左方には宇品から江波及五日市までのんびりした海岸線を、一眸(いちぼう)の間に眺める事が出来る。この間の海の静かな海面を中国船路の汽船が走り、真帆片帆が浮ぶの情景は実に一幅の名画である。

 この風光絶佳とを劃して本年から海水浴場が新設せられ、来る十九日開場式を挙行し二十五日から愈々解放すると言うが、交通不便を以て久しく世に捨てられて居た同所も、今回の電車開通に依りては蓋し廣島附近随一の浴場として、賑盛を呈するに至るであろう。

 既に地御前神社境内の老杉鬱蒼と繁茂した海面に遠く一町余の遠浅を控え、然も天恵の防波堤沖山に擁せられ、渚には岩石貝殻の如き危険物がなく、小児婦女の海水浴も適当であると眼星をつけた広島市中島、竹屋、広瀬、袋町の各小学校及び市商、二中、被服支廠、専売局等の指定海水浴場として交渉を遂げている。
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 尚同所には村内の名望家で製材業を営んでいる渡辺清太郎氏が、本管・別館・海面にかけ出し等で、総坪数百二十坪に工費二万五千円を投じて、地宮館と称する広壮な建物を新築し、浴客の便を計らんとして居る。

 背後の山で夕陽を避けて南面した同館は、常に涼風に見舞われて居る。新築の木の香も高く畳を初め料理用の什器一切も新しく気持ちが良いが何よりも喜ばしいのは、同館が沖の漁業者と契約して溌剌たる鮮魚を発動船で運び来り食膳に供すると言う事である。又同館には四十畳敷の大広間があり団体或いは宴会用にも充て、一般客室は旅宿用になって居るのもある。

 背後には約四千五百坪の芝生の空地があり、近くブランコ・テニスコート等も新設する計画がなって居り、貸ボートの設備もあって海水浴場としての設備には萬々遺漏がない同館は、一時的夏季のみの営業でないから社会奉仕的薄利を以て営業する方針にして居ると言う。

 因みに同浴場では新設電車地御前停留所より一丁足らずで達せられる。
by hirosan_kimura | 2015-04-17 14:25 | 娯楽 | Comments(4)
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by hirosan_kimura | 2014-08-16 08:39 | 娯楽 | Comments(0)
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 遊園地「広島ナタリー」は業績不振のため平成8年3月に閉鎖された。これは昭和63年1月1日の記事であるが、この頃は健全な営業が続いていたのか平成元年8月開業のJR阿品駅に大きく期待していた。

 昭和49年4月の開業以来、順調に業績を上げてきた。昨年(昭和62年)の入場者数は六十万人で、一昨年の四十三万人に対し45㌫のアップ。好評の要因は一昨年新設した「巨大迷路」と「屋外スケートリンク」。巨大迷路は広さ二千六百平方㍍、十種類のコースがあり毎週変えることが出来る。四つのチェックポイントを経てゴールするまでのタイムを競うもので、全国各地の迷路ブームを受けて入場者の45㌫がゲームに参加した。

 屋外スケートリンクは例年入場者の減る十一月から二月末のシーズンオフを補って昨シーズンは八万人、今年も出足がよくそれを上回る見込みという。また健康産業を取り入れて始めたプールやエアロビクス、ジャズダンスなども好評を博した。

 ナタリーでは今年の新企画として、メリーゴーランドを一億九千万円かけて四月から建設するのを始め、三月中旬には「春の祭事」として人気アニメ「ドラゴンボール」のイベントが始まる。キャラクター商品の発注、八十体の人形制作と早くも準備は半ばを迎えている。

 「人に夢を売る」ことをモットーとするナタリーでは、入場者に別世界に足を踏み入れるような感覚を味わってもらおうと、園内の美化にもいっそう力を入れている。

 しかしナタリーが発展するにはいくつかの問題もある。一つは敷地が狭いこと、海と道路に挟まれて拡大する余地がほとんどない点である。同社では立体構成による敷地の有効利用でそれを乗り切ろうとしている。

 あと一つは道路の渋滞。二号線は広電田尻駅あたりから宮島口を過ぎるまで慢性的渋滞が続いている。山陽道が岩国まで開通すればいくらかは好転するかもしれない。また「JR新阿品駅」が実現すれば、足の確保にいくらか役立つかもしれない。

 順風満帆と思えたナタリーも、他の大型レジャー施設の開園等による入園者の激減や、老朽化した大型プールの改修などに耐え切れず平成8年3月31日に閉園してしまった。
by hirosan_kimura | 2014-02-02 07:13 | 娯楽 | Comments(0)

№604 テレビ

e0125014_12574114.jpg 今ではテレビの無い家庭はないほどで一部屋に一台、一人に一台のテレビのある家庭も珍しく無い。

 広島でテレビ放送が開始されたのは58年前の、昭和31年3月であった。当時のテレビの価格は1インチ6万円と言われ、所得も少なく今で言う自家用車を買う以上の価格であったらしい。

 このような状態であるので阿品にテレビのある家は無かった。小学校の裏門近くにテレビを購入した家があったが、放課後に子ども達はその家のテレビを見せてもらっていたが一人10円くらいのお金を徴収していた。地御前の子ども達は学校でテレビの話をよくしていたが、貰う小遣いも僅かで学校から家に帰りまた地御前に行くのは遠いので、お金を払ってテレビを見た記憶は無い。

 そのうちテレビの普及とともに価格は下がったらしいが、それでも一般家庭ではテレビに手が届かなかった。昭和34年に皇太子殿下のご成婚を期にテレビが普及したらしいが、それでも阿品にはテレビのある家は数えるほどしかなかった。この日は部落中の女性が集まったのでは無いかと思われるほど、テレビのある家に集まりパレードを見ていた。

 当時のテレビはNHK1チャンネルのみで、放映時間は昼間1時間、夜4時間程度のみであったがその内、放映時間も長くなり中国放送やNHK教育テレビなどチャンネルも増えていった。

 夜の夕食が済んだ頃毎晩のようにテレビのある家に見せてもらいに行っていた。遅くまで見ていたが夜の放映が終わると日の丸のたなびく画像と、君が代の演奏が流されていたのが印象に残っている。

 当時の番組では「ジェスチャー」「連想ゲーム」などの記憶がある。

 我家にテレビが入ったのは遅いほうで昭和36~7年ではなかったかと思うが、それでもテレビの無い家の人が毎晩見に来ておられた。

 カラー放送は昭和39年頃開始されたが、カラーテレビは高価でとても買えるものでなかった。ある時セールスマンが廻って来て、簡単な装置で白黒テレビがカラー放送が見られると勧められ母が購入したことがある。それはテレビ画面と同じ大きさのプラスチックの板のようなもので板全面に細い筋状の線が横に刻んであった。

 テレビ画面にそれを当てて見たが、光の屈折の関係なのか見る方向によっては薄い虹のように見えるだけで、とてもカラー画像と言えるものではなかった。近所でも何軒かは購入した家もあったが騙されたと騒いでいたのが記憶に残っている。

 当時のテレビは価格も高価でブラウン管方式のため奥行きも長く重いものであったが、今では壁に架けられるほど薄く軽くなっている。価格も驚くほど安価になり隔世の思いがある。
by hirosan_kimura | 2014-01-27 13:52 | 娯楽 | Comments(0)

№477 宮島水中花火

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 明日は宮島水中花火が行われる。例年、阿品三丁目の海岸は花火の見物客で大混乱する。宮島を前面に望み遮蔽する物も無いので花火見物にもってこいの場所である。

  少し距離はあるので宮島に渡り現地で見物する程の迫力は無いが、宮島側は人で大混雑し終了後に連絡船に乗船するのも一苦労なため、最初から対岸での見物と決めている人が多い。

  毎年良い場所を確保するため、堤防の上には早くからブルーシートなどを敷いてあるが、驚いたことに花火開催日の四日前に敷いてあるものがあった。

  シートは風に飛ばされないよう粘着テープで貼り付けたり、ペットボトルに水を入れて重石にしたものもある。ご丁寧にもテープで確保者の名前入りの物もある。

  三丁目の堤防は川を挟んで構造が異なり、鼓ケ浜側は堤防敷の海側に上に高さ1m20cmくらいの堤防があるので、立って見たり小さな子どもには見づらい。マンション側はそれが無いので堤防敷に座ったり寝転んで花火を見ることが出来る。そのためマンション側には早くから場所取りがされている。

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 鼓ケ浜側の堤防には今のところ場所取りのシートが敷いてないが、今晩から明日の朝にかけては長い堤防敷に隙間が無いくらいシートが敷かれるであろう。

  明日はこの堤防の上は見物客で埋まり、道路には屋台もたくさん出店し、見物客のの車が列をなして駐車し大混雑となるのであろう。そしてあさっての早朝には散乱したゴミを片付けるため町内の人たちが清掃に汗を流すのである。

  我家でもこの堤防で花火見物をしたこともあるが、愛犬が雷と花火の音が大嫌いで明日からは吉和の山小屋に避難することにしている。

e0125014_1005042.jpg 場所取りの様子を見に行って下を見下ろすと大きなバッグが漂流していた。

中に札束でも入っていないかと海岸に降りて空けて見ようかと思ったが、気持ちが悪いので空けて見るのを止めた。
by hirosan_kimura | 2012-08-10 10:53 | 娯楽 | Comments(0)

№430 昔の旅

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 現在国内であれば自由に行き来できるが、江戸時代には一般庶民の旅行は厳しく制限され、物見遊山の旅などは禁止されていたらしい。

 しかし、近世中期以降になると、伊勢参拝・四国遍路・京参りなどが出来るようになった。それでも要所には関所が設けられ、「往来手形」の携行が義務付けられていた。

 庶民が旅をする時は,庄屋か旦那寺を通して「通行手形」が発行されるが、本人の名前・居住村・行き先・目的・宗派などが記載されていた。

 寛政十一年、今から213年前 地御前の若衆が金比羅宮を参拝した際の「通行手形」である。

往来手形之事
   一 芸州佐伯郡地御前浦  久兵衛
 右之者宗旨者代々浄土宗当寺檀那ニ無紛
 御座候此度四国中為巡拝罷出申候問国々
 所々御関所無相違御通可被下候尤此者自
 然致病死等候節者御国法遣以宜御取計被
 仰付可被下候尤国元御付届不及申候為後
 日一札仍如件
     寛政十一年未七月 日
             芸州廿日市  潮音寺

 久兵衛の通行に当たってはよろしく便宜を図って下さい。途中で病死などした場合は、そちらの風習に従って始末して頂きたいとでも書いてあるのだろうか。

 廿日市の潮音寺は現在でも在るが、地御前の久兵衛は同寺の門徒であったのであろう。今では地御前の人が潮音寺の門徒であることは余り耳にしない。

 なお当時の旅支度に必要な物は、衣類・脇差・三尺手拭い・頭巾・ももひき・脚絆・旅・こうかけ(手足の甲に掛ける)・下帯・扇・やたて・湯手拭い・鼻紙・道中記・心覚手帳・銀袋・大財布・巾着・刺刀・耳かき・きり・小硯箱・小算盤・秤・大小風呂敷・くすり・薬袋・針糸・髪結い道具・煙草道具・提灯・ろうそく・つけ木・合羽・すげ笠・手ごり・弁当・網三すじ、などとなっている。

 現在でも泊りがけの旅行となると準備が大変であるが、当時の旅支度はさぞ大変だったであろう。
by hirosan_kimura | 2012-03-17 11:39 | 娯楽 | Comments(2)
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 「キャンディーズ」と言っても今の若い人には分からない者も多かろうが、昭和40年代に圧倒的人気のあったグループである。

 「年下の男の子」「春一番」「ハートのエースが出て来ない」等は爆発的に売れ、紅白歌合戦にも三回出場している。デビューした頃、番組のプロデューサーが食べてしまいたいと言うほど可愛かったので、「キャンディーズ」というグループ名にしたそうである。

 昭和49年には遊園地「広島ナタリー」のイメージガールとして初CMをしている。このグループは人気が高く引っ張りだこでその後、旭化成・ハウスククレカレー・森永チョコフレークなどのCMを行っている。

 キャンペーンのためナタリーに何回も来場したが、その度にあふれるばかりの若者達が押寄せ熱狂的な声援を送った。

 人気絶頂の昭和52年に突然解散したが、その時の「普通の女の子に戻りたい」は当時の流行語にもなった。

 かつて全国の若者達に熱狂的人気のあったアイドルが、阿品の地に何回も訪れたことがあったと言うことを、知る人も少なくなってしまった。

 今では阿品のシンボルであった「広島ナタリー」も無くなり、「キャンディーズ」も解散して無くなってしまった。


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by hirosan_kimura | 2009-08-13 04:01 | 娯楽 | Comments(0)