素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:行事祭礼( 26 )

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 早いもので今年も残り一週間となった。何となく気ぜわしい日々を迎えたが、阿品の氏神様「岩鏡神社」に門松が飾られお正月の準備が進められている。

門松は単なる正月の飾り物と思われているが、来臨する歳神(としがみ)様の依代(よりしろ 神様が意思を伝えるため人間界に現れるとき寄り付かれるもの)である。門松は三つの正月飾り(門松・しめ飾り・鏡餅)の中で最も重要なものである。

 門松を飾って取り外すまでを「松の内」と言い12月13日から1月7日であるが、今ではクリスマス等もあり世間一般では12月28日から飾るのが多いといわれている。

 しかし12月29日31日からは飾り始めてはならない。29日は「二重苦」のゴロになり、31日は神様を迎える正月までに一日しかなく「一夜飾り」「一日飾り」と呼ばれて絶対避けなければならない。

e0125014_1525275.jpg 神社に飾られた門松は離れて見ると大きく見えないが、人の背丈を超える立派なものである。この門松は阿品のある方が早くから材料の準備を始められたが、お正月に参拝される時に一番見ごろになるよう随分苦労されたようである。








e0125014_15253181.jpg 門松を作っておられる途中に見せてもらったが、中心の青竹は阿品では見られない太くて立派な物なので何処で入手されたのか聞いてみると、山口県の岩国の竹林に有った物だそうである。切り口を見栄え良く切断するのも技術を要するらしい。切り口は人の笑った顔に見えるようにするのが本流らしいが、そう言われれば笑った顔にもみえる。

 お正月に参拝される際はこの門松を造られた方のご苦労を忍んで欲しいものである。
by hirosan_kimura | 2016-12-25 16:27 | 行事祭礼 | Comments(2)

№748 馬飛ばし

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 昨日は旧暦の五月五日のこどもの日であった。例年この日には地御前神社で流鏑馬の行事が行われる。子どもの頃には秋祭り・お正月・管絃祭と並んで年に何回もない楽しみにしている日であった。

 思い出されるこの祭りの日は、小学校は授業は午前で打ち切り、各家では御馳走を作り、神社前にはたくさんの屋台が立ち並び、沿道は人波でごった返し動きもとれないくらいであった。やがて流鏑馬の行事が行われ馬が走り抜け祭りは最高潮を迎えた。

 これらの賑わいは今では夢物語で、6・7軒の屋台・わずかな観客・例年初節句の男の子がお祓いを受けに来ていたが、今年は一人の姿も窺えないような寂しさである。

 何に掲載されたものか不明であるが、古い記事を紹介する。なお写真は昨日撮影したものである。

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 地御前神社では、毎年 御陵衣祭の時、流鏑馬神事が奉納される。御陵衣祭は、旧暦五月五日に端午の節句を祝う祭りで、厳島神社から宮司を迎えて行われる。
 
 この神社は厳島神社の外宮と称され、昔は厳島神社から白い神様と御神体が船に乗ってきて、その神馬を先頭に、白装束の若者が三つの神輿を担いで、参道を歩いたといわれる。しかし現在では、拝殿で初節句の男の子にお祓いをするなどの神事が行われるのみである。  

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 その後、舞楽「後の舞」が納められるが、これは厳島神社で舞楽面陵王をつけて元旦に奉納される「環城楽」「越天楽」で、舞い手も厳島から迎える。

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 そしていよいよ、流鏑馬神事である。古式ゆかしい狩人の衣装を身につけた騎手が馬に乗り、まずは客殿の前で天地、東西南北の六方向に厄除けの矢を放つ。その場で馬が三回まわされ、それから参道を三往復する。衣装はすべて昔から使われているもので、笠には「慶長十三年(1608)五月吉日」と書かれており、その頃から行われていたと思われる。当時、安芸の守が私有馬を奉納馬に仕立ててこの神事を行ったのが始まりらしい。

 この地域では、端午の節句に菖蒲と蓬(よもぎ)を束ねて軒に挿して祝う風習があり、端午の節句は菖蒲の節句とも呼ばれる。その菖蒲の読みに勝負・尚武という言葉が掛けられ、流鏑馬神事が行われるようになった。

 地元では「明神さんの馬とばし」と親しまれていたが、馬が居なくなったこと、参道がアスファルトに舗装され馬が走れなくなったことなどから、昭和四十二年を最後に廃止されていた。それが地元住民の熱意で、昭和五十七年六月に十五年ぶりに復活。昔のように馬を勢いよく走らせることはできないが、その勇壮な姿は時代を逆行させてくれる。

 この日にはちまきやかしわもちを食べ、また軒にさしていた菖蒲と蓬を風呂に入れて菖蒲風呂にする風習もある。
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 この「ちまき」は地御前の友人が家で作ったと届けてくれた。子どもの頃には各家で必ずと言っていいくらい粽(ちまき)を作っていた。他の地区では「かしわ餅」を作っていたようであるが、阿品にはかしわの葉っぱが無いのでかたる「サルトリイバラ」の葉で包んだ「かたる餅」を作っていた。かたるをかたらと云うひともある。この粽を包む笹は吉和の方まで採りにに行ったそうである。
 
by hirosan_kimura | 2016-06-10 12:15 | 行事祭礼 | Comments(3)

№746御洲掘神事

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 いつも資料を提供していただいている方から珍しい写真を紹介してもらった。戦前に撮影された地御前神社「御洲掘神事」の写真である。神事の写真は幾種類か目にする機会はあったが、これほど全体像を捉えた写真は珍しい。右端にはかつての海水浴場の飛び込み台も映っている。

 この写真を提供していただいたのは撮影者の孫に当たる方である。この写真はパノラマ写真のようであるが、別々に撮影した三枚をつなぎ合わせたものだそうである。別々に撮影した風景写真ならいざ知らず、動き回るたくさんの人がいる写真をつなぎ目も分からず、一枚の写真に加工する技術は不思議である。

 撮影者の方は明治39年にアメリカに移民として渡り、昭和2年に帰国し広島市の中心部で写真店を営んでおられた。戦争の悪化により昭和17年に写真店を閉鎖し地御前の実家に移り住まれ、昭和40年に76歳で亡くなっておられる。

 昭和20年に原爆が投下され広島は壊滅状態となったが、戦前に撮影された膨大な数の写真は地御前の実家に移されていたため戦禍を逃れることが出来た。7年くらい前にはこれらの貴重な写真が公表され、写真展が開かれたりマスコミを賑わしたこともあった。

 管絃債祭は毎年旧暦の6月17日に行われ子どものころには「十七夜 じゅうしちや」と呼んでいた。当日は神社前も阿品の海岸沿いも、たくさんの観客で溢れかえっていたが今では寂しい限りである。今年の「十七夜」は7月18日に行われる。

 祭りは事前の「祭場整備」の「お洲掘り」から始まる。厳島・地御前両神社前で行われるが地御前側では祭りの二日前の正午の干潮時に、神社前の砂浜を左右に掘り分け、澪木(みおぎ 水路を示すために建てられた杭)を立て、厳島から来る管絃船の着岸を円滑に行うために行う。

 洲掘りの地ならしのため、美しく飾った数頭の牛を近隣から集め、五・六十人が見守る中、村長の指揮の元に行われた。この洲掘りも農耕牛の減少により、今では機械による整地作業となってしまった。
by hirosan_kimura | 2016-06-01 11:40 | 行事祭礼 | Comments(4)

№731 正月

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 元旦の日は天気も良く暖かい穏やかな一日であった。しかし日の出の時刻は東の空には雲が立ち込めていた。朝早く日の出の時刻頃お上がり場付近を通り掛かると、初日の出を拝んだり写真を撮影するため何人かの人たちがカメラを構えていた。この他三丁目の堤防にも家族連れなどが、寒い中東の空に注目している。

 しかし東の空には雲が立ち込め日の出は拝めそうにもない。暫く注目していた人も諦めて三々五々散らばって行かれた。
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 この写真は31日の朝犬の散歩で通り掛かった際、ほぼ同じ場所から撮影したものである。元旦で無いのでわざわざ写真を撮影する人は見掛けなかった。
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 ほぼ同じ時刻に宮島方面を眺めると連絡船が行きかっている。前夜から・朝早朝から厳島神社が家路に向かう人たちが乗船して居られるのだろう。

 もう少し時間が経過すると、初詣に行く人たちで宮島に向かう連絡船は人で溢れかえるだろう。
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 例年、一日から宮島方面は渋滞する国道であるが、今年は一日は渋滞することも無く、二日・三日が大渋滞であった。一日の渋滞にうんざりした初詣の人たちは車を避けて、JRや広電の公共交通機関を利用した人が多かったのかも分からない。

 相変わらず渋滞にうんざりした人たちや、宮島口附近の駐車場料を節約する人は、宮島口まで電車で一駅の「広電阿品駅」そばのスーパーの無料駐車場に車を駐車し電車を利用する人が多い。スーパーは迷惑なことである。
by hirosan_kimura | 2016-01-04 11:10 | 行事祭礼 | Comments(0)

№730 餅搗き

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13日の日曜日には鰆浜の集会所では餅つきが行われていた。前年までは子供会中心に行われていたらしいが、子どもの居ない家庭は参加しにくいということ、今年は町内会の行事として行ったそうである。餅つきの周りに子どもたちが少ないとおもったら、集会所の中で搗いた餅を丸めたり食べたりしているようである。

 今では家庭で餅を搗くことわ滅多になく、店で買ったり中には正月でも餅の無い家も珍しくないらしい。昔は正月前になると各家庭でたくさんの餅を搗くのが当たり前であったが、廃れゆく風習を子どもたちに伝える目的で餅つきの行事が行われたのであろう。

 現在行事などで行われる餅つきは臼と杵を使って行われるのが大半であるが、一昔の阿品では足踏み式の餅つきが通常であった。この餅つきは台唐(だいがら)と呼ばれ阿品の農家ではほとんどの家に有っただろう。

 我が家では母の実家が阿品(今の阿品二丁目)にあったので、年末の餅つきは実家に行って行っていた。餅つきは12月の27日か28日に行うのが通常であった。29日は9が苦につながり31日は一夜餅といって縁起が悪く避けていたそうである。

 当時の餅つきは驚くほどたくさん搗くのが当たり前で、家によっては15臼も20臼も搗いていたそうである。1臼は2升かそれ以上あるので沢山の米が必要であった。このもち米を水に漬けたり餡を作ったり前日から女の人は大忙しであった。

 当日は蒸籠でもち米を熟むし、熟むし次第臼に移し台唐を踏むのが男性でこねるのは女性が担当することが多かった。子どもたちは餅つきが始まるとわくわくし、臼を搗くのやそれをこねるのを飽きもせず眺めていた。

 搗きあがると大急ぎでひらたい板に移し餅の大きさに切り分けられる。子どもたちは争うように丸めたり平たく餅の形に整えるのがとても楽しかった。また餡を中に包むのも面白がって行っていた。形の整った餅は「もろぶた」に並べ箱がいっぱいになると積み重ねられるが、搗く餅の量が多いのでたくさんのもろぶたとなる。

 「もろぶた」と言っても今の人には分からないかも知れないが、搗いた餅を並べておく木の箱である。喜んで餅を丸めていた子どもたちはその内飽きてしまい、炭火で焼いた餅を砂糖醤油を付けたり餡餅を食べるのが楽しみであった。

 餡の入った餅は「あんいり」「あんころ」「あんびん」などと呼称していたが、これらの言葉もだんだん使われなくなった。またもち米と粳米を混ぜて搗いた餅を「あらかね」と呼んでいたが、この餅を食べる機会もほとんどなくなった。

 今のように楽しみも沢山の玩具も無い時代の子どもたちにとっては、餅つきも楽しみのひとつでありやがて迎える正月を目の前にして、胸がわくわくするようなひとときであった。
by hirosan_kimura | 2015-12-17 06:40 | 行事祭礼 | Comments(2)

№722 おしえ地蔵

e0125014_13522084.jpg 「教え地蔵」についてはこのブログ№7・№577で紹介したことがある。昭和60年3月31日「阿品地区コミュニティを進める会」の広報紙第4号「御存じですか おしえ地蔵さんを!」の記事を提供して貰ったので掲載してみる。






阿品地区文化財 おしえ地蔵 昭和五十六年十月建立
 昔、国道もなく阿品の平野が海であった頃、大野町更地中山に通ずる山道を、旅人に教えた「おしえ地蔵さん」として古くから伝わっている。
 「左手の人差し指で方向を指し、右手で「おむすび」らしきものを手の平に乗せています。」
 昭和四十九年、阿品ニュータウンの造成工事前は、阿品ダム奥の谷間にありました。
 一時ダムのふもとに仮移転させ、昭和五十六年に、現在地に設けられました。
by hirosan_kimura | 2015-11-05 14:13 | 行事祭礼 | Comments(0)
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七月二十日 中国新聞

厳島の管弦祭 二十六日に執行される
電車も開通したので 例年以上賑ふ見込
 
 厳島の管弦祭は来る二十六日(旧六月十七日)に執行されるが、当日は午後六時頃満潮と共に人崎を発し、海上管弦舞楽を催しつつ地御前神社に渡御し、夫より引返し長浜・大元を経て午後十二時頃に還御になるのであるが、今年は電車も新宮島(現在の広電阿品東駅約三百㍍東)まで開通して渡島には非常に便利になっているので、厳島地御前共に例年よりは数倍の参詣見物の人出を予想され、既に厳島三笠ケ濱には急造の売店がギッシリと建てられ、興行物も沢山出来ているが、従って不正商人やチボ(すり・巾着切り)も多数入込むかもしれぬので、厳島署では夫らを警戒厳重取締るべく準備を整えている。
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七月二十七日 中国新聞

宮島管弦祭 二十六日夜神輿還御
人出無慮(おおよそ・だいたい)十万に達す

 厳島神社の管弦祭は廿六日午後五時より菊池宮司以下総員の出御祭に始められ、式後直に御神輿は同神社禰宜の先導で大鳥居の三舸を組合せ美しく装われた御座船に移され、管弦楽の奏楽と共に江波及阿賀の漕船に護られて、満潮の海上を静に地御前に向い地御前火立岩付近で地御前村長外多数のお出迎え向け、奏楽裡に地御前に至り三代〇の〇御当の奏楽あり。

 式後、再び海上を一路長浜に向い〇〇楽が奏せられ、長浜鳥居前で越天楽神事を終え御座船は大元に至り、老君子の楽神事を終わると〇聲の吹奏と共に大鳥居に帰還され、菊池宮司以下の御迎えを受け〇〇〇の奏楽〇〇に客人神社に向かわされ、続いて枡形に入らせられ〇〇〇の奏楽神事後に、御座船は下先に御帰還され〇〇〇の奏楽裡に御本殿に入らせられ、還〇祭の御式を以て午後十一時に〇祭典は終つたが、当日は大〇雨後の快晴であって近郷よりの参拝者は非常な数で、省線の臨時列車増発・瓦電宮島線及連絡船の増発をなして参拝者の便宜を計ったが、殊に今年は瓦電宮島線の地御前新宮島間が開通した為めに、昨年以上の人出があり何れの船車とも鈴なりの人で運びきれず。

 尚四国九州の遠方よりも汽船や船漁船を仕立て渡島し、大鳥居を中心に大元・長浜の海浜はこれらの船で埋まり数千艘に達した。又数日前より参詣する人も多数ありいづれの旅宿も満員で、祭典当時は厳島全町の道に悉く人に埋まり身動きも出来ぬ有様で、午後六時愈々御座船の出発となるや、全島は勿論海上の数千の船は一斉に献灯し、恰も竜宮の現出の如きの大偉観を呈したが緯午後十一時御帰還と共に、流石の厳島も静寂に夜と共に更けて行ったが此日の人出は十萬を超えて居た。
 
 この雑沓を取締る為厳島全署員及同〇〇軍人消防組合等で海上陸上を警戒したが大なる事故もなく済んだ。

註 文中の〇は判読不能部分
by hirosan_kimura | 2015-05-08 14:16 | 行事祭礼 | Comments(0)

№681 じんねんさん

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  このブログ№654で「厳島神社の神馬」を掲載したが、今ではこの白馬も居なくなり厳島神社入口の白馬舎に作り物の神馬が展示してあるのみである。厳島神社の神馬は色の付いた馬が奉納されても、数年経つと白馬になると年寄りなどから聞いたことがあるが本当だろうか。

 毎年、地御前神社の「馬飛ばし」の日には、厳島神社の人が白馬を引き連れ阿品の国道を地御前神社に向かう姿が見られた。夕方には地御前神社から厳島神社まで連れて帰っていた。

 阿品ではこの白馬を親しみを込めて「じんねんさん」と呼んでいた。阿品には「神馬のくぼ」「じんねいばな」の地名が残されている。「神馬(しんめ)」が「じんね」となり「じんねんさん」と変わったのかも分からない。

  流鏑馬で走る馬の写真はたまに見掛けることはあるが、この白馬が地御前神社に連れて来られた時の写真でも無いかと探してみたがなかなか見つからなかった。先日、いつもブログの材料を提供して下さる方より白馬が写った写真を提供してもらった。

 写真の場所は、地御前小学校脇の「大歳神社」下の「釈迦堂」の前である。写真を提供して貰った方は昭和初期のものでは無いかとのことであるが、傍に写っている子どもの服装から見ると昭和20年代か30年代のものでは無いかと推測されるが、詳しい年代は分からない。

 この写真を見ると、祭りの朝に阿品の道路を地御前神社に向かい、夕方になると厳島神社に歩いて帰る白馬の姿が思い出される。

 また祭りの日には授業中もそわそわして、学校が終わると沢山の露店や祭り見物の人たちの中を急いで家に帰り、僅かな小遣いをを貰って祭り会場に行っていたことなどが懐かしく思い出される。
by hirosan_kimura | 2015-01-31 11:14 | 行事祭礼 | Comments(5)

№583 雀のご馳走

e0125014_1348648.jpg 毎年暮れになると上平良の農家が作ってくださる注連縄(しめなわ)が届く。小さな家にはにつかわない立派な注連縄である。

 ところが玄関ドアに飾って離れてしばらくすると、数匹の雀が来て飾りの稲穂の籾をついばみ床には籾殻がたくさん散らかっている。籾の中身だけを上図に食べているが器用なものである。

 毎年暮れになると覚えているのか注連縄が飾られるのを覚えているのか、タイミング良くついばみに来るものである。冬の食料の乏しいこの頃、雀にとっては大ご馳走であろう。注連縄の飾られた家をあちらからこちらへと食べまわるのに大忙しである。お陰で稲穂はほとんど丸裸で籾殻のみが撒き散っている。これも雀助けであろうが、もう少し時間をかけて少しづつ食べて呉れればと思う。

 注連縄は神様の占める場所の境界を示すもので、玄関に飾ればこれ以上家の中に不浄なものが入り込まないと伝えられている。

 注連縄は正式には12月23日に飾るのが本当らしいが、現在では年末中に飾れば良いと言われている。但し12月31日に飾るのは「一夜飾り」と言われ避ける方が良いらしい。これは葬儀の前夜を連想し神様に失礼に当るそうである。29日に飾るのは9が苦に繋がるので避ける人もあるらしいが、29が福(フク)読め縁起が良いとされ今ではあまりこだわる必要はないらしい。

 注連飾りを除くのは本来、小正月(1月15日)までとされていたが、現在では1月7日が一般的とされており、それもお日様が力を増す午前中に外すのが良いと言われている。

 外した注連飾りは神社で処分してもらったり、「とんど」で燃やすのが良いとされている。阿品では県病院跡地で行なわれていた「とんど」も今年から行なわれなくなった。

 ごみとして出す場合もそのまま出さず、新聞紙を広げその上に注連飾りを置き、注連飾りに左・右・左・右・左・右と片方に三回塩をふり掛け、そのまま新聞紙に包めばごみとして出して良いそうである。

 しかしこれらの習慣は地方によって違いがあるらしい。

 お正月にはほとんどの家に注連飾りをするのが当たり前であったが、今では飾られない家も結構見られる。またその注連飾りもプラスチックで作られたり、印刷物のものも珍しく無い。いつまでも雀が正月の注連飾りを楽しみに待つ時代が続いて欲しいものである。
by hirosan_kimura | 2014-01-06 14:43 | 行事祭礼 | Comments(0)
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 №31、№286でも紹介したが1月13日に阿品地区コミュニテイ主催の「とんどが」、鰆浜の県病院跡地で行なわれた。長く空き地となっていた県病院跡地を県が処分するということで、この地での「とんど」は今回で最後となる。

 県立地御前病院は昭和18年9月16日に開設された「教員保養所」が、昭和26年6月1日より県に移管され県立地御前病院となった。教員保養所はどこが所管であったのかわ知らないが、主に結核の教員の療養所でたくさんの教員が入所されていたのを微かに記憶している。

 県立地御前病院は県立病院の再編により昭和42年3月31年に廃止され、県立広島病院地御前分院として残されたが、この分院も昭和47年3月31日に廃止された。

 病院跡地は空き地として残され、以来40年間地域に開放され「盆踊り」や「とんど」地域の行事や高齢者がゲートボール場として活用してきた。一部は県の職員のためのテニスや野球などにも利用された。

 この跡地は約16,000㎡くらいあるが、この間№45でも紹介した山陽自動車道を新設する際、道路予定敷地内の大竹にある精神病院移転用地として計画されたが、地元の強力な反対運動の結果計画が撤回された経緯もある。

 その他の施設への転用が模索されたこともあるが、一定の敷地面積はあるものの国道等への接続が困難で実現に至らなかった。国道へ通じる道路は何箇所かあるものの車の離合も困難な道ばかりである。この地から国道へ最短の道路を拡幅しても出た所には中央分離帯があり左折しか出来ない。

 県は跡地をどのように活用される計画か不明であるが、民間に払下げられ住宅地として開発されるかマンションでも建てられるのではなかろうか。

 いずれにしても長年地域で活用された空き地が無くなることは地域にとっては残念なことであるが、県も財政難の折いつまでも空き地のままで置くと言うことは困難であろう。

 かつての阿品では広い田んぼが広がり、「とんど」をする場所にことかかなかったが、民家が密集した今となってはたんぼで「とんど」をするなど不可能なことである。

 遠い記憶では浜辺の干潮時に海で「とんど」が行なわれた記憶がかすかにあるが、阿品の海も埋立てられ浜辺も一部しか残っていない。残された浜にも牡蠣養殖のひびが設置され「とんど」が出来る広い場所も残されていない。海で行なうには干潮時を利用する必要があり、限られた時間内に準備をしたり、燃え尽きるのを待って餅を焼いたり、後片付けをするのは不可能である。

 長い間、阿品で行なわれてきた風習がまた一つ消えようとしているが、まことに寂しい限りである。
by hirosan_kimura | 2013-01-16 10:22 | 行事祭礼 | Comments(0)