
この地蔵さんは阿品の奥の谷の大野の「更地」と「中山」に行く分かれ道に安置されていた。昭和49年に県による廿日市ニュータウウンの造成により、安置されていた場所が埋立てられることになったため、阿品の有志の人々の手により、調整池ダムの下で「阿品桜」のある付近に移転され仮安置されていた。
昭和54年に現在の場所に再移転され、傍には説明版も設置されている。
しかしこのお地蔵さんの指を良く見ると、後から継ぎ足した形跡がある。この指が折れたのは現在地に移転する際、誤って折れたのだと史跡めぐりの際「歴史を語る会」の人が説明されたそうである。この地に移転されて三十数年経過しており、当時移転作業に拘わられた人は大半が亡くなられており真相は分からない。

折れた指を良く見ると地蔵さん本体と明らかに材質が異なり、新しく作った指とセメントで接着してあるのが分かる。
移転作業の際に折れたのなら、慎重に作業を行なったであろうから折れた指先が紛失することは考えられない。その際折れたのなら、折れた指先をセメントで接着したであろうから、継ぎ足した指先とお地蔵さん本体の石質が同じでなければならないであろう。
昔し指を折った祟りで戦死したと言う話は兎も角、この指は遠い昔より折れていたのではなかろうか。指が折れていないのにこのような言い伝えがあるとは考えられない。
日露戦争で戦死された人が子ども時代のことであれば、今から120年近く前になる。この頃から指は既に欠けており、現在地に移転されてから新しい指を継ぎ足したと考えられるが、今となっては真相は分からない。

子どもの頃、大人の話に「田尻のお大師さん」「山田の拝みやさん」と言う言葉が良く出ていた。
阿品にどのくらい信者の人が居たのか分からないし、お参りした記憶もない。しかし何か困ったことがあったり、悩みなどがあればお参りに行った。拝んでもらったなどの話を聞いたことがある。
場所は大野町境に近い鉄道線路の傍であった。
正式には「田尻教会」であったが、主管者の「山田智海」と言う人が昭和17年1月26日に真言宗管長「藤村密艟」より教会開設の承認を受け、昭和17年3月20日に広島県知事吉永時次郎に「真言宗 田尻教会」の承認申請を行った。
同意者として地御前の世良寅夫・磯辺亀吉、大野の羽釜作一が申請書に署名している。
安置仏は「大日如来」、法要は3月21日の外、四大節・国家の祝祭日とある。
主管者山田智海は、明治17年2月25日生まれ、昭和7年2月25日得度、昭和8年5月2日 真言宗地御前支部長とある。
建物は木造平屋で敷地45坪、建坪30坪で仏間・礼拝所・住宅と余り大きな規模ではなかったようである。
施設名は当初「真言宗地御前教会」の予定であったが、「従来教会名ノ内、三文字以上ノ教会ハ文部当局ノ指示ニヨリ、二文字以内ニ変更スル事ニ相成リタル為、二文字以内ノ名義に変更」と訳の分からない指示により「真言宗 田尻教会」となったそうである。
主管者は明治17年生まれで随分前に亡くなられたのであろうが、亡くなられて施設が消滅したのか、いつ閉鎖されたのか良く分からない。

普段はひっそりとした阿品周辺の墓地が、毎年 お盆が近づくと華やかになり遠くからみると、豪華な花畑のようになる。
安芸門徒のみの風習で紙と竹で作られた、色鮮やかな盆灯篭で墓地が埋め尽くされるからである。
この風習がいつの時代から始まったものかは定かではないが、江戸時代後期に広島城下の現在の紙屋町附近に住んでいた紙商人が、愛娘の死去を悼んで灯籠を作り墓に飾ったのが始まりとも言われている。
この風習が各地に広がり、広島を中心に尾道辺りから岩国周辺まで盆灯篭が供えられている。浄土真宗の安芸門とのみの風習であったが、現在では宗派を越えて盆灯籠を飾っている。
太平洋戦争中は防空上と紙不足で全面的に自粛されたが、その後再びよみがえり現在に至っている。
以前は紙を買って来てそれぞれの家で手造りをしていたと聞いたことがあるが、今では手造りをする家はほとんど無い。盆が近づくと農家では灯籠を作り出荷する家があるが、良い収入になるらしい。
子どもの頃、母の実家に泊まりにいくと遠くに墓地が見え、灯籠に点灯されたローソクの明かりがほのかに見えたが、何とも不気味であったのを思い出す。
昔は灯籠にロウソクを点灯していたが、時によって他の灯籠に燃え移ったりすることもあり、現在では明かりを点けることは無い。
広島地方のこの風習も、資源の無駄遣いとか、灯籠が大量のゴミになるためお寺によっては自粛するようなこともあるが、昔から伝わる風習がいつまでも残って欲しいものである。
資源の無駄遣いと言うが、なにもかも使い捨ての時代。他にも自粛しなければならないことがたくさん有るのではなかろうか。

その昔、広電宮島線の終点であった「新宮島駅」、厳島への渡船場所であった浜辺を「拝床」と呼んでいた。
今の西広島バイパス出口、国道二号線と交差する橋脚のある附近である。
その昔、厳島は神の住む島として人が住むことは出来なかった。このため厳島神社の神事を司る神官は、毎日舟で厳島に赴き地御前よりお宮に通っていた。
嵐の際は舟が出せないので地御前神社で神事を行っていたそうである。
しかし、不思議なことに地御前神社からは地形の関係で、厳島神社附近を遥拝することは出来ない。
地御前より厳島を遥拝出来るのは神社の海岸沿いに西に行き、沖島附近を越え「拝床」と呼ばれていた浜辺附近まで行くと、厳島神社附近を遥拝することが出来るのである。
阿品地域の言い伝えでは、神域の厳島に人の住めない時代に、この地より厳島神社を遥拝したとので「厳島神社を拝む所」という事でこの地を「拝床」と言うとの説が残されている。
この説が事実で「拝床」と言う地名が残されているのか分からない。厳島神社関係の書物にもこのような記録も残されていない。
なお「拝床」は「灰床」とも表記される場合もある。またこの海岸を「灰床平(はいとこひら)」とも呼ばれていた。また江戸時代の地図には「拝床」を「ハイヤ」とも記されている。
背後の山は「拝床山」「灰床山」とも呼び、厳島合戦の際、毛利軍が集結した合戦場の跡地でもある。

阿品四丁目の一角に市営阿品墓地がある。235区画。一区画は1.5m×2㍍の3㎡。永代使用料は23万5千円、永代管理料は2万円で昭和53年に分譲されている。
この墓地の大半は一般に分譲されているが、その一画は「阿品台ニュータウウン」造成の際、移転を余儀なくされた阿品地区の墓地として造成されたものである。
阿品台が造成されるまでは阿品の墓地は阿品の谷の一番奥、今では団地の外周道路や法面となっている場所にあった。
その場所は母の実家に近い場所であった。お盆前の夕方近く涼しくなった頃、灯籠を手にした沢山の人々が家の横の道を通って墓参りに行かれていたのを思い出す。
夜になるとローソクの火が灯籠に移り、ボーッと燃えているのを遠目に見て、火の玉が燃えているのではないかと恐ろしかった。
以前の墓は一軒の家でも小さなお墓がたくさんあったが、新しい墓地は区画も狭く沢山の墓が建てられないので、古い墓石は一箇所に集められ供養されている。
また気軽にお参り出来たお墓も山の上に移転し、お年寄りにとってはいつでも気軽に、お参りすることが出来なくなってしまった。