素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:幼小中( 25 )

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№13 造成前の阿品台
 ニュータウウン造成前は阿品の集落から数本谷が奥まで続き、その谷の最深部まで耕され稲作が行われていた。中央右寄りの高台の施設は「光の園」で、当時は地御前神社脇から奥に入る細い道が唯一の進入路であったが、現在は周辺の様子が大きく変わり阿品台一丁目の宅地と同じ高さになっている。

 バイパスが大きくカーブしている上方の山付近が阿品台一丁目、左端上方辺りが阿品台三・四丁目である。
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 №14 阿品に大型住宅団地計画
 昭和40年頃に入ると広島市の人口が増加し住宅地が不足となった。そこで広島県は近郊にニュータウンの造成を計画した。様々な候補地がある中で阿品の地が選ばれた。その理由は①海岸沿いに国道・山陽本線・広電宮島線が並行し、広島市への通勤の便が良い。②造成する山はなだらかで、無人の里山で谷筋に僅かな耕地があるのみで開発が比較的容易である。③広島湾に面し気候が比較的穏やかで年中過ごしやい。等の理由によるものである。

 この地に計画戸数3,500戸、人口12,600人の計画的なニュータウウンを目指したものである。
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 №15 造成中の残土処理
 山を削っての住宅造成のため膨大な残土処理が必要となった。この残土は計画中の廿日市木材港造成のための海面埋立に利用されることとなった。

 阿品の山から木材港埋立地まで運搬する道路の整備が必要であった。阿品台から現在の日赤看護大学・特別支援学校前を通って宮内に抜ける道路が山を削って新設された。これらの道路を土砂を積んだダンプカーが一日何百台も行きかった。

 阿品から宮内に抜ける道路は現在は「阿品・高通り線」としてたくさんの車が通行している。
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 №16 造成中の阿品台
 中央辺りの緑の残された部分は「阿品公園」付近。高い丘の上にあった「光の園」は周囲の山が削られ住宅団地と同じ高さになっている。左上は「阿品台北」、左下は「阿品台西」付近である。

 阿品台と当時大野町の住宅団地の間は山で隔てられているが、現在では貫通し「対厳山線」として多くの車が行きかっている。
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 №17 ニュータウウン完成
 昭和53年8月10日(今から38年前。阿品台で最初の入居者は東の県営住宅178戸であった。当初は小学校・中学校は開校していず、阿品台東小学校が開校するまでは地御前小学校へ、阿品台中学校が開校するまでは七尾中学校へ通学する不便さであった。

 その後続々転入者があり、阿品台東小学校では一時1,100人を超える状態もあったが、高齢化が進み人口は一時より大幅に減少している。

 子どもたちに17枚のパネルで説明したが、振り返ってみればパネル枚数がもう少し少ない方が良かったのではないかと反省している。
by hirosan_kimura | 2016-10-17 10:04 | 幼小中 | Comments(0)
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 №7 今から45年くらい前のおあがり場
 この公園は明治18年8月1日に明治天皇が宮島から広島にむかわれる途中、この地に上陸されたので「おあがり場」と称される。昭和20年代から昭和40年代半ばまで、夏場は海水浴場としてにぎわっていた。松の木が生い茂り公園全体を覆いつくし陽射しをさえぎり、涼しい木陰を造っていた。

 露店が2軒・貸しボートや飛び込み台もあり、遠方よりバスで団体客がたくさん来場していた。今では道路の拡張等で狭くなり、生い茂っていた松も枯れてしまい往年の面影は見られない。
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 №8 埋立前の阿品三丁目
 広電宮島線沖はすべて海であったが昭和41年10月(50年前)から海面の埋め立て工事が着手された。埋め立てが完成後はこの近辺の風景は一変した。
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 №9 今から50年位昔の阿品(今の阿品二丁目)
 山沿いに農家が散在し谷の中央部は三軒の農家があるのみで、残り部分は全て田畑が広がっていた。この写真では分かりにくいが中央部右寄りに、阿品で最後の藁屋根の農家が残っている。中央奥の山は阿品台、左側の山はふじタウンの宅地造成により大きく変わっている。

 田畑の中に家屋が散在していたのどかな田舎風景も、今では民家が立ち並び家と家の間に田畑が残されている状況である。阿品が大きく変わる前の懐かしい風景である。
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 №10 駅前付近と三丁目埋立中
 今から50年くらい昔の風景である。JR駅前付近は荒地状態である。広場と国道の間には調整池が残されている。この調整池も国道の拡幅で埋立てられた。

 電車軌道前の海は埋立中である。右上に№3で紹介した海に突き出た小山があり、麓には僅かであるが砂浜も残されている。埋め立て完成後は田尻沖は住宅地、阿品沖は遊園地「広島ナタリー」として賑わっていたが、遊園地閉鎖後はマンション群と商業施設となっている。
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 №11 遊園地「広島ナタリー」
 遊園地は昭和49年4月23日(今から42年前)に開園した。この遊園地も他の地域に遊園地が開園して入園者が減少したり、プール等の老朽により多額の改修費も必要となり、平成8年3月末(20年前)に閉鎖された。この間22年間で912万人の来園者があった。

 遊園地には当時東洋一の高さ65㍍の観覧車・海に突き出たジェットコースター・大型プール・その他たくさんの遊具が整備されていた。また冬場には屋外駐車場を利用してスケートリンクも開設された。

 ヨーロッパの富豪が所有していた「ナタリー号」は巨大プールの中に設置されていた。この帆船は527トンでエンジン付き帆船としては世界でも有数の大きさであった。全長177フィート。全幅27フィートであった。夏場には巨大プールの外周にあった流れるプールも人気の施設であった。
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№12 ナタリー航空写真
 上空より見るとジェットコースターが海面に突き出していたことが分かる。大型プールに浮かんだ「ナタリー号」、大型プールを取り巻くように一周していた流れるプールも判別できる。

 国道を挟んであったテニスコート、やドライブインも懐かしい。JR阿品駅はまだ開業していない。広電阿品駅も無い。
by hirosan_kimura | 2016-10-16 13:20 | 幼小中 | Comments(0)
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№1 大昔の阿品の想像図。今から約200年前の絵図を元に平地部を海であったと想定して修正したもの。実際の様子は分からないが、阿品の谷の最深部の家で井戸を掘ったところこの辺りが海であったことを示す物質が掘り出されたそうである。
 
 その昔には阿品には平地がほとんどなく谷と谷との間に僅かな平地しかなかったものと推定される。推定に過ぎないものを事実のように話すのは良いことではなかろうが、阿品に昔平地がほとんど無かったと話すと子どもたちは驚いたようである。
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№2 文政2年(1819年)今から197年前の絵図に着色したものである。№1の阿品が山から少しずつ土砂が流れ出たり、海の砂が少しづつ押し寄せて長い期間を懸けて平地が出来ていった。谷と谷との間の平地はともかくとして、海岸沿いの山と海の間の平地は広過ぎ誇張して描かれているようである。
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№3 鼓ケ浜(阿品三丁目)の集会所付近の絵図である。描かれた年代は不明であるが、山際の旧国道や国鉄が敷設される前で少なくとも140年以前の風景である。白黒の絵図に近所の絵の大家に着色してもらったものである。

 現在の風景から想像してもあじなの風景とは信じられないが、広い浜辺の松林や漁師の家こそ無かったが、50年くらい前までは中央の海に突き出た小山は残っており松の木が生い茂っていた。小山の麓には僅かばかりの砂浜もあった。背後の山は団地開発され昔の面影はまったくない。
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№4 鰆浜(阿品一丁目)の100年位前の海岸風景である。中央の小島は「火立岩」と呼ばれ阿品の名称の一つであったが今は無い。火立岩から手前に向けて埋め立てられ広電宮島線・国道に変わり風景は一変している。

 左下に僅かに見えるのは「旧国道」の一部で、海面より道路までの高さが僅かしかないのに子どもたちは驚いていた。
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№5 昭和6年(今から85年前)に廃止された「広電新宮島駅」と鰆浜・厳島間連絡船乗場。広電宮島線の終点は阿品にあり、今では宮島口から出ている連絡船は阿品から出発していた。子どもたちがもう少し興味を持ってくれるかと思ったが案外無関心であった。
 話す時間が短すぎたのか、電車の終点が阿品で宮島へは阿品から乗船していたのは突飛で現実感が無かったのかもしれない。
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№6 今から60年少し前の阿品の航空写真。平地は殆ど田畑で家屋は僅かばかりである。残りの大半は山ばかりで今の阿品台・ふじタウンも見られない。自分たちの阿品の原風景はこの写真の通りであるが、今の子どもたちにはこれが阿品と云っても実感が湧かないであろう。

 ちなみに当時の阿品全体の世帯数は101世帯、人口は552人であった。今年の4月1日現在では5,783世帯、13,502人となっている。驚くことに世帯は57倍、人口は24倍となっている。一世帯当たり家族数は当時5.4人であったが今では僅か2.3人となっている。阿品地区では人口が増加しているが、阿品台地区は減少するばかりである。
by hirosan_kimura | 2016-10-13 11:40 | 幼小中 | Comments(0)
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 阿品地域には現在阿品台東小学校、阿品台西小学校と二つの小学校がある。

 阿品の子どもたちは曽祖父の時代から地御前小学校に通学していた。しかし阿品台ニュータウウンの開発により昭和54年に阿品台東小学校が新設され、長年地域の人たちが通いなれた地御前小学校と別れ新しい小学校に通学することとなった。

 団地の入居者の増加により阿品台東小学校のみでは対応しきれなくなり、昭和58年に阿品台西小学校が開校した。阿品台西小学校区は、阿品台の西と山の手、阿品一丁目から四丁目地域に設定された。しかし阿品一丁目は阿品台西小学校よろ遠いので、平成元年には阿品一丁目は再び阿品台東小学校に校区が変更となり現在に至っている。
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 阿品地域は「地御前地区コミュニティ推進協議会」に属していたが、阿品地域の人口が増加し小学校も新設されたのに伴い、昭和56年11月には地御前地区より分離し、「阿品地区コミュニティを進める会」が結成されている。

 昭和58年には阿品台西小学校が開校したのに伴い、阿品地区より阿品台地区が分離し「阿品台地区コミュニティを進める会」が結成され現在に至っている。

 コミュニティ組織が分離する際、小学校区とコミュニティ区を一致さす案も検討されたが、阿品一丁目は旧阿品との結び付きも強く、阿品台地区に所属するのも不自然なので阿品地区のコミュニティに属することとされた。

 また、西小学校区の「阿品台西」と「阿品台山の手」は地形的にも阿品台と一体であり、阿品台地区のコミュニティに属している。
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 こうして阿品一丁目はコミュニティは阿品地区・小学校は阿品台東小学校区となり、阿品台西・山の手はコミュニテイは阿品台地区・小学校は阿品台西小学校区と変則的となっている。

 地域のコミュニティと小学校の活動は切っても切り離せないものがあり、コミュニティ区と小学校区が異なることにより様々な障害や弊害を期しているが、どうにもならないようである。

 旧廿日市地域では廿日市小学校・佐方小学校等に於いても、小学校区とコミュニティ区との整合していない地区もあるが、これを解消しようと関係者が協議を重ねられても良い知恵が浮かばないらしい。

 コミュニティとは異なるが、上図右上の「光の園」は土地の地番は地御前に属している。阿品台が開発されるまでは「光の園」と「阿品」の間には高い山で隔てられていたが、この山が削られ今では阿品台と地続きとなり小学校は阿品台東小学校区、コミュニティ活動も阿品台の属して居られるが、町名の設定を阿品台に編入されないのかいつも不思議に思っている。

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 阿品一丁目に「光が丘」と言う小さな団地がある。この地区は東小学校区であるが子どもたちは正規の通学路を通らず山道を越えて通学しているらしい。正規の通学路は大廻りになるためである。

 この団地は元々阿品に属せず以前は地御前の田屋地番であった。町名設定の際、地形上阿品一丁目に組入れられたが少々無理があったようにも思われる。選挙の際の投票所は阿品地域は阿品公民館であるが、この地域のみは地御前小学校が投票所となっている。何か不自然な思いがしないでもない。
by hirosan_kimura | 2015-03-15 13:25 | 幼小中 | Comments(0)
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 先週の水曜日に阿品台西小学校三年生を対象に、阿品の昔の話をしに行った。平成18年に話をしに行ったのが最初で、今年で10回目位になる。

 当初は児童5~6名に保護者一人が付き添い、近くの集会所や自宅に子どもたちが来て話をしていた。子どもたちも学校から自宅まで歩いてきたり、話が済むと学校まで帰るのも大変であるし、たくさんの保護者が協力しなければならないので、今では話をする者が学校に行っている。

 三年生の子どもたちが一グループ15人程度に別れ、昔の阿品についての話を聞く。①昔の学校 ②昔の風景・建物 ③昔の祭りや芸能 ④昔の道具 ⑤昔の遊びの5グループでそれぞれ地域の人が一人か二人で子どもたちに話すものである。

 自分がいつも担当するのは「阿品の昔の風景・建物」である。相手が三年生とは言えいい加減な話も出来ないので、毎回かなりの事前準備をしていく。他のグループではどのようにしておられるのか分からないが、自分は昔の写真や絵図を小さなパネルにして説明を行っている。

 子どもたちは熱心に話を聞いてくれるが20分くらい説明し、後で子どもたちが様々な質問をする。あらかじめ子どもたちの質問内容を確認し事前に先生が連絡してくださるが、突然子どもたちがとんでもない質問をして呉れるので、いつも緊張をしている。

 例年の通り、阿品は海と山に囲まれ田畑がたくさんあり家も人口も少なかったが、山を削り谷を埋め「ふじタウンや阿品台ニュータウン」が造成され家がたくさん建てられた。阿品三丁目は海の中であったなどの説明をした。

 説明が終り質問の時間にある子どもが「三丁目の人たちは息が苦しくなかったのか」と尋ねてきた。一瞬何を言っているのか戸惑っていると、「三丁目の人たちは酸素マスクをしていたのか」と聞いてきた。

 これを聞いて理解できたが「三丁目は昔海の中であった」と説明したのを聞いた子どもは、「三丁目は海の中に家があり、人々は海中で生活をしていた」と解釈したらしい。

 改めて、昔は電車線路までが陸地で、その沖の海を土砂で埋め立てて陸地にして家を建てて人が住むようになったと説明しなおしたが、子どもの思いつきにビックリすると同時に、三年生にも易しく理解出来るような説明が必要だと反省した。

 数年前のことであるが一通りの説明が終わって質問で、「昔は阿品から中国まで歩いて行けたが、何日あれば中国まで行けたのか」と言うような質問があった。何千年か何万年前か分からないが、大陸と日本が続いた時代の話をどこかで聞いた質問であろう。

 「阿品の昔」とは関係の無い想定外の質問で、「大昔のことで調べていないので、先生に調べてもらってください」とお茶を濁しておいたが、先生もさぞ迷惑であっただろう。子どもたちの発想には驚かされるばかりである。

 昔の話では無いが今は無い「ナタリー遊園地」の話をしたり、写真を見せると子どもたちが目を輝かせて聞いてくれるのは面白い。
by hirosan_kimura | 2015-02-05 11:43 | 幼小中 | Comments(4)
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 現在の学校では入学式や卒業式など全校生徒が集合する際は体育館を利用している。昔の学校には体育館など無く大半の学校には講堂があった。今の子どもたちには講堂と言っても分からないのではなかろうか。

 昭和26年4月に小学校に入学した時は、地御前小学校では大正12年に建築された木造の校舎のままであった。正門の正面に二階建ての管理棟があり、その裏に二階建ての教室と平屋の教室がコの字形に建っていた。

 管理棟の一階は職員室・校長室・保健室がありその二階が講堂となっていた。しかしこの建物はあまりにも古く、二階の講堂にたくさん人が入ると建物が揺れるとか潰れるのではないかと言われていた。講堂に全校生徒が集合したような記憶は残っていない。

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 こうした中、昭和26年10月に管理棟の脇に新しい講堂の新築工事が開始された。
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 この建物は翌年春に完成し、5月3日には落成式が盛大に行われ餅まきなども行われた。今では餅まきも余り目にすることも少ないが、当時は一般の家でも家を新築すると餅まきを行うのが当たり前で、餅まきがあることを聞きつけると大勢の人が集まり、撒かれる餅を夢中になって拾い集めたものである。

 新しい新しく出来た建物は赤い瓦にピンクのような壁で当時ではとても洒落た建物におもえた。この建物は講堂として学校の行事のみに使われるのでなく、村人の集まる行事にはいつもこの建物が使われていた。講堂に併設して当時は活発であった青年団専用の部屋もあり、学校の講堂と公民館を合わせたような施設であった。

 今では余り聞かないが年に一回小学校の学芸会では、大勢の村人がご馳走を持参で一日中楽しんだものである。また年に何回かは映画の上映会が行われ、娯楽の少なかった当時、家族や兄弟総出で見に行くのも大きな楽しみであった。何回か見に行った映画ではあるが不思議とどんな映画であったか記憶に残っていない。

 その後木造の校舎は昭和30年ころ解体され新しい校舎に生まれ変わっている。木造の管理棟も今は無く、新しい講堂もしばらく利用されていたがいつの時代か分からないが解体された。今では道を挟んで立派な体育館が整備されている。
by hirosan_kimura | 2014-10-22 14:15 | 幼小中 | Comments(4)
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 昭和54年4月に「阿品台東小学校」が開校した。今から37年前である。阿品台に大型団地が造成されたため地御前小学校から分離したが、開校時の児童数は177名であった。

  この小学校は団地内に新設されたが阿品の子ども達も全員転校することとなった。それまでは地御前小学校に通学していた。今から138年前の明治16年に開校された地御前小学校に、曽祖父の代から通学していた学校と離別しなければならないのは寂しい限りであったが、阿品の子どもが全員転校するので従うざるを得なかった。

 右上の赤い部分は「光の園」、阿品台に属さず地御前地番のままであるが、阿品台に隣接しているので阿品台東小学校区となっている。

 新しい学校は団地の丘の上にあり阿品全体から見れば端の方にあったが、それまで通学していた地御前小学校のことを思えば大半の者は近くなった。

 しかし阿品一丁目の東端の「光が丘」団地は、直線距離でいえば小学校に近いが間にJRのトンネルが通過する山があり、国道を迂回すればかなりの距離があった。そのため道とも言えない山道を越えて通学する子どもたちもいた。

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 開校時には177名の児童数でスタートした東小学校も、団地への入居が進み児童の多いときには1,150名のマンモス校となった。このため昭和58年4月1日に「阿品台西小学校」が開校した。学校区は阿品台西・阿品台山の手と阿品一丁目から四丁目の阿品全体とされた。

 このため子どもの中には、入学は地御前小学校、二年生で阿品台東小学校、六年生で阿品台西小学校と住まいは変わらないのに小学校を何回も転校しなければならな子どももあった。

 阿品一丁目から西小学校は遠いので、校区を変えないで欲しいとの地域の要望も出されていた。

 また地御前小学校から阿品台東小学校へ校区が変わって4年経過すれば、地域と学校の連携や保護者同との交流も深まり転校には強い反発もあった。

 また阿品一丁目と二丁目は振興団地と異なり遠い昔より深い絆で結ばれていたので、一丁目・二丁目が離れず東小学校へ残りたいたの強い要望があった。

 しかしそのような願いも受けいられず阿品全体が西小学校への校区決定がされた。阿品二丁目は比較的西小学校へ近いので止む無く校区の変更に従う者もあったが、絶対認めないと頑張る人もあった。

 阿品一丁目は西小学校が遠いので、西小が開校しても校区変更の許可申請を教育委員会に出し東小学校に通学する子どもたちが大半であった。一丁目で西小学校に転校する者もあったがその人数は僅かで、規則通りの学校に通学する子どもの方が奇異に思われるほどであった。

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 こうした事態に教育委員会も放置することが出来ず、阿品台西小学校が開校して6年目にやっと阿品一丁目の校区が阿品台東小学校へと規則が改正された。

 こうして阿品の一丁目は阿品台東小学校区、阿品二~四丁目は阿品台西小学校区となった。しかし遠い昔から深い絆で結ばれていた阿品一丁目と二丁目は、小学校区とコミュニティ区が異なると言う弊害を生じている。
by hirosan_kimura | 2014-02-05 15:00 | 幼小中 | Comments(0)
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 阿品台中学校は昭和56年4月1日(今から33年前)に開校した。この中学校が開校するまでは阿品の子ども達は七尾中学校に通学していた。阿品台中学校の校区は阿品と阿品台地区であるが、中学校のある場所はこの地域の端っことなっている。光の園は阿品台に含まれず地御前の地番であるが、阿品台東小学校区となっている。

 学校から一番遠いのは阿品三丁目であるが、結構遠く坂道を登って行かなければならない。七尾中学校に通っていた当時に比べると比較にならないくらい近くなったが、過去の経緯を知らない人にとっては学校は通学地域の真ん中にあるのが当然なのに、何故校区の外れに中学校があるのか不思議に思う人もあるらしい。

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 七尾中学校から分離した当時の阿品台中学校は阿品台東小学校と地御前小学校が校区となっていた。この時には両小学校区の中間当りに中学校があり違和感はなかった。

 その後宮内地区の人口が急増し七尾中学校では生徒数が多くなり対応が難しくなってきた。阿品台中学校区も人口が急増していた。そのため地御前小学校と宮内小学校を校区とする新しい中学校を新設することとなり、野坂中学校が開校した。

 開校時は校区の真ん中にあった阿品台中学校も、地御前小学校区が野坂中学校区へと分離したため校区の外れに中学校がある状態になってしまった。
by hirosan_kimura | 2014-01-24 13:50 | 幼小中 | Comments(0)
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 地御前阿品地区の廿日市ニュータウンに、新築工事がいそがれていた東小学校が完成し、昭和54年4月6日から開校のはこびとなりました。

 校地面積は2万8,747・01㎡で校舎等の建物延面積は、すべて完成すると4,462.10㎡、体育館は1,154・51㎡となります。

 建物の総工費は5億円でこのたびは第一期工事で、普通教室棟と体育館です。続いて5月末までに特別教室、管理棟が完成し、7月はじめまでにはプール等所設備の全てが完成する予定です。

学区の変更 昭和54年4月から適用
 昭和54年4月より開校される、阿品台東小学校の学区をつぎのように設定しますので、ご協力ください。
◎バイパス以西、有府川の延長および阿品高通線以南(地御前小学校区 は、前記阿品台東小学校区を除く地御前地区
◎七尾中学校区に編入

 この学校区の変更により、阿品地区の子ども達は祖父や曽祖父の時代から通いなれた、地御前小学校と離れなければならなくなった。
by hirosan_kimura | 2014-01-16 10:49 | 幼小中 | Comments(0)

№571 保育所

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 現在、阿品地域には阿品台東保育園・阿品台西保育園の2園の市立保育園がある。東保育園は昭和57年4月に開園しているが「ふじタウン」が完成した頃である。その後児童の増加により昭和60年4月に西保育園が開園した。西保育園についてはこのブログ№206で紹介している。

 阿品台東保育園が開園するまでは阿品の子どもたちは地御前保育園に通園していた。地御前保育園は遠いいようであるが、現在、三十数歳以上の子どもたちは地御前保育園に通園するのが当たり前と思っていた。

 地御前保育園の沿革は終戦後、正行寺を利用して農繁期の託児所が開設されたのが最初である。この託児所については№490で紹介している。

 その後昭和26年にお寺を利用して定員50名で保育所として認定されている。保育園の施設はお寺の本堂と前庭を園庭として活用していたが、子どもたちは本堂の中をかけりまわり本尊を悪戯したりするので、僧侶は機嫌が悪く保母さんが怒られることがしばしばだったそうである。

 昭和27年4月にはお寺の裏の畑を潰して木造平屋の園舎が新築され、地御前村立保育所が開所している。昭和42年9月には道を挟んで向かい側に新しい園舎が新築移転された。現在の保育園がある場所であった。この園舎は旧施設とは比較にならない立派なものであった。しかし六角形の保育室を繋いだような園舎で屋根はブリキで天井は低く夏には室内が高温になり、午後の午睡時間には子どもたちは汗だくで寝る始末であった。その上屋根が複雑で新築間もなく雨漏りが続いていた。

 特に屋根の継ぎ目の雨漏りがひどく直しても直しても雨漏りは止まらなかった。ある雨の日に所長から電話が有り、「すぐ見に来てください。廊下を歩くのに子どもたちが傘をささなければならない」とあり冗談かと思って行ってみれば誠に悲惨な状態であった。その後屋根のトタンを撤去してスレート葺きに改築したが小さな雨漏りは続いていた。この建物も取り壊され今では新しい施設に建て替えられている。

 現在、保育園の送迎は保護者が付添うのが当たり前であるが当時は保母さんたちが送迎していた。朝は何人かの保母さんが分担して保育所から遠い場所まで迎えに行き、保育所に向かう途中で子どもたちを迎えながら行き、帰りは保育所からそのコースの子どもたちを何人か引きつれ最後の家の場所まで送って行っていた。

 阿品地域では保育所から遠いので毎日阿品駅(現在の阿品東駅)まで保母さん迎えに来て電車で地御前駅まで行きそこから歩いて保育所まで行っていた。帰りも同じく阿品駅まで保母さんが送りに来て駅で解散していた。自宅から阿品駅までは殆どの子どもたちが一人で行くことが多かったが、車の通行も少なく不審者など居ない長閑な時代であった。保母さんによる送迎も昭和40年代の初め頃、三歳未満時の保育が開始されて保護者による送迎となっている。

 役所で保育の担当期間が長かったので、なにかにつけて保育所職員と旅行に行ったり飲み食いを良くおこなっていた。一杯飲むと昔の苦労話が良く出ていた。一人の保母の担当児童数は40~50人が当たり前で、一人で70~80人くらい見たこともあったなど嘘のような話。園庭の遊具はブランコと滑り台くらい、室内の遊具も少なく折り紙くらい。保育料は保育所職員が家庭を徴収して廻り、冗談であろうが徴収の成績が悪いと払うお金が役場に無いので給料が払えないと言われたことなど、今の保育園職員が聞いたらビックリしそうである。

 この文で保育所と保育園の文言が入り混じっているが法律上は今でも「保育所」となって児童福祉法でも「保育所」と明記されている。市でも以前は条例規則などで「保育所」と定められていたが、現在では「保育園」となっている。しかし子どもたちは何十年もまえから「所長さん」と言わず「園長先生」と呼称していた。

 何十年前と言えば、保育士一人当たりの受け人数は、0歳児3人、1・2歳児6人・3歳児20人、4・5歳児30人と長い間改正されていない。少子化問題が深刻な今、もう少し子どもたちに対する予算を大幅に増やすよう政治家は真剣に考えて欲しいものである。
by hirosan_kimura | 2013-09-18 11:53 | 幼小中 | Comments(0)