素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:神社( 15 )

№772 岩鏡神社再建

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 昭和56年12月12日、土曜日の午後7時から阿品公民館において岩鏡神社総代より氏子に対して、神社の拡張改築に対する説明会が開催された。今から37年前のことである。さらに、昭和57年2月28日(日)午後一時三十分より公民館において募金募集の協力依頼の会合が行われた。

岩鏡神社氏子の皆様へ
 岩鏡神社拝殿改築寄附金募集趣意書
一、鎮座地 廿日市町阿品二丁目18
一、社 名 岩鏡神社
一、御祭神 手摩乳命(てなぢちのみこと) 足摩乳命(あしなぢちのみこと)
一、御鎮座年月日 不詳
一、由 緒
 岩鏡神社は古い社で、社蔵の古文書・古記録はありませんが、御祭神手摩乳命・足摩乳命の二社の神を奉斎する心の「ふるさと」「阿品」あじなに古くより鎮利座す、この里の氏神さまで、古来岩社、岩神神社ともいい岩鏡さんと敬いたたえ奉り、地名「阿品」は御祭神名の足摩乳命より生まれたることも察せられ、「阿品」の祖神・氏神として祀られ、阿品川の上流の岩山そばに鎮座せられたものでありますが、昭和二十六年の台風で崩壊し、昭和二十八年現在の所へ鎮座せられたものであります。
 さて現在の神社は、建築当時約八十五の戸数の時建築されたもので、現在の阿品地区では戸数も増え、周辺には住宅団地・遊園地等が出来開発が進められ、これに伴い阿品地区は益々発展し、神社に御参拝の氏子の方々も年毎に多くなり、現在の神社拝殿も老朽化し、その上御参拝の方々で狭くあふれるような姿になりました。神社の拝殿が狭少との皆様の御心持ちで、皆様の御心に添いたく、氏子の方々の御懇志を戴き拝殿を広く、現在の建坪五坪の拝殿を九坪に改築いたしたい存念で御座います。
 御出宝御多端の折柄誠に恐縮に存じますが、深き御理解と御同情を賜わりまして、御拝殿改築の功を了へたいと存じます。何卒応分の資を御寄付下さるよう、伏してお願い申し上げます。
一、戸数約三三五戸

 岩鏡神社拝殿改築の概要
一、拝殿の改築について
 1拝殿流造木造瓦葺 壱棟  建坪 九坪(約30㎡)
 2建築総経費  約四百五拾万円
一、倉庫改築経費 三拾万円

◎以上の件に付き、皆様と御相談したく御多忙中誠に恐れ入りますが、ぜひ御出席頂きますようお願いいたします。
岩鏡神社宮司 飯田亀丸  岩鏡神社総代代表 原田 清  岩鏡神社総代 西山敬三 他12名
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  詳しいことは分からないが地域を上げけての募金が行われ、丸市工務店の施工により施行された。工事に当たっては地域の人が総出で奉仕に当たり、昭和57年7月に本殿の改築が行われている。

by hirosan_kimura | 2018-11-21 13:45 | 神社 | Comments(0)

№733 阿品の神様

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 阿品の氏神様岩鏡神社の祭神は「足名椎命(あしなづちのみこと)」「手名椎命(てなづつのみこと)」の両神様である。これは古事記による名称であるが日本書紀では「脚摩乳命」「手摩乳命」と称されている。

 別称で「足摩乳命」「足名鉄神」「足名椎神」及び「手名椎神」と称される場合も見受けられる。神名の由来には諸説あるが、「づち」は蛇を指し「脚無し蛇」「手無し蛇」の説。また「あしな」は浅稲で晩成の稲、「てな」は速稲で早稲を示しているとの説。

 「なづ」は「撫づ(撫でる)」、「ち」は精霊の意で、父母が娘の手足を撫でて慈しむ様子を表すとする説。「畔(あ)の椎」、「田(た)の椎」と対であるとの説等、諸説ある。

 「あしなづち」と「てなづち」は神話の八岐大蛇退治に登場する夫婦の神様である。「あしなづち」の父親は大山祇神(おおやまつみのかみ)である。
e0125014_13381891.jpg 両神の間に八人の娘があったが、八岐大蛇に年に一人づつ人見御空供に求められ七人の娘を失っていた。最後には末娘の「櫛名田比売(奇稲田姫 くしなだひめ)」のみが残されていた。

 最後の娘も食べられると美しい娘を間に老夫婦が泣いているところに、高天原を追放された須佐之男命(すさのうのみこと)が通り掛かった。須佐之男命は事情を聞いて櫛名田比売との結婚を条件に八岐大蛇退治を請け負ったそうである。

 大蛇を退治した須佐之男命は須賀の地に宮殿を建て足名椎に宮の首長に任じた。この宮殿のあった地には須佐神社があり、代々神職を務める稲田氏は足名椎・手名椎から数えて78代目で、阿品の岩鏡神社とも深いつながりがあると思われる。

 大半の神社には創建の由来等が伝えられ説明板が設けられ詳しく説明してあるが、岩鏡神社には詳しい資料等が残されていない。古老により言い伝えられていたように、阿品の神様は阿品の遠い祖先が出雲の神様を分祀し岩鏡神社を創建したものと推測される。
by hirosan_kimura | 2016-01-08 10:40 | 神社 | Comments(0)
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 厳島神社の御旅所なる佐伯郡地御前村の地御前神社は近年痛く破損して修繕もなさず拝殿の如きは建腐の有様、実に見る影もなきことなるを苦に何でも一□修繕せんものと思い立ちしは厳島町の宮田文助なる人にて同人は此の修繕の事を地御前村の人々に謀りしに同村は仏教信者多くして心を神事に委する者なきを以て同村人は、宮田の心配を蛙面水に受け流し一も助力せんとせざりしとか然に宮田の熱心なる遂に自己の力にて同社を修繕することとなり(建腐の拝殿は取り除く)今や旧観に復したりと依て阿品と厳島との間を通航する船は自今宮田をば無賃にて渡すことゝなしたりと神賞として宮田は之を勧受するならん。
明治二十四年七月二日付 芸備日々新聞

 明治20年頃、地御前神社は見る影もないくらい荒れ果てていた。これを見かねた厳島町の宮田文助は、地御前の人々に神社の修繕を投げかけた。

 しかし仏教徒の多い地御前では、荒れ果てた神社のことを気にかける事も無く、、宮田の投げかけを取り合わなかった。それでも神社の修繕に熱心な宮田は自分の力で、元の神社のように復旧させた。

 この功績により、宮田にたいして阿品と厳島間の渡船運賃を無料にすることとした。宮田は神様からの授かりとこれを受けた。

 新聞記事にあるので間違ってはいないだろうが、地御前の人々は地御前神社に特別の思い込みがあると思われ、仏教徒が多いので神様には無関心であるとは考えられない。

 宮田の申し出に対して「蛙の面に小便」と受け流して、全く協力しなかったとあるが果たして真相はどうであったのであろう。

 阿品と厳島間の渡船は、今の「お上がり場」付近から厳島への渡船である。当時この航路には11隻の渡海船があり、運賃は一人6銭とある。

 この航路は後に宮島口に鉄道の駅が開業し、交通の便の悪い阿品からの乗船客は減少し間もなく廃航路となった。

 大正14年7月にはこの航路東側に新宮島~厳島間の新航路が営業開始している。
by hirosan_kimura | 2015-12-05 10:21 | 神社 | Comments(0)
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 岩鏡神社は、阿品二丁目の突き当りで阿品二丁目が一望に見渡せる景色の良い山の中腹に鎮ります。昔から岩神神社とも言い通称岩神さんと言われています。ご祭神は手摩乳命、阿摩乳命の二柱の神を、阿品の氏神様として古くから祀られています。ご鎮座年月日は不詳ですが、近辺の神社の中でも一番古いのではと言う説もあります。

 昔は阿品川上流の岩山そばにご鎮座せられていましたが、昭和二十六年の台風で崩壊し昭和二十七年に現在の所にご鎮座されました。その後、戸数も増え拝殿が狭くなりましたので、昭和五十七年に氏子の方々の絶大なるご協力を得て拝殿を改築し参道も階段に整備し老人の方も参拝し易い様に手すりを付けました。先祖代々から守られて来た神社を、私達の代に受け、拝殿を改築し参道も整備して、後世に引き継ぐ事が出来た事を大変嬉しく思っております。

 年間の祭礼等は、正月の参拝と七月の第二日曜日に夏祭り、十月の第二日曜日に秋祭りが行われています。又毎月一日と十五日が参拝日となっています。正月元旦午前零時になりますと初詣でに来られますので、灯明をつけ御神酒を用意して午前二時半頃までと三賀日には、一日数回出向いて、お世話をさせていただいています。

 夏祭りと秋祭りには、氏子の方四世帯づつ持ち回りで祭り一週間前の日曜日に神社前の幟を立て掃除をし又祭りの準備と祭礼のお世話をしていただいております。これを当屋さんと言っています。又数人の方が落葉の掃除を年中して下さっています。阿品二丁目老人クラブの方にも、年数回掃除をして頂いています。 氏子総代   西山敬三

平成2年3月31日発行 阿品地区コミュニティを進める会 
「さんさん阿品」9号より 
by hirosan_kimura | 2015-06-27 11:33 | 神社 | Comments(7)
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 昭和二十五年九月のルース台風による阿品部落第一の被害は、岩鏡神社が裏山の崖くずれの為一瞬にして形も分からない位バラバラにコワレタことです。

 その後再建の話がもち上りましたが、なかなか具体化されなかった。ようやく昨年の夏祭の際、話がまとまり再建に決定して、まず一戸当り経費千二百円見当で工事に着手したが予算が足りず二千三百円見当に修正されました。

 幸いに村当局より多大の援助を始めとし他部落・他村より寄付を賜り、総工費十七万円、氏子奉仕日延五百人夫を費やし、遂に本年四月完成したのであります。

 この大事業を完遂できたのは、何と云っても「一致協力」の賜物でありましょう。
  (昭和28年9月15日 世話人本田記) 
by hirosan_kimura | 2014-11-19 08:57 | 神社 | Comments(0)
e0125014_1072421.jpg 阿品の氏神様は神社庁での正式名称は「岩鏡神社(いわかがみじんじゃ)」となっている。
 
 しかし地元の人達で「いわかがみじんじゃ」と呼称する人はまず無く、「いわがみじんじゃ」と言うのが通常である。また親しみを込めて「岩神(いわがみ)さん」とも呼んでいる。

 この神社は本来「岩神社(いわがみしゃ)」「磐神社(いわがみしゃ)」と呼ばれ、「岩神大権現(いわがみだいごんげん)」が正式名称と伝えられている。

 神社に小さな石碑が残されているが、表に「岩神大権現」、右横に「文政十二年」、左横に「九月吉日」と今から185年前に彫られたものも残されている。

 「岩神社」が「岩鏡神社」となった詳しい経緯は不明であるが、大正7年に「佐伯郡史」が編纂された際、阿品の習慣により「神」に「鏡」の字を使用していたので「岩鏡神社」と届け出られたため、この名称が正式神社名となったとある。

 しかし阿品の古い人達の言い伝えにも、「岩神」に「岩鏡」の文字を当てはめていた習慣は聞いたことも無いそうである。

 「鏡」の字を当てはめた経緯は分からないが、神社には鏡のように光る岩が祀ってあったが、戦後間もない台風で神社の建物が濁流で押し流された際、祀ってあった鏡も行方不明になってしまったそうである。

 神社名を届け出る際、「岩神神社」では神の字が重なり紛らわしいので、「神」の字に「鏡」を当てはめて「岩鏡神社」と届出たのかも分からない。読み方も「鏡」の字を当てはめても「いわがみ神社」のままであったのが、手違いで「いわかがみじんじゃ」となったのかも分からない。

 仮に神社名を「いわかがみじんじゃ」と届出たのなら氏子の人達にも周知してある筈であるが、阿品の人々の大半が「いわがみじんじゃ」と総称しているのも不思議であるが、今となっては真相は分からない。

 今では祀ってあった鏡のような岩も所在不明であるが、ある人の話によると密かにこの岩を持ち帰り家の中に隠している者が居ると聞いたことがある。神社に祀ってあった物を家に隠しているような恐れ多いことをする者が居るとは考えられず単なる噂話であろう。
by hirosan_kimura | 2014-05-22 11:29 | 神社 | Comments(0)

№494 地御前神社

 阿品の資料も無いので、今回は阿品には関係ないが「地御前神社」を紹介して見る。
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 これは地御前神社付近を描いた絵図である。年代は分からない。神社の前はすぐ海岸で海中に木の鳥居が建っている。神社左側の川の海岸沿いに大きな松の木が一本描かれているが、昭和30年代終わりごろには残っており、この松のすぐ前を通って毎日小学校に通学していた思い出がある。
 阿品は左手の山の裏側になるが、左端に「火立岩」が描かれている。
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 神社が老朽したのか無くなっていたのかは分からないが、明治四十年に神社再建のための寄付が集められている。神社再建に当たっては、地御前より海外に移住されていた人より多額の寄付があったらしい。
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 神社再建の図とあるが、「拝殿二宇ハ旧藩主ノ建立」と「拝殿再建 横十四間 縦五間」と小さく書いてある。この図では木製の鳥居が海中に建てられているので、計画では海の中に鳥居を建てる予定であったのだろうか。
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 「地御前神社上棟式奉祝記念」とある。
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 神社前に大勢の人が見えるので完成の記念式典でも行われているのであろう。鳥居は地上に石造りで建てられている。
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 神社横の記念碑前のものであるが、記念碑の完成式のものであろうか。
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 神社前の海水浴場の写真である。年代は分からないが、神社前に国道も広電軌道も見えないので昭和6年以前のものである。左端には「有府の水門」の石造りの太鼓橋が写っている。その左には藁屋根の民家も見える。
by hirosan_kimura | 2012-10-09 16:39 | 神社 | Comments(0)
e0125014_10574024.jpg 由緒ある神社ではその神社の故事来歴を記した掲示板などが建てられているが、阿品の氏神様「岩鏡神社」にはそのような説明も無く、神社の由緒などは殆ど残されていない。戦後の台風被害で壊滅する前の神社は写真なども残されていず、神社の配置なども良く分からない。

  №463で人から聞いて想像図を記したが、実際にはかなり異なっているようである。阿品川傍の山裾にあった旧神社は、左図のようであったらしい。

e0125014_1114848.jpg 言い伝えによると岩鏡神社は創建当時からこの地にあったのでなく、遠い阿品の先祖が出雲の国から祭神を分祀し、今の阿品二丁目11番付近の谷に小さな祠を建てたのが、岩鏡神社の始まりらしい。何時の時代か分からないがふじタウン山裾の旧神社の地に移設されたそうである。

 移設後の神社の資料も残されていないが、明治5年(今から140年前)に描かれた簡単なスケッチのようなものによると、山裾に小さな正殿があり拝殿は川の上に建てられいる。神社の敷地は819坪とあるがその内98㌫が山林で、平地の境内地はほとんど無かったようである。

 ただし、この資料も正式に記録されたものでないのでどこまで信憑性があるのかは疑わしい。

※下の図  川の上の建物   誤 正殿  正 拝殿
by hirosan_kimura | 2012-07-03 11:44 | 神社 | Comments(0)
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 各地の神社を参拝すると、大概の神社には神社の由来などを記した説明板があるが、阿品の岩鏡神社には由来などの説明板などは無い。

 以前、神社を管理している人に神社の由来などを尋ねたことがあるが、何時の時代どのような由来でこの神社が開かれたかなどの文書は一切無いとのことであった。阿品の遠い祖先が出雲から神様を分詞したのではないかとのことであった。

 現在、岩鏡神社は阿品の部落の丘にあるが、元々はふじタウン麓の川の傍に鎮座していたが、昭和25年のキジヤ台風(昭和26年のルース台風が正しいと言う人もある。)により神社裏の崖が崩れ、前の川が氾濫し、神社の建物は跡形も無く壊され流失した。

 流失前の神社の写真でも無いかと思うが中々見つからない。誰かに尋ねれば神社の配置でも分からないかと思うが良く分からない。上の図は想像で書いてみたものである。

 正殿と拝殿は別棟でそれぞれ広さは5坪5分3厘8毛との記録がある。神社裏は岩のある崖山で前は川が流れていた。神社境内は819坪くらいあった。大半は山林であったのだろうが現在の神社と比較すると相当広かったのだろう。

 詳しい配置図か当時の様子を記憶している人はないものであろうか。

e0125014_14565748.jpg ある人の話によると、当時の神社は建物も小さく廻りに巨木こそなかったが、巨岩がありこれこそ本当の神社と言う雰囲気であったそうである。

 お祭りには浪花節や明石の「かんま」が来ることもあった。

 岩鏡神社はたくさんの田畑を持っており、その年貢が入るので「金持ち神社」と言われていたそうである。このため神社に要する経費も困ることはなかった。

 明治政府が神社の統廃合命令を出した時も、岩鏡神社は金持ちであったため統廃合を免れることが出来た。たくさんあった神社の田畑も、戦後の農地改革により大半を失うこととなった。

 この写真は何かの行事の際、阿品の女の人が踊っているところであるが、場所は旧神社の境内とのことであるが、確かなものかどうかは分からない。
by hirosan_kimura | 2012-05-30 15:46 | 神社 | Comments(0)
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 阿品の氏神社は「岩鏡神社」である。他のお宮に行くと神社の由来を記した看板が設置されているが、この神社には説明板も無く、由来もはっきりしない。

 戦後の台風で神社の裏山の崖が崩落し神社は跡形もなく壊滅したが、この台風は「キジヤ台風」であった。いや「ルース台風」であったと言われている始末である。

 祭神は「アシナヅチ」「テナヅチ」の二神であるが、古事記では「足名椎命(あしなづちのみこと」「手名椎命(てなづちのみこと)とあるが、日本書紀では「脚摩乳命」「手摩乳命」と標記されている。

 このニ神の漢字表記は古事記と日本書記では異なっているが、遠い昔には日本には文字が無く、漢字の発音の似たものを当てはめていた。かつて「阿品」も「阿字名」と標記されていた時代もあった。

 「アシナヅチ」「テナヅチ」の由来も明確でなく諸説ある。

1 「ナヅ」は「撫づ(撫でる)」、「チは精霊の意」があり、父母が娘の手足を
  撫(な)でて,慈(いつく)しむ様子を表しているという説。

2 「畔(あ)の椎」「田(た)の椎」の対であるという説。
 
3 古語で蛇を「ミヅチ(御づち」と言われたように蛇を指すところから、「脚無  
  し蛇」「手無し蛇」と、手足を持たない蛇神を示すという説。

4 アシナは「浅稲(アサイネ)で晩生(おくて)の稲」、テナは「速稲(トイナ) 
  で早稲(わせ)の稲」をいう説等がある。

 出雲神話の大国主命(おおくにぬしのみこと)の子どもが、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)と素戔鳴命(すさのうのみこと)で、手名乳命と足名乳命は奇稲田姫命の子どもとの神話がある。

 出雲地方の祭神が、遠く離れた阿品に祀られているのか分からないが、原の極楽寺山の「蛇の池」に八つの面を持った大蛇が住み着いていた。

 この大蛇があまりにも悪いことするので、素戔鳴命が追い出し、平良の可愛で斬り殺したところ、この大蛇の首が空高く舞い上がった。

 この蛇の首は地御前の「八つ面谷(やつおもてだに)」の池に潜り込んだとの伝説が残っている。

 この大蛇を祭神とする「八面社(やつおもてしゃ)が、地御前北一丁目のバイパス沿いに今も祀られているが、阿品の「岩神社」もこの伝説と何らかの関係があるのかも分からない。

 それにしても阿品の歴史ある氏神様の、故事来歴が何ら残されていないのは不思議な思いがする。
by hirosan_kimura | 2009-12-30 15:29 | 神社 | Comments(0)