素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:鰆浜( 30 )

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 鰆浜部落は今でこそ新しい住宅が立ち並び、マンションも建ち県病院跡地には60区画の住宅用地が造成され、次々と新築住宅が建ち続けている。しかし昭和40年代に入る前頃には世帯数40、人口300人程度の小さな部落であった。小さな部落ではあったがとても団結力が強かった。この間、部落の将来を左右するような出来事があったが、その都度部落が一致協力して乗り切っている。

 その一つは昭和40年に西広島バイパス工事が事業化決定した際、部落の存続が危ぶまれるほどの計画が発表された。このブログ「№548 鰆浜部落の危機」でも紹介したが部落の半数近くの家屋の立ち退きを余儀なくされると言うものである。
 西広島バイパス出口に当たる部落の国道を拡幅する為、道路沿い20㍍程度区域内の家屋を立ち退かすものである。この計画が発表されるや立ち退き家屋も残される家屋も大騒ぎとなった。立ち退き補償金を目当てに金融機関は預金獲得に各家庭を訪問したり、立ち退き先を検討したり部落始まって以来の出来事となった。

 国道沿いの我が家も立ち退き先となったが、代替地と指定されたのは鼓ケ浜の埋め立て地であった。当時としては阿品の住民から見ればとんでもない地と考えられ、今と違って電車駅も無く阿品で生まれ育った母などは嘆き悲しんでいた。国が計画し発表したものを小さな部落が反対し覆すことは無謀と言われたが、その後部落を挙げて反対活動を粘り強く続けた結果国も折れて、海を埋め立てて広電宮島線を沖側に移設し道路を拡幅することになった。

 部落内で大きな敷地を占めていた「県立地御前病院」の廃止が決定した際、県は跡地に隔離病舎整備する予定であった。隔離病舎は伝染病予防法により感染症患者を収容するための病棟である。今では伝染病患者が発生することも少なくなっているが、当時は珍しいことではなく昭和30年後半に当時の廿日市町では赤痢が大発生し全国でも有名になったこともある。特に高齢者は隔離病棟を「避病院」と呼んで余り良い印象を持っていなかった。この計画も部落を挙げての反対運動を行い、県も撤回せざるを得なかった。この隔離病棟も平成11年の伝染病予防法の廃止に伴い無くなっている。

 山陽自動車道は昭和62年12月に廿日市・大野間、昭和63年3月に大竹・岩国間が開通しているが、大野・大竹間が開通したのは平成2年11月と大幅に遅れている。この3年近くの遅れは阿品とは全く関係ないように見えるが、鰆浜部落が大いに関係しているのである。大竹の山陽自動車の通貨予定地に大きな病院があったが、高速道路を通過させるためにはこの病院の移転が必要であった。公団はこの病院の移転先として鰆浜の県病院跡地を予定していた。

 この計画が発表されるや鰆浜部落では再び反対運動が展開された。折角県病院が廃止されたのに狭い部落内に大病院が新設されることと、その病院が精神病院のための抵抗感もあったようである。公団としては敷地を挟んで大野まで反対側の岩国までは開通し、病院部分を残して両側から工事は勧められているので必死の説得が行われたが、それ以上に鰆浜部落の反対に対する団結力は強く結局は説得を断念せざるを得なかった。

 大野を通過し大竹に入ると山でもないのにトンネル状の道路が現れる。病院は移転できず園部分のみ大きく迂回さすことも出来ず、病院部分のみ遮音等の対策でトンネル状の道路が覆ってある。
(№45 山陽自動車道と阿品)

 


by hirosan_kimura | 2018-12-13 11:30 | 鰆浜 | Comments(0)

№775 そうらんば

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 かつて阿品には「鰆浜」「阿品」「田尻」と三つの字名があった。今では阿品一丁目から四丁目、阿品台一丁目から東・北・西・山の手と無粋な地名に変わっている。
 
 阿品一丁目は「鰆浜」と由緒ある地名であったが、地域では「そうらんば」と呼び親しまれていた。これ後白法皇が厳島に参詣された際、この地より厳島をご覧になったので「聖覧場(しょうらんば)」が訛って「そうらんば」と呼ばれるようになった。「そうらんば」の呼称は自分たちが子どもの頃にはごく当たり前に言っていたが、いまでは使われることもなくこの呼称が分かる人も僅かとなってしまった。

 なお「聖覧場」は毛利元就がこの地より出陣した厳島合戦で大勝利したので、「聖」に「勝」の字を当てはめて「勝覧場(しょうらんば)」と呼称されることもあった。

 鰆浜は小さな部落であるが、厳島合戦の際はこの地に陣地が設けられたり、広電宮島線が宮島口まで開業されていない頃は電車の終着駅の「新宮島駅」もあった。
 宮島航路も現在地でなくこの地より連絡船が運航されていた等、阿品の歴史上由緒ある地である。

 鰆浜の地名はかつて「鰆」が沢山採れる所から付けられた由緒ある地名である。現在の「広電阿品東駅」は阿品にJR駅が開業するまでは「阿品駅」と称していたが、駅名が改められた際せめて「鰆浜駅」にでも改名されていたらと残念な思いがある。

 数年前に亡くなられたが鰆浜には「長門太郎」さんと言う方がおられた。この方は長年町内会長を務められ、鰆浜地区の発展にご尽力された方であるが、郷土の文化や歴史を大切にされ生前「そうらんば 鰆浜の昔ばなし 残したい話」の小冊子を発行されている。ページ数は30ページ余りの小冊子であるが貴重な記録が残されている。この序文に「残したい話は数々あるが、今回は紙数の関係から二十話にとどめた。将来は「鰆浜町内史」をまとめたいと考えているので、適当な箇所があればそこで取り上げたい。」とある。

 自分が退職後に「阿品のことをまとめた資料が無いので、少しづつ調べて将来は阿品の歴史とでも称し本を作りたい。」と話すと大変喜ばれて、「今は体調が悪いので無理だが、元気になったら一緒に調べて行こう。資料は自宅に沢山あるので整理して行こう。」と言われていた。長門さんが元気になられるのを楽しみにしていたが亡くなられてしまった。程なく奥さんも後を追うように亡くなられ自宅は空家のままである。

 もう少し早く一緒に阿品のことを整理しておけば良かった。自宅にたくさん残されている資料を見せて貰えば良かった思うが後の祭りで、残念で仕方ない。

by hirosan_kimura | 2018-12-09 10:01 | 鰆浜 | Comments(0)

№764 ホテル

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 今まで宿泊施設の無かった阿品に、二か所の小さなホテルが出来ている。二か所とも「鰆浜」阿品一丁目に所在している。場所は上図左側が「ホテル ディフィレイア グレイ」、右側が「グローバルリゾート MIYAJIMA  VIEW」である。

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 「ディフレイア グレイ」とは覚えにくい名前であるが山野草の一種「山荷葉(さんかよう)」のことで、透き通るような美しい花を咲かせ、その花が雨で濡れるとガラス細工のようであると言われる。

 このホテルは古くからあった民家の跡地に建てられたが目の前は国道に面し「広電宮島線 阿品東駅」のすぐ傍である。この建物は完成して二か月くらい経過しているがいつ開業するのか気になっていた。
 ネットで空室状態を確認してみると「10月29日~可」となっているので本日から営業開始かも分からない。

 このホテルはこのブログ「№757 小さなホテル」でも紹介したが、木造二階建・客室7室の小さなホテルである。客室定員は16名で和室もあるらしい。一人部屋7,020円、二人部屋5,940円からとありビジネスホテル並みの料金となっている。

 このホテルが建ち始めたころ、このホテルは宮島に来る外国人専用のホテルだろうと地元では噂しあっていた。今朝は雨のためこの付近までは行かなかったが、毎朝の犬の散歩コースであり今後様々な国の人たちを見受けられるようになるのが楽しみである。

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 「MIYAJIMA VIEW」は国道二号線と西広島バイパスの分岐点付近の山の中腹に開業したホテルで、高台にあるため前方に宮島を望み展望の素晴らしい場所にある。

 かつてこの地は厳島合戦の際、毛利元就が陣地を構えた場所で、目の前の浜辺より宮島に向かって小舟で出陣した歴史的に由緒ある場所である。

 このホテルは元ある会社の社員寮を改築したものであるが、全室オーシャンビューであり目の前の広島湾に浮かぶ島々や世界遺産の厳島を望むことが出来る。
 現在18部屋36名の定員となっているが、その内3部屋にロフトを増築し3人部屋とし39名定員とするそうである。宿泊料は一人4,500円からでロフト付であれば4,000円からと安価な料金設定とされている。

 このホテルはすでに8月10日よりオープンしている。展望は素晴らしい場所にあるが、素人考えではビジネスホテルとしての立地は良いとは言えず、その後の利用状況が気になるところである。
by hirosan_kimura | 2017-10-29 10:24 | 鰆浜 | Comments(7)

№757 小さなホテル

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 最近、地御前界隈で外国人の姿をよく見かける。これは地御前神社前に出来た宿泊施設に滞在する人々である。大半が宮島への観光客で広電で三駅目の地御前であるが、中にはJR串戸駅から歩いて来られる人もあるようで大層繁盛している様子である。

 宿泊施設はある会社の研修施設であった建物を改造したものである。ある程度まとまった人数が宿泊できるのか大型バスが駐車していることもある。この地には大正の終わりごろ建てられた料亭のような建物があり、のちに旧国鉄の保養所に変わり「鉄道会館」と称した施設が昭和40年代頃まで残されていたような記憶がある。

 鰆浜(阿品一丁目)の西端で先年まで民家があった地が整地され、新しい施設が立てられている。何が建つのか気になっていたが最近工事が始まり「ホテル」が建つようである。

 ホテルといっても敷地面積180坪、建坪36坪、延床68坪の小さな木造二階建ての施設である。部屋数は僅か7室で民宿に毛が生えたようなミニホテルである。

 こんな場所でこんな小さなホテルで、経営が成り立つのか素人判断で心配な気がしないでもない。
しかし地御前の繁盛振りを見れば、広電駅にもJR駅にも近いのでPR次第で外国の人に周知されれば多くの人が宿泊するかも知れない。

 この地は毎朝犬の散歩コースである。来年の春過ぎにはこの付近で外国人を行き来されるであろうが、片言でも駅までの道順を英語で説明できるようになりたいものである。
by hirosan_kimura | 2016-11-08 11:07 | 鰆浜 | Comments(4)
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 古い写真が無いかと色々当たってみるが中々見つからない。この写真は昭和40年頃、今から50年くらい前の広電阿品(現 阿品東)駅付近の国道風景である。国道は舗装の更新か工事中である。

 正面は吉岡の牡蠣作業場でオート三輪車やコンベアーが見える。コンベアーの真上には「県立地御前病院」の看板が見える。ここは国道から県病院への入口の一つであった。右側には鮮明では無いが「半鐘台」「藤川商店」「吉田病院の病棟」等が見える。

 今では道路も拡幅され自動車が行き交い、当時ののんびりした様子はうかがえない。
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 この写真も昭和40年頃の鰆浜の海岸附近を見下ろしたもので部落の建物は見えない。同じ場所から写した写真もあったがこの写真はかなり鮮明である。

 お上がり場向かいの山の宅地造成をした間もない頃と思われる。すぐ下の山を崩した場所は、子どもの頃の良い遊び場の一つであった。 はるか遠く宮島が望める・
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 今は無い「火立岩」から鰆浜の海岸を臨んだもので、この写真も昭和40年頃のものである。上部の松の枝は「火立岩」の上に聳えていた松のものである。

 手前の沖に突き出た堤防は「波止(はと)」と呼んでいたが、子どもの頃には小魚を釣ったり海に飛び込んだりして良く遊んでいた。

 堤防付近に長い竹があるが、これは牡蠣筏が壊れて流れ着いたもので風呂の焚きつけなどに利用していた。正面のお上がり場には松が鬱蒼と茂っている。
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 国道を走る車も少なく、大人も子どもも国道と広電線路を自由に横断し、海にあさりを掘りに行ったり、魚釣りや遊びに行っていた。
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 この写真は西広島バイパスが阿品まで貫通する直前のもので、昭和48年暮頃の沖山附近の様子である。

 左側はバイパス下り車線の高架で、右側の上部がバイパス上り車線である。中央は在来の国道二号線で拡幅工事が行われている。

 西広島バイパスは翌年昭和49年4月3日正午に、五日市~阿品間の供用が開始された。
by hirosan_kimura | 2015-10-01 11:48 | 鰆浜 | Comments(4)

№699 鰆浜町内会

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 魚ヘンに春と書いて「さわら」と読みます。これに「浜」がついて「鰆浜」がわが町内会です。むかし、ここらは浜辺で、さわらの水揚げ場所だったのでしょうか。

 海岸に松林があって、明治天皇が沖の宮島などでご賞覧されたとかで、「しょうらんば」、それが「さわら浜」とダブって「そうらんば」となったという人があります。世帯数は五十、とにかく小さくても古い町内会です。

 わが町内には、電車もバスも阿品停留所があります。ラッシュ時は、阿品台一丁目から三丁目の人が多く、町内の半分から沖へ行列ができます。

 古い人も新しい人も早く心安くなるために、「お盆のつどい」と「新年のつどい」を始めて五年になります。これを「そうらんばのつどい」といい、町内会のど真ん中の広場でやっています。

 三年前、「さわらはま音頭」という町内会の盆踊り唄を作り、8月14日「お盆のつどい」に踊っています。「つどい」には、周辺から参加される方がふぇてきました。この次は皆さんもぜひお越しください。

昭和58年3月24日発行 
        阿品地域コミュニティをすすめる会「コミュニティ広報」より
by hirosan_kimura | 2015-03-25 11:11 | 鰆浜 | Comments(0)
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 阿品に住んでかなり年数を経た人でも、地名の「鰆浜」が出てくると「鰆浜」とは何処ですかと尋ねる人がある。鰆浜で生まれ鰆浜に長年住んでいた者としては寂しい思いをすることがある。

 鰆浜の名称は「町内会」「子供会」「集会所」「公園」などに使われるのみで、鰆浜以外の人たちにとっては馴染みの無いものとなってしまった。平成13年には「広電阿品駅」が「広電阿品東駅」に名称変更されたが、せめて「広電鰆浜駅」にでもなり「鰆浜」の名称が後の世に残ればと悔やまれる。

 地御前村の時代には本郷に対して、飛郷の阿品には「鰆浜」「阿品」「田尻」と三つの大字があった。当然これらの地名は日常茶飯事のように使われていた。

 「田尻」は家も数える位しかなく部落としては形成されていなかったが、阿品では「鰆浜部落」と「阿品部落」の二部落で成り立っていた。鰆浜部落は一つの町内会であったが、阿品部落は何時の時代か分からないが西と東に別れていた。
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 地御前村時代の住所の表示は「佐伯郡地御前村字鰆浜○○番地」のように表示していたが、廿日市町になってからは「佐伯郡廿日市町地御前○○番地」のような表示になった。

 土地の表示には耕地番と山番地があり山を造成して住宅地にした場合、山番に枝番を付けたり新しい番地を付けたりしていた。住居表示前のふじタウンは4000番台、阿品台は3000番台の番地であったように記憶している。

 このように番地は複雑となり番地を頼りに家を探し当てるのも困難となり、阿品では昭和57年に町名の設定と住居表示が実施された。概ねであるが鰆浜は阿品一丁目、阿品は阿品二丁目、田尻は阿品四丁目と設定された。町名の設定に当たっては、主要道路などを町境としているため旧字境とはかなり異なっている。

 上図の青線で囲まれた部分は「阿品一丁目」に設定された区域である。概ね旧字の鰆浜区域であるが、左の赤い区域は旧字阿品の一部が阿品一丁目に編入されている。

 字鰆浜と字阿品の境は山の稜線を境としていたが、過去に県病院に隣接する山を造成し住宅地に開発する計画があったが、山の稜線を町境にすると住宅地の真ん中に町境が生じるので、山の南端を境としたのかも分からないが今ではこの計画は白紙となっているらしい。

 上図右側の薄い青と緑の部分は旧字田屋区域に属していたが阿品一丁目に編入されたものである。薄い青色地区は別荘や広島に支店の有る会社の社宅などがあったが、田屋部落とは隔たっており古くから鰆浜の町内会に属し、子供会活動を始め各種行事なども一体となって行っている。

 緑色の部分は厳島合戦の際に毛利軍が陣地を構えていた山があった。後に射撃場が設けられていたこともあったが今では小さな住宅団地となっている。

 旧字に属していた田屋部落とは西バイパスとで分断され阿品一丁目に編入されたが、小学校も公民館も遠く阿品区域に属するのは無理があるようである。道を挟んだすぐ向かい側はコミュニティも小学校も地御前に属している。

 一昔前までは、民家が一軒しかなかったJR奥の谷にも今では沢山の住宅が建てられている。しかしこの地域も高齢者が多くなり、子どもも少なくなり活気が無くなっているそうである。

 今県病院の跡地が売りに出ている。この地に住宅がたくさん建てられ若い人と子どもで溢れるような町になれば良いと考えるが果たして跡地はどのように変わるのだろう。
by hirosan_kimura | 2015-03-16 13:00 | 鰆浜 | Comments(0)
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 この写真も昭和38年(今から52年前)に撮影された鰆浜(阿品一丁目)の写真である。

 手前の建物は廃止された県立地御前病院で今では空き地となっている。中央上部の二階建て建物は吉田病院でいまではマンションが建てられている

 海岸付近は大きく変わり、バイパス工事の為、帯状に海が埋め立てられ広電軌道は海側に移設されている。この工事の為上部に見える「火立岩」と海岸に突き出た「波止」も無くなってしまった。

 鮮明ではないが海中に「牡蠣ひび」が建てられている。今では牡蠣の養殖は海岸より遥か沖の筏に吊下げて行われているが、当時は海岸沖に竹を建てそこで牡蠣の養殖が行われていた。現在、浜辺にある牡蠣ひびは牡蠣の幼貝を育成するものである。

 余り鮮明な写真では無いが、「鰆浜」と言えば長年見慣れたこの写真の風景が思い出される。
by hirosan_kimura | 2015-02-09 10:27 | 鰆浜 | Comments(4)
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 今では特別な場所でないと走っていない蒸気機関車も昔は極当たり前のものであった。JRを走るのは殆どがが電気機関車で田舎などに行くとジーゼル機関車がみられる。

 山遊びなどをしていてトンネルの上付近にいると、白い煙や時には黒い煙がトンネル入り口上にに舞い上がり、周りの景色が見えないほどになり石炭の独特の臭いを嗅ぐのも面白かった記憶がある。

 この写真は鰆浜(今の阿品一丁目)の線路を、白い煙を吐きながら蒸気機関車が走っている珍しい写真で、昭和38年(今から52年前)に撮影されたものである。

 写真右側の赤い瓦の建物は今は無い県立地御前病院である。ここに写っているのは炊事棟や職員宿舎などで、平屋の病棟は右側手前の方にあった。

 県病院閉鎖後この地は空き地となり、長年地域で盆踊り・とんどなどの催し物際利用され、お年寄りがゲートボールなどに利用されていてが、県が売却することとしている。何に活用されるのか分からないが住宅地にでもなれば賑わいを取り戻すであろう。

 線路右側、病院の建物と山の間の一枚の田んぼには現在ではアパートが建てられている。トンネルの上付近とそれに連なる右側の山の地形は殆ど現在と変わらないが、木々が生い茂り足も踏み入れられない状態である。

 線路左側の山は阿品台ニュータウンの造成により地形は大きく変わっている。列車の中央左側辺りから阿品台に上がる階段や下水処理場などに変わっている。

 線路の左側奥の谷には、現在民家やアパートなどが沢山建てられているが、この写真が撮影された時代には一軒の民家が有るのみで火葬場もある寂しい場所であった。

 この写真と比較するため現在の様子の写真を撮ろうと、鰆浜と阿品の境の山に登ったが長年人の入らない山は荒れ果て、木々が生い茂り比較する写真を撮影することは出来なかった。
by hirosan_kimura | 2015-02-08 10:27 | 鰆浜 | Comments(2)
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 鰆浜の海岸は干潮になると沖合いまで磯が広がり、あさりを掘りに行くと子どもでもたくさん採ることが出来た。火立岩に近い磯では大貝・ミル貝なども面白いほど採れていた。お上がり場に近い浜辺ではたくさんは採れなかったが、蛤(はまぐり)が見つかることもあった。

 浜のすぐ沖の水中には藻もたくさん生えており、えびやたこ・小魚などもいて夏の夜にはカーバイトの灯りで浅瀬を網を押して行くと獲物が獲れ、この漁りを楽しみにする人もあった。

 夏の蒸し暑い夜に堤防で夕涼みをしていると、闇夜の中を漁火が行き交い夏の風物詩でもあった。

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 昭和43年には西広島バイパス工事のため、道路の拡幅・広電の移設・堤防沿いの道路の新設用地として、海岸沿い長さ920m・巾最大35mの埋立が行なわれた。埋立面積は7,268㎡であった。

 昭和49年には無くなった浜辺を再生するため、沿岸漁業改善事業により鰆浜沖に人口干潟が造成された。干潟には山砂が入れられこれによりあさりなどは消滅してしまった。

 人口干潟には牡蠣の稚貝を育成するため、竹ひびがたくさん建てられた。あさりの稚貝も放流されたが浜は山砂のせいか元のようにたくさん増えることもなかった。

 人口干潟は工費8,600万円でフジタ工業が造成した。

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 昭和43年に人口干潟造成された人口干潟も、埋立てにより潮流が変わったせいか搬入された砂が沖合いに流され浜はやせ細るばかりであった。

 このため平成8年に人口干潟改修整備工事が行なわれた。この工事は南北延長700㍍・東西巾95㍍、工事面積6・7㌶の干潟の整地や牡蠣棚の復旧が行なわれた。

 また土砂の流失を防ぐため沖合いに土止溜堤が新設された。この堤は基礎捨石の上に巾4・2㍍・高さ2・5㍍のコンクリートブロックを設置し、沖側には波除の被覆石が積んである。

 この堤は2ケ所設けられそれぞれ延長182・25㍍と115㍍あり、総延長297.25㍍となっている。

 これらの工事は工費3億6,668万円で五洋建設が施行した。

 これらの工事により浜辺の砂の流失は止まったが、あさりなどは以前のようにたくさん見かけられない。潮の良い時にはたくさんの人達が潮干狩りを楽しんで居られるが、掘れるあさりはほんの僅かで貝を入れたバケツの底が見えるくらいで、見ていて気の毒なような人もある。
by hirosan_kimura | 2014-07-08 13:27 | 鰆浜 | Comments(2)