素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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 昨晩は厳島神社の管祭があった。夕方海べりに行ってみたが、御座船を囲む船は数隻のみ。海岸で見物する人は数得るほど。往年の絢爛な頃と比較すると寂しい限りである。厳島神社の管絃祭は日本三大船神事の一つで、他は「大阪天満宮 天神祭」「松江城山稲荷神社 ホーラエンヤ」がある。

 平成20年12月13日に開始したこのブログも750回となった。当初から何回目で終了とは決めていなかったが、250回を過ぎた時点でせっかくの記事をブログに終わらすのも残念なので冊子で残すこととした。その後は500回目を目標として2冊目の冊子を作製した。

 500回を過ぎるとさすがにネタも無くなり、いつまでも内容の無い記事を重ねるのも仕方ないので750回を目標に何とか続けることとした。501~750を第三集でまとめ、第四集は何時になるか分からないが「阿品歴史年表」「阿品の地名・地図」「阿品の方言」を纏めたいと考えている。

 当初はブログを公開すれば地域の人に興味を持って閲覧してもらい、新しい情報を提供してもらったり間違いを指摘していただけることを期待したが、地域の方で開いて見る人はほとんど無いようである。

 むしろ他地域の人や阿品を離れて長年経った人たちの目に止まり、情報や貴重な意見をたくさんいただいた。またこのブログをきっかけに数か所の高齢者サロンや、小学校の3、4年生に阿品の昔の話をさせていただく機会を得ることができた。

 このブログを見る人よりいつまでも続けてほしい、新しい記事がなくても何時でも閲覧できるように残してほしいとの声を聞くがそうも行かないので、近々このブログを閉鎖したいと考えている。

 阿品のことで知りたいことがあれば早めに閲覧されたらどうであろうか。ちなみに「ふるさと 阿品 よもやま 〇〇〇〇」のように〇〇〇〇に調べたい「岩鏡神社」「火立岩」を入れるとそれらに関する記事が抽出できます。

 面白くもないブログであるがたくさんの方に閲覧いただきありがとうございました。感想やご意見があればコメントいただければ幸いです。

 上記の航空写真は終戦後間もなくアメリカ軍が撮影したものである。武田団地・阿品台・ふじタウンも造成されていず、阿品三丁目も海中の中。我々が連想する阿品はこの写真の風景そのものである。
by hirosan_kimura | 2016-07-21 19:48 | その他 | Comments(20)
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 たいした話題もなくブログもしばらくは休眠状態である。

 27日の夕刻にはサミットを終了したオバマ大統領が広島を訪問するため、岩国基地から広島西飛行場跡までヘリコプターで飛んだ。はるか上空を飛ぶため大統領の姿など見えるはずもないが、二度とこのような機会はないのですぐ近くの堤防まで出てみた。

 4時前に大統領専用機が岩国基地に到着し、5時頃には広島に到着となので4時30頃堤防に行ってみると、早くも何人かの人たちが今か今かと岩国上空方面に目を凝らしている。

 4時40分になっても50分になってもオスプレイもヘリコプターも来る気配もなく、空を見上げていた人たちも、宮島の沖側を飛んでいき能美島沖を回ったのだろうと勝手なことを話していると、55分頃突然上空を音が鳴り響き、あっと云う間に飛び去り広島に到着してしまった。

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 カメラを構えて写真を撮ろうと待ち構えていたが、安いカメラで望遠の機能もちゃちなものでやっと機影を捉えた程度の写真になってしまった。

 事前の情報ではオスプレイが2機同行すると聞いていたが、1機しか見ることができなかった。

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 ヘリコプターは2機飛んできたがどちらに大統領が搭乗しているのか分からない。

 いずれにしてもはるか上空をあっと云う間に通りすぎたヘリコプターであるが、2機の内のいずれかに世界を動かすアメリカの大統領が乗っている機影を見ることが出来たことは、二度と経験出来ない貴重な出来事であった。
by hirosan_kimura | 2016-05-28 12:07 | その他 | Comments(0)
e0125014_13374599.jpg 平成20年12月13日に第一回目を投稿し今回で740回目となった。当初は原稿材料もたくさんあったが、回を重ねるごとにネタも無くなり750回を最終目標に何とか頑張ることとした。

 ブログを始めたきっかけは、退職した翌年に近所の高齢者の方より、西小学校の子どもたちに阿品の昔の話をしてもらえないかと持ちかけられたのが最初である。

 子どもたちに話をしたり公民館で歴史の講座を受講するなかで、せっかくなら阿品のことをもう少し調べてみよう、調べた資料を何とか残そうと始めたのがこのブログである。

 そうこうしている内にどこをどう廻ったのか分からないが、鰆浜の高齢者向けのサロンのお世話をしている方から話をしてもらいたいとの依頼があった。最初は人前で話すのは苦手だ、遊び半分で昔のことを調べているだけで人前ではなせるようなものではないと断わっていた。

 そのうち何回もお願いされるし、生れ育った地域でもあり、サロンの代表者の方にはこれまで色々お世話にもなったここと等もあり、平成22年2月10日に集会所で話をさせていただいた。

 拙い話にも関わらず結構好評で喜んでいただいたのが印象に残っている。最初は小さなパネルで写真や絵図等の説明を行っていたが、その後プロジェクターを購入し大きな画面を映すと説明もし易いし、見ていただく方も見えやすいと好評であった。

 ある時、パソコンをプロジェクターに接続し準備していたがいくらいじっても画面が表示されず、開始時間は迫って来るしあわてまくったことがことがある。結局うまく接続できず世話役の方よりはは画像無しの話だけで良いと言われたこともあった。幸い今日映像で映す予定の画像をパネル化したものでお茶を濁したが、肝を潰す思いもあった。

 最近はほとんど声が掛かることも無いが、その後あちこちのサロンなどで話をさせてもらった。中には一箇所のサロンから何回も声を掛けられたこともある。限られた地域の中でのこと何回も話すことが無いと断わっても「お年寄りは少し前に聞いたことでも忘れているので、前回と全く同じ話で良い」と言われてもそうも行かないのでその都度話す内容を工夫したこともある。

 小学校では平成18年から3年生・4年生を対象に話をしたが、昨年の1月を最後に話には行っていない。この間何人の子どもに話をしたかは分からないが、この間話をする場所は地域の集会所であったり、数名の子どもが自宅に来たり、ある時は公民館でおこなったり、最近では小学校で話をするなど場所がコロコロ変わっていったが何故なのだろう。

 平成22年の11月に我が家で行った課外授業の参加者の一人S君とはその後偶然話すきっかけがあった。現在でも犬の散歩の際登校中などに良く出会う。挨拶を交わす程度であるが4月より高校生。会う機会もなくなるのであろうが寂しい思いがする。

 ブログのお陰で思わぬ体験やたくさん人を知ることが出来た。
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 前々回に「動かない県病院跡地利用」を紹介した。今朝犬の散歩で通り掛かると少年たちが野球の練習をしていた。
by hirosan_kimura | 2016-03-05 14:59 | その他 | Comments(2)

№736 阿品あれこれ

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 JR阿品駅は平成元年に開業し26年経過した。ホームの屋根は橋上駅舎の下部分しか無く、8両編成で有れば屋根の有る部分は極一部で、大半は屋根の無いホームで列車を待つこととなる。

 阿品駅のすぐ隣の「宮内串戸駅」は阿品駅より一年早く開業している。この駅も当初はホームの屋根は極一部しかなかった。乗降客よりは開業後間もなくホーム屋根延長の要望が出され、早いうちにホーム上に屋根の延長工事がされている。

 このたび阿品駅でもやっとホーム上の屋根の延長工事が始まった。阿品駅より一年早いだけの宮内串戸駅にはとっくの昔に屋根が延長され、阿品駅ではやっと工事が開始された年数の差は乗降客数の差によるものであろう。宮内串戸駅は阿品の二倍の乗降客数であるらしい。

 屋根の延長工事は乗降客への安全配慮が一番なのであろう。線路敷の法面と並行して走る狭い市道を半分交通止めにして工事用の敷地を確保して進められている。

 長年不自由を余儀なくされた乗降客も、三月の終りには雨の日も安心して列車を待つこととなる。

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 阿品市民センターは昭和56年3月に開館して早いもので35年になる。少し前までは公民館の名称であったが今では市民センターと称している。我々には市民センターと呼称するより公民館の方が親しみがある。以前は特別用事がなくてもふらっと寄って職員と世間話などをするのが日常茶飯事であったが、今ではそのようなこともなく久しく公民館に行っていない。

 建設当時は三階建の建物にエレベーターという発想もなかったが、高齢化が進んだりバリアフリーの信念も浸透し、やっと阿品市民センターにもエレベーターの設置が進んでいる。
e0125014_11223071.jpg この工事は平成27年6月19日に着工され翌3月25日完成と工期が長すぎる気もするが、エレベーターの新設にあたり既存のトイレやその他の改修も必要とするのだろうが、内部でどのような工事がされているのか外からはうかがい知れない。

 いずれにしてもエレベーターの完成後は、高齢者に限らず全ての人たちに使いやすい施設になるであろう。

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 昨年より田圃を埋めて宅地が造成されていたJR駅裏の宅地に早くも住宅の建設が始まっている。十数画の宅地に一斉に建築が始まっている。仮設トイレが数棟設置されているのが目立つが、素人考えではこれほど仮設トイレを設置しなくても一棟あれば十分な気もする。建築業者が異なれば一棟の仮設トイレを共同で使用できないのであろう。
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 この現場の川を挟んだ反対側も田圃を埋め立てて数棟分の宅地が造成されている。ここでも早くも住宅の建設が始まっているが、その中の一棟では地鎮祭のため紅白の垂幕が張られている。

 少し前までは家を新築する際は必ず地鎮祭を執り行い、神主さんに清め払ってもらうのが当たり前であった。建売住宅で地鎮祭が行われないのは仕方ないにしても、注文住宅でも地鎮祭を行わないのが当たり前になってしまった。

 他の地域では高齢化が進み子どもの数が減り、小学校の統廃合も珍しくない。新築された住宅は比較的若い人の居住者が多く、子どもも増えて幸いなことである。
by hirosan_kimura | 2016-02-10 13:06 | その他 | Comments(0)
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 この付近を通り掛った時いつも気になっているが、阿品公民館の裏にある消防団車庫に「半鐘」が吊下げられている。緊急時に鳴らすためでなく、どこかで使われていたものを、モミュメントのように飾ってあるようである。

 半鐘とは小型の釣鐘のことで、江戸時代、火の見櫓の上部などに取り付け、火災・洪水発生時などに鳴らし、地域の消防団を招集するとともに、近隣住民に危険を知らせて居たいた。

 余談であるが火事が鎮火の際は2点連打されるが、この2点連打を「おじゃん」といい、転じて今までやって来たたことが全て駄目になることを「おじゃんになる」と言うらしい。

 現在ではサイレンや防災無線などに役目を譲り、残された半鐘は僅かとなっているらしい。平成18~9年前後には国際的に金属の価格が高騰し、日本全国で残されていた半鐘の盗難が相次ぎ、スクラップにされ中国に輸出されたそうである。

 近所の人に尋ねるとこの半鐘は、阿品二丁目に設置されていたものを、撤去後に記念にこの場所に飾っているとのことである。しかし岩鏡神社にも同じような半鐘が保管してある。
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 こちらの半鐘には昭和51年5月に阿品に設置してあった半鐘が、道路工事により撤去されたものを神社で保管していると記入してあるので、阿品二丁目にあった半鐘に間違いないであろう。。

 消防車庫に飾ってある半鐘は一体どこにあったものだろうか。色々尋ねてみるがそれぞれ言い分が異なり詳しいことは不明である。

e0125014_10364271.jpg 阿品二丁目の半鐘は農協の少し沖側の向かい側にあった。小さな写真を拡大したので不鮮明であるが、阿品中央の道路が改修されたさい撤去されたのは間違いないであろう。









e0125014_1037669.jpg 半鐘は二階の屋根くらいの高さのコンクリート柱に取り付けられ、鉄の梯子がついていた。











e0125014_10375533.jpg 鰆浜の半鐘は藤川商店横の国道沿いに設置してあった。明瞭な写真があれば良いがなかなか見つからない。

  高さは電柱を少し伸ばしたくらいであったが、子どもの目から見上げればとても高く感じていた。小さな子どもは恐ろしくて登ることもなかったが、小学校高学年くらいになると悪戯で登る者もいたが、危ないので大人に見つかるとこっぴどく叱られていた。

 それでもスリル満点なので性懲りもなく登っては叱られていた。上から子どもが落ちて怪我をした話も聞かなかった。

 半鐘は警鐘(けいしょう)とも呼んでいたが、鰆浜ではこの鐘が鳴り響いた記憶はない。

 
 それにしても消防車庫の半鐘は何処にあったもので、鰆浜の半鐘は何処に行ったのであろう。
by hirosan_kimura | 2015-11-07 12:05 | その他 | Comments(7)

№652 村の孝子

e0125014_913511.jpg 昭和9年の「地御前村基本調査」に人物の欄があり、孝子について紹介されている。
 「孝子(こうし)」とは「親孝行な子供」とある。









惣七妻さつ
 惣七は地御前村の惣十郎が子なり。幼いと時広島に出で人に仕ふ。己が身の価も年に増して受けるるが残らず親下に送りぬ。
 加え珍しき物を得れば使を求めて遣わしける。されど心安からずやありけん。遂には仕を止めて取り養う。
 家貧しく田畑も無け父が業を継ては、毎に魚を釣り歩き力を極めて親の衣食を営む。
 妻を迎えて名を「さつ」といふ。これも心優しき者にて舅姑によく仕へり。惣十郎行商の帰り遅き時は、惣七自らは如何に疲れたりとも之を途中に出迎え籃(かご)を受取り伴いたれば、さつは盥に(たらい)に湯を立てゝ置き草履を脱がせ父の足を荒い、食事を勧むなど夫婦限りなし。
 母いつの頃か狂気して無理を言い出ることあれども、夫婦同じ心にて良く言いきかしなだめいたわるなど、愛嬌深き者なればよくごとしを得む。
寛政五年七月十六日 夫媲(つれあい)に米五俵賞し賜る。

仁左衛門女もと
 「もと」は早く母に別れ父に仕へて孝なり。家極めて貧し。兄十蔵は運船を業とし。
 もとは十四・五才頃より同村の源右衛門に仕へ、凡十年主人より給へる故衣の類は皆父に送り、兄弟力を併せて孝養せり。
 父病みて手足言語不自由になりしかば、兄は運業を止めて近き辺に人仕事を求めて看病に力を尽くしけるが、其の身も亦病みて父に先立ち逝くきぬ。
 もとは主家に暇を乞い家に帰り父を介抱しけるが、債務に迫り家宅調度皆人手に渡れり。されど旧主源右衛門の助力によりて買取りて、これを貰いたり。
 父は病み、物のたくわえもなくなりたれば一入(ひとしお)生計に励み日毎に人に雇われ、婚姻などは固く拒みて父の療養のみ力をつくせり。
文化中四年六月 米五俵を賜りて賞せらる。 
by hirosan_kimura | 2014-08-26 10:27 | その他 | Comments(0)
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 昭和40年代・50年代頃までは、夏になると自転車や徒歩で周遊する学生などがお上がり場にテントを張って泊まっているのを良く見かけていた。今では松枯れで無くなったが、十数本の松の大木が公園に生い茂り公園全体が松の枝葉で日陰があった頃である。最近ではテントが張られていることは見られなくなった。

 平成10年の初め頃、一つのテントが張られ住所不定の人が住み着くようになった。お上がり場公園には汲取りながらトイレも有り水道も自由に使えるので日常の生活は何とか送ることが出来る。

 その内一つのテントが二つになり、廃車寸前の車を持ち込み、車の中で寝泊りする人もあった。

e0125014_9471610.jpg その内、どこから集まるのか分からないが数人の人が集まり、日中は日陰に寝転んでいたり談笑しているのを見かけることもあった。夜になると酒盛りをしているようなこともあった。

 この人達は働いていないので生活費はどうしているのだろうと思っていたが、ある人の話によると近くのスーパーで賞味期限切れた廃棄寸前の食料を貰っているのだろうとのことであった。

 また、近くの浜辺で「ごかい」などの釣餌を掘って釣り人に売ったりしていた。釣餌は釣具店で購入するより安く新鮮なので釣り客のお得意さんも出来ていたそうである。釣り客の中には何時どの位の量の餌が欲しいと予約をする者もあったそうである。

 またそばの海岸で「あさり」を掘って売ることもあるそうである。この当時でも阿品で獲れる「あさり」は少なくなっていたが、この人達は時間だけは持て余しているので結構な量の「あさり」を獲っていたらしい。

 しかし身元の分からない人が常時数人たむろし、不気味なので公園に近づく人も少なくなり8月の初めに近所の人が市役所に苦情を申入れ退去してもらうよう依頼した。

 市役所では現地に行き度々退去を申し入れたが、この地の居心地が余程良いのか中々退去されることもなかった。

 12月になると新に男女一組がテントを張って住み着いた。この男女一組は自転車で日本各地を旅行している人であったが、市役所の度々の退去要請により暫くしてこの地を離れられた。

 再三の退去勧告によりその内一人の人が退去されたが、何のことはない。国道を挟んで向かい側の小高い山の中腹に移動されたただけであった

 翌年2月になっても退去されないので市役所も痺れを切らして水道を止めること含め厳しく指導した結果、一週間以内に退去する旨の確約を得て2月中旬に3名全員がやっと退去された。

 この3名も公園からは退去されたが向かい側の山に移動するだけであった。この小高い丘は別荘地として開発されたが利用されることも無く雑僕が生い茂り荒れ果てた地である。

 周辺から見てもこの地で何人かが住み着いて居られるとはうかがい知れないが、暫くこの地で生活をして居られた数組の人達もいつの間にか退去され、今では敗れたテントの残骸や生活用品が散乱しているだけである。
by hirosan_kimura | 2014-08-03 10:59 | その他 | Comments(2)

№646 調整池

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 このブログ№99で「阿品のダム」を紹介した。地元では「ダム」「調整池」とも呼称している。この調整池は農業用ため池との兼用で昭和50年11月に完成している。

e0125014_11132556.jpg この調整値池は阿品台ニュータウン造成時に造られ、団地の西側98㌶の流域から流れる雨水を調整し下流に放流している。

 調整池の貯水面積は約8,600㎡で平常時の水深は約4・6㍍、満水時の水深は6・6㍍で見た目よりは深くないようである。貯水量は4万2,500立方㍍とされている。

 この貯水池は団地内に大雨が降った際、一気に下流に大水が流失しないよう水量を調整しながら放流しているが、阿品二丁目地内の田畑などの灌漑用水の役目を果たしている。

 しかしこの調整値池の完成時には下流にたくさんの田畑があったが、JR駅の新設などによりこの地の利便性が増し、田畑を埋め立てて住宅地が造成され残された田畑も僅かとなってしまった。

 流出水の調整機能としての役割は残るが、溜池用としての役割は近い将来には終わるのではなかろうか。

 ダムが完成して誰かが放流したのか鯉などが繁殖し、子どもたちがダムの周辺で魚釣りをしていたが、遊んでいた子どもが溺れ死んでからはダム周辺は立入禁止となっている。

 また堰堤の脇に歩行用階段があり、阿品駅を利用する廿日市西高校の生徒や地域の人達が利用していたが、この通路も防犯上の理由から閉鎖され、ダム周辺には近づく人も無くひっそりとしている。

 しかしダム周辺の法面には自然の樹木が残された場所もあり、小さな湖水ではあるが水鳥などが遊泳していることもある。

 周辺が開発し尽くされた阿品ではあるが、唯一残された広い空間ともいえる。
by hirosan_kimura | 2014-07-24 11:51 | その他 | Comments(4)
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 本日は毎年恒例の海のクリーンアップ作戦が行なわれた。この作戦は平成5年に第一回目が行なわれ、和歌山県から大分県に至る瀬戸内海に面した県で一斉にに海の清掃が行なわれる。廿日市では地御前神社前と阿品のお上がり場周辺で清掃に取り組んでいる。

e0125014_11365277.jpg 第一回目が行われる際、生活環境課に属していたので最初から拘わっていた。初めての取り組みで戸惑うばかりであったが、大勢の人に参加してもらうため、町内会・子ども会・老人クラブ・その他の団体に呼びかけた。 予想以上にたくさんの人に集まってもらい主催した方がビックリするくらいであった。

 海のゴミは海草などが浜に打ち揚げられた物も多いいが、相変わらず牡蠣養殖による廃棄物、針金・プラスチック管・発泡スチロールの残骸などが特に目立つのは、以前も現在も変わりない。
by hirosan_kimura | 2014-07-19 12:02 | その他 | Comments(0)

№624 新開の樋門

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 JR駅前あたりは現在では駅前広場、駐車場等が整備されているが、昭和40年代までは国道より一段と低地で一面田畑が広がっていた。この地は明治12年(今から135年前)に海岸を埋立てて造成され阿品新開と呼ばれていた。低地のため台風や大雨の際は度々田畑が冠水していた。

e0125014_133537.jpg この写真は三丁目の海岸が埋立てられ調整池を埋立てる直前であるが、左側の国道と比較するとかなり低地であったことが分かる。




e0125014_1343545.jpg 上流より流れ出た川の水は、干潮時にそのまま海に流し、満潮時には池洲に貯留されていた。上の図の赤線辺りに国道と広電軌道下に排水管が敷設され海と繋がっていた。池洲の水が流れ出る場所に満潮時に海水が逆流しないよう樋門が設けられていた。

e0125014_1383763.jpg この樋門は水の流れにより自然に開閉する「無動力自動開閉ゲート」と呼ばれるもので、干潮時には海側に開いた樋門より自然に川の水を海に流すようになっていた。満潮時には海側から押される海水の圧力で自然に樋門が閉じて海水が内側に流れ込まないようになっていた。

 樋門にゴミや流木などが引っ掛かると満潮時でも完全に閉まらず、海水が内側に逆流することもあった。このため、毎日二回ある潮の満干の際には樋門にが完全に閉まっているか点検する必要があった。何かが樋門に詰まっている際にはそれを取り除いたりする必要があり、日々の管理を怠ることは出来なかった。

 満潮時には樋門が閉まり川の水は池洲に溜まるが、大雨の際には池洲の貯留能力を上回るほど溜まった水が、田畑や附近の民家まで冠水することも珍しくなかった。

e0125014_1373480.jpg 三丁目の海岸が埋立てられ阿品新開が整備された際、池洲は埋め立てられ二丁目の公園の地下に貯留池が設けられた。また、三丁目の海岸沿いに排水ポンプが設けられ、大雨が降ってもポンプで排水出来るので阿品二丁目が冠水することも無くなった。

 かつての駅前あたりは田畑がひろがり田畑と田畑の間には池状になっていた。子どもの頃はここで鮒を釣ったり亀やドジョウなどを獲って遊んでいた。水際に繁る蒲の穂でチャンバラ遊びなどをしたことが懐かしく思い出される。
by hirosan_kimura | 2014-03-05 14:01 | その他 | Comments(0)