素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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№777 小さな駐車場

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 阿品地域では田畑が埋め立てられ宅地化が急速に進んでいる。最近JR駅すぐ傍の畑が埋め立てられ住宅地となっている。
 
駅のすぐ傍で便利は良いが、あまり広くなくその上、変形の細長い敷地である。
 
あまり広くないので3棟くらいの建物が建つのかと思っていたが、敷地が5分割された。


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 すでに3棟の建物が建てられ、1棟は入居済みである。2棟建築中であるが完成間近かである。もう1棟は空地であるが、地面に建物の位置が示されているので間もなく着工されるであろう。

 残りの1区画は数坪しかなく、とても建物が建つ広さもなく何が出来るのか不思議に思っていた。

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 この狭い敷地に何が出来るのか不思議に思っていたら駐車場が作られていた。

 とても狭い敷地なので3台しか駐車できない。2台は普通車が並列駐車出来るようになっているが、1台は斜めに駐車しそれも軽自動車しか駐車できない。

 駐車料金は8時から20時までは30分100円、20時から翌8時までは30分で100円となっている。入庫から24時間までは800円となっている。

 完成して間が無く十分周知されていないのか、今の所車が駐車していることは余りないが、JR阿品駅のすぐ傍なのでPRが行き届けば、この駐車場を利用する人も多くなるであろう。


 それにしても、狭いとは言え用地を購入し、施設を整備すればかなりの初期投資が必要だったと思われるが、たった3台分の駐車料金で経営が成り立つのか心配するのは素人の杞憂であろうか。

by hirosan_kimura | 2018-12-19 11:42 | Comments(0)
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 鰆浜部落は今でこそ新しい住宅が立ち並び、マンションも建ち県病院跡地には60区画の住宅用地が造成され、次々と新築住宅が建ち続けている。しかし昭和40年代に入る前頃には世帯数40、人口300人程度の小さな部落であった。小さな部落ではあったがとても団結力が強かった。この間、部落の将来を左右するような出来事があったが、その都度部落が一致協力して乗り切っている。

 その一つは昭和40年に西広島バイパス工事が事業化決定した際、部落の存続が危ぶまれるほどの計画が発表された。このブログ「№548 鰆浜部落の危機」でも紹介したが部落の半数近くの家屋の立ち退きを余儀なくされると言うものである。
 西広島バイパス出口に当たる部落の国道を拡幅する為、道路沿い20㍍程度区域内の家屋を立ち退かすものである。この計画が発表されるや立ち退き家屋も残される家屋も大騒ぎとなった。立ち退き補償金を目当てに金融機関は預金獲得に各家庭を訪問したり、立ち退き先を検討したり部落始まって以来の出来事となった。

 国道沿いの我が家も立ち退き先となったが、代替地と指定されたのは鼓ケ浜の埋め立て地であった。当時としては阿品の住民から見ればとんでもない地と考えられ、今と違って電車駅も無く阿品で生まれ育った母などは嘆き悲しんでいた。国が計画し発表したものを小さな部落が反対し覆すことは無謀と言われたが、その後部落を挙げて反対活動を粘り強く続けた結果国も折れて、海を埋め立てて広電宮島線を沖側に移設し道路を拡幅することになった。

 部落内で大きな敷地を占めていた「県立地御前病院」の廃止が決定した際、県は跡地に隔離病舎整備する予定であった。隔離病舎は伝染病予防法により感染症患者を収容するための病棟である。今では伝染病患者が発生することも少なくなっているが、当時は珍しいことではなく昭和30年後半に当時の廿日市町では赤痢が大発生し全国でも有名になったこともある。特に高齢者は隔離病棟を「避病院」と呼んで余り良い印象を持っていなかった。この計画も部落を挙げての反対運動を行い、県も撤回せざるを得なかった。この隔離病棟も平成11年の伝染病予防法の廃止に伴い無くなっている。

 山陽自動車道は昭和62年12月に廿日市・大野間、昭和63年3月に大竹・岩国間が開通しているが、大野・大竹間が開通したのは平成2年11月と大幅に遅れている。この3年近くの遅れは阿品とは全く関係ないように見えるが、鰆浜部落が大いに関係しているのである。大竹の山陽自動車の通貨予定地に大きな病院があったが、高速道路を通過させるためにはこの病院の移転が必要であった。公団はこの病院の移転先として鰆浜の県病院跡地を予定していた。

 この計画が発表されるや鰆浜部落では再び反対運動が展開された。折角県病院が廃止されたのに狭い部落内に大病院が新設されることと、その病院が精神病院のための抵抗感もあったようである。公団としては敷地を挟んで大野まで反対側の岩国までは開通し、病院部分を残して両側から工事は勧められているので必死の説得が行われたが、それ以上に鰆浜部落の反対に対する団結力は強く結局は説得を断念せざるを得なかった。

 大野を通過し大竹に入ると山でもないのにトンネル状の道路が現れる。病院は移転できず園部分のみ大きく迂回さすことも出来ず、病院部分のみ遮音等の対策でトンネル状の道路が覆ってある。
(№45 山陽自動車道と阿品)

 


by hirosan_kimura | 2018-12-13 11:30 | Comments(0)

№775 そうらんば

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 かつて阿品には「鰆浜」「阿品」「田尻」と三つの字名があった。今では阿品一丁目から四丁目、阿品台一丁目から東・北・西・山の手と無粋な地名に変わっている。
 
 阿品一丁目は「鰆浜」と由緒ある地名であったが、地域では「そうらんば」と呼び親しまれていた。これ後白法皇が厳島に参詣された際、この地より厳島をご覧になったので「聖覧場(しょうらんば)」が訛って「そうらんば」と呼ばれるようになった。「そうらんば」の呼称は自分たちが子どもの頃にはごく当たり前に言っていたが、いまでは使われることもなくこの呼称が分かる人も僅かとなってしまった。

 なお「聖覧場」は毛利元就がこの地より出陣した厳島合戦で大勝利したので、「聖」に「勝」の字を当てはめて「勝覧場(しょうらんば)」と呼称されることもあった。

 鰆浜は小さな部落であるが、厳島合戦の際はこの地に陣地が設けられたり、広電宮島線が宮島口まで開業されていない頃は電車の終着駅の「新宮島駅」もあった。
 宮島航路も現在地でなくこの地より連絡船が運航されていた等、阿品の歴史上由緒ある地である。

 鰆浜の地名はかつて「鰆」が沢山採れる所から付けられた由緒ある地名である。現在の「広電阿品東駅」は阿品にJR駅が開業するまでは「阿品駅」と称していたが、駅名が改められた際せめて「鰆浜駅」にでも改名されていたらと残念な思いがある。

 数年前に亡くなられたが鰆浜には「長門太郎」さんと言う方がおられた。この方は長年町内会長を務められ、鰆浜地区の発展にご尽力された方であるが、郷土の文化や歴史を大切にされ生前「そうらんば 鰆浜の昔ばなし 残したい話」の小冊子を発行されている。ページ数は30ページ余りの小冊子であるが貴重な記録が残されている。この序文に「残したい話は数々あるが、今回は紙数の関係から二十話にとどめた。将来は「鰆浜町内史」をまとめたいと考えているので、適当な箇所があればそこで取り上げたい。」とある。

 自分が退職後に「阿品のことをまとめた資料が無いので、少しづつ調べて将来は阿品の歴史とでも称し本を作りたい。」と話すと大変喜ばれて、「今は体調が悪いので無理だが、元気になったら一緒に調べて行こう。資料は自宅に沢山あるので整理して行こう。」と言われていた。長門さんが元気になられるのを楽しみにしていたが亡くなられてしまった。程なく奥さんも後を追うように亡くなられ自宅は空家のままである。

 もう少し早く一緒に阿品のことを整理しておけば良かった。自宅にたくさん残されている資料を見せて貰えば良かった思うが後の祭りで、残念で仕方ない。

by hirosan_kimura | 2018-12-09 10:01 | Comments(0)
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 犬の散歩で阿品二丁目を散歩していると、田圃が埋め立てられているのが目についた。恐らく宅地造成でまた新しい住居が建築されるのであろう。
 阿品地域では近年、次々と田畑が埋め立てられ、残る田畑も少なくなるばかりである。

 かつての阿品で田畑の中に住居が散在し、夏には稲の緑で一面が覆われ、秋には実った稲穂で黄色に覆われていた、所が近年では家屋に囲まれた田畑が窮屈そうに散在している状況である。稲作が耕作される田圃も年々少なくなり、今のままでは阿品での田圃が見られなくなるのも遠い先のことではないのではなかろうか。
 
 阿品ではこの数年のみで新築住宅が次々建てられている。更に田畑が埋めら住宅地になるのに加え、県病院跡地の宅地造成地にも新築住宅が次々建てられている。おかげで若い世代や子どもたちが引っ越してくるので阿品一・二丁目の高齢化率は20%越え程度である。すぐ隣接地の阿品台一~四丁目では驚くことに50%を超え超高齢社会となっている。同じ阿品でも四丁目は高齢化率が高く40%を大きく超えている。

 同じ阿品地域でこれほど若い人が多い地区と、高齢者が多い地区に分かれるのは平地と高台の違いによるものである。かつては高級住宅地と言われたり、整然と区画された住宅地を阿品の人たちは羨ましがっていたが、いまではそれらの地域から阿品のマンションに移り住んだり立場が逆転したようである。

 阿品台地区では「阿品台地区空き家対策勉強会」が行われるようである。すぐ目と鼻の先の隣接した地域でかたや田畑が埋め立てられ次々住宅が建ち、かたや空き家対策を講じなければならないとは、何かすっきりしないものを感じる。
 

by hirosan_kimura | 2018-12-04 14:40 | Comments(0)
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 平成6年に市の教育委員会が「廿日市の民謡」の小冊子を発行している。発行に当たって平成4・5年の二か年に渡り専門のチームを編成し、旧町単位に聞取り調査を行っている。民謡の調査は過去に何回行われているが、継承する人も無くなり今回の調査では前回の半分も聞取りできなかったそうである。

 狭い旧町村単位の中で際立って異なる民謡は見られないが、それでも原・宮内地区には農業や林業、地御前には漁業に関する歌が、口伝えに伝承されていた。

 阿品地域では地御前村に伝わる民謡が歌われ阿品独自の民謡は無いが、それでも歌詞の一部分が阿品のみで唄われていたものもがあったようである。

 聞取りされた民謡の歌詞は旧町村単位で紹介されているが、ごく一部ではあるが地御前村の中の一地域の「阿品」で聞取りと明記されたものがある。

 これは阿品のみに伝わる歌詞なのか、地御前でも唄われていたがたまたま阿品の人が紹介したものかは分からない。


 収録されている歌詞の中の極一部であるが「 」内が阿品に伝わっていた部分である。

◎唐臼挽き歌
 唐臼挽き歌は、大きな臼で籾から米を摺り出す作業をしながら、女性がゆっくりしたテンポで唄っていた。この歌は原・平良・宮内・地御前で歌われていたが歌詞は、それぞれの地域で様々に異なり長い長い歌であった。
「うたいなされや おうたいなされ 歌で器量がさがりゃせぬ」

◎盆踊りの歌
 盆踊りの歌詞は長短さまざまであるが、七、七、七、五の小唄形式のもの。宮内・地御前等に伝わるもと同様の歌。
「岩に松さえ生えるじゃないか 添うて添われぬことはない
 思い出すよじゃ惚れようが足らぬ 思い出さずに忘れずに
 可愛がられて寝た夜もござる 泣いて明かした夜もござる
 添うて見なされ金こそ無いが 金に買われぬ実(じつ)がある
 連れて行くから髪結い直せ 娘島田じゃわたられぬ
 惚れたほの字と仏のほの字 深くなるほど味がある」

◎餅搗き歌
 餅は昔から、正月、新築、祭礼などの祝い事にかかせなかったが、その餅搗きにはめでたい文句の歌がついて賑やかな雰囲  
 気であった。宮内等でも唄われていたが阿品に伝わるのは独特のものであった。
「阿品に伝わるものは以前にも紹介しているので省略」

◎数えうた
 こどものわらべ歌として各地で唄われていた。
「ひぃ ふ みぃ よう いつ む なな や ここのつの とお
 とうから うたの とうもさん 赤いべべ 着て てっちゃん てっちゃん」

◎まりつきうた
 女の子の遊び歌で各地に様々に唄われていた。子どもが良く覚えられるのかと思われる長い長い歌詞があった。
「神さん参ろと出掛けたら あとからお金が泣いてくる
 泣きの涙で船積んで 船はどこまで大阪まで
 船の土産に何貰た 金襴緞子の帯貰た
 今夜あねさんくけてんか 今夜は遅くてくけられん
 明日の明かりで くけてやるくけてやる」
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  右の表は今から二十五年前、民用調査のため聞取りを行った地御前・阿品の人たちである。
 地御前の人は半数足らずの人しか分からないが、阿品の人は全員名前と顔が一致する人ばかりである。阿品の人七名の内、五人はすでに亡くなっておられる。


by hirosan_kimura | 2018-11-24 13:18 | Comments(0)

№772 岩鏡神社再建

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 昭和56年12月12日、土曜日の午後7時から阿品公民館において岩鏡神社総代より氏子に対して、神社の拡張改築に対する説明会が開催された。今から37年前のことである。さらに、昭和57年2月28日(日)午後一時三十分より公民館において募金募集の協力依頼の会合が行われた。

岩鏡神社氏子の皆様へ
 岩鏡神社拝殿改築寄附金募集趣意書
一、鎮座地 廿日市町阿品二丁目18
一、社 名 岩鏡神社
一、御祭神 手摩乳命(てなぢちのみこと) 足摩乳命(あしなぢちのみこと)
一、御鎮座年月日 不詳
一、由 緒
 岩鏡神社は古い社で、社蔵の古文書・古記録はありませんが、御祭神手摩乳命・足摩乳命の二社の神を奉斎する心の「ふるさと」「阿品」あじなに古くより鎮利座す、この里の氏神さまで、古来岩社、岩神神社ともいい岩鏡さんと敬いたたえ奉り、地名「阿品」は御祭神名の足摩乳命より生まれたることも察せられ、「阿品」の祖神・氏神として祀られ、阿品川の上流の岩山そばに鎮座せられたものでありますが、昭和二十六年の台風で崩壊し、昭和二十八年現在の所へ鎮座せられたものであります。
 さて現在の神社は、建築当時約八十五の戸数の時建築されたもので、現在の阿品地区では戸数も増え、周辺には住宅団地・遊園地等が出来開発が進められ、これに伴い阿品地区は益々発展し、神社に御参拝の氏子の方々も年毎に多くなり、現在の神社拝殿も老朽化し、その上御参拝の方々で狭くあふれるような姿になりました。神社の拝殿が狭少との皆様の御心持ちで、皆様の御心に添いたく、氏子の方々の御懇志を戴き拝殿を広く、現在の建坪五坪の拝殿を九坪に改築いたしたい存念で御座います。
 御出宝御多端の折柄誠に恐縮に存じますが、深き御理解と御同情を賜わりまして、御拝殿改築の功を了へたいと存じます。何卒応分の資を御寄付下さるよう、伏してお願い申し上げます。
一、戸数約三三五戸

 岩鏡神社拝殿改築の概要
一、拝殿の改築について
 1拝殿流造木造瓦葺 壱棟  建坪 九坪(約30㎡)
 2建築総経費  約四百五拾万円
一、倉庫改築経費 三拾万円

◎以上の件に付き、皆様と御相談したく御多忙中誠に恐れ入りますが、ぜひ御出席頂きますようお願いいたします。
岩鏡神社宮司 飯田亀丸  岩鏡神社総代代表 原田 清  岩鏡神社総代 西山敬三 他12名
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  詳しいことは分からないが地域を上げけての募金が行われ、丸市工務店の施工により施行された。工事に当たっては地域の人が総出で奉仕に当たり、昭和57年7月に本殿の改築が行われている。

by hirosan_kimura | 2018-11-21 13:45 | Comments(0)

№771 最後の一本

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 宮島から広島への帰途、明治天皇が上陸されたのを記念して造られた「お上がり場」については、これまでも何回紹介してきた。かつては公園を覆い尽くすほど茂っていた松の木も、平成に入る前後より枯れて行ったが、先日、最後の一本も松枯れのため切り倒されてしまった。

 この松が何時植えられたのかは定かでないが、昭和7年11月7日に挙行された、記念碑の除幕式の写真に植えられて間もない松が映っている。今から86年前である。当時、どの程度の大きさの松が植えられたのかは分からないが、写真に映っているのは植えられて何年も経過していないのではなかろうか。


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 この写真は小さな映りの悪い写真を拡大したので見にくいが、推測では終戦前ごろに撮影されたものと考えられる。場所は「お上がり場公園」の広電軌道の側である。

 後ろの松は植えられて12,3年経過しているのではなかろうか。





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  この写真は何時頃撮影されたかははっきりしないが ,おそらく平成に入る直前くらいではないかと推測される。

 大きな松が何本か映っているが、手前側にも何本か松の木が茂っていたが、この時点では枯れてしまって何本かは切り倒されて、元気な松の木のみが残されていたのではなかろうか。

 昭和50年代頃までは地面に太陽の陽射しが届かないくらい松の枝が生い茂り、陽が当たらないので雑草も育たず一面白い砂に覆いつくされていた。

 夏には海水客が押し寄せ、一面に茣蓙が敷き詰められ人々が憩い楽しまれていた。


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 平成に入って急速に松枯れが進み、僅かに残されていた木々も葉が赤く枯れ、由緒ある松の木もすべて枯れてしまい、後に植えられた桜などのみになってしまった。










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 全ての松が枯れてしまい次々切り倒されてきたが、最後まで残っていた枯松も何時倒れるか分からないため、先日切り倒されてしまった。

 公園に沢山あった松の木の中で、最後の一本は育ちが悪かったのか巨木とまではなっていないが、すぐ傍にはこの木の倍はあろうかと思われる巨木の切り跡が残されている。

 今から90年近く前に植えられ、長年の風雪に耐えてきたであろう痕跡もも無くなり、阿品の歴史の一ページが消え去ったようで寂しい限りである。




by hirosan_kimura | 2018-11-15 13:06 | Comments(2)
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今朝、9時前くらいに我が家の犬がけたたましく泣き出した。この犬はとにかく良く鳴く犬で、家の前を人が通っても車が通っても鳴き近所に迷惑を掛けている。何故鳴くのか家の前を見たが人も車の気配もない。不思議に思って道に出てみると、二台の車が止まり両方の運転手が車外に出て何やら話をしておられる。

 どうしたのか良く見ていると、後ろの車が前の車に衝突したらしい。幸い運転手に怪我もなく車も少し壊れた程度らしい。犬が鳴いたのは車がぶっつかった音に驚いたらしい。ぶっつかった音が人間には気が付かない程度であったが、敏感な犬の耳には聞こえたらしい。目の前は良く追突や正面衝突事故が良く起こり、その都度大きな衝撃音が家の中にいても聞こえるので、近所の人はその都度家から飛び出し事故を見物する。幸い今回は小さな音しかしない追突で大したこともなく、事故ともいえないような出来事である。

 この付近は広島方面から片道二車線の道路が一車線となっている。おまけに一㎞先位に宮島への連絡船乗場があり、下関方面に進む車と連絡船乗場の駐車場に進む車が入り乱れ、おまけに連絡船乗場方面半には広電宮島線の踏切があり、車の進路を妨げている。下り方面に進む車は二車線が一車線にになるので、追い越し車線の無い場所で追い越すので追突したり正面衝突する事故が珍しくない。これまで大きな音がして家を飛び出して様子を見に行ったのは何回あったであろう。

 二車線から一車線になり宮島口までの距離は僅かであるので、せめてこの区間の下り車線のみでも二車線に拡幅できないのかと思うのは素人考えであろうか。この区間は国道がJRと広島電鉄の軌道に挟まれており拡幅不可能のようであるが、広電と三丁目川道路との間、広電と国道との狭い隙間を活用して広電軌道を海側に移動させれば、車道一車線分くらいは何とかならないのかとは素人の浅はかな思いであろうか。


by hirosan_kimura | 2018-11-10 15:46 | Comments(0)
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  商業施設「フジグランナタリー」は平成11年7月10日に開業している。店舗面積は約13,000㎡とある。
 開業して20年を迎えようとしているが、当時は阿品近辺には小さなスーパーしかなく当初は遠方よりの来客もあり、随分にぎわったものである。

 自宅から歩いて数分しかなく随分重宝している。余り大きくはないが書店もあり、大抵のものはここで揃えることが出来る。

 しかし平成27年6月には廿日市に「ゆめたうん」が出来、平成29年4月には商工センターに「レクト」、本年4月には石内に「アウトレット」等の大型商業施設が開業された。

 これらの施設は店舗面積・駐車場台数もフジグランの比でなく、近辺にこれほど大規模の商業施設が出来て共倒れしないのかと心配するほどである。

 当然規模の劣る「フジグランナタリー」では、これらの大型施設に顧客が流れ、休日でもお客さんが少なくなり、テナントの撤退や入れ替わりが目立つようになっている。

 フジグランも色々対策を講じて居られるようであるが、9月頃より空いた店舗を解体し、駐車場の増築に取り組んでおられる。

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  この写真は上の写真とほぼ同じアングルで撮影したものである。建物が撤去され見通しが聞くようになり、まるで違う場所を撮影したようである。

 建物が撤去された部分は平面駐車場が拡張され、来客の利便性は増すであろうが、来客数が減ったのは駐車場不足ためではないであろう。

 フジグランでは今までも平面駐車場・屋内立体駐車場・屋上駐車場とあるが、休日でも駐車場が満杯になる日はまずなく、特に屋上駐車場はガラガラのことが多い。

 今後、どのような集客対策を計画しておられるかは分からないが、勝手の賑わいが実現出来ればと思うばかりである。







by hirosan_kimura | 2018-11-09 10:58 | Comments(0)
 
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 佐伯中央農協阿品支店は昭和54年7月11日に開店している。今から39年前である。当初は「阿品支所」と称していたが途中で「阿品支店」と名称変更している。 

 開店当初は阿品にも農家も多く田畑もたくさん耕作されていた。そのうち高齢化等により専業農家もだんだん少なくなり、田畑が埋め立てられ住宅地へと変わっていった。昔は田畑がたくさんありその中に住宅が点在している状況であった。今では住宅の間に田畑が点在している状態である。

 農協支店が開設された当時は阿品に金融機関もなく、阿品台ニュータウンの居住者もわざわざ高台から降りてきて農協を利用されていた。今ではニュータウンには銀行や郵便局が営業を開始し、ニュータウウンの人でこの農協の金融機関を利用する人は微々たるものであろう。
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 農協開所当時はたくさんの人々が農協を利用していたが、だんだんと利用する人も少なくなりお金の振り込み等で農協に行っても閑散としているような状況であった。何時のころからか余りにも利用する人が少ないので、ちかじか閉店されるらしいとの噂が流れるようになった。そのうち本年3月10日で閉店されるとの張り紙がされた。赤いレンガで目立ち阿品のシンボル的建物も先日より解体作業が始まった。


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 建物が解体され更地になっているが、あまり広くはない敷地ではあるが、跡地は何に利用されるのであろう。敷地を分割し建売住宅でも建つのでは無かろうかと言う人もある。

by hirosan_kimura | 2018-11-02 10:51 | Comments(0)