№83 厳島合戦(6)
2009年 03月 05日

阿品に流れ着いた死体は、旅の僧が墓を建てて手厚く葬り、供養のため小さな寺を建てて守っていたが、長い年月の間に継ぐ人も無く、寺も荒れ果て無くなり墓だけが残された。
JR阿品駅の西側に「阿弥陀坊」「寺山」の地名も残っていたが、鉄道の整備や団地の開発により今は痕跡も残っていない。
別の説では、当時財力のあった馬間(下関)の商人が、流れ着いた人の墓を建てて弔ったとの言い伝えも残っている。
これらの残された墓等も、明治時代に入り海岸沿いに道路・鉄道などが整備された際に多くは消滅してしまった。
残された数少ない石塔も誰一人弔う者も無く、谷間や山中に埋没仕懸っていたが、ふじタウン造成により消滅する恐れがあったため、篤志家の方が七ケ所の残存墓石を集積し、一箇所に集め弔って居られる。
その墓石は合計で三十余基に達する。場所は阿品公民館裏の山裾である。
by hirosan_kimura | 2009-03-05 04:47 | 出来事事件 | Comments(0)