№44 西広島バイパス開通   

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 開通当時に道路の広さに阿品の人々が驚天した国道2号線も、車社会の到来により狭隘となり、朝夕の通勤時には交通渋滞が起きたり、盆や正月の帰省時には車が数珠繋ぎとなり、バイパスの整備が必要となった。

 昭和40年に西広島バイパスの整備が事業化され、昭和42年に工事着手、昭和46年8月11日に広島市観音から五日市までは暫定2車線で供用開始された。なお、同線が4車線化されたのは、昭和49年4月2日である。

 昭和43年には五日市~阿品までの用地測量が開始された。当初の計画では地御前のJR線路を越えた附近から山を削り、鰆浜は国道2号線沿いの家屋を立ち退かせ、お上がり場向かいの山を削り2号線を拡張するものであった。

 計画が発表されると鰆浜地区住民は、長年住みなれた家を立退かなければ為らず大きな衝撃を受けた。家屋移転の代替地を考えたり、金融機関は立退き補償料を当てに各家庭を預金獲得に廻ったりもした。

 阿品三丁目の鼓ケ浜は、バイパス立退者の代替用地として造成されたもので平良・宮内・地御前の立退者が数多く移転されているが、当時は広電の駅もなく陸の孤島のような場所であったので、鰆浜の人々は鼓ケ浜への移転に難色を示していた。

 鰆浜は小さな部落で2号線沿いを帯状に立退家屋があると、残された家屋も少なくなり部落としての機能が成立たなくなる。それと長年住みなれた地域を離れたくない思いもあり、部落を挙げて立退き反対運動を起こすこととなった。

 一旦発表された国の計画を覆すのは無謀とも思われたが、粘り強い反対運動の結果、計画が見直され海を埋立て電車線路を沖側に移動し、道路用地を確保することとなった。

 国が発表した計画を小さな部落の力で動かしたのは、全国でも余り例が無いと言うことである。結局バイパスの整備により家屋の移転を余儀なくされたのは、阿品部落の2世帯のみである。

 昭和49年4月3日、西広島バイパス五日市~阿品間が完成し、正午より供用開始された。
 

by hirosan_kimura | 2009-01-25 05:58 | 国道 | Comments(0)

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