№33 山陽本線は阿品を通らなかった?
2009年 01月 14日
明治27年に山陽鉄道が広島まで開通したが、広島以西の馬関(今の下関)までの路線決定は難航していた。
海岸沿いに敷設すれば工事も容易で工期・工費とも削減出来るが、陸軍省は軍事の点より工費の多額は厭わず、工事に最も困難な津和野廻りの路線を強弁に押したらしい。
その路線は、五日市から砂谷・玖島・友田・津田・宇佐等を通り、津和野を廻り山口へ出るものである。この路線は余りにも難工事が予測されるので、友田から大竹の奥、栗谷を廻る線等も検討されたようである。
当時の新聞報道には「石州津和野にては己に期成同盟会を設け盛んに運動を試みつつありて、是非山陽鉄道を津和野に達せしめんとの意気込なりと云ふ。」とあった。
結局、山を廻る線は無謀であり、陸軍省も線路の早期の開通を望んでいた所から廿日市・岩国を通る線路を渋々認めざるを得なかったようである。
ひょっとしたら山陽本線は阿品を通っていなかったかも知れないのである。
明治25年(1892年)に広島以西鉄道布設の準備が始まったが、地御前村では耕地の狭小を理由に線路の敷設そのものに大反対であり、用地測量に対して村民の妨害もあった。
このため9月30日には佐伯郡長杉山新十郎により、地主に対して測量に協力する旨の訓令が出されている。
当初、広島以西の駅は横川・己斐・草津・五日市・廿日市・地御前・玖波に設置される計画であった。地御前では線路の敷設そのものに反対であるため、まして大きな敷地を占める停車場の設置は論外であった。
地元の大反対により地御前駅は見送られ、赤碕(今の宮島口)に設置されることとなった。当時の赤崎は民家が27戸散在し、海岸沿いは宮島の墓所であり狐が出没するような寂しい所であったと云われる。
もし当初の計画通り地御前に駅が出来ていれば、宮島航路の連絡船発着所も地御前港に設けられ、今とは違い随分発展していたであろう。
後に地御前に駅設置の運動が起こりかけたことがあったと聞いたが、後の祭り。地御前を飛ばして「宮内・串戸」「阿品」の駅が出来てしまった。
by hirosan_kimura | 2009-01-14 05:27 | JR | Comments(4)
祖母は山陽鉄道の工事現場を兄におんぶされて見た記憶があると言っていました。工事現場の作業員達がふんどし姿でもっこを担ぎ、荒い息をしていたのが
まるで赤鬼がいるようで恐ろしかったそうです。
タクシーが幽霊を乗せた話しのように、各地にある怪談のようですが、廿日市、大野方面でも 来るはずがない汽車の汽笛が聞こえて、汽車の出発をみあわせることがあり、意を決した機関士が汽車を進めトンネルを抜けると、結局、対向車はなく、狸の屍骸があったので、住処を奪われた狸の抵抗だろうと噂した。
という話しも聞きました。
トンネルには、「帽子を返せー、帽子を返せー」と声がするという、幽霊列車の話しもありました。