№32 阿品の弾薬庫
2009年 01月 13日
終戦が近くなった頃、海田市にあった武器や弾薬を疎開さすために阿品や地御前に地下壕がほられた。
地下壕を掘ったのは朝鮮から連れて来られた若者で、1月から5月まで海田市の駐屯地で軍事訓練や作業を行い、5月から7月末までトンネルを掘る作業に従事させられた。
トンネルの掘られた場所は、地御前では金剛寺小学校下の川沿い、桃山団地下であった。阿品ではJR阿品駅裏附近の崖下。鰆浜と阿品境の国道寄りの山のニケ所である。
JR駅裏の傾斜地では5本、鰆浜・阿品境の山では8本掘られて2本貫通したらしい。子どもの頃にはこのトンネルが残され、恐る恐る中に入って遊んだ記憶があるが、今は埋められて跡形もない。
トンネルを掘った若者達は、地御前国民学校やお上がり場の粗末な作業小屋で寝泊りしたが、いつも食料に飢えており、空腹のあまり附近の民家に食べ物を分けて貰いに行く者もあったと言う。
終戦直後には爆弾処理のため、阿品の人々は当番でその作業に従事させられたと言われる。そのために進駐軍が監督にあたり、拳銃を構えたりするので子ども達は怖がってそこを避けて学校に通ったりしたという。
不発弾をいたずらしていた地元の若者が、暴発により大怪我をした者もあったと聞いたことがある。
アサリを掘っていると、板状の火薬が沢山出てきて地元の人はそれを風呂の焚き付けにも使っていた。子ども達は火薬を粉にして筒状の物に詰め込み火を付けて、ロケット遊びなどして良く大人に叱られもした。今は海辺を幾ら掘っても火薬などは出て来ない。
by hirosan_kimura | 2009-01-13 10:15 | 軍事 | Comments(9)
桃山のまわりには沢山の穴がありましたのでどれがそうなのかわかりませんが。
投棄された弾薬を回収したというのは朝鮮戦争の頃でしょうか?私も弾薬の暴発で大怪我をした人の話しを聞かされ、我が家だけではないでしょうが、煙硝を使うおもちゃは禁止状態でした。ただ、近所のお兄さん達は、ほぐした煙硝や詰め襟のカラーなどを調合してロケット遊びをしていたと思います。プラスチックのスティックみたいな物を火薬だと言われていたのも憶えています。
幼い頃は時間的にもそうですが、まだすぐ近くに戦争が残っていたんですね。
国道から阿品に入り直ぐ右側と記憶していますが
何回か途中まで入りました
海で拾う板状の火薬のサイズは大小2種類あったと記憶していますが
それを堤防の石の隙間に入れ点火
入れる量が多いと迫力ある炎が噴き出たのを覚えています。
幸い怪我はしませんでした。
このブログはネタも切れ長期間新規投稿をしていません。以前は毎日開いてコメント等を確認していましたが滅多に開くこともありません。久しぶりに開きコメントが入っているので驚きました。詳しい話を聞きたいとのことですが、また聞きの話ばかりで詳しいことが分かるわけではありませんが、お会いできて情報交換できればうれしく思います。この度、市民センターのご厚意により、専用の掲示場所を確保していただきました。阿品に関し様々な掲示を行います。興味あれば除いていただき、ご意見をいただければ幸いです。
コメントありがとうございます。他地域では地域の歴史に興味がある人で、冊子を作っておられます。私も阿品絵もこのようなことが出来ればと思っていましたが、阿品では無理なようです。ぜひお会いして話しをしてみたいです。TEL 080-1914-3679 hiro3ds@ymobile.ne.jp