№1027 廿日市の上水道   

 廿日市は大きな河川も無く沿岸部の平地部の大半は埋立地で、昔から水不足に悩まされてきたそうである.

 旧廿日市地区では大正12年2月に上水道組合が設立され給水事業が開始されている。詳しいことは不明であるが、天神山に配水池が設けられ各戸に給水されたが常に水不足で、浄化設備も不十分であったのか水も奇麗でなく、各戸では蛇口に布を充て濾過していたようであるがそれでも濁っていたそうである。

 合併前の宮内・地御前村の沿岸部は大半が埋立地で生活水に苦労していたそうである。地御前村では井戸水を使っていたが塩分が多く、地御前では塩水を生活用水として使っていると揶揄されていたそうである。

 そのような中、両村が共同で上水道事業に取り組むこととなった。浄水場は元の水道局の川向いの御手洗川沿いであった。総事業費は11400万円で内700万円が国庫補助であった。現在から判断すると大した金額で無いように思われるが、当時としては大変な決断であった。この施設は昭和29年に着工し31年に給水開始されているが、小規模で水道法上では「簡易水道」と称されていた。

 こうした中で町全体では深刻な水不足が続いていた。昭和33年に水道事業計画が策定された。総事業費は1億2千万円、厚生・大蔵省よりの借り入れが9千万円と言うものであった。当時の廿日市町の年間予算が7,500万円程度の中、余りにも巨額な事業費のため議会でも賛否両論の大激論でもめさん返したそうである。

 しかしこのままでは廿日市には人や企業は来ず、廿日市町には将来性は無いとの悲壮感が優先しついに町始まって以来の大事業に取り組むこととなった。

 この事業は昭和34年に着工し昭和37年に完成している。この事業が完成してからも水源が小規模で水不足となり断水したことが数回あった。小規模の井戸をあちこちに掘ったり、新幹線のトンネルの湧水を利用することもあった。そのうち県事業により大竹の弥栄ダムよりの送水により水不足は解消したようである。
 今では水道事業そのものが広域事業で行われており、廿日市独自の水道事業は消滅しているようである。

 昭和40年4月から5年6月、水道事務所に在籍していたがその当時は簡易水道に施設も残されていた。新しい施設・簡易水道のポンプを操作したり、濾過地の目詰まりを削り取ったことなど様々な作業をしたことが目に浮かぶようである。


by hirosan_kimura | 2025-03-09 10:55 | Comments(0)

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