廿日市町役場就職当時は中島町長であった。しかし翌年10月の町長選挙で交代した。当時、下っ端の者にとって町長は雲の上の存在のようで言葉を交わすような事は稀であった。しかし当時は職員数も少なく、新採用されたのは二人のみであり顏と名前くらいは分かり、たまに顔を合わすことがあれば、「仕事に慣れたか」「分からないことがあれば、何でも上司に相談するように」程度の会話をすることもあり、わりと親しみを持てる町長であった。
選挙で選ばれた豊田町長は近寄りがたい雰囲気で、会話を交わすようなことは殆どなかった。たまに職場を廻ってこられることもあったが、屑籠に丸めて捨てた紙をを伸ばして「裏側が白紙の紙でもメモ紙に使える。無駄なことをするな」と言われた記憶があるが、それ以外の印象は残っていない。
旧廿日市町は昭和31年9月に、「旧廿日市町」「平良村」「原村」「宮内村」「地御前村」の五ケ町村が対等合併し「新廿日市町」となったが面積45.74㎢、人口19,211人であった。11月に町長選挙が行われ、初代町長に中島勇夫氏が当選した。
合併前にはそれぞれの町村に町長・村長がいたが旧廿日市町最後の町長は佐伯好朗氏であった。この町長は昭和22年1月に76歳で町長に就任され、昭和31年まで在住された旧旧廿日市町最後の町長であった。
この町長は幼いころより神童と呼ばれ、明治18に明治天皇が廿日市に立ち寄られた際、氷水を献上するという大役を務めておられる。
その後当時としては破格であったが早稲田大学を卒業し、言語学者・英語学者・法学者・歴史学者として活躍され、20世紀前半の日本を代表する多才な学者として名声を残されている。
町長時代暴力団が廿日市町役場に押し掛けた際、「喧嘩なら外でやろう」と天神山の石段に連れて行き、その男を辟易とさせた言う逸話が残っている。
佐伯町長とは直接面識はないが、当時の役場内で佐伯町長よりは佐伯博士として敬まられ何かと話題にのぼっていた。
佐伯町長は昭和40年に94歳で亡くなられた。このように素晴らしい方が、過去 廿日市町長に在職しておられたことを知る人も僅かとなってしまった。