今では担当業務は分散化されているが、廿日市町入庁当時は職員も少なく各自、様々な業務を担当していた。その中に年に数件しかない業務であったが、たまに行き当たるととても辛い業務があった。それは身元の分からない遺体を扱うことであった。一応担当者は決まっていたが一人で対応するのは困難で、係の中で連携して当たっていた。とは言っても若い職員は経験を積ますためか、言いやすいのかは分からないが何かと言えば駆り出されていた。
当時は福祉も充実していず、相談体制も整っていず自殺(自死)する人が絶えなかった。首吊り・汽車への飛び込み・水死・毒物等により人知れず亡くなる方が多かった。発見者より町へ連絡が入ると現場に行き、警察署に連絡し指示を仰ぐ。遺体を収容し検死が済めば遺体は町へ引き渡される。この文だけ見れば単純な作業に思えようが、その対応は種々で現場に行ったときは検死も済み、遺体を受け取るだけのこともあれば、遺体の収容から職員が行う場合もある。遺体の状態も様々で、水死体を海から引き揚げたり、列車による轢死体等様々である。
当時は町内に葬儀業者もなく、すべて職員で行わなければならなかった。棺桶は何故か地御前農協が販売しており、検死の済んだ遺体は職員で棺桶に収めていた。遺体はある場所に土葬する場合が殆どであったが、遺族より身元の照会がある場合もあるので一晩は保管することが多かった。当時は町営火葬場もなく遺体を安置していたのは、役場庁舎の一角、玄関裏の人眼の付きにくい場所に安置していたが、棺桶の傍を通らないとトイレにも行けないので宿直の若い職員は気味悪がっていた。気の弱い職員はトイレに行くたびに誰かと一緒どないと恐ろしがるものもあった。
長い役所勤務の中で様々な部署を経験したが、この業務は特に印象にに凝っている。今では通信手段も発達し異郷の地でひっそり亡くなられることも稀であろう。たとえこのようなことがあっても民間の葬儀業者に全て対応してもらえる。現在の職員がうらやましい限りである。次回でもう少し詳しく記したい。