昭和38年4月今から62年前、廿日市町役場に勤務することとなった。
前年より伝染病の赤痢が廿日市で発生し、全国名を留めやっと終息を迎えようとしていたが、庁舎内では慌ただしい雰囲気が残っていた。
三階建ての庁舎は、一階が住民がたくさん来られる住民課が占めていた。
二階は役所の中枢の町長室・助役室・総務課があった。三階は議会関係で議場・議会事務局・委員会室等があった。
現在では部整となり各部とその下にたくさんの課があった。
当時は三課のみで行政課は総務係・税務係で構成されていた。来客の多い住民課は住民係・厚生係の二係、産業建設課は産業係・建設係・水道係の三係で構成されていた。
その他に教育委員会・会計室があり、企画室等があった。
本庁舎の裏側は、消防庁舎があった。この建物は昭和36年4月に旧廿日市町役場を解体した木材を利用した、木造モルタル瓦葺二階建て、建坪50坪・延70・5坪の建物であった。一階は車庫で消防車・救急車が格納され隊員の仮眠室があった。二階は消防署の事務室となっていた。
消防署と並列で「青年研修所」と呼ばれていた、あまり大きくない平屋の建物があった。この建物は本来の研修所として使われたことは殆どなく、昼休みは職員が休憩室として使ったり、会議室として使われていた。
中庭を挟んで庁舎と並行して簡易な駐車場があった。当時、庁用車としては町長車・住民課に一台・産業建設課にジープが一台あった。住民課分は検診や予防注射等の際、お医者さんを病院から検診会場まで送迎するためにあった。産業建設課のジープは旧宮内村より廿日市に引き継いだものと聞いていた。
記憶違いでなければ当時、役場の車はこの三台と消防用の車のみであった。職員が公務で出かけるときは自転車を利用していた。今では考えられないが、税金の滞納分を徴収するのに税務の担当者は広島市内で自転車で行っていた。中には岩国まで自転でに徴収に行ったことがある聞いたことがあるが、今の若い職員が聞いたら何と思うであろうか。在職中は佐方から阿品方面に行くのに自転車を利用していた。原方面は坂があるのでバスを利用していた。自転車で行けるのは速谷神社くらいまでであるが、中には川末・長野方面まで自転車で行った強者もいた。
今の職員が聞くと信じられないようなことも沢山あった。思いで多いこの庁舎も自動車学校跡に立派な庁舎が建てられ今は跡形もない。