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by hirosan_kimura

№776 小さな部落の大きな力

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 鰆浜部落は今でこそ新しい住宅が立ち並び、マンションも建ち県病院跡地には60区画の住宅用地が造成され、次々と新築住宅が建ち続けている。しかし昭和40年代に入る前頃には世帯数40、人口300人程度の小さな部落であった。小さな部落ではあったがとても団結力が強かった。この間、部落の将来を左右するような出来事があったが、その都度部落が一致協力して乗り切っている。

 その一つは昭和40年に西広島バイパス工事が事業化決定した際、部落の存続が危ぶまれるほどの計画が発表された。このブログ「№548 鰆浜部落の危機」でも紹介したが部落の半数近くの家屋の立ち退きを余儀なくされると言うものである。
 西広島バイパス出口に当たる部落の国道を拡幅する為、道路沿い20㍍程度区域内の家屋を立ち退かすものである。この計画が発表されるや立ち退き家屋も残される家屋も大騒ぎとなった。立ち退き補償金を目当てに金融機関は預金獲得に各家庭を訪問したり、立ち退き先を検討したり部落始まって以来の出来事となった。

 国道沿いの我が家も立ち退き先となったが、代替地と指定されたのは鼓ケ浜の埋め立て地であった。当時としては阿品の住民から見ればとんでもない地と考えられ、今と違って電車駅も無く阿品で生まれ育った母などは嘆き悲しんでいた。国が計画し発表したものを小さな部落が反対し覆すことは無謀と言われたが、その後部落を挙げて反対活動を粘り強く続けた結果国も折れて、海を埋め立てて広電宮島線を沖側に移設し道路を拡幅することになった。

 部落内で大きな敷地を占めていた「県立地御前病院」の廃止が決定した際、県は跡地に隔離病舎整備する予定であった。隔離病舎は伝染病予防法により感染症患者を収容するための病棟である。今では伝染病患者が発生することも少なくなっているが、当時は珍しいことではなく昭和30年後半に当時の廿日市町では赤痢が大発生し全国でも有名になったこともある。特に高齢者は隔離病棟を「避病院」と呼んで余り良い印象を持っていなかった。この計画も部落を挙げての反対運動を行い、県も撤回せざるを得なかった。この隔離病棟も平成11年の伝染病予防法の廃止に伴い無くなっている。

 山陽自動車道は昭和62年12月に廿日市・大野間、昭和63年3月に大竹・岩国間が開通しているが、大野・大竹間が開通したのは平成2年11月と大幅に遅れている。この3年近くの遅れは阿品とは全く関係ないように見えるが、鰆浜部落が大いに関係しているのである。大竹の山陽自動車の通貨予定地に大きな病院があったが、高速道路を通過させるためにはこの病院の移転が必要であった。公団はこの病院の移転先として鰆浜の県病院跡地を予定していた。

 この計画が発表されるや鰆浜部落では再び反対運動が展開された。折角県病院が廃止されたのに狭い部落内に大病院が新設されることと、その病院が精神病院のための抵抗感もあったようである。公団としては敷地を挟んで大野まで反対側の岩国までは開通し、病院部分を残して両側から工事は勧められているので必死の説得が行われたが、それ以上に鰆浜部落の反対に対する団結力は強く結局は説得を断念せざるを得なかった。

 大野を通過し大竹に入ると山でもないのにトンネル状の道路が現れる。病院は移転できず園部分のみ大きく迂回さすことも出来ず、病院部分のみ遮音等の対策でトンネル状の道路が覆ってある。
(№45 山陽自動車道と阿品)

 


by hirosan_kimura | 2018-12-13 11:30 | 鰆浜 | Comments(0)