№644 夏休みの思い出   

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 学校は今日で一学期が終わり来週から夏休みに入る。夏休みは昔の子も今の子も楽しみであるが、今の子は家族で旅行に行ったりするが、昔は家族旅行などする家は僅かで、近所の子どもたちと朝から晩まで勉強もせず遊びまわるのが普通であった。
 
今でも夏休みの思い出として残っているのは、小学校五年生の時に子ども・先生・母親などで宮島の裏にキャンプにいったことである。

 キャンプと言えば今では立派なテントや炊事道具・シェラフなど何でもあるが、当時はそんな便利なものは無かった。炊事は家で普段使う鍋や釜を使い、煮炊きは転がっている石を並べ小枝などを拾い集め行なった。

 テントは家庭で使っている蚊帳で代用し雨でも降れば大変なことになるが、幸い天候に恵まれ蚊帳の中で夜遅くまで皆と大騒ぎをしながら寝た。

№644 夏休みの思い出_e0125014_918341.jpg 炊事は殆どの母親が付添いで来ていたので、子どもたちが遊びまわっている中母親たちが作ってくれた。食料も現在のような保存食も無く単調なものであったが、子どもたちはいつもと違う環境の中で美味しく頂いた。

 母親たちは炊事以外のときは木陰に茣蓙をを引き寝転んで、皆で他愛の無いおしゃべりに華が咲いていた。普段は家事や仕事などでゆっくり出来る時間も無いので、こんな何でもないくつろぎの時間を持っただけで、「命の洗濯が出来た」と喜んでいた。

№644 夏休みの思い出_e0125014_919571.jpg キャンプをした浜辺は砂浜と松林があるのみで勿論水道施設などは無い。炊事に必要な水は海水を使ったが、米を磨ぐのは浜辺の海水で子どもたちが行なったが、普段と違うので面白がって米を研いだ。

№644 夏休みの思い出_e0125014_9192915.jpg 地御前漁港からキャンプをした砂浜までは同級生の家庭が牡蠣養殖をしておられたので、牡蠣の作業船に乗せてもらい行った。今の時代なら小さな船に大勢が乗れば危険だと許可も出なかっただろうがのんびりした時代であった。

 潮の良いときに地引網をしたが、取れた魚は小さなものまで大はしゃぎで拾い集め、海水で骨や内臓を皆で取り除き焼いたり煮つけにして食べたのも忘れられない思い出である。

№644 夏休みの思い出_e0125014_9195130.jpg 宮島は神の島と言うことで農業も許されていなかったが、戦後の食糧難の時代に開拓の人が入植され、キャンプをした浜辺の山裾にも数件の農家があった。

 この地は土地の関係か米を耕作することが出来ず、持参した米を持っていくと喜んで野菜や西瓜などと交換してもらった。米と交換した西瓜で西瓜わりを皆としたのも楽しい思い出である。

 楽しいひと時はあっと言う間に過ぎ去り、子どもたちや母親には忘れられない楽しい思い出として残ったが、引率された先生方はキャンプが終わり地御前港に到着するまで、事故は無いかと緊張ばかりであっただろう。

 キャンプに引率された先生の多くは既に亡くなり、子どもたちの中でも何人かはこの世を去っておられる。

 キャンプをした入浜海岸は、白い砂浜と鬱蒼とした松の木が生い茂り、これぞ「白砂青松」と絵に描いたような美しい景色であったが、今では松枯れで浜辺の松の木は一本もなくなり悲惨な風景に変わってしまった。

by hirosan_kimura | 2014-07-18 10:57 | 子どもの生活 | Comments(2)

Commented by Fujio K at 2014-07-18 22:37 x
一番上の集合写真の後方中央の人は三宅校長先生では?
Commented by hirosan_kimura at 2014-07-19 12:06
 そうです。三宅誠一校長先生です。右端のの方は津島・桧田・唐川先生ではないかと思います。

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