素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

№620 地御前の伝説

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 昭和16年に発行された「神武天皇聖蹟誌」に地御前の伝説と言う項目がある。

 {芸備国郡誌「挨宮恐謂地御宮乎」芸藩通史巻二安芸国古跡考埃宮の條に「或は埃宮を佐伯郡地御前社とする説あれど何の據も見えず」とある以外に同村並に飯田社家にも何等伝所がない。

 厳島神社禰宜野坂元定氏の談に據(よ)れば、現在神社の西側にある極めて狭小の入江があるが、之は有府(ありふ)之水門(みなと)と称し、これ即、神武天皇埃御着岸地なりと、今此水門は鉄道と宮島電車軌道に挟まれて東面する長さ約廿間幅員約十間、深さ六尺程度の楕円形を為しているが昔はやゝ西方に擴(ひろが)り二倍大であったと言われるに過ぎない。

 半ば磨滅した説明標に「旧六月十七日厳島管絃祭の当日御座船渡御の時風波高ければ此水門に繋船す」と読得が、今は勿論、かかることは不可能で、今の繋船場所は社殿の東前海岸で、玉の池と言う所で行なわれる。}

 日本書紀に記されている神武天皇東征の際の行宮の地は、今では安芸郡府中町と言われているが地御前神社との説もあるが何等根拠がない。

 神社西側の有府の水門は鉄道と電車線路に挟まれているが、かつてはこの二倍程度の広だがあり管絃祭りの際風雨が激しいときはこの港に管絃船を繋いでいたと説明されている。

 上図では「有府の水門」の様子は分からないが、海上の鳥居の前には「玉の池」が描かれている。
by hirosan_kimura | 2014-02-22 12:05 | 伝説民話 | Comments(0)