素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

№564 恐ろしい話

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 阿品にテレビが普及していない昭和30年代頃、夕食が済んだ頃毎晩のように阿品(今の阿品二丁目)から我家に話に来られるお婆さんがあった。良くも話が続くものだと思われるくらい母などと延々と遅くまでおしゃべりが続いていた。

 話す内容は取り留めの無いものばかりであったが、眠気を堪えて傍で聞いていた。中でも夏になると幽霊の話や原爆の話、その他恐ろしい話が多く途中で便所に行きたくなると恐ろしくて我慢して、誰かが行くのを待っていたりした。何処までが作り話か本当の話かは分からないが、記録にでも取って於けばと悔やまれる。

 今では原爆の話が出ることはあまり無いが当時は原爆が落ちて十数年、何人かが集まると必ずこの話が出ていた。原爆の翌日くらいから阿品の浜辺にもたくさんの死体が流れ着いた。地元で死体を処理しようにも阿品の火葬場は一度に何体も火葬出来ない。阿品のある地域の身元不明の死体を埋葬する場所に葬ったり、流れ着いた死体を引き潮の時に沖に流したりもしたそうである。

 また原爆が落ちて数日間は、体や着物が焼け爛れてぼろ屑を垂らした人が阿品の国道を下り方面に歩いて行く姿がたくさん見かけられ、「水を飲ましてください」「食べ物を分けてください」と沿道の家々に立ち寄られたが、水こそ充分あったが食べ物は我家で食いつなぐのがやっとのことで他人に分ける余裕は無かったが、重症の人たちの多くは間もなく亡くなる人が大半であったろうに、もう少し親切にしてあげれば良かったと悔やんだ話もあった。

 阿品に「神馬の窪」と言う地名があるが、厳島から地御前神社に船に乗せて神馬を運ぶ際、嵐で船が沈んで神馬が溺水死し馬の死体をこの地に埋葬したのが地名の由来であるが、夜にこの地の付近を通らかかるとヒーン・ヒーンと馬の悲鳴が聞こえて来る話しを聞いたことがあったが、子ども心に恐ろしくあった記憶がある。

 その他、狐や狸にどこどこの誰々さんが化かされたと言う話なども良く聞いていた。この話などは恐ろしいと言うよりは愛嬌があり笑い話のように聞いていた。

 阿品には広電と鉄道の軌道が通っている。広電に轢かれて人が死んだ話は聞かなかったが、鉄道では人が轢かれて亡くなることがあったのでこれに纏わる話が良く出ていた。

 夜鉄道のトンネルを偶然見ると、トンネルの輪郭で亡くなった人の顔が現れ、恨めしい目つきでじっと自分の方を睨むことがあったそうである。このような話を聞くと恐ろしくて体がゾクゾクしたものであった。

 鉄道で人が轢かれたりすると、死体の処理は地元でしなければならなかったそうである。死体処理は部落の各家で回り持ちに行なう必要があったが、我家では父は戦地に行っており残されているのは母と子どものみ。
 我家に轢死体処理の順番が回ってきた時は、恐ろしいので隣のおじさんに無理を言って一緒に手伝ってもらい、恐る恐る処理に当るのが情けなかったと母が話していた。

 本当の話かどうか分からないが、ある時ある人に夜間に鉄道に人が轢かれたので死体を収容して欲しいとの依頼があったそうである。薄暗いカンテラの明かりで線路沿いに死体を探したが見つからず、行ったり来たりしていると突然足を捉まえられ腰が抜けるくらいびっくり仰天したそうである。良く見ると列車に引かれて血だらけの人が、線路の脇に横たわっており死に切れず傍を通った人の足を無意識に捉まえたとのことであった。
 足を捉まえられた人は死体の処理どころかホウホウのていで家に逃げ帰り、当分寝込まれてしまったそうである。この話もどこまで本当の話か分からないが何回も聞かされた話である。

 クーラーも扇風機も無い時代、暑い夏でもうちわで扇ぐだけであったが、このような話を聞きながら夜を過ごしたものである。

 余談であるが毎晩のように我家に話に来られるお婆さんは、話中も煙管で絶え間なく煙草を吹かしておられた。学校に入学する前から煙草を吸っておられ、親が何かを言いつけても動かなかったが、煙草を吸わしてやると言うと喜んで用事をしていたそうである。これほど煙草を吸われても肺がんにもならず長生きをされ、随分前に老衰で亡くなられた。
Commented by Fujio K at 2013-08-20 18:16 x
恐ろしい記憶が蘇りました。
ピカドンが落とされた当時小生は3歳でした。
原爆投下の当日には、命だけは助かった沢山の被爆者が地御前小学校に避難して来ていたのです。
投下された翌日か、翌々日だったと思いますが、小学校で行なわれていた避難者のための炊き出し活動に出た母親について行きました。
そこで見たものは校舎から出てくる幽鬼のような人々です。
衣服が焦げたり、火傷を負ったり、或いは顔などが真っ黒になった人々です。
小生は幼いながらに「何か異常なことが起こった」ことを感じとり、非常な恐怖心に襲われたことを鮮烈に記憶しています。
地御前に避難して来たのは広島市観音町の人々です。
  広島市の大避難実施要領
で観音町一円に住んでいた人々の避難先は地御前村に指定されていたのです。
Commented by hirosan_kimura at 2013-08-21 08:06
 コメント有り難うございます。原爆が投下された時は私は一歳にもなっていないので当時のことは分かりませんが、後に繰り返し繰り返し原爆の話を聞かされました。今では原爆の話が出ることは滅多にありませんが、いつまでも語り継がれることが大切だと思います。
by hirosan_kimura | 2013-08-19 12:00 | その他 | Comments(2)