№424 移民   

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 旧廿日市町と合併する前の地御前村は、人口の多い割には前は海で後は山が迫り耕地の少ない地域であった。

 そのため明治の20年代頃より海外への移民が多かった。主にはハワイやアメリカ本土への移民であるが、中にはカナダやペルーへの移住もあったようである。

 村内では親戚をたどれば、どの家庭でも身内に移住者があるのは当然のようであった。終戦後物資の貧しい頃には海外にある親戚より様々な物が送られてきた。

 小さい頃の記憶では砂糖やコーヒー、キャンディやパイナップルの缶詰などが送られて来ていた。子どもであったためコーヒーを飲むことはなかったが、砂糖は日本の物と違って真っ白でサラサラしていた。

 キャンディも珍しく綺麗な紙で包装してあり、食べた後にその紙のしわを伸ばし何に使う訳でもないが大事に集めておいたりしていた。

 当事の子どもたちの着ているものはみすぼらしいものであったが、ハワイの親戚から子どもの古着なども良く送られてきていた。

 今でいうアロハシャツであろうが、緑や黄色などの布地に様々な模様のある派手なものであった。派手な半そでシャツであるが、地御前では多くの子どもたちが遊ぶとき着ていたので、違和感も無く恥ずかしいとも思わなかった。今のアロハシャツは薄手の生地であるが、当事のものはもう少し厚手でゴワゴワしていたようであった。

 村では移住者に村の様子を伝えるため「共栄」と言う小冊子を送付していた。その中に尋常小学校6年生の女の子の作文が掲載されている。

{たより
 若葉が青々と茂って居る地御前村、之は私達及び異郷に居られる人々の故郷であります。廻りには山々があります。前には青い広々とした世界に於ける海上の一大公園と言はれて居る瀬戸内海に望んで居ます。海を越して朱にそまった宮島の大鳥居が見えます。

 此の美しい景色に包まれた地御前村は、今だんだんと漁業及び農業が盛んになって参りました。之は村人が皆共同して朝から晩まで骨身を惜しまず働いて居られるおかげです。私たちは仕事が出来ないので、勉強に励んで居ます。

 又、此の間アメリカ・ハワイから帰られた人達ばかりの座談会がありました。此の地御前村がだんだん栄えて行くのは、地御前村に居られる人々と海外に居られる皆様のおかげだと思ひます。又地御前村が豊かになったのはつまりは海外に行って居られる、皆様の努力のおかげだと思って感謝にたえない次第であります。

 村歌の中に「海外遠く渡り行き」とある様に、移民においては日本一だと全国によびかけてもよいと思ひます。どうか地御前と云う名前を一層海外へ広めてもらいたいと思ひます。どうぞ村の事を心配しないで体を丈夫にして村の為国の為にお働き下さい。}

 移住の多くは家族単位であったが、単身で移住し日本の家族へ送金する場合もあったようである。小学校や神社の増改築の際やその他何かあれば、地御前から移住した人達が多額の寄付をされたようである。

 海外で財を成したり日本とアメリカとの開戦により帰国した人もあり、地御前村は他よりアメリカ村と呼ばれた時代もあり、日常生活の中で英語が使われたり洋風の食事をする家もあった。

 阿品でも「あの家はアメリカ帰り」だと言われる家も何軒かあり、帰国して阿品に居を構えられた家もある。

by hirosan_kimura | 2012-02-04 14:02 | その他 | Comments(0)

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