№402 はと
2011年 09月 13日
子どもの頃は「はと」とは意味も分からず呼んでいたが、「波止」で堤防の一種であると後に分かった。
「はと」のすぐ北側は「火立岩」があり、砂浜が広がっていた。南側は土の黒い浜で、ここでは「おおがい」と呼んでいた貝や、「みる貝」が子どもの手でも面白いほど採れていた。
「みる貝」は握りずしのネタになる高級な貝らしいが、たくさん掘って帰っても家では余り喜ばれなかった。阿品では貝と言えば「あさり」でそれ以外の貝は、低級な貝と思われていたような気がする。
子どもの頃は、「はと」は子どもたちの良い遊び場で、堤防の上で遊んだり魚を釣ったり、傍の「火立岩」に登ったり日の暮れるのも忘れて遊んだ記憶がある。
この航路は昭和6年2月に廃止されたが、廃止前に「はと」が造られたのか廃止後に桟橋が残されている時期に造られたのか良く分からない。
自分が子どもの頃には勿論この桟橋は残っていなかったが、沖合いに桟橋の一部と思われるコンクリート建造物の一部が海の沖合いに残っていた。
上の写真では分かりずらいが、「はと」の先端近くの向こう側の海中に見えるのが、厳島航路の桟橋の残骸の一部である。
「はと」の大きさは良く分からないが、石積みで長さは50m近くあり先端部は一部南側に折れ曲がっていた。堤防の上部の幅は2mくらいで、底部は広くなっており断面は台形となっていた。
高さも良く分からないが、子どもの目でみると随分高く海に飛び込むのが恐ろしかったような記憶がある。
いずれにしても、鰆浜の海岸の火立岩も「はと」も無くなり無粋なコンクリートの堤防になってしまっている。