№253 阿品歴史年表 2
2009年 11月 30日
「国郡志御用下調書出帳」に、本郷(地御前)は5個の字からなり、高付面積が48町で氏神が大歳神社。飛郷(阿品)は4個の小字(阿品・鰆浜・上田尻・下田尻)からなり、高付面積が12町で氏神が岩神と有る。
文政3年(1820年)11月14日
広島城下東柳町の高屋福蔵らが、阿品沖で遭難した厳島渡海船を救助する。
文政12年(1829年)9月吉日
岩神神社の石碑に表示あり。「表側 岩神大権現」 「左側 文政十二年」 「右側 九月吉日」
嘉永2年(1849年)7月
7月10日から12日まで阿品地域で大雨が続く。暴風雨・洪水・高潮で被害が出る。
嘉永3年(1850年)
海岸より沖の方へ浅瀬を測量。「沖山の西の鼻 長さ十五間」 「阿品の久保 長さ一二三間」 「あみだ坊の鼻 長さ七六間」 「田尻の大野境 三七間」
文久元年(1861年)
この頃、地御前で牡蠣の養殖が始まったと言われている。
文久元年(1861年)8月4日
台風・高潮のため、阿品新開が決壊する。
慶応2年(1866年)8月9日
長州軍に破れた大野村の征長軍が広島に撤退することとなり、徒歩で撤退する者は本道を恐れ阿品附近の間道を通り、その列は地御前まで続くほどの多人数であった。
慶応3年(1867年)9月2日
暴風雨・高潮で阿品新開土手、長さ163間決壊破損する。
明治4年(1868年)4月
農務方より村の庄屋・組頭に、阿品の氏神岩木(岩神)社は地御前の氏神「大歳社」に併合せよとの指示が出される。住民の粘り強い存続運動ににより、一時併合の危機にあった「岩神社」の存続が認められる。
明治5年(1872年)
明治新政府は諸施策の財源とするため、不用官有地を売却する。
沖山 御建山 六反歩三円 松310本20円
岩神社山 境内他 一反二畝三歩四円 松林樫等215本
明治5年(1872年)4月
県内が、17の大区 150の小区に編成され、地御前村は第4大区(佐伯郡)、第5小区(地御前・大野・口谷尻・玖波・松ケ原・谷和)とされる。