№209 短い短い阿品の話
2009年 09月 29日
暗くなってから一杯機嫌で阿品に向かって歩いて帰っていた。
すると途中で人に呼び止められてご馳走になったうえ、親切にも風呂にまで入れてもらったということである。
ご馳走は何だったか分からないが、帰って分ったことであるが、風呂に入れてもらったと思ったのは野壷だったそうである。
みんなは狸に化かされたに違いないと噂しあったという。
見た目は悪いが、実は名のある鍛冶が作った短刀と、見た目がピカピカの駄作の短刀を、商人に騙されて交換した漁師が、岩の穴の奥にいた大蛸に捕まって死んだそうな。
地御前の沖に日頃は無いのにある日、浅瀬があるのに気が付いた漁師が、船から降りて歩いてみたら、妙にヌルヌルするので注意深く見たら、大きなカレイの上だったということである。
昔々田尻の浜は砂鉄で真っ黒で、お寺の鐘を作るのに、その砂鉄を使ったとの言い伝えがある。
山陽鉄道の駅を地御前に設けると言う案があったが、当時の地主等の「狭い耕地が更に狭くなる」という反対で廃案になった。祖父は「地御前の発展を考えないバカどもじゃ」と地主を批判したという。
ある人のお祖母さんが子どもの頃、兄におんぶされて山陽鉄道の工事現場を見た時、現場の作業員達がふんどし姿でモッコを担ぎ荒い息をしているのを、まるで赤鬼がいるようで恐ろしかったと話しておられた。
来る筈の無い汽車の汽笛が聞こえて、汽車の出発を見合わせることがあった。意を決した機関士が汽車を進めトンネルを抜けると、結局対向車は無く狸の死骸があったという。鉄道が敷設され住処(すみか)を奪われた狸の抵抗であったのだろう。
国道が新設された際、舗装はされていなかったが、お祖父さんは「雨の日でも草鞋で歩ける」と言ったそうである。
新しく国道が作られた時、阿品の人々はその余りにも広さにびっくりし、飛行機でも離着陸するのかと思ったそうである。
終戦後は宮島線の架線が良く盗難にあっていた。一番電車が火立岩附近まで来てみると、架線が無くなっており電車が立ち往生してしまった。
いつの話か分からないが、最終電車で宮島口から己斐までノンストップで走ると何分掛かるか、運転手が賭けをしてこの運転手は解雇された。
「昔、地御前で苗字がある家は三軒だけで、父親は他の家の苗字を付ける手伝いをした。田の中にあるから中田。田の端(はな)にあるから花田。そんな風に付けていてとても楽しかったと話していた。」とお祖母さんから聞いた人がある。
沖山の海岸に「岩国通し(いわくにどうし)」と呼ばれる岩穴があった。この岩穴は岩国まで通じていると言われていた。
この話の大半はSさんのコメントによるものである。どんな些細なことでも結構ですから、お祖父さんやお祖母さんから聞いた話を思い出したら教えてください。