№1053 戦没者追悼式(1)   

 例年秋に「廿日市町戦没者追悼式」が挙行されていた。当時は町単位のみならず合併前の旧町村単でも、小規模であるが地区ごとにも開催されていた。佐伯郡追悼式等もあった。
 その後、遺族数の減少及び高齢化により追悼式開催が困難となり、規模の縮小・中止となっているが、現在の廿日市市内での追悼式の開催状況はどうなっているのか気になるところである。

 追悼式は「廿日市町遺族会」主催と位置付けられていたが、実質的には遺族会の関りはごく一部であった。追悼式が近づくと遺族会役員会が再三開催され、行政の援護事務担当として同席が求められた。日時・会場・招待者・進行等協議されていたが、あとはよろしくお願いしますと丸投げであった。

 最初の年は上司の人に「遺族会主催と言いながら、行政主体で行うのはおかしいのではないか。」と問い詰めると、「遺族会役員は高齢者ばかりで何も出来ない。これまでも行政が準備してきたのが慣例である。強力してほしい。」と言い込められた。こちらも若い新任者であり、過去の経緯も知らないに言い返すことも出来ず、黙って上司の命に従うこととした。

 まず式場の確保。中央公民館が落成するまでは廿日市小学校の講堂、公民館落成後は公民館を予約していた。借りるのは会場準備の前日、式を行う当日の二日であった。次に参加者への案内状の送付。来賓者への案内は町で行い、参列者分は案内状を作成し必要枚数を遺族会役員宅まで届ければ戸別に配布しておられた。当日壇上に上がり挨拶をいただく方のみ出欠をいただいていた。当日は来賓席、遺族席を分け参列者は自由に席に着いてもらっていた。

 法要をしていただく僧侶等の確認は遺族会長が行った。祭壇を飾る花輪は例年決まっているので掲載氏名等を再確認し花屋さん連絡していた。
 お下がりは、町内の菓子屋さんに落雁か饅頭のいずれかを二個くらい小箱に入れの熨斗紙をつけてもらっていた。数量は参加者・来賓・その他で700個くらいで一箱200円程度であったと記憶している。その他漏れの無いよう諸々の準備を行った。

 一番気を使ったのは遺族会長追悼文作成であった。通常読み上げる人が用意するものであるが、毎年会長は「木村さん今年もよろしくお願いします。」の一言のみであった。過去の追悼文・他自治体分を参考にする・挨拶状例文等を参考にしながら、現在の社会情勢も勘案しながら四苦八苦・悪戦苦闘して下書きをし会長に見てもらっていた。
 担当になって最初の年に会長に見てもらうと、「木村さんこれは去年の文を丸写ししたのではないか。もう少し激戦地で苦闘された兵隊さんのこと、身内の方が戦死された遺族の悲しみ、尊い命の犠牲により今の日本があること、二度と戦争をしない誓いの言葉、靖国神社に眠る英霊への追悼等、私の挨拶を聞いた追悼式参列者が貰い泣きするような文言に書き直してください。」と言われたので「私は激戦地で戦ったことも、靖国神社にお参りもしていないのでそのような文は作れません。会長さんが思われるような文章を作ってください。」等反論した記憶がある。
 そうは言っても若造が年長者に立てついてもならないので、何回か文章を作り直す・会長の意見を聞く・また書き直すこと重ねて両者納得がいったわけではないが挨拶分を作った。庁舎内の筆書の達人の方に奉書に書き上げてもらいほっとしたものである。

 その後、式の開催に準備漏れはないか見直したり、上司や会長と意見をやり取りをしながら」追悼式」当日を迎えることとした。 

# by hirosan_kimura | 2025-12-05 10:47 | Comments(0)

№1052 援護関係業務あれこれ   

 与えられた業務の中で援護関係業務は限られていたが、その中で遺族会関連・戦没者慰霊祭実施事業等が重要であった。その他、こまごまと雑多な業務が多かった。


招魂社の管理
 旧廿日市の天神に「招魂社」と称される神社がある。これは明治以降に国のために殉じた霊が祀られたもので全国各地に設けられている。あまり広くない敷地に玉垣に囲まれた広場と、小さな祠がある。周囲は民家が立て込んでおり、子どもたちには格好の遊び場となっている。経緯は分からないが神社境内を町が管理していた。この業務は福祉係が担当で管理をするよう申し渡された。何となく承服できなかったが、今までの経緯もあり納得できないままに管理を行っていた。狭い敷地なので管理といってもたまに掃除をしたり、玉垣に子どもが乗って危険なので点検したりしていた。それにしても神社境内を行政が管理することは不自然なので、「ちびっこ広場」と位置付けることとし、簡易な遊具やベンチをを設置した。近所の人にたまには掃除をしたり、危険場所があれば町に連絡してもらうこととした。現在でも管理が十分行われているのだろうか。

護国神社初穂料
 旧招魂社は昭和14年に改称され「護国神社」となっている。護国神社は各地に設けられ広島では「広島護国神社」と称され広島城敷地の一角にある。この護国神社は内務省の管轄であったが、現在では国の関与はない。
 神社の運営費にするためか知らないが、「初穂料」と称して住民から納めてもらっていた。明らかに宗教活動の一環であるが、初穂料の収集業務を町で行っていた。毎年秋ごろになると神社より納金の依頼があった。この事務はとても煩雑で各町内会長に依頼し、町内会分を町内会長がまとめて町に納めに来られた。金額を確認し町内会長あてに領収書を発行していた。町内会数は200以上あったが、次から次に町内会長が来られ対応するのはとても煩雑であった。全町内会分が集まると神社に収めていた。建前は町社会福祉協議会の扱いとなっていたが、現実は町の事務として行っていた。この事務を行政が行うのはおかしいと思いながら、長年の慣習なので異議を申し立てることも無かった。現在では当然このような事務は行っていないだろう。

叙勲伝達
 福祉係に所属替えとなった際、ロッカーの引出しに見慣れない勲章が保管されれていた。今まで勲章など見る機会も少なかったので上司に「何故たくさんの勲章が保管されているのか。」と尋ねると「伝達された勲章を受け取らないものだ。」と言われた。
 勲章の制度などには触れる機会も無かったので、栄誉ある勲章を引き取りに来られない遺族等があるのが不思議でならなかった。勲章には様々が種類があり、上位の場合は皇居に出向き天皇より叙勲されるが、これは例外中の例外で大半は県を通じて町長等から遺族に伝達される。その都度、遺族に連絡し受領に来てもらっている。大半の遺族は名誉なことと受領に来られるが中には「今更こんなものは不要である。」と引き取りに来られない場合がある。指定日に受領に来られない場合は再度連絡するが、中には「いらないから勝手に処分してほしい。」と言われることが多かった。県に相談しても「返してもらっても困る。遺族等に渡すよう努力してほしい。」と突っ張馴るばかりであるとのことであった。
 
 ある時、町に保管しておいても仕方ないので、取りにに来られないのならこちらから自宅に届けることとした。一度に届けられないのでとりあえず二十人分くらい各家庭に出向いて行った。   しかし、何軒か行っても「いらないから処分してほしい伝えたのに。」と反対に怒られ受け取ってもらえないのが大半であった。中には「せっかく届けてくれたのだから受け取っておこう。」と言われたのは僅かであった。その後、届けてもお互いに気まずい思いをするだけなので、これ以上は止めておこうとなった。残りの勲章等は今はどうなっているのであろうか。勲章をいただいて涙ながらに有難がった遺族。今更、勲章をもらっても仕方ないと恨む人、考えさせられる業務であった。

その他、諸々の援護業務
◎佐伯郡・町内各地区慰霊祭への参列。
◎町社協への遺族会補助金申請。
◎県主催研修会・援護事務説明会への出席。
◎国主催慰霊祭参加者募集。
◎国外激戦地参拝者募集事務。
◎靖国神社参拝者募集・広島駅見送り 10月30日 14時30分集合見送り
 参拝者は14時40分広島発、翌5時35分東京着 東京まで実に15時間かかっている。
◎大久野島毒ガス製造従事者健康被害調査依頼。
◎恩給・年金巡回相談事務補助依頼。
◎8月15日 庁舎半旗掲揚・正午サイレン 
 等々の記録がある。この中で現在も継続中の業務はあるのだろうか。

# by hirosan_kimura | 2025-12-03 11:29 | Comments(0)

№1051 遺族会   

 新しい部署の業務量の大半は保育所関係が占め、この中で援護関係業務はごく一部であった。援護関連の中でも「遺族会」「遺族会役員」との出会いが思い出深い。

 現在ではその大半が解散しているらしいが、「遺族会」といわれる組織があった。この会は旧町村単位で地区遺族会があり,町全体で廿日市町遺族会・佐伯郡遺族会・県遺族会・日本遺族会の組織があった。これらは宗教的要素が強く任意団体でもあるので、町が直接関与しないのが原則であった。しかし、地区遺族会は地区ごとに運営されていたが「廿日市町遺族会」に関しては慣例的に町が関わっていた。

 行政が関わる業務に関しては条例や規則で定めてあり、「廿日市町遺族会に関すること。」等は一切触られていなかった。町が関与すると強いてあげれば補助金を出すことくらいであった。
 しかし遺族会に関する運営等は遺族会で行うのが大原則であるが、定例的に行われる役員会は日程や会場は遺族会で決められるが、役員への案内・会議資料の作成など大半を町で行っていた。最初は分からないままに行っていたがある時、上司に「外郭団体の事務を行政で行うのはおかしいのではないか。」と聞くと、「今まで此れでやってきている。他自治体も同じようである。相手は高齢者でもあり協力してあげるように」と言われたが、何となく納得いかないままに従っていた。
 
 当時の遺族会会長は女性の方で、過去には町会議員もされた方であった。
 どのような経歴の方は分からないが、とても凛々しく最初は近寄りがたい人であった。役員は会長を除き全員男性の高齢者であった。この人たちは各地区を代表する有力者ばかりであった。役員会は町会長と各地区会長と行政からの一名で行われていた。そうそうたるメンバーの中で若者は一名で、当初は緊張しこの会に出るのは苦手であった。しかし会を重ねるたびに役員の方の人柄も分かり、人のお世話をされるくらいなので気さくな方ばかりであった。

 役員会は定例ではないが殆ど毎月のように行われていた。会場は町役場に近い会長宅で行われていた。議事は国や県よりの報告事項や神社庁よりの連絡事項など、わざわざ役員が集まって議論するほどのことはないものが多かったが、役員の方にとってはとても重要なことだったらしい。ある時「町としては遺族会には協力はするが、役員会に職員が出席しなくても対応できるのでは無いか。」と提案したことがあった。

 これに対して「上司の命令か?」「今までそんなことは言われなかったのに、なぜ急に言い出したのか。」「今の平和な日本があるのは戦争の尊い犠牲があったからである。慰霊のための遺族会を軽視しているのか。」など喧々諤々の声が続出した。

 その後議論を重ねたが、遺族会と行政との経緯も詳しくは承知していないし、経験も無い若者がこれ以上議論するのは思い上がりではないかと、この話は打ち切った。
 ただ一つ遺族会の会計に関し、通帳を預かったり現金に関与しないことは了解してもらった。その他、会議の資料を作成すること・「戦没者慰霊祭」に関して等は今まで通り居力させてもらうこととした。

 戦時中の苦労も知らないし、役員の方は年齢も離れた各地区の重鎮の方ばかり、お互いに意見が合わないことも多く、思い悩むことも多かったがこの方たちには多くのことを学ばさせてもらった。後に援護関係の職を離れ他の職務に就いたとき、各地区でのさまざま困りごとがあるたびにこの方たちに相談し、どれだけ助けられたか分からない。

 滅多にないが、たまに市役所の職員と話すことがある。地域のこと・地域の人を知らないのに驚くばかりである。

# by hirosan_kimura | 2025-12-02 11:20 | Comments(0)

№1050 厚生課福祉係の業務   

 昭和45年10月より水道業務から福祉関係部署への移動があったが、当時は厚生課の一係で町の福祉業務全般を担当していた。№1048でもふれたが若い女性事務員との二人で、児童関係・身体障害・戦没者遺族援護・その他の業務を担当することとなった。

 児童福祉は保育所・母子福祉・児童公園・児童扶養手当等の業務があったが、その大半は保育所関係の業務に追われていた。

 障害関係は、障害者に関する諸手当・関係団体への対応。援護関係は遺族会・叙勲関連・遺族年金等の事務があった。

 その他の福祉業務として民生委員・献血・心配事相談・行路人対応と多岐に渡っていた。これらの業務に対応するには国の法律・町の条例等を根拠とし事務を行っていた。児童福祉法・母子福祉法・身体障害者福祉法・戦傷病者戦没者遺族等援護法、及びこれらに付随する関連法があり、町の条例規則等があり、頭がおかしくなりそうである。

 当然、これらの法が全て頭に入るわけもないし,分からないと業務が遂行できないわけでもないが、一部の業務内容によっては法令集・町の例規集と首ったけで行なわければならないこともあった。

 中で一番苦労したのは戦没者・戦傷病者関係の援護法は読んでも読んでも理解できなかった。戦争を体験した人、年長者等であれば理解できるであろうが何を聞いても分からないことが多かった。戦没者は戦争で亡くなられた方、戦傷病者は戦争で怪我や障害を負われた方くらいは分かるが、身分が軍人・準軍属・軍人・文人等に区別されること。手当として遺族年金・遺族給与金・恩給・公務扶助料・弔慰金等とあること。

 雇用形態に雇人・用人・船舶船員・満鉄職員・総動員関係者・戦闘協力者・国民義勇兵・満州開拓義勇兵・現役・予備役・補充兵役・見習士官・見習候補生等と聞きなれない言葉が並んでいた。

 叙位叙勲関係も複雑多岐であった。歌謡曲の「東京だよおっかさん」で「金鵄勲章見せたいばかりに」と島倉千代子が歌っていたので、「金鵄勲章」一つを知っていたくらいであった。勲章一つでも驚くほどの種類があった記憶がある。

 新人者を対象に県庁で研修会があったが、何となく分かったようで分からないままに終わった。援護関係の業務は滅多になかったが、たまに住民が聞きにこられると法令集を調べたり上司に聞く、県の担当者に問い合わせしたりしていた。
 研修会から帰ると上司が「町民が援護関係で来庁されても、これからは少々の事例なら自分で対応できるだろう。」と言われたが「とても一人では対応できません」と答えたような記憶がある。

 第二次世界大戦が終了して30年近く経過し過去のものとなった、戦後処理業務の大半は終了し対応をを必要とする業務は滅多になかった。それでもこの業務には馴染めず、苦労したことが思い出される。

# by hirosan_kimura | 2025-11-28 11:40 | Comments(1)

№1049 無縁墓地参拝   

 退職後20年を経過するが、毎年お盆が近づくと忘れられない思い出がある。現在では滅多にないことであるが、当時は故郷を遠く離れ誰一人知る人もない異郷の地で、一人寂しく亡くなられる例が珍しくなかった。この人たちの遺骨は人里離れた無縁墓地に埋葬されていた。無縁墓地といっても一か所でなく、旧町村単位であちこちに散在していた。

 これらの墓地は旧火葬場の近くか、寂しい山の中でお盆になってもお参りに訪れる人も無かった。このため毎年,町の担当者がお盆前にお参りをしていた。無縁墓地は町内に数えきれないほどあるそうだ。管理されている墓地の片隅にあるもの、以前は判明していたが職員が変わるたびに所在不明になるものもあった。これらを除いて慣例的にお参りしている三か所の無縁墓地に、毎年お盆前に町職員がお参りをしていた。

 担当になった最初の年には墓地の位置も分からないため、先輩職員に同行してもらった。当時は民家から離れた辺鄙な場所にあったが、今では周辺が開発されて無縁墓地そのものが撤去されたり、十分な境界測量もされずに開発され墓地が所在不明となった場所もある。三か所のうち一か所は民家と離れた山中であったが、今はどのようになっているであろうか。

 最初の年は先輩職員に同行してもらい無縁墓地の位置確認とお参りをしたが、翌年からは一人でお参りするよう指示された。
 いくら真昼とはいえ、人里離れた寂しい場所にお参りするのは不気味であったが、与えられた業務であると割り切っていた。ある職員は不気味なので墓地から遠く離れた場所からお参りしていたと言うが、あまりにも不謹慎なので出来るだけ墓地に近接お参りしていた。
 庁用車で行けるところまで行き、あとは墓地まで歩いて行っていた。一か所は車で割と近くまで行けたが、残りは訪れる人も無いので草木が生い茂り、藪漕ぎのような場所もあった。お参りするときは盆提灯に「廿日市町」と記名し墓地と思われる位置にお供えをしていた。火を使用すると心配なので、ローソクや線香は供えず手を合わしていた。
 ある無縁墓地のあった場所は、住宅団地に開発されることとなったが、開発業者の言い分は「丁寧に掘り起こし、遺骨の一片も残らないよう礼を尽くす。立派な慰霊碑を建立する。」ということであった。ところがこの言葉と裏腹にブルトーザーで掘り起こし表面に表れた遺骨のみ収骨するような有様であった。慰霊碑は粗末なものであった。この慰霊碑も周辺の開発により撤去されたが、どのようになっているのか気がかりである。
 上司より残された無縁墓地も参拝は欠かさないよう、担当職員が配置換えになったときは次の職員にチャンと引き継ぐよう指導を受けていたので、引き継ぎ書で後任職員に伝えることは怠らなかった。

 五十数年前の思い出であるが、あの無縁墓地はどんな状況であろうか。怠ってはならないと先輩より指導されたお参りは、今はどうなっているのであろうか。

# by hirosan_kimura | 2025-08-04 11:49 | Comments(0)