現在、廿日市の上水道の原水は県事業により供給されており水不足の心配は無くなっている。当時の廿日市町では御手洗川の伏流水と、その他 小規模の井戸水で賄われていた。。御手洗川は宮内地区の最深部を水源としていたが、奥行きの長さも短く流域から流れる水量も限られていた。
そのため長期に雨が降らないと川が枯れることもあった。川面には水の流れは見られなくても、川床の下には伏流水が流れており何とか上水を確保できていた。日照りが続くとその伏流水も枯れてしまうこともあった。御手洗川の水が少なくなると、浄水場の裏を流れる小川をせき止めてポンプでくみ上げ利用することもあった。しかし小川で取水できる水は僅かで焼け石に水程度であった。気休め程度の水量さえ利用しなければ成らない程の緊迫感であった。
その内、水不足は深刻になり配水池から送る水元バブルを絞り水圧を下げ、送水量を少しでも下げたりしていた。水圧を下げると少し高台にある団地では、蛇口から水が出なくなり事務所には苦情の電話が鳴りっぱなしになる。
そうこうするうちに送水側のバブルを閉め水圧を下げるのみでは対応出来なくなると断水に入っていた。断水も一時に長時間水を止めるのでなく、徐々に断水時間を延長していった。最初は日中のみ,その内夜間と水の出る時間が僅かとなって行った。最終的には朝は6時から二時間程度,夕がたも6時ころから8時ころまでと一日でもわずかな時間しか水が出ない状態であった。それも給水時間が迫ると今か今かと給水栓を開けて水の出るのを待っているので、途中で水が使用され阿品でなど配水池から遠い地区では給水時間になっても水が出ず、やっとちょろちょろ出たかと思ったら次の断水時間が始まるというような状態であった。
勿論、こうした地域の住民が黙っている筈もなく、電話での苦情は良い方で中には水道事務所に怒鳴り込んでくる人もあった。個人で来られるのはまだしも、地区住民が申し合わせて集団で来られることもあった。
水道職員も最初は平謝りに頭を下げっぱなしであったが、対応にも慣れて行った。苦情に来られたら先ず事務所前の川に案内し、水が一滴も流れず川床に湿り気も無く乾燥している様子を見てもらっていた。この様子に怒鳴り込んでこられた方も諦めてすごすご帰って行かれた。
配水池から一番遠隔の阿品地区では水が出ないのが当たり前の状況であった。当時は自宅に井戸のある家が多数あり、この水を分けてもらって一時しのぎする家庭もあった。近隣の実家や知人があれば風呂に入らしてもらったり、中には夜間・土日は遠方の実家に泊まりに行くという家庭もあった。
一番苦労されたのは鰆浜には「県立地御前病院」「吉田病院」の入院患者のある二病院があった。これらの病院は上水道が整備されるまでは自家用水を使用していた。
上水道が給水されても井戸が残されていて、これを利用し何とか対応されたようである。
廿日市の水不足は住民にも浸透し、上水道使用者は節水の工夫に努めていた。報道機関にも取り上げられ近隣市町村にも知れ渡って行った。
水道事務所も水道水の確保に取り組んでいたが,一夕二朝に解決できるものではなかった。幸い隣町の五日市町では八幡川等、廿日市の河川に比較できない位の水量が確保でき上水道用水に困ることも無かった。
苦肉の策として五日市町の水道水を一時的に支援してもらうこととした。五日市町は人口も多く無制限に他町に支援するわけには行かなかった。
町境の佐方地区で両町の送水管を接続し、夜間のみ五日市町から分水してもらうこととなった。五日市川側の端末に量水器を取り付け、使用水量に応じて五日市町に水道料を支払っていた。
五日市町からの受水は夜間9時から早朝5時までとされ、時間になると職員が制水弁を開けたり閉めていた。制水弁の開閉には五日市町の職員も立ち会っていた。
(これに関しては60年くらい前の記憶で、多少記憶違いがあるかも分からないが,大筋では間違 っていないと了解願う。)
その後他の部署に異動となったので、以降の対応は分からないが様々な努力苦労があったと聞いた。新しい井戸を掘ったり、新幹線トンネルからの湧水を利用したらしい。その後、県事業による水道事業が行われ、水源確保は計られたらしい。