昭和60年より開始された国民年金は、20歳から60歳までの全国民が対象であった。年金の受給資格は保険料の納付機関が25年必要であった。制度発足当時50歳以上(明治44年4月1日以前出生者)には救済措置として70歳から老齢福祉年金が支給されることになった。50歳以上であっても最低10年保険料を膿すれば、拠出年金が受給できる暫定措置も設けられた。これらの人は任意加入か福祉年金のいずれかを選択できた。
福祉年金は保険料を納付しなくても受給できるが様々な制約があった。老齢福祉年金は月額1,000円支給された。しかし他の年金を受給していたり、本人・配偶者・扶養義務者のいずれかの前年所得が一定以上であれば、年金の支給は停止された。高齢任意加入の人は年齢が来れば所得に関係なく、保険料を納めた年数に応じた額の年金が支給された。
老齢福祉年金の支給額月1,000円は、現在の価値から比較すると驚くほど低額で、子どもの小遣いにも満たないと思われるかもしれない。しかし当時は高齢者に収入があったり裕福な家は別であるが、僅かの現金でさえ手にすることも無く「これで孫に飴玉の一つでも買ってやれる。」と感謝されたものである。所得制限等で年金支給が停止されるものもあった。停止された一部の人は「なぜ支給されないか。」と役場に怒鳴り込んでくる人も珍しくなく、いくら説明しても納得されない人もあり、この人たちの対応に苦慮したものである。
福祉年金は4・8・12月の年三回支給されていた。一回の支給額は4,000えんであったが、支給日になると金融機関にはたくさんの高齢者が訪れ、年金の活用に花が咲いたそうである。
勤務し始めの昭和38年の福祉年金受給者は927人との記録である。この人数は高齢者数の増加により年々増えていった。年に一回は定時届けと称し、所得状況による支給・不支給の決定をする申請の受付を行っていた。この届をするため高齢者に役場まで来ていただくのは困難なため、担当者が受付場所に出向いていた。旧町村ごとに集会所・公民館等を会場としていた。明石・後畑地区は余りにも遠方なので別の会場を設けていた。
各会場に出向くのに上司と二人で行っていた。当時は事務用の庁用車は無く、自転車の荷台に段ボール箱を括り付け事務用品を運んだ。明石と後畑は余りにも遠方で坂道が続き自転車で行くのは難しかった。上司の方の私用オートバイに二人乗りで行っていたが、事務用品を入れた段ボール箱を抱え後席に乗っていた。片方の手で段ボール箱を抱え、もう片方の手で手掛りを掴み油断すれば落ちそうで必死であった。
明石はバスも通る道であったが、当時は舗装もされていず曲がりくねっていた。集会者を会場としていたが来場者も僅かで、受付事務より世間話に花が咲いていた。お年寄りから随分いろんな話をしてもらったものである。
後畑は当時廿日市の原側から谷底に沿った細い道しか無かった。自動車などで行く場合は五日市町の奥から山道に入り、川沿いの細い道を経由して行った。廿日市の原経由で通行できるようになったのは随分後のことである。
後畑は明石地区より辺鄙で、当時は廿日市の秘境とも呼ばれていた。受付会場は民家を借りていた。この家は商店もしておられたが土間の一角に僅かの商品が陳列してある程度であった。福祉年金受給者も僅かで、ここでも受付事務に要する時間よりたまに来られる人との世間話に花が咲いた。
受付事務は提出された定時届書に記入漏れ・押印漏れは無いか点検。年金証書を預かり年金の受給漏れは無いかの確認をしていた。受領日に来ると待っていたように、金融機関で年金の支払いを受けられるので受領漏れは皆無であった。
受け取った定時届書と年金証書を元に、全員の所得状況を確認期限までに大わらわで整理していた。これらの書類と年金証書は広島西社会保険事務所に提出し安堵したものである。
西社会保険事務所では所得状況を確認し、支給者には証書に支給額の記入・支給停止者には「支給停止」と記載される。証書の整理が終わると西社会保険事務所まで受領に行き、申請書の受付を行った会場まで出向いていた。
高齢者は支給額の記入された証書の受領を楽しみしておられた。ごく一部の方ではあるがは所得制限等で不支給になり、がっかりされる顔を見るのは忍び難かったものである。
当面の間、不支給になった本人はもとより身内の方などが、役場に入れ替わり立ち代わり来られることを思うと憂鬱になってしまう。