№1049 無縁墓地参拝   

 退職後20年を経過するが、毎年お盆が近づくと忘れられない思い出がある。現在では滅多にないことであるが、当時は故郷を遠く離れ誰一人知る人もない異郷の地で、一人寂しく亡くなられる例が珍しくなかった。この人たちの遺骨は人里離れた無縁墓地に埋葬されていた。無縁墓地といっても一か所でなく、旧町村単位であちこちに散在していた。

 これらの墓地は旧火葬場の近くか、寂しい山の中でお盆になってもお参りに訪れる人も無かった。このため毎年,町の担当者がお盆前にお参りをしていた。無縁墓地は町内に数えきれないほどあるそうだ。管理されている墓地の片隅にあるもの、以前は判明していたが職員が変わるたびに所在不明になるものもあった。これらを除いて慣例的にお参りしている三か所の無縁墓地に、毎年お盆前に町職員がお参りをしていた。

 担当になった最初の年には墓地の位置も分からないため、先輩職員に同行してもらった。当時は民家から離れた辺鄙な場所にあったが、今では周辺が開発されて無縁墓地そのものが撤去されたり、十分な境界測量もされずに開発され墓地が所在不明となった場所もある。三か所のうち一か所は民家と離れた山中であったが、今はどのようになっているであろうか。

 最初の年は先輩職員に同行してもらい無縁墓地の位置確認とお参りをしたが、翌年からは一人でお参りするよう指示された。
 いくら真昼とはいえ、人里離れた寂しい場所にお参りするのは不気味であったが、与えられた業務であると割り切っていた。ある職員は不気味なので墓地から遠く離れた場所からお参りしていたと言うが、あまりにも不謹慎なので出来るだけ墓地に近接お参りしていた。
 庁用車で行けるところまで行き、あとは墓地まで歩いて行っていた。一か所は車で割と近くまで行けたが、残りは訪れる人も無いので草木が生い茂り、藪漕ぎのような場所もあった。お参りするときは盆提灯に「廿日市町」と記名し墓地と思われる位置にお供えをしていた。火を使用すると心配なので、ローソクや線香は供えず手を合わしていた。
 ある無縁墓地のあった場所は、住宅団地に開発されることとなったが、開発業者の言い分は「丁寧に掘り起こし、遺骨の一片も残らないよう礼を尽くす。立派な慰霊碑を建立する。」ということであった。ところがこの言葉と裏腹にブルトーザーで掘り起こし表面に表れた遺骨のみ収骨するような有様であった。慰霊碑は粗末なものであった。この慰霊碑も周辺の開発により撤去されたが、どのようになっているのか気がかりである。
 上司より残された無縁墓地も参拝は欠かさないよう、担当職員が配置換えになったときは次の職員にチャンと引き継ぐよう指導を受けていたので、引き継ぎ書で後任職員に伝えることは怠らなかった。

 五十数年前の思い出であるが、あの無縁墓地はどんな状況であろうか。怠ってはならないと先輩より指導されたお参りは、今はどうなっているのであろうか。

# by hirosan_kimura | 2025-08-04 11:49 | Comments(0)

№1048 厚生課福祉係   

 昭和38年に町役場に勤務した際は「住民課厚生係」と一係であったが、今回福祉関係に移動になると組織の見直しが行われ、厚生係が厚生課と格上げされていた。この頃から福祉関係事務が拡大していき、一課が福祉保健部へと大きな組織にと変わって行った。

 当時、厚生課の業務は老人福祉・児童福祉・障害者福祉・生活保護・国民年金・国民健康保険等の福祉関係と、保健衛生・廃棄物・火葬墓地関係等の保健衛生関係との二部門であった。

 五年半ぶりに厚生関係の担当になったが、以前は国民年金のみの所掌であった。その後様々な部署を担当した。しかし長い役所勤務の大半を福祉関係になるとは思いもよらないことで、後になって不思議な因縁を感じたものである。

 新しい所掌事務は障害者福祉・遺族援護法関係・児童母子・民生委員関係・献血事務等であった。現在では社会福祉協議会が担当している、心配事相談や各種団体へ補助金関係事務もあった。

 直接の事務を担当することは無かったが,課員も少なく生活保護や老人福祉関係の事務を手伝うことも多々あった。

 現在高齢者は増え続けているのに、老人クラブの会員数が伸び悩んでいるらしいが、当時は老人クラブの新規結成が国を挙げて取り組まれていた。廿日市でも新しい老人クラブが結成され、高齢者の担当はその対応に追われていた。忙しいときには担当者以外も応援することが良くあった。また、ゲートボールやグランドゴルフなどのスポーツの普及も図られていた。老人クラブのミカン狩りに能美島に付き添いで行ったこともあった。

 担当した業務は全て初めて体験する物ばかりであった。楽しい業務もあったが、援護法関係は法令も複雑で、旧軍人の身分一つとっても何が何だか頭を悩ますことが多かった。国民年金担当時代に行路死人の業務が苦になったことを記した。当時は直接の担当でなく上司の指示通リ動けばよかったが、今回は直接の担当になった。

 在任中に幾度かの体験をしたが、この業務はいくら経験しても対応に慣れるということは無かった。ただ一つ救われたのは昭和42年12月に町営火葬場「霊峯苑」が整備されていたことである。以前は変死があれば棺桶を購入し遺体の収容後、医師の検死が済むと遺体は町に引き渡されていた。時間が早ければ棺桶をある場所に埋葬を行うが、時間が遅ければ一旦遺体を役場に持ち帰り,翌日埋葬をを行っていた。遺体安置場所も無く役場の玄関わきの人目に付かないところに安置していた。こうした時は若い宿直職員が気味悪がり、厚生係職員に何とかしてほしいと苦情を言ってきたがどうしようも無い。

 火葬場が整備されてからは「死体安置所」も設けられ、時間を気にせず預かってもらうことが出来た。

 その他、たくさんの業務を経験できたが、特に印象に残る業務について印して行くこととしたい。

# by hirosan_kimura | 2025-07-11 10:33 | Comments(0)

№1047 組織変更   

 昭和43年7月1日付けで「水道事務所給水係」に配置換えの辞令が出ている。当初は「水道事務所」のみの一係であったがその後、「業務係」「工務係」に分割され「工務係」内に水源管理として二名の職員が配置され、浄水場の管理全般を担い給配水操作関係と当直業務を行っていた。さらに企業会計の取入れにより組織の改編が行われ、「施設係」「財政係」「給水係」も設けられた

 水道事務所に配置になったころは、日直・宿直・量水器の検針業務・広い敷地の草抜き清掃を職員全体で行っていた頃のことを思うと、画期的な前進であった。それでも定期的に緩速濾過地の表面土砂削りや、その他 突発的な業務などは係を超えて協力し業務を推進していた。

 昭和44年1月1日付で、「主事に昇任させる 3等級に昇任させ1号給を支給する」の辞令書が豊田正夫町長名で出されている。

 60年近く昔のことなので思い違いもあるかもわからないが、当時は採用当初の職名に「雇」と言われるものがあった。この「雇」は新採用後半年間はこの身分で、半年後に「主事補」となり、その後「主事」「主任主事」「係長」「課長補佐」「課長」と昇進していった。現在では部制となり課長の上は「次長」「部長」となる。
 現在では分からないが退職直前には「政策監」「調整監」「担当○○」「主幹」「主査」「専門員」等、古い職員には何が何だか分からない職名もあった。

 現在の職員には理解できないが「雇」とは正式職員でもなく、臨時職員でもなく中途半端な立場のようであった。聞かされていたのは「雇」は正式職員でなくこの人物は真面目な人物か、仕事をこなす能力があるか半年間様子を見てこれならよかろうとなって、初めて正式に雇用される試雇機関だと言われたが良く分からなかった。「雇」期間中の成績が悪く半年後に解雇された例も耳にしたことも無かった。

 それにしても採用試験を受けて合格し「採用辞令」が出ているのに、試し期間中と言うのも理解しがたい制度であった。

 昭和45年10月1日には「本庁 厚生課 福祉係」への人事異動が出た。昭和40年に本庁より水道事務所への移動があった際は「晴天の霹靂」のような思いがしたものである。今では本庁以外の出先機関も沢山あるが、当時は僅かなものであった。本庁以外の勤務地になった場合は「島流し」と称され、よほど仕事をしないか上司に嫌われるか、特別な事例に限るとの雰囲気が通常であった。それも一般事務でなく水道業務と経験したことも無い業務であった。なんで自分が選ばれたのかとの思いが強かった。水道はほんの短い期間だから我慢するようにと慰めてくれる人もあった。

 こうした水道事務所のでの勤務はいつの間にか5年6ケ月経過していた。水道勤務になった時は気乗りしない職場であったが、水道から離れる移動辞令が出た際は名残惜しいくらいであった。右も左も分からない業務であったが、懇切丁寧に教えてもらい他の業務にかかわっていれば知りえない貴重な体験をすることが出来た。

 当初は馴染みない人ばかりで、心細い中 快く対応してもらい生涯、忘れえない気の良い人ばかりであった。
 蛇口をひねれば水が出るのは当たり前くらいの認識しかなかった中で、多くの体験をすることが出来た。冬の寒い中、川をスコップで掘り起こすのが涙が出るくらい情けなかったこと、長期の断水で住民に怒鳴られ震え上がる思いをしたこと、送水ポンプが揚水せず夜中に投げ出したくなったこと、どれをとっても懐かしい思い出ばかりである。

 一番の成果は、一滴の水も無駄にしてはならないこと、蛇口から水が出るまでには多くの人の手間を要していることを学んだことである。 

# by hirosan_kimura | 2025-07-09 11:43 | Comments(0)

№1046 職員採用   

 昭和41年度までは、廿日市町の水道事業は一般会計で賄われていた。水道事務所では予算関係の事務は殆ど行われることは無く、業者より水道の新設・変更等の手数料の受領・水道部品の売却等の収入を受領する程度であった。

 昭和42年度より水道事業が公営企業の対象となり、水道事業特別会計が設けられ独立として会計事務のすべてを、水道事務所で行うこととされた。そのため会計事務担当職員の配置と事務員の新規採用が行われることとなった。

 当時の地方公務員は給与も低く人気が無かった。給与のみで生活するのは厳しく、庁職員は兼業農家や自営業等で他の収入がある人が多かった。そのため当時でも共稼ぎ世帯は珍しくなかった。当時は景気が良く民間企業の給与は、公務員とは比較にならない位優遇されていた。新卒者で役場に採用されるものがあれば、よほど成績が悪く行くところが無かったのだろうなど、陰口される始末であった。

 こうした中、水道事務所に採用されたのは大手の銀行を退職した若い職員であった。民間の会社の中でも銀行員は飛びぬけて高給であったが、なぜ給与の低い町職員になったのか不思議がった。新しい会計制度を立ち上げるため、会計事務に詳しい銀行員が引き抜かれたのだろうなど噂したものである。

 この職員は真面目で他の職員と交じり合うことも少なく、終業後に飲み屋にでも行こうと誘っても付き合うことなく、一日の業務が終わると飛ぶように自宅に帰って行った。

 ある時、二人だけになった時「何故、給与の高い銀行を辞めて、安月給の公務員になったのか、他の職員と交遊することも無く就業後や休みには何をしているのか」と聞いたことがあった。年齢も近く同郷であったためか、他の職員と深く交わることも少なかったが、ぽつりぽつり話してくれた。

 「自分には夢がありヨットを手作りし、一人でどこか外国まで操縦して行くことを実現する。そのため銀行でお金をためて、空いた時間でヨットを手作りすることにした。お金を貯めるのは銀行はうってつけであるが、忙しいときには残業も多く時間の余裕がない。調度、町で新規採用の話を聞き給与は安いが、定時に家に帰られ休日も自由になるので思い切ってこのような選択をした」とのことであった。

 この話を聞いて羨ましくもあったが、不器用な自分にはヨットを自作することなどとんでもないことである。また広い海を一人で操縦し外国までいくことなど夢のような話であった。このことが他の職員に行きわたっても深く詮索することも無く時が過ぎて行った。ヨット製作の進行状況を聞くこともなく、年度終頃に三月末に退職するらしいとの話が行き交ったのみで、盛大にお別れ会をすることも無く退職された。

 その後 風のうわさで地御前港から出航したらしい。台湾付近を航行中らしい。東南アジアのどこかの国に着港したらしいなどと、風のうわさで耳に入った。本人が誰かに無線で知らしているのか、誰が聞いたのか謎だらけの噂話のみである。

 在職中にたくさんの職員を知り、様々な逸話も聞き、無鉄砲な行動に驚きもしたが、短い付き合いであったが印象に残っている職員の一人である。

# by hirosan_kimura | 2025-07-07 11:11 | Comments(0)

№1045 断水   

 現在、廿日市の上水道の原水は県事業により供給されており水不足の心配は無くなっている。当時の廿日市町では御手洗川の伏流水と、その他 小規模の井戸水で賄われていた。。御手洗川は宮内地区の最深部を水源としていたが、奥行きの長さも短く流域から流れる水量も限られていた。

 そのため長期に雨が降らないと川が枯れることもあった。川面には水の流れは見られなくても、川床の下には伏流水が流れており何とか上水を確保できていた。日照りが続くとその伏流水も枯れてしまうこともあった。御手洗川の水が少なくなると、浄水場の裏を流れる小川をせき止めてポンプでくみ上げ利用することもあった。しかし小川で取水できる水は僅かで焼け石に水程度であった。気休め程度の水量さえ利用しなければ成らない程の緊迫感であった。

 その内、水不足は深刻になり配水池から送る水元バブルを絞り水圧を下げ、送水量を少しでも下げたりしていた。水圧を下げると少し高台にある団地では、蛇口から水が出なくなり事務所には苦情の電話が鳴りっぱなしになる。

 そうこうするうちに送水側のバブルを閉め水圧を下げるのみでは対応出来なくなると断水に入っていた。断水も一時に長時間水を止めるのでなく、徐々に断水時間を延長していった。最初は日中のみ,その内夜間と水の出る時間が僅かとなって行った。最終的には朝は6時から二時間程度,夕がたも6時ころから8時ころまでと一日でもわずかな時間しか水が出ない状態であった。それも給水時間が迫ると今か今かと給水栓を開けて水の出るのを待っているので、途中で水が使用され阿品でなど配水池から遠い地区では給水時間になっても水が出ず、やっとちょろちょろ出たかと思ったら次の断水時間が始まるというような状態であった。

 勿論、こうした地域の住民が黙っている筈もなく、電話での苦情は良い方で中には水道事務所に怒鳴り込んでくる人もあった。個人で来られるのはまだしも、地区住民が申し合わせて集団で来られることもあった。

 水道職員も最初は平謝りに頭を下げっぱなしであったが、対応にも慣れて行った。苦情に来られたら先ず事務所前の川に案内し、水が一滴も流れず川床に湿り気も無く乾燥している様子を見てもらっていた。この様子に怒鳴り込んでこられた方も諦めてすごすご帰って行かれた。

 配水池から一番遠隔の阿品地区では水が出ないのが当たり前の状況であった。当時は自宅に井戸のある家が多数あり、この水を分けてもらって一時しのぎする家庭もあった。近隣の実家や知人があれば風呂に入らしてもらったり、中には夜間・土日は遠方の実家に泊まりに行くという家庭もあった。

 一番苦労されたのは鰆浜には「県立地御前病院」「吉田病院」の入院患者のある二病院があった。これらの病院は上水道が整備されるまでは自家用水を使用していた。
 上水道が給水されても井戸が残されていて、これを利用し何とか対応されたようである。

 廿日市の水不足は住民にも浸透し、上水道使用者は節水の工夫に努めていた。報道機関にも取り上げられ近隣市町村にも知れ渡って行った。

 水道事務所も水道水の確保に取り組んでいたが,一夕二朝に解決できるものではなかった。幸い隣町の五日市町では八幡川等、廿日市の河川に比較できない位の水量が確保でき上水道用水に困ることも無かった。

 苦肉の策として五日市町の水道水を一時的に支援してもらうこととした。五日市町は人口も多く無制限に他町に支援するわけには行かなかった。
 町境の佐方地区で両町の送水管を接続し、夜間のみ五日市町から分水してもらうこととなった。五日市川側の端末に量水器を取り付け、使用水量に応じて五日市町に水道料を支払っていた。

 五日市町からの受水は夜間9時から早朝5時までとされ、時間になると職員が制水弁を開けたり閉めていた。制水弁の開閉には五日市町の職員も立ち会っていた。 
(これに関しては60年くらい前の記憶で、多少記憶違いがあるかも分からないが,大筋では間違   っていないと了解願う。)

 その後他の部署に異動となったので、以降の対応は分からないが様々な努力苦労があったと聞いた。新しい井戸を掘ったり、新幹線トンネルからの湧水を利用したらしい。その後、県事業による水道事業が行われ、水源確保は計られたらしい。

# by hirosan_kimura | 2025-06-24 10:02 | Comments(0)