№1115 様々な体験   

 給食センター方式は、大量調理のため調理も大雑把である等の理由で攻められることも多かった。しかし外部の人には分かりにくいが、栄養士は些細な点まで気を配っていた。既成の調味料は食品添加物等が含まれている可能性もあると、大量調理にも関わらず煮干しから出汁を取っていた。野菜等は農薬・肥料等の使用を控えた物、や無得ない場合は可能な限り微妙な使用に限る。その他食品添加物の少ない食品にする等、家庭で調理しても及ばない程細心の注意が払われていた。ある時レモンの使用が検討された際は、輸入品は添加物が多いので問題外で、無農薬で育てられているのが事実か栄養士が産地迄現地調査に行くと言う念の入れ方であった。

 再三は出すことは出来ないが、デザートにイチゴを出すと子どもたちはとても喜んでいた。イチゴは町内産では賄えないので福岡産を使用していた。福岡は大規模なイチゴ農家在り有機栽培や低農薬等管理が行き届いていた。これを町内産に切り替えるよう農協等から再三申し入れがされていた。町内にイチゴ農家があったが小規模な生産が多く、農協もきめ細かい指導がされなかった。こうした中、町内産のイチゴを使用するよう有力者等を通じて申し入れをされた。
 農薬等の使用などの管理が十分でないことを理由に断り続けていたが、ある時 有力町会議員を通しての申し入れがあった。議員を通せば簡単に翻すと強気な態度であったが、農薬等の問題点などを挙げたが引き下がれなかった。一人の子どもに2・3粒でも大量のイチゴが必要なこと、それも粒が揃っていないと子ども同士が比較しあう。など説明すると「全校揃って同じ日にイチゴを出さなくても、数校づつ分けて出せばできるではないか。」など引き下がれなかった。

 「イチゴだけ出せば良いと思うだろうが、デザートに合わせて副食も変えている。大量調理なので今日はこの学校はイチゴと合う副食・イチゴを出さない学校には異なる副食をと、異なった献立はできない。農薬などを徹底して管理をすること。同一日に粒の揃ったイチゴを数万個提供できるのなら栄養士と協議する。」と伝えると不服そうであったが、これ以降イチゴの話は出なかった。

 新聞等で学校給食の中に異物が混入していたと話題なることがある。給食センターでの調理は栄養価に優れていること、子どもたちが喜んで食べることを心掛けている。給食の中に異物が混入することなどあってはならないことである。細心の注意を払っていても食材の入っていたビニール袋の切れ端、ざるの破片等滅多に無いことであるが思いがけないものが混入することがある。子どもたちが食べていて気が付いたときは学校から連絡が入るので、直ちに謝りに行き混入物を持ち帰る。その際は全調理員に混入物のを確認し・混入物の入った原因・今後の対応策などを協議し、二度とこのようなことが無いことを確認しあった。

 給食は各児童に食器に盛り付ける物以外に、デザート・果物・その他、一人数個づつ配布する食材もある。その際は児童数に応じてクラスの数だけ容器に一つづつ数得える。その日の給食が終了し使用済みの食器を回収に行くと、翌日の必要食数をクラスごとにまとめた一覧表を持ち帰る。栄養士がその表で集計した人数を元に翌日の給食材料を業者に注文していた。
 
 食器に盛り付ける副食以外に、デザートなどの数物はクラスごとに区分して必要数を一つづつ数得て別容器で届けていた。昼食時間になると子どもたちが準備するが、配っていて時々数が足らないことがある。各学校より、何クラスで何個不足・何クラスは何個不足と連絡が入ると大急ぎで各学校に不足分を届けていた。調理員は手が取れないので事務員が届けて謝っていた。届けるまで一部の子どもは今か今かと食べられず待っているので気が気でなかった。

 給食センターにj配置となったお陰で、他部署では体験できない業務が出来た。

# by hirosan_kimura | 2026-04-15 10:17 | Comments(0)

№1114 県内最大規模の給食センター   

 当時、廿日市の給食センターは一日約9,300食の調理を行っていた。町内の小中学校及び保育所の三歳以上児に提供していた。当時は県内最大の配食数と言われていた。最大一万食の調理能力があったが、施設も老朽化し調理能力の限界に達していた。

 町内の学校給食は昭和23年に小学校のみで脱脂粉乳のみの提供が始まり、昭和27年に地御前小学校を皮切りにパン、脱脂粉乳・おかずの完全給食が開始された。この頃は小学校の片隅に調理場があり、保護者が交代で調理作業を行う学校もあり中学の給食は無かった。

 昭和43年には廿日市小学校に隣接して給食センターが整備された。これに伴い小学校5校に加え中学校2校・保育所5か所の三歳以上児に給食が提供された。広島市では小学校は自校方式で給食が提供されているが、全中学校での学校給食はいまだに実施されていない。中学校では自宅から弁当を持参したり、業者から取り寄せているところもあり保護者より早急に学校給食を実施する要望が出され、マスコミを賑わすところもある。

 廿日市では60年近く前から小中学校で完全給食を実施しているが、一部の保護者からはセンター方式でなく自校方式で調理するよう攻め続けられてきた。広島市でも佐伯区では合併前からセンター方式で中学校にも完全給食が行われていた。

 ミルクは脱脂粉乳が提供され人気が悪かったが、昭和45年から牛乳が提供されている。主食はパンが主流であったが昭和52年から月に二回米飯になっている。昭和54年からは週三回の米飯の実施となったが、現在は何回になっているだろうか。米飯は子どもたちにとても認可があり、当時から回数を増やしてほしいとの要望が強かった。給食センターでは食器を自動洗浄機で洗っていたが、米飯を提供した時は食器に粘りが残り使用後の食器を一晩水に浸けて置き翌日洗浄機で洗っていた。何千食もの食器を手洗いするにも行かず,隔日毎の米飯提供しかできなかった。現在では最新の食器洗浄機が導入され、連日の米飯提供にでもなっているのだろうか。

 児童生徒の急増により旧給食センターでは対応できなくなり、昭和54年5月には上平良に一万食対応の新給食センターが整備され移転した。対象施設は小学校7校・中学校2校・保育所7か所であった。この施設は丘の上にあり、雪が降ったり寒い日には道路が凍結し配送車は滑り止めをしたが、調理員が通勤するのに足が滑りガードレールに掴まりながら歩行し難儀することもあった。

 新センターでの調理も児童生徒の急増により対応が難しくなった。敷地は三方にが崖があり、一方には墓地があり拡張する余地はなかった。町長が本気かどうか分からないが、崖下の民有地を購入し調理は現有施設を改築し、崖にエレベーターかエスカレーターを新設し崖下に洗浄施設等を配置したらどうか。配送車は下の施設から出入りすれば坂道を上り下りしなくて済む。と突拍子もない案を提示した。同一施設をエレベーターかリフトか分からないが分離するなどとんでもない、作業の導線も悪く非効率であると職員こぞって大反対した。次に町長が提示したのは阿品台の日赤看護大学隣接地の山を造成して移転すると言うものであった。これも宮内の県道から養護学校を抜ける坂道で、日陰も多く冬には道路が凍結するので有名な場所なのでこぞって大反対した。町長は出す案をことごとく反対すると機嫌が悪かった。

 多くの課題を残しながら給食センターは三年間の在職で、63年4月には市民部市民課に配置換えとなった。同時期に保育所給食が切り離され、小中学校のみの対象となった。
 新施設の町長提示候補地を二案を反対し機嫌が悪かったが、一度整備すれば半永久的に使用しなければならない。後のことを考えれば、町長の機嫌を損ねたの残念であったが正しい選択であったと思う。その町長も亡くなられて久しい。
 
 平成17年には宮内工業団地に新しい給食センターが整備された現在に至っている。

# by hirosan_kimura | 2026-04-13 11:39 | Comments(0)

№1113 新しい職場   

 新年度より庁舎を離れて給食センターへの配置換えとなった。当時は庁舎外への配置は「島流し」「左遷された」など揶揄されていた。以前、住民課厚生係から水道事務所に配置換えとなった時は情けないと思ったことがあったが、思ったより居心地が良く良い体験が出来た思った。
 今回の給食センターへの配置換えに当たっては、教育委員会を追い出されたのだと勝手な事を言う者もあったが、教育委員会の雰囲気に馴染めかったので解放されたようで肩の荷が降りた。

 新しい職場はこれまで経験したことのないような職務であったが、保育所では三歳児以上の給食は給食センターで調理されたものが配送され、センターの献立委員会に参加していたし、保育所とセンター間の調理員交流もあり、馴染みのある職場でもあり違和感はなかった。保育所担当時代にセンター給食の試食にも行ったので、センター職員とも顔馴染みも多かった。

 新しい職場の人事体制は、所長1人・事務員1人・栄養士2人・運転士4人・ボイラー技士1人・調理員34人、合計43人の大世帯であった。前任の教育委員会社会教育課は課長以下8名の少人数と比較して、これだけの人数を纏めきれるのか不安な気持ちになった。

 職員形態も様々で、所長・事務員は町職の男性、栄養士二人は女性県職員、運転士四人は町職男性、ボイラー技士は嘱託で元国鉄蒸気機関車の運転経験のある人であった。調理員は町職男性5人・町職女性12人・パート女性17人と多岐多様であった。

 おまけに個性の強い人が多く、運転士は元町長車運転経験者と作業車運転経験者との間に過去の確執があるのか、何かにつけて対立があり配送業務に支障をきたすことがあった。

 また過去の給食センターでは伝説的に知られたことであるが、女性調理員同士で派閥があり調理作業中でもいさかいが絶えず,異様な雰囲気が続いたそうである。保育所調理員等との交代人事等で派閥解消を計ったり、年長者の定年退職等により、以前とは相当和やかな雰囲気に変わっていた。ある時、二階の事務室で執務していると突然、年長の調理員が泣きながら駆け上がってきて「帰らしてもらいます。」と訴えた。どうしたのかと確認すると「○○調理員が意地悪で自分の作業を妨害する。」とのことであった。前所長から「派閥の名残が残って居り、時には諍いもあろうが、下手に仲介するよりほっておくほうが得策である。」と助言してもらっていたので「今日は早退して家に帰った方が良かろう。」と帰ってもらった。翌日は両者とも何もなかったように作業をしていたので安堵した。

 栄養士の二人は県職員で県教職員組合に属していた。県教祖の組合員から見れば「廿日市町職員労働組合」の活動はもどかしくて堪らないらしい。二人の内一人は組合活動に熱心であった。何かにつけて意見が合わないので、廿日市の職員に県教祖の活動を引き込まないよう注意すると「今の所長の言葉は問題発言だ。県教祖に訴える。」と言うので「どうぞ訴えて下さい。」言い返しておいた。その後何らかの行動が有るかと思えば、何もなかった。
 この職員は給食センター職員に組合活動の勧誘に熱心であった。あまり過激な言動に年長者は同調するものいなかった。若い職員の中に一部は感化されるものもあったが、限られた少数者のみであった。

 月一回の給与は銀行振り込みが通常であるが、県職員の二人分については「広島銀行廿日市支店」に受領に行っていた。給食センターでは二人分のもであるが、支払日には学校関係の職員がたくさん来ていた。廿日市では広銀支店が近いので問題ないが、支店のない遠方の人は多額の現金を持ち帰られるのは大変であろう。県職の栄養士に「何故 銀行振り込みにしないのか。現金受け取りが良いのなら自分で銀行に取りに行けば良いのに」と聞くと、「給与は現金で支払うのが大原則である。管理者が纏めて受け取りに行くのが当然だ」といった。何か言い返そうかと思ったが、相手は組合活動等の精通者であり言っても言い返されるばかりなのでだまっていた。

 給食センターでは様々な職種・個性豊かな人が多かった。何かあれば町職男性職員と相談していた。この人はかなり年配で退職の近い人であった。本来ならば何事も相談すればよいが、性格は良い人であったが浮世離れしたような相談しても、見当はずれのような回答ばかりであった。
 こうした中、唯一頼りになった人がボイラー技士の方であった。国鉄を退職されてかなり経過した年配の方であった。とても人格者で穏やかな人であった。長年センターのボイラー技士を務められセンターの内部実情に精通しておられた。職員間の人間関係にも詳しく相談事に乗って貰い知恵を授かった。何かあるとボイラー室に行き座り込んで話すのも気がまぎれた。
 退職後も年賀状のやり取りをし安否を確認しあった。終わりごろは字も崩れ読みにくかった。最後ころは口述を娘さんに代筆して貰われたが、亡くなられて久しい。公務員生活の中でお世話になり忘れることのできない方の一人である。

# by hirosan_kimura | 2026-04-11 11:46 | Comments(0)

№1112 一年の在職で配置換えになる。    

 教育委員会の雰囲気や体質は肌に合わなかったが、業務そのものはやりがいもあり楽しかった。公民館を通じての地域との交流で、地域の有力者等とも親密になれ人的交流は広がった。社会教育課は課員も少数で和やかな雰囲気の中で日々を送った。社会体育の関係は行事も多く、体育指導員とは様々な活動を通して思い出に残る体験も多かった。泊りがけでの研修ではリクレーションやゲーム等を行ったことが思い出として残っている。

 特に印象に残っているのはスポーツ少年団を引き連れてのキャンプである。場所は体育指導員の方の所有の吉和の山中であった。瀬戸の滝に行く道路の中途に木々に囲まれた森があり、道路を見下ろすような斜面に、バンガロー風の小規模の建物が散らばって建てられていた。子どもたちはその建物に何人かづつが分かれて宿泊した。スタッフは男女が分かれてそれぞれ一棟づつに泊まった。夕食は子どもたちもそれぞれが飯盒炊爨などを行った。夕食後はキャンプフアィアーやゲームなどで過ごし、9時過ぎくらいから自由行動とした。子どもたちはそれぞれのテントでトランプやゲームなどを行った。遅くまで騒いでいたが滅多に無い機会でもあり、目に届く範囲で危険も無いので自由にさせた。大人たちは例にもれず一棟に集合し酒盛りであった。平素の業務で触れ合う機会も多かったが、酒盛りとなれば話は別で大いに盛り上がった。教育委員会事務局はたった一年間であったが、この時ほど楽しく後々まで思い出に残る経験は少なかった。

 今でも忘れられないのは同じ課にユニークな職員がいた。ある体育の何かの大会の時、昼前になってこの職員が何か言いにくそうな素振りなので「どうしたのか。」と聞くと「実は昼食を頼むのを忘れた。」と言うのである。昼食はスタッフ用は勿論、出場者分も必要なのでびっくり仰天したがあきれ果てたが今更業者に注文してもどうしようもないので、スタッフ全員で手分けをしてパンと牛乳を買い集めた。気の毒なのは子どもたちで、他チームの美味しそうな弁当などを
食べているのに牛乳とパンのみの貧しい昼食を食べてもらった。
 今回のキャンプでもその職員は自家用車で来たが、狭い場所でバックするのに立木に衝突してしまった。車の傷は大したことはなかったが、下手をすれば崖下に転落寸前であった。「一つ間違えば大変なことになる。何をするにももう少し慎重にするように。」と言うと、「実は今朝家を出る時に電柱にぶっつかりました。」とケロッとして言うので呆れてしまった。
 この職員はユーモアもあり悪気も無く、みんなから面白がられて憎めない人物であった。これ以外に逸話はたくさんあるが、長いこと会うことも無いがどうしているか気にかかる。

 教育委員会は学校教育課と社会教育課の課であった。上司の社会教育課長は町職員で親しく遠慮は無かった。もう一課の学校教育課長は教育長と同じく教員経験者であった。教育委員会で一緒になるまで親交は無かったが、とても穏やかな人で分からないことがあれば気軽に相談をすることも多かった。翌年、給食センターに移動となった際は教育次長に昇進されたが同じ教育委員会部局なので心強かった。後年、次長はエジプト日本人学校の校長として赴任された。引き続き手紙のやり取りなどをして親しく付き合ってもらった。ある時手紙で、エジプトに遊びに来ないか、ピラミッドなどを案内すると添えてあった。ピラミッドなど生涯見れることもないだろうと心は動かされたが、休暇の関係・旅費・言葉・食事等を考えれば夢のような話であり丁重に断ったことがあった。退職後暫く親交があったがお元気にしておられるだろうか。

 毎年三月終わりころになると移動の内示があるが、教育委員会事務局に配置換えとなり一年なのでまさか配置換えは無かろうと思っていたが、4月1日より給食センターに配置換えの内示があった。たった一年の在職での配置転換と併せて解放されたような複雑な心境であった。

# by hirosan_kimura | 2026-04-09 11:18 | Comments(0)

№1111 思いがけない配属先   

 税務課に配置換えとなって三年経過した。そろそろ配置転換が有るだろうと思っていたら3月末に異動の内示があった。移動は覚悟していたが配置先を聞いて気が重くなった。雇われている以上配置換えはや無得ないが、新配置先は最も行きたくないと思っていた職場であった。よりによって最も苦手な職場に、行かなければならないのかと思ったがどうしようもない。

 昭和59年4月1日付の人事異動通知書は
「廿日市町教育委員会へ出向させる。社会教育課課長補佐を命じる。社会教育係長事務取扱を兼職させる。」と言うものであった。

 当時の教育委員会は学校教育課と社会教育課の二課のみであった。社会教育課は社会教育係・社会体育係・同和教育係の三係で、全課員は町職員5名、嘱託職員3名のみの少人数であった。新しい課長の前職は給食センター所長であったが、「新年度に課長に昇進すると言われていたが,新課は嘱託職員を含めてもたった8人しかいない。騙されたと怒っていた。

 新課長は町職員として3年先輩であったが、平素よりとても親しくして貰い、お世話にもなり行政に関しアドバイスを貰っていた。経験のない職場で不安もあったが、気を使わなくても良い人が上司となり気分的には安堵したものである。

 上司は良かったが、教育委員会と言う組織にはとても馴染むことはなかった。教育委員会は自治体の中で,首長(町長)から独立した執行機関で教育に特化した専門機関である。
同じ自治体の機関でありながら何かと連携が難しかった。教育長は古くから地域も有力者や町職員経験者が就任していたが、地域に疎い教育者が就任されてからは雰囲気が変わってしまった。臨機応変・柔軟な解釈等も無く、頑な法令順守のみで、平素の業務執行で町長部局と対立することが多かった。過去の福祉関係の業務を行う上でも、もう少し柔軟な対応ができないものかと、何回も悔しい思いをしたことがあったか数得きれない。

 上司の課長は自分以上に異常な位、教育委員会の体制に同調できず教育長と対立していた。担当の業務で公民館業務があった。当時公民館は中央公民館をはじめ8館あった。その内3館は町役場退職者。教師経験者が多数あったが内1名は七尾中学校の恩師で、母親と二人の兄が懇意にしてもらっていた人であった。大半の館長が顔見知りであったので親しく話をすることが出来た。毎月月初めに全館長を対象に館長会が行われた。最初,教育長が挨拶や必要な伝達を行いそれが済むと途中で退席されていた。最初の会議で驚いたのは教育長在席中は神妙に話を聞いていた館長が、教育長が退席すると同時に教育委員会に対する不平不満を話しまくっていた。

 ある時、ある公民館で町内会の清掃道具や防災品等を、公民館の空スペースに保管していたことが教育委員会内で問題になった。これが幹部の逆鱗に触れたことがあった。言い分は「公民館は学習や文化活動を行う教育施設である。地域活動は社会教育法で定める趣旨に反する。直ちに地域活動に関する用具等は撤去するように。」との解釈であった。これに対して地域活動を公民館で排除するのなら今後、公民館に関して地域では一切協力しない激怒し大問題になった。

 いくら教育委員会が法令の建前を貫こうと強行しても、地域から見放されては大問題になるのは明らかである。教育長が地域に陳謝してコミュニティ活動に協力することになった。しかし一度失った信頼関係は元に戻らずこれ以来、地域との間に微妙に溝が出来た。この公民館以外でも何かあれば地域のたまり場のようであったが、地域の人が寄り付かなくなったところもある。

 ある時、原理原則論のみで融通の利かないことがあり、町長部局の総務部門に相談に行ったことがあった。これが教育長に耳に入り教育長室に呼ばれたことがあった。教育長は「教育部局の者が何故町長部局に相談に行ったのか。」と問い詰められたことがあった。「教育部局内で協議しようとしたが、話にならないので町長部局に相談に行った。」と答えておいたが教育長は何も言われなかった。翌年四月にたった一年で課長は保健課長に、自分は給食センターに配置換えとなった。課長は教育委員会部局か外れたと喜んでいた。給食センターは教育委員会の管轄であるのが不服であったが、教育委員会事務局から離れられたのは救いであった。

# by hirosan_kimura | 2026-04-07 10:54 | Comments(0)