日本の年金制度は明治18年(150年前)に海軍退隠令による制度発足から、陸軍軍人への適用、公務員・教職員・警察官へと拡大された。民間人では昭和14年に軍事物資を運搬する船員保険と広げられた。さらに昭和16年に労働者年金制度が設けられたが、対象は男性のみであった。
昭和36年に国民年金法の制定により、自営業者・農業従事者等も対象となり、これにより20歳から60歳までの全日本人は何らかの年金に加入することとされた。ただし配偶者が厚生年金等に加入している専業主婦、20歳以上の学生は任意加入とされた。
また高齢者は納付期間を満たすことが出来ないので、70歳から福祉年金が支給されることとなった。制度発足時から年金を納付しても要件を満たない高齢者には暫定措置が設けられ、最低10年の納付があれば拠出年金が支給される特例があった。
福祉年金と拠出年金との違いは、拠出年金は一定の年齢に到達すれば無条件に年金が支給された。福祉年金は支給年齢が70歳。本人か扶養義務者には所得制限がある。年金額は拠出年金と比較すると低額であった。
自営業者・農業従事者等全員には長年の念願がやっと叶った制度であり、国や自治体・民間報道機関も制度の周知に努めた。このため年金への加入・保険料の納付にも関心が高まり加入率・納付率も順調であった。
こうした中でも国や公務員に対する不信感など、強引に国民年金そのものに反対したり意図的に保険料を滞納する人もあった。また、ある組織は老後の生活を保障するのは国の責務であるので、強引に加入阻止・保険料の納付をしないように運動される場合もあった。
大半の加入者が年金の必要性と理解してもらっていた。ごく一部の方でるが一筋縄では行かない方ばかりであった。
平素の業務に一段落した際、未加入者への加入促進を行っていた。今のように庁用車は無く町内を回るといえば交通手段は自転車か、徒歩で行っていた。その自転車も取り合いで、事前に予約しておくこともあった。自転車は速谷神社より上の上平良・原、宮内の畑口より奥は坂道で困難であった。
未納者の督促はこれまで多くの人が説得しても困難な人のみで、行っても在宅で玄関を開けてもらえなかったり、追い返されたり、二度と来るなと怒る人ばかりで訪問するのは暗い気持ちになるばかりであるが、それでも与えられた職務なのでと割り切っていた。
加入促進に行く前から結果は分かった人ばかりであった。それでも、それでも会ってもくれなかった人が玄関を開けてくれたり、話を聞いて考えが変わるわけではないが話だけは聞こうなど言う人もたまにはあった。
訪問してもけんもほろろであった人でも、「話だけは聞こう。」「国を信用するわけではないが、手ぶらで帰っても気の毒だから加入手続きだけはしよう。」「所属団体の手前、もろ手を挙げて賛同ではないが加入するが、所属団体の人に知れないよう内緒にしてくれ。」などと、不承不承ではあっても嬉しかったものである。
役場に帰って上司に報告すると「今まで頑なに拒否した人をよく了解させた。どのような手を使ったのか。よく頑張った。」などと褒めてもらう嬉しかったものである。
組織の
後の話であるが、発足時の特例で10年納付で年金受給できる制度で初めての年金受給者が出た当時、任意であるが加入した高齢者と加入しなかった人で随分溝が出来たようである。加入しなかった高齢者よりは、加入拒否運動を勧めた組織の責任はどうであろうか。
現在では無年金者は皆無に近いであろうが、法に決まった年金加入・保険料未払運動をした団体はどのような見解なのか聞いてみたいものである。