№1015 計算事務   

新しいブログは「ふるさと 阿品 よもやま」を整理せず続けているので「役場 市役所 四十二年」で検索しても閲覧できない。また新しいブログ開設は公表してないので、閲覧する人は皆無に近い。偶然、閲覧しても面白くもおかしくもないので、また開いてみようと思う者も少ないだろう。

 新しいブログを再点検してみると、ほとんどの画像が閲覧できなくなっている。出来るだけ早く原因を調べて画像を再現したい。

 現在まで様々な事務処理を行ってきたが、計算を要することが多々あった。現在では個人個人に電卓が配備され、またパソコン等でも簡単に計算事務を行っている。しかし、当時は電卓などは無く、主な計算手段はソロバンであった。ソロバンは事務処理を行う上での必需品で、一人一人が使い慣れたソロバンを使っていた、貸与でなく個人所有が普通であった。

 ソロバンは学校の科目で習ってきたが、使い方は個人個人で大きく異なっていた。自分はソロバンが苦手ですと言っても、ソロバンなしでは通常の事務をこなすことも出来ない。足し算・引き算は何とかなっても、掛け算・割り算となるとどうしようもなく、筆算で行い上司から何とかならないかと嫌味を言われることもあった。

 しかし必要とする計算の大半は加算であったので、何とかなっていた。加算が大半と言っても合計があっているかの確認は、同じ計算を二度行い同じであれば正しいということである。しかし、何回行ってもすべて数が違うこともあった。このようなときは他の人にお願いして計算してもらい正しい数を出すこともあった。

 現在では電卓は百円ショップでも売っているが、当時は計算機は普及していず今では考えられないくらい高価なものであった。計算機は大掛かりでレジスター位のものが全体でも財政担当や税務担当にあるくらいであった。その代わりに手回し計算機といって、片手で持つのは重過ぎるものがあった。各部署に1・2台あり使うのに取り合いになるくらいであった。掛け算割り算用で足し算・引き算には不向きであった。

 掛け算をする場合は先ずかける数字を手で操作し、三桁の場合は先ず一の位をハンドルで回し、次は十の位をかける数だけハンドルを回す、次に百の位を数だけハンドルを回す。廻すときは一桁ごとにガチャガチャ音がし、必要な数廻すとチンと音がしていた。傍に使う人があれば、ガチャガチャ・チンチンと煩かった。

 使用方法を文章に表すのは難しいが、今から考えると非効率な計算機であった。これ以外に土木関係の人は計算尺を使っていた。操作はそんなに難しくないが素人が使うのは至難の業であった。

 文具関係の業者が見本を置くから使ってみて欲しいと一台おいていたが、とても高価で購入できなかったが、イタリアのオリベッティと言うようなメーカの機器であったように思う。

 その内、安価な計算機が普及したり、パソコンなどの導入により奪い合いで使っていた手回し計算機は見向きもされなくなり、いつの頃か廃棄されてしまった。今思えば一台でも保管して置き、若い人に試しに使ってもらえばと後悔するばかりである。

 計算と言えばソロバン、非効率な手回し計算機を四苦八苦して使っていたのが噓のようでもあり、懐かしく思う今日この頃である。

# by hirosan_kimura | 2025-02-06 16:02 | Comments(0)

№1014 文章の作成・印刷・保存   

 現在、文章を作成・印刷・記録はパソコンで簡単にできるが当時は筆記用具で作成し、数枚であればカーボン紙で複写していた。必要枚数が多ければガリ版を切り謄写版で印刷していた。ガリ版は蝋原紙に鉄筆で文字を書いていたので、個人により字に異なっていた。以前は学校でお知らせやテスト用紙など頻繁に使われていたが、今ではガリ版など使っているなど皆無であろう。

 正式な文書や住民へのお知らせなどは、タイピストに蝋原紙にタイプライターで印字してもらい、輪転機を廻して印刷をしていた。しかし議会前などになると作成を必要とする文書が多く、通常の文書は後回しにされていた。

 文書のタイプまではタイピストが行っていたが、印刷はそれぞれで行っていた。輪転機に原紙を張り付けるのが難しく、少しでも皴があればその部分から原紙が破れていき使い物にならなくなった。

 税金や使用料など納付書は、一枚ずつカナタイプで印字していたがtyぴ民税や固定資産税などの納付書の発行時はその数が膨大になり、保育料などの納付書の作成まで手が回らず、担当で手書きをすることもあった。手書き複写は力を入れて書かないとならないので手首が痺れる様になることもあったが、泣きたくなるようなこともあった。

 これ以外に戸籍係は専用のタイプライターで戸籍謄本などを作成していた。戸籍謄本などは専用の薄い美濃紙が使われ、謄本の請求などがあれば今では余り見られない湿式の複写機で複写し発行していた。少し以前までは戸籍の請求があれば、原本を見ながら筆で一字,一字手書きしていたので、請求日の翌日くらいでないと発行できなかったそうである。

 担当部署に何故か一台の和文タイプ機があった。これを使いこなせる人はタイピスト以外では極まれで、何故か年金係の上司が使いこなされていた。和文タイプ機は現在はまず使う人は皆無であろうが、とても難しいものであった。現在ではパソコンでひらがなを打ち文字変換すればよいが、和文タイプは文字を選択するのが一苦労であった。文字は鉛の活字があり一文字・一文字選択し原紙にタイプしていた。ひらがな・カタカナ・算用数字・それに加えて感じが膨大で、文字盤に並んだ文字は「あいう」順でなく「イロハ」であった。一つの文字盤に使用頻度に応じて一級・二級・三級と分類され3000文字以上あった。

 今では文字の大きさ、均等割り付けなどボタン一つでできるが和文タイプではいちいち手間を要した。文字の大きさを変えようとすれば、重い文字盤を入れ替えていた。均等割り付けも面倒で、文字を入れる行の幅と文字数を割り出して行っていたが、ぴったり割り切れない場合は微妙にずれることもあった。

 このように簡単に使いこなせないので、タイプ機は使われない時間の方が多かった。自分にはとても使いこなせないと思っていたが、上司の方が遊びのつもりで少しずつ練習してはどうかと勧められた。
 
 最初は休み時間等に簡単な文書から打っていたが、一番難しいのは文字を探すことであった。それでも頻繁に使う文字の位置を少しずつ覚えていったが、使ったことのない文字は一字探すだけでも大変で、文章を打つ時間より活字を探す時間の方が多いくらいであったが不思議なもので、何回も繰り返しているうちに人並には無理であったが、通常の文書は何となくこなせるようになった。

 通常の文書は何となくこなせても表を作るのは大変で、今の人がワードやエクセルを活用するが当たり前となっているがその比ではない。

 そのうち、ワープロがやパソコンの出現により、以前の作業がなんと手間暇かけ非効率なことを行っていたかと感慨深いものがある。

 当時の文章の保管は「手書き書類」「印刷用蝋原紙」等しかなかったが、現在の記録媒体から考えれば、原始的なものを使っていたものと呆れるようである。
 

# by hirosan_kimura | 2025-02-04 11:15 | Comments(0)

№1013 事務用品   

 事務用品は当時は頻繁に使用していたが、現在は余り使用しない物。反対に当時はほとんど使われていなかった物と種々である。中には今の人が見ても何の目的に使っていたのか、不思議に思われる物もある。

事務用紙等
 現在はA版が殆どであるが、すべてB版であった。現在はA4番が多いいが当時はB5番が多く、B版からA版に変わった時は違和感があり当分戸惑ったものである。
 
 現在は普通紙が大半であるが、当時は美濃紙をよく使用していた。この紙は透かせば反対側が見えそうな、薄い上質紙であった。現在は複写が必要であればコピー機で簡単に何枚も複写できるが当時は手軽に使用できるコピー機は無かった。美濃紙と美濃紙の間にカーボン紙を挟み、その上からボールペンで強く書き複写していた。二・三枚の複写なら問題ないが、5・6枚となると下の方はいくら力を入れて書いても、下の方は滲んだように読みにくかったものである。

 奉書紙は障子紙を長くしたような紙を丸めたものと、折りたたんだような紙もあった。現在よくつかわれるのは、格式ばった開会式等の挨拶状に使われることが多い。筆記は筆と墨で仰々しく読み上げられていた。
 この紙は風呂町時代から公文書でよく使用していた。御上の命令の意味で「奉」の字があてられていた。

筆記具
 鉛筆やボールペンを使うこともあったが、主に付けペンでインクを使っていた。筆記具の先にペン先が付けられ、インクが無くなりそうになるとインク壺のインクに浸していた。普通のペン先でなくガラスペンを使うこともあった。ペン先がガラスでできており、金属のペン先より滑らかに書くことが出来た。ただしガラスでできているので慎重に取り扱わないと、ペン先が割れることもあった。

 中には得意そうに万年筆を使用する者もあった。これは私物で中にインクカートリッジが入っており度々インクに浸す必要もなく便利であったが、万年筆を使う者は僅かであった。

 鉛筆は大切に使い、短くなって持ちにくくなったら専用の継ぎ手を足していた。ボールペンはインクが無くなると、空の芯を用途係に持って行って代わりの芯を貰っていた。

 現在は大きな見出し等はパソコンを使えば、書体・大きさ・間隔等も自由j材に表示できるが、当時は少し大きい字は筆と墨で書いていた。保管書類委は重ねて千枚通しで穴をあけて、表表紙・背表紙・裏表紙を閉じひもで閉じて冊子のようにしていた。これらの保管文書は背表紙等に済で表示していた。
 現在はあまり使われない墨と筆であるが、当時は日常の事務で使用していた。年配の人は墨と筆は使い慣れて居られ立派な書を書いておられたが、我々は人に見られると恥ずかしいような字であったので、滅多に墨と筆で書くことはなく書の上手な人に書いてもらっていた。

# by hirosan_kimura | 2025-02-02 10:15 | Comments(0)

№1012 年金未加入者への加入促進   

 日本の年金制度は明治18年(150年前)に海軍退隠令による制度発足から、陸軍軍人への適用、公務員・教職員・警察官へと拡大された。民間人では昭和14年に軍事物資を運搬する船員保険と広げられた。さらに昭和16年に労働者年金制度が設けられたが、対象は男性のみであった。

 昭和36年に国民年金法の制定により、自営業者・農業従事者等も対象となり、これにより20歳から60歳までの全日本人は何らかの年金に加入することとされた。ただし配偶者が厚生年金等に加入している専業主婦、20歳以上の学生は任意加入とされた。
 また高齢者は納付期間を満たすことが出来ないので、70歳から福祉年金が支給されることとなった。制度発足時から年金を納付しても要件を満たない高齢者には暫定措置が設けられ、最低10年の納付があれば拠出年金が支給される特例があった。

 福祉年金と拠出年金との違いは、拠出年金は一定の年齢に到達すれば無条件に年金が支給された。福祉年金は支給年齢が70歳。本人か扶養義務者には所得制限がある。年金額は拠出年金と比較すると低額であった。

 自営業者・農業従事者等全員には長年の念願がやっと叶った制度であり、国や自治体・民間報道機関も制度の周知に努めた。このため年金への加入・保険料の納付にも関心が高まり加入率・納付率も順調であった。

 こうした中でも国や公務員に対する不信感など、強引に国民年金そのものに反対したり意図的に保険料を滞納する人もあった。また、ある組織は老後の生活を保障するのは国の責務であるので、強引に加入阻止・保険料の納付をしないように運動される場合もあった。

 大半の加入者が年金の必要性と理解してもらっていた。ごく一部の方でるが一筋縄では行かない方ばかりであった。

 平素の業務に一段落した際、未加入者への加入促進を行っていた。今のように庁用車は無く町内を回るといえば交通手段は自転車か、徒歩で行っていた。その自転車も取り合いで、事前に予約しておくこともあった。自転車は速谷神社より上の上平良・原、宮内の畑口より奥は坂道で困難であった。

 未納者の督促はこれまで多くの人が説得しても困難な人のみで、行っても在宅で玄関を開けてもらえなかったり、追い返されたり、二度と来るなと怒る人ばかりで訪問するのは暗い気持ちになるばかりであるが、それでも与えられた職務なのでと割り切っていた。

 加入促進に行く前から結果は分かった人ばかりであった。それでも、それでも会ってもくれなかった人が玄関を開けてくれたり、話を聞いて考えが変わるわけではないが話だけは聞こうなど言う人もたまにはあった。

 訪問してもけんもほろろであった人でも、「話だけは聞こう。」「国を信用するわけではないが、手ぶらで帰っても気の毒だから加入手続きだけはしよう。」「所属団体の手前、もろ手を挙げて賛同ではないが加入するが、所属団体の人に知れないよう内緒にしてくれ。」などと、不承不承ではあっても嬉しかったものである。

 役場に帰って上司に報告すると「今まで頑なに拒否した人をよく了解させた。どのような手を使ったのか。よく頑張った。」などと褒めてもらう嬉しかったものである。
組織の
 後の話であるが、発足時の特例で10年納付で年金受給できる制度で初めての年金受給者が出た当時、任意であるが加入した高齢者と加入しなかった人で随分溝が出来たようである。加入しなかった高齢者よりは、加入拒否運動を勧めた組織の責任はどうであろうか。

 現在では無年金者は皆無に近いであろうが、法に決まった年金加入・保険料未払運動をした団体はどのような見解なのか聞いてみたいものである。

# by hirosan_kimura | 2025-01-31 11:03 | Comments(0)

№1011 国民年金滞納者への督促   

 平素の日常業務は報告書の作成、納入台帳消込、来客者の対応等々結構忙しかった。こうした中にも一段落することもあった。そういう時は、滞納者対応・未加入者の加入促進等を行っていた。各地区に年金を集金される方が有り大半は家庭の奥さんで、中に一名の消防職員が集金していた。今では公務員は兼職禁止となっているが、交代勤務で非番の日に集金業務に当たる余裕があったようである。後畑は年金加入者は僅かで専任の集金業務員は必要でなく、現地で農業か酪農家の若い男性がアルバイト的に集金をしておられた。滅多に役場に来られることも無かったが、湯来・五日市経由でオートバイで来ておられた。
 
 このように年金集金には専任の集金人が居られたので、滞納者は比較的少なかった。しかし僅かの滞納者であったが一筋縄ではいかない方ばかりで、滞納督促に行っても支払う約束をしてもらうことは容易ではなかった。行っては断られ、二度と来るなと言われても根気よく空しい説得に行っていた。滞納者の大半はお金が無くて支払わないのでなく、行政に対する不満やその他の理由で滞納する人たちであった。

 断られても断られても、怒られて怒られても通っていると相手も根負けして、玄関払いでなく世間話をするようになる。その内相手は「以前督促に来た人は追い返したら二度と来なかった。支払いに納得はしていないが、あなたの執拗さに負けた。」など支払いの約束をしてもらえた場合はうれしかったものである。

 その場で未納金を貰えばよいが現金を取り扱う資格がないので、直ちに担当の集金人に連絡し集金に行ってもらっていた。

 根気よく説得し続ければ必ず了解してもらえるものではない。自分の考えに信念をを持っておられ誠意をもって対応しても解決しない例の方が多いものである。この場合は督促に行くの遠慮しておくが、将来に年金が受給できないか貰えても年金額が少額となるだけである。「後の後悔先に立たず。」である。

# by hirosan_kimura | 2025-01-27 11:06 | Comments(0)