№1034 水道指定工事店
2025年 04月 18日
各家庭や施設への上水道の接続工事は、指定工事店以外は行えないこととされている。当時の廿日市町の指定工事店は10事業所程度であったが、大半は零細事業者であった。家族経営や従業員を雇用していても一・二名程度であった。中には一人のみで営業している事業所も複数あった。
こうした中、中国電気工事㈱廿日市営業所のみは複数の従業員を抱える企業であった。電気工事事業所がなぜ水道事業に参画しておられたのかは分からないが、住宅や建物等が建築されると電気工事に加え給水設備の施工は不可欠であったためであろうか。
給水工事等に必要な作業車も軽トラックが一台のみが殆どであっでた。驚いたことには自動車が一台もなく自転車のみで営業する事業所もあった。工事を行う現場への資材等は業者に注文して届けてもらうにしても、さぢょうするにはスコップや工具など必要であるが、自転車の荷台にたくさんの用具をくくりつけていた。それでも間に合わないので、片方の手でハンドルを握りもう片方の手に抱えて運転していた。時には長い給水パイプを片手に抱えて離れ業のような運搬をしていた。交通量が今と比べて少なかった時代と言え、よくも事故など起きなかったものと驚くばかりである。
たった一人で自転車での資材運搬も大変であっただろうが、忘れ物でもあれば現場をそのままにして取りに帰ったり、道路を掘り返して給水管を埋設したり今では考えられないことばかりである。当時は道路もほとんど舗装してなく掘削作業も容易にできたのだろう。そうは言え何もかも一人で行うのは困難で、時には同業者同士で人や機材などの貸し借りを行い助け合っていたのだろう。
当時は指定業者との接点は給水工事の申請書等の受付、部品が不足すると購入に来られたりしていたが、従業員も少なく対応する従業員も少なく家族ぐるみで懇意にしてもらうこともあった。通勤は広電であったが水道事務所の最寄り駅は「宮内」で、停留所のすぐ近くある業者とは特に懇意にしてもらった。時には帰宅の途中に寄ってほしいと誘われることが良くあった。そこの奥さんはとても気さくな人であった。行ってみると他の業者も来ておられ水道関係の話題で話が盛り上がっていた。
お酒を飲みながらの談笑で初めのうちは話を聞くのみでお酒は断っていた。しかしそれで済むはずもなく一杯頂くと二杯、二杯が三杯になりいつの間にか酒盛りに加わっていた。酒盛りと言っても翌日はそれぞれ仕事があり、ほどほどで切り上げていた。今の時代であれば業者と飲み食いすれば大問題になるが、のんびりした時代であった。お世話になった方々とは年齢も随分離れていたが、有難いことに様々なことを教えてもらったり、どのかたとも可愛がってもらい懇意にしt貰った。
水道事務所と縁が切れて何十年と経過した。当時、懇意にしていただいた方は廃業されたり、次世代に事業を譲ったり、亡くなっておられるが、楽しかった当時のことを懐かしく思い出す。
# by hirosan_kimura | 2025-04-18 11:03 | Comments(0)