新しい部署の業務量の大半は保育所関係が占め、この中で援護関係業務はごく一部であった。援護関連の中でも「遺族会」「遺族会役員」との出会いが思い出深い。
現在ではその大半が解散しているらしいが、「遺族会」といわれる組織があった。この会は旧町村単位で地区遺族会があり,町全体で廿日市町遺族会・佐伯郡遺族会・県遺族会・日本遺族会の組織があった。これらは宗教的要素が強く任意団体でもあるので、町が直接関与しないのが原則であった。しかし、地区遺族会は地区ごとに運営されていたが「廿日市町遺族会」に関しては慣例的に町が関わっていた。
行政が関わる業務に関しては条例や規則で定めてあり、「廿日市町遺族会に関すること。」等は一切触られていなかった。町が関与すると強いてあげれば補助金を出すことくらいであった。
しかし遺族会に関する運営等は遺族会で行うのが大原則であるが、定例的に行われる役員会は日程や会場は遺族会で決められるが、役員への案内・会議資料の作成など大半を町で行っていた。最初は分からないままに行っていたがある時、上司に「外郭団体の事務を行政で行うのはおかしいのではないか。」と聞くと、「今まで此れでやってきている。他自治体も同じようである。相手は高齢者でもあり協力してあげるように」と言われたが、何となく納得いかないままに従っていた。
当時の遺族会会長は女性の方で、過去には町会議員もされた方であった。
どのような経歴の方は分からないが、とても凛々しく最初は近寄りがたい人であった。役員は会長を除き全員男性の高齢者であった。この人たちは各地区を代表する有力者ばかりであった。役員会は町会長と各地区会長と行政からの一名で行われていた。そうそうたるメンバーの中で若者は一名で、当初は緊張しこの会に出るのは苦手であった。しかし会を重ねるたびに役員の方の人柄も分かり、人のお世話をされるくらいなので気さくな方ばかりであった。
役員会は定例ではないが殆ど毎月のように行われていた。会場は町役場に近い会長宅で行われていた。議事は国や県よりの報告事項や神社庁よりの連絡事項など、わざわざ役員が集まって議論するほどのことはないものが多かったが、役員の方にとってはとても重要なことだったらしい。ある時「町としては遺族会には協力はするが、役員会に職員が出席しなくても対応できるのでは無いか。」と提案したことがあった。
これに対して「上司の命令か?」「今までそんなことは言われなかったのに、なぜ急に言い出したのか。」「今の平和な日本があるのは戦争の尊い犠牲があったからである。慰霊のための遺族会を軽視しているのか。」など喧々諤々の声が続出した。
その後議論を重ねたが、遺族会と行政との経緯も詳しくは承知していないし、経験も無い若者がこれ以上議論するのは思い上がりではないかと、この話は打ち切った。
ただ一つ遺族会の会計に関し、通帳を預かったり現金に関与しないことは了解してもらった。その他、会議の資料を作成すること・「戦没者慰霊祭」に関して等は今まで通り居力させてもらうこととした。
戦時中の苦労も知らないし、役員の方は年齢も離れた各地区の重鎮の方ばかり、お互いに意見が合わないことも多く、思い悩むことも多かったがこの方たちには多くのことを学ばさせてもらった。後に援護関係の職を離れ他の職務に就いたとき、各地区でのさまざま困りごとがあるたびにこの方たちに相談し、どれだけ助けられたか分からない。
滅多にないが、たまに市役所の職員と話すことがある。地域のこと・地域の人を知らないのに驚くばかりである。