素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura
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 鰆浜部落は今でこそ新しい住宅が立ち並び、マンションも建ち県病院跡地には60区画の住宅用地が造成され、次々と新築住宅が建ち続けている。しかし昭和40年代に入る前頃には世帯数40、人口300人程度の小さな部落であった。小さな部落ではあったがとても団結力が強かった。この間、部落の将来を左右するような出来事があったが、その都度部落が一致協力して乗り切っている。

 その一つは昭和40年に西広島バイパス工事が事業化決定した際、部落の存続が危ぶまれるほどの計画が発表された。このブログ「№548 鰆浜部落の危機」でも紹介したが部落の半数近くの家屋の立ち退きを余儀なくされると言うものである。
 西広島バイパス出口に当たる部落の国道を拡幅する為、道路沿い20㍍程度区域内の家屋を立ち退かすものである。この計画が発表されるや立ち退き家屋も残される家屋も大騒ぎとなった。立ち退き補償金を目当てに金融機関は預金獲得に各家庭を訪問したり、立ち退き先を検討したり部落始まって以来の出来事となった。

 国道沿いの我が家も立ち退き先となったが、代替地と指定されたのは鼓ケ浜の埋め立て地であった。当時としては阿品の住民から見ればとんでもない地と考えられ、今と違って電車駅も無く阿品で生まれ育った母などは嘆き悲しんでいた。国が計画し発表したものを小さな部落が反対し覆すことは無謀と言われたが、その後部落を挙げて反対活動を粘り強く続けた結果国も折れて、海を埋め立てて広電宮島線を沖側に移設し道路を拡幅することになった。

 部落内で大きな敷地を占めていた「県立地御前病院」の廃止が決定した際、県は跡地に隔離病舎整備する予定であった。隔離病舎は伝染病予防法により感染症患者を収容するための病棟である。今では伝染病患者が発生することも少なくなっているが、当時は珍しいことではなく昭和30年後半に当時の廿日市町では赤痢が大発生し全国でも有名になったこともある。特に高齢者は隔離病棟を「避病院」と呼んで余り良い印象を持っていなかった。この計画も部落を挙げての反対運動を行い、県も撤回せざるを得なかった。この隔離病棟も平成11年の伝染病予防法の廃止に伴い無くなっている。

 山陽自動車道は昭和62年12月に廿日市・大野間、昭和63年3月に大竹・岩国間が開通しているが、大野・大竹間が開通したのは平成2年11月と大幅に遅れている。この3年近くの遅れは阿品とは全く関係ないように見えるが、鰆浜部落が大いに関係しているのである。大竹の山陽自動車の通貨予定地に大きな病院があったが、高速道路を通過させるためにはこの病院の移転が必要であった。公団はこの病院の移転先として鰆浜の県病院跡地を予定していた。

 この計画が発表されるや鰆浜部落では再び反対運動が展開された。折角県病院が廃止されたのに狭い部落内に大病院が新設されることと、その病院が精神病院のための抵抗感もあったようである。公団としては敷地を挟んで大野まで反対側の岩国までは開通し、病院部分を残して両側から工事は勧められているので必死の説得が行われたが、それ以上に鰆浜部落の反対に対する団結力は強く結局は説得を断念せざるを得なかった。

 大野を通過し大竹に入ると山でもないのにトンネル状の道路が現れる。病院は移転できず園部分のみ大きく迂回さすことも出来ず、病院部分のみ遮音等の対策でトンネル状の道路が覆ってある。
(№45 山陽自動車道と阿品)

 


# by hirosan_kimura | 2018-12-13 11:30 | Comments(0)

№775 そうらんば

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 かつて阿品には「鰆浜」「阿品」「田尻」と三つの字名があった。今では阿品一丁目から四丁目、阿品台一丁目から東・北・西・山の手と無粋な地名に変わっている。
 
 阿品一丁目は「鰆浜」と由緒ある地名であったが、地域では「そうらんば」と呼び親しまれていた。これ後白法皇が厳島に参詣された際、この地より厳島をご覧になったので「聖覧場(しょうらんば)」が訛って「そうらんば」と呼ばれるようになった。「そうらんば」の呼称は自分たちが子どもの頃にはごく当たり前に言っていたが、いまでは使われることもなくこの呼称が分かる人も僅かとなってしまった。

 なお「聖覧場」は毛利元就がこの地より出陣した厳島合戦で大勝利したので、「聖」に「勝」の字を当てはめて「勝覧場(しょうらんば)」と呼称されることもあった。

 鰆浜は小さな部落であるが、厳島合戦の際はこの地に陣地が設けられたり、広電宮島線が宮島口まで開業されていない頃は電車の終着駅の「新宮島駅」もあった。
 宮島航路も現在地でなくこの地より連絡船が運航されていた等、阿品の歴史上由緒ある地である。

 鰆浜の地名はかつて「鰆」が沢山採れる所から付けられた由緒ある地名である。現在の「広電阿品東駅」は阿品にJR駅が開業するまでは「阿品駅」と称していたが、駅名が改められた際せめて「鰆浜駅」にでも改名されていたらと残念な思いがある。

 数年前に亡くなられたが鰆浜には「長門太郎」さんと言う方がおられた。この方は長年町内会長を務められ、鰆浜地区の発展にご尽力された方であるが、郷土の文化や歴史を大切にされ生前「そうらんば 鰆浜の昔ばなし 残したい話」の小冊子を発行されている。ページ数は30ページ余りの小冊子であるが貴重な記録が残されている。この序文に「残したい話は数々あるが、今回は紙数の関係から二十話にとどめた。将来は「鰆浜町内史」をまとめたいと考えているので、適当な箇所があればそこで取り上げたい。」とある。

 自分が退職後に「阿品のことをまとめた資料が無いので、少しづつ調べて将来は阿品の歴史とでも称し本を作りたい。」と話すと大変喜ばれて、「今は体調が悪いので無理だが、元気になったら一緒に調べて行こう。資料は自宅に沢山あるので整理して行こう。」と言われていた。長門さんが元気になられるのを楽しみにしていたが亡くなられてしまった。程なく奥さんも後を追うように亡くなられ自宅は空家のままである。

 もう少し早く一緒に阿品のことを整理しておけば良かった。自宅にたくさん残されている資料を見せて貰えば良かった思うが後の祭りで、残念で仕方ない。

# by hirosan_kimura | 2018-12-09 10:01 | Comments(0)
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 犬の散歩で阿品二丁目を散歩していると、田圃が埋め立てられているのが目についた。恐らく宅地造成でまた新しい住居が建築されるのであろう。
 阿品地域では近年、次々と田畑が埋め立てられ、残る田畑も少なくなるばかりである。

 かつての阿品で田畑の中に住居が散在し、夏には稲の緑で一面が覆われ、秋には実った稲穂で黄色に覆われていた、所が近年では家屋に囲まれた田畑が窮屈そうに散在している状況である。稲作が耕作される田圃も年々少なくなり、今のままでは阿品での田圃が見られなくなるのも遠い先のことではないのではなかろうか。
 
 阿品ではこの数年のみで新築住宅が次々建てられている。更に田畑が埋めら住宅地になるのに加え、県病院跡地の宅地造成地にも新築住宅が次々建てられている。おかげで若い世代や子どもたちが引っ越してくるので阿品一・二丁目の高齢化率は20%越え程度である。すぐ隣接地の阿品台一~四丁目では驚くことに50%を超え超高齢社会となっている。同じ阿品でも四丁目は高齢化率が高く40%を大きく超えている。

 同じ阿品地域でこれほど若い人が多い地区と、高齢者が多い地区に分かれるのは平地と高台の違いによるものである。かつては高級住宅地と言われたり、整然と区画された住宅地を阿品の人たちは羨ましがっていたが、いまではそれらの地域から阿品のマンションに移り住んだり立場が逆転したようである。

 阿品台地区では「阿品台地区空き家対策勉強会」が行われるようである。すぐ目と鼻の先の隣接した地域でかたや田畑が埋め立てられ次々住宅が建ち、かたや空き家対策を講じなければならないとは、何かすっきりしないものを感じる。
 

# by hirosan_kimura | 2018-12-04 14:40 | Comments(0)
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 平成6年に市の教育委員会が「廿日市の民謡」の小冊子を発行している。発行に当たって平成4・5年の二か年に渡り専門のチームを編成し、旧町単位に聞取り調査を行っている。民謡の調査は過去に何回行われているが、継承する人も無くなり今回の調査では前回の半分も聞取りできなかったそうである。

 狭い旧町村単位の中で際立って異なる民謡は見られないが、それでも原・宮内地区には農業や林業、地御前には漁業に関する歌が、口伝えに伝承されていた。

 阿品地域では地御前村に伝わる民謡が歌われ阿品独自の民謡は無いが、それでも歌詞の一部分が阿品のみで唄われていたものもがあったようである。

 聞取りされた民謡の歌詞は旧町村単位で紹介されているが、ごく一部ではあるが地御前村の中の一地域の「阿品」で聞取りと明記されたものがある。

 これは阿品のみに伝わる歌詞なのか、地御前でも唄われていたがたまたま阿品の人が紹介したものかは分からない。


 収録されている歌詞の中の極一部であるが「 」内が阿品に伝わっていた部分である。

◎唐臼挽き歌
 唐臼挽き歌は、大きな臼で籾から米を摺り出す作業をしながら、女性がゆっくりしたテンポで唄っていた。この歌は原・平良・宮内・地御前で歌われていたが歌詞は、それぞれの地域で様々に異なり長い長い歌であった。
「うたいなされや おうたいなされ 歌で器量がさがりゃせぬ」

◎盆踊りの歌
 盆踊りの歌詞は長短さまざまであるが、七、七、七、五の小唄形式のもの。宮内・地御前等に伝わるもと同様の歌。
「岩に松さえ生えるじゃないか 添うて添われぬことはない
 思い出すよじゃ惚れようが足らぬ 思い出さずに忘れずに
 可愛がられて寝た夜もござる 泣いて明かした夜もござる
 添うて見なされ金こそ無いが 金に買われぬ実(じつ)がある
 連れて行くから髪結い直せ 娘島田じゃわたられぬ
 惚れたほの字と仏のほの字 深くなるほど味がある」

◎餅搗き歌
 餅は昔から、正月、新築、祭礼などの祝い事にかかせなかったが、その餅搗きにはめでたい文句の歌がついて賑やかな雰囲  
 気であった。宮内等でも唄われていたが阿品に伝わるのは独特のものであった。
「阿品に伝わるものは以前にも紹介しているので省略」

◎数えうた
 こどものわらべ歌として各地で唄われていた。
「ひぃ ふ みぃ よう いつ む なな や ここのつの とお
 とうから うたの とうもさん 赤いべべ 着て てっちゃん てっちゃん」

◎まりつきうた
 女の子の遊び歌で各地に様々に唄われていた。子どもが良く覚えられるのかと思われる長い長い歌詞があった。
「神さん参ろと出掛けたら あとからお金が泣いてくる
 泣きの涙で船積んで 船はどこまで大阪まで
 船の土産に何貰た 金襴緞子の帯貰た
 今夜あねさんくけてんか 今夜は遅くてくけられん
 明日の明かりで くけてやるくけてやる」
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  右の表は今から二十五年前、民用調査のため聞取りを行った地御前・阿品の人たちである。
 地御前の人は半数足らずの人しか分からないが、阿品の人は全員名前と顔が一致する人ばかりである。阿品の人七名の内、五人はすでに亡くなっておられる。


# by hirosan_kimura | 2018-11-24 13:18 | Comments(0)

№772 岩鏡神社再建

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 昭和56年12月12日、土曜日の午後7時から阿品公民館において岩鏡神社総代より氏子に対して、神社の拡張改築に対する説明会が開催された。今から37年前のことである。さらに、昭和57年2月28日(日)午後一時三十分より公民館において募金募集の協力依頼の会合が行われた。

岩鏡神社氏子の皆様へ
 岩鏡神社拝殿改築寄附金募集趣意書
一、鎮座地 廿日市町阿品二丁目18
一、社 名 岩鏡神社
一、御祭神 手摩乳命(てなぢちのみこと) 足摩乳命(あしなぢちのみこと)
一、御鎮座年月日 不詳
一、由 緒
 岩鏡神社は古い社で、社蔵の古文書・古記録はありませんが、御祭神手摩乳命・足摩乳命の二社の神を奉斎する心の「ふるさと」「阿品」あじなに古くより鎮利座す、この里の氏神さまで、古来岩社、岩神神社ともいい岩鏡さんと敬いたたえ奉り、地名「阿品」は御祭神名の足摩乳命より生まれたることも察せられ、「阿品」の祖神・氏神として祀られ、阿品川の上流の岩山そばに鎮座せられたものでありますが、昭和二十六年の台風で崩壊し、昭和二十八年現在の所へ鎮座せられたものであります。
 さて現在の神社は、建築当時約八十五の戸数の時建築されたもので、現在の阿品地区では戸数も増え、周辺には住宅団地・遊園地等が出来開発が進められ、これに伴い阿品地区は益々発展し、神社に御参拝の氏子の方々も年毎に多くなり、現在の神社拝殿も老朽化し、その上御参拝の方々で狭くあふれるような姿になりました。神社の拝殿が狭少との皆様の御心持ちで、皆様の御心に添いたく、氏子の方々の御懇志を戴き拝殿を広く、現在の建坪五坪の拝殿を九坪に改築いたしたい存念で御座います。
 御出宝御多端の折柄誠に恐縮に存じますが、深き御理解と御同情を賜わりまして、御拝殿改築の功を了へたいと存じます。何卒応分の資を御寄付下さるよう、伏してお願い申し上げます。
一、戸数約三三五戸

 岩鏡神社拝殿改築の概要
一、拝殿の改築について
 1拝殿流造木造瓦葺 壱棟  建坪 九坪(約30㎡)
 2建築総経費  約四百五拾万円
一、倉庫改築経費 三拾万円

◎以上の件に付き、皆様と御相談したく御多忙中誠に恐れ入りますが、ぜひ御出席頂きますようお願いいたします。
岩鏡神社宮司 飯田亀丸  岩鏡神社総代代表 原田 清  岩鏡神社総代 西山敬三 他12名
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  詳しいことは分からないが地域を上げけての募金が行われ、丸市工務店の施工により施行された。工事に当たっては地域の人が総出で奉仕に当たり、昭和57年7月に本殿の改築が行われている。

# by hirosan_kimura | 2018-11-21 13:45 | Comments(0)

771 最後の一本

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 宮島から広島への帰途、明治天皇が上陸されたのを記念して造られた「お上がり場」については、これまでも何回紹介してきた。かつては公園を覆い尽くすほど茂っていた松の木も、平成に入る前後より枯れて行ったが、先日、最後の一本も松枯れのため切り倒されてしまった。

 この松が何時植えられたのかは定かでないが、昭和7年11月7日に挙行された、記念碑の除幕式の写真に植えられて間もない松が映っている。今から86年前である。当時、どの程度の大きさの松が植えられたのかは分からないが、写真に映っているのは植えられて何年も経過していないのではなかろうか。


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 この写真は小さな映りの悪い写真を拡大したので見にくいが、推測では終戦前ごろに撮影されたものと考えられる。場所は「お上がり場公園」の広電軌道の側である。

 後ろの松は植えられて12,3年経過しているのではなかろうか。





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  この写真は何時頃撮影されたかははっきりしないが ,おそらく平成に入る直前くらいではないかと推測される。

 大きな松が何本か映っているが、手前側にも何本か松の木が茂っていたが、この時点では枯れてしまって何本かは切り倒されて、元気な松の木のみが残されていたのではなかろうか。

 昭和50年代頃までは地面に太陽の陽射しが届かないくらい松の枝が生い茂り、陽が当たらないので雑草も育たず一面白い砂に覆いつくされていた。

 夏には海水客が押し寄せ、一面に茣蓙が敷き詰められ人々が憩い楽しまれていた。


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 平成に入って急速に松枯れが進み、僅かに残されていた木々も葉が赤く枯れ、由緒ある松の木もすべて枯れてしまい、後に植えられた桜などのみになってしまった。










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 全ての松が枯れてしまい次々切り倒されてきたが、最後まで残っていた枯松も何時倒れるか分からないため、先日切り倒されてしまった。

 公園に沢山あった松の木の中で、最後の一本は育ちが悪かったのか巨木とまではなっていないが、すぐ傍にはこの木の倍はあろうかと思われる巨木の切り跡が残されている。

 今から90年近く前に植えられ、長年の風雪に耐えてきたであろう痕跡もも無くなり、阿品の歴史の一ページが消え去ったようで寂しい限りである。




# by hirosan_kimura | 2018-11-15 13:06 | Comments(2)
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今朝、9時前くらいに我が家の犬がけたたましく泣き出した。この犬はとにかく良く鳴く犬で、家の前を人が通っても車が通っても鳴き近所に迷惑を掛けている。何故鳴くのか家の前を見たが人も車の気配もない。不思議に思って道に出てみると、二台の車が止まり両方の運転手が車外に出て何やら話をしておられる。

 どうしたのか良く見ていると、後ろの車が前の車に衝突したらしい。幸い運転手に怪我もなく車も少し壊れた程度らしい。犬が鳴いたのは車がぶっつかった音に驚いたらしい。ぶっつかった音が人間には気が付かない程度であったが、敏感な犬の耳には聞こえたらしい。目の前は良く追突や正面衝突事故が良く起こり、その都度大きな衝撃音が家の中にいても聞こえるので、近所の人はその都度家から飛び出し事故を見物する。幸い今回は小さな音しかしない追突で大したこともなく、事故ともいえないような出来事である。

 この付近は広島方面から片道二車線の道路が一車線となっている。おまけに一㎞先位に宮島への連絡船乗場があり、下関方面に進む車と連絡船乗場の駐車場に進む車が入り乱れ、おまけに連絡船乗場方面半には広電宮島線の踏切があり、車の進路を妨げている。下り方面に進む車は二車線が一車線にになるので、追い越し車線の無い場所で追い越すので追突したり正面衝突する事故が珍しくない。これまで大きな音がして家を飛び出して様子を見に行ったのは何回あったであろう。

 二車線から一車線になり宮島口までの距離は僅かであるので、せめてこの区間の下り車線のみでも二車線に拡幅できないのかと思うのは素人考えであろうか。この区間は国道がJRと広島電鉄の軌道に挟まれており拡幅不可能のようであるが、広電と三丁目川道路との間、広電と国道との狭い隙間を活用して広電軌道を海側に移動させれば、車道一車線分くらいは何とかならないのかとは素人の浅はかな思いであろうか。


# by hirosan_kimura | 2018-11-10 15:46 | Comments(0)
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  商業施設「フジグランナタリー」は平成11年7月10日に開業している。店舗面積は約13,000㎡とある。
 開業して20年を迎えようとしているが、当時は阿品近辺には小さなスーパーしかなく当初は遠方よりの来客もあり、随分にぎわったものである。

 自宅から歩いて数分しかなく随分重宝している。余り大きくはないが書店もあり、大抵のものはここで揃えることが出来る。

 しかし平成27年6月には廿日市に「ゆめたうん」が出来、平成29年4月には商工センターに「レクト」、本年4月には石内に「アウトレット」等の大型商業施設が開業された。

 これらの施設は店舗面積・駐車場台数もフジグランの比でなく、近辺にこれほど大規模の商業施設が出来て共倒れしないのかと心配するほどである。

 当然規模の劣る「フジグランナタリー」では、これらの大型施設に顧客が流れ、休日でもお客さんが少なくなり、テナントの撤退や入れ替わりが目立つようになっている。

 フジグランも色々対策を講じて居られるようであるが、9月頃より空いた店舗を解体し、駐車場の増築に取り組んでおられる。

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  この写真は上の写真とほぼ同じアングルで撮影したものである。建物が撤去され見通しが聞くようになり、まるで違う場所を撮影したようである。

 建物が撤去された部分は平面駐車場が拡張され、来客の利便性は増すであろうが、来客数が減ったのは駐車場不足ためではないであろう。

 フジグランでは今までも平面駐車場・屋内立体駐車場・屋上駐車場とあるが、休日でも駐車場が満杯になる日はまずなく、特に屋上駐車場はガラガラのことが多い。

 今後、どのような集客対策を計画しておられるかは分からないが、勝手の賑わいが実現出来ればと思うばかりである。







# by hirosan_kimura | 2018-11-09 10:58 | Comments(0)
 
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 佐伯中央農協阿品支店は昭和54年7月11日に開店している。今から39年前である。当初は「阿品支所」と称していたが途中で「阿品支店」と名称変更している。 

 開店当初は阿品にも農家も多く田畑もたくさん耕作されていた。そのうち高齢化等により専業農家もだんだん少なくなり、田畑が埋め立てられ住宅地へと変わっていった。昔は田畑がたくさんありその中に住宅が点在している状況であった。今では住宅の間に田畑が点在している状態である。

 農協支店が開設された当時は阿品に金融機関もなく、阿品台ニュータウンの居住者もわざわざ高台から降りてきて農協を利用されていた。今ではニュータウンには銀行や郵便局が営業を開始し、ニュータウウンの人でこの農協の金融機関を利用する人は微々たるものであろう。
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 農協開所当時はたくさんの人々が農協を利用していたが、だんだんと利用する人も少なくなりお金の振り込み等で農協に行っても閑散としているような状況であった。何時のころからか余りにも利用する人が少ないので、ちかじか閉店されるらしいとの噂が流れるようになった。そのうち本年3月10日で閉店されるとの張り紙がされた。赤いレンガで目立ち阿品のシンボル的建物も先日より解体作業が始まった。


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 建物が解体され更地になっているが、あまり広くはない敷地ではあるが、跡地は何に利用されるのであろう。敷地を分割し建売住宅でも建つのでは無かろうかと言う人もある。

# by hirosan_kimura | 2018-11-02 10:51 | Comments(0)

№767 うなぎ

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 おと年の秋、阿品二丁目のある方が近くの川でうなぎを捕らえ観賞用の水槽で飼い始められた。阿品の川はあまり大きな川でもなく、コンクリートで三面張りしてあり、うなぎの住めるような環境ではない。たまたま海から遡上したうなぎがコンクリートの割れ目にで住み着いていたのだろう。
 
 小さな水槽でとても長生きはしないだろうと思っていたが、犬の散歩などで近くを通りかかるときに覗いていたが、元気で生きているとのことであった。その内、どんどん成長し水槽が窮屈になり一回り大きな水槽に替えられた。

 先日も覗いてみたが至って元気で、長さ80㎝くらい胴径5㎝くらいに成長していた。飼い始めた時点で長さ40㎝くらいで指の太さ位であったそうせある。
 水槽で飼い始めて丁度二年経過している。うなぎの平均年齢は分からないが何時まで生きるのか楽しみである。

 ここまで成長するまでには随分手間暇の掛かる事であろう。餌はみみずかミジンコかと思ったら、魚の切り身かオキアミを一日一回与えるとのことである。水の管理が大変で毎日水槽の三分の一くらい井戸水と交換し、温度管理のため水槽に当たる陽射しを調整したり大変らしい。

 子どもの頃には池や川で小魚を捕まえてきて飼った記憶があるが、すぐ死んでしまい長生きをさせることは出来なかった。うなぎを長期間元気で飼い続け成長させているのは驚きである。中には冗談で食べるのに手ごろな大きさだなどと言う人もあるらしいが、ここまで大切に飼育していれば愛情もわき食べるどころでゃ無いであろう。

# by hirosan_kimura | 2018-11-01 11:33 | Comments(0)

№766 十兵衛岩

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 毎月、阿品台西小学校だよりが配布される。先のだよりで子どもたちに阿品の昔の話があった記事が目についた。数年前までは毎年小学校より阿品の昔の話をして欲しいとの依頼が有り、十年位話に行っていたが最近は話に行くこともない。

 話の依頼が有ると先生と打ち合わせをしたり、話す筋書きを考え子どもたちに分かりやすいようにパネルを作っていた。当日はうまく話せるか、子どもたちは興味を持ってくれたか、内容を理解してくれたかなどとても緊張したものである。一通り説明が終わると子どもたちより質問がある。子どもたちよりの質問はあらかじめ知らせてもらっているが、中には予期せぬ質問が有ったり説明が終わるとホットしたものである。

 学校だよりによると、どなたかが「十兵衛岩」の話をされている。十兵衛岩は田尻海岸の沖合にあった岩で、満潮時は潮の中に隠れ、干潮時には姿を現わしていた。岩の上は平らでかなりの広さがあった。高さは子どもがよじ登るには高すぎたので2メートル近く有ったのかもわからない。今は海岸の埋立によりこの岩は消滅している。

 その昔、子どもたち数人が遊びに行ったが潮が満ちて浜にたどり着いた時、一人の子どもがいなくなっていた。いなくなった子どもの名前は「十兵衛」であった。この岩の大穴の中に巨大な蛸が住み着いていたが「十兵衛」はこの大蛸に穴の中に引っ張り込まれて食べられたらしい。以降阿品の人たちはこの岩を「十兵衛岩」と呼ぶようになったらしい。

 この話は言い伝えであり事実かどうか分からないが、恐らく子ども同士であまり深い所に行かないように、潮が満ちてきたら早めに海岸に帰るように、あまり遅くまで遊ばないようにと、子どもたちを危険から守るため大人たちが言い含めたものかもわからない。

 この話は阿品に伝わる数少ない昔話で、子どもの頃に年寄りから聞かされることもあったが、今ではこの話を伝える人も皆無に近い。これはともかくとして気になるのは、小学校の子どもたちに「鰆浜の十兵衛岩」と伝えられていることである。この岩があったのは田尻沖で鰆浜の十兵衛岩は間違いと思われる。

 今では阿品〇〇丁目と現わされているが、古い阿品の字地名は「鰆浜」「阿品」「田尻」の三つである。十兵衛岩は埋め立てで消滅し、鰆浜の地名も使う人もほとんどなくなっている。こうした中、十兵衛岩が「鰆浜」だろうと「田尻」だろうとどうでもよいようであるが、今にも消え去りそうな古い阿品の歴史を正しく子どもたちに伝えたいと思うばかりである。

# by hirosan_kimura | 2018-10-31 11:45 | Comments(0)
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 県病院跡地の開発地は、着工してからも随分と工期を要していた。地元では住宅用地から国道に出る道が狭すぎる。国道に信号機が付かないので許可が下りないのだろうなど勝手なことを言っていた。
 その内、国道脇に好評分譲中の看板が立てられた。60区画もの住宅地の販売なので新聞チラシ等で大々的な宣伝が始まるのかと思っていたがそれも無かった。
 この地は広島電鉄停留所まで歩いて数分。JR阿品駅も徒歩圏内。少し歩けば大型商業施設もある。幼稚園・保育園・小中高校も近い。看護科ではあるが大学もある。前面に広島湾を望み気候温暖で近年住宅地として人気の場所である。阿品の他地域でも田畑が潰されあちこちに住宅が建てられているので、この地の宅地が住宅で埋め尽くされるのも程なくであろう。
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 その内、ぽつりぽつりと住宅が立て始められた。全体像を俯瞰できる場所は無いかと付近の高台に登ってみたが、木々が生い茂り中々適地が見つからなかったが、それでもほぼ全体を見渡すことが出来た。
 華々しい販売宣伝もなく住宅が建つのかと思っていたが、通りかかる度に新しいい住宅着工の準備がされている。総区画60区画であるが、ほぼ完成しているのが5戸。内2戸はすでに入居しておられる。建築中は4戸であるがこれも間もなく完成するであろう。基礎のコンクリートが打ってあるものが4戸。建物の位置を決める為、敷地に縄が張ってあるものが2戸ある。
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 この住宅地がある「鰆浜」地区はこの地以外に新しい住宅だ沢山建てられているが、高齢化が進み依然と比較すると活気が見られないような気がする。
 60区画全てに新しい入居者が入り、子どもたちの歓声が絶えない活気ある「鰆浜部落」になることが待ち遠しい。


# by hirosan_kimura | 2018-10-30 11:58 | Comments(0)

№764 ホテル

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 今まで宿泊施設の無かった阿品に、二か所の小さなホテルが出来ている。二か所とも「鰆浜」阿品一丁目に所在している。場所は上図左側が「ホテル ディフィレイア グレイ」、右側が「グローバルリゾート MIYAJIMA  VIEW」である。

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 「ディフレイア グレイ」とは覚えにくい名前であるが山野草の一種「山荷葉(さんかよう)」のことで、透き通るような美しい花を咲かせ、その花が雨で濡れるとガラス細工のようであると言われる。

 このホテルは古くからあった民家の跡地に建てられたが目の前は国道に面し「広電宮島線 阿品東駅」のすぐ傍である。この建物は完成して二か月くらい経過しているがいつ開業するのか気になっていた。
 ネットで空室状態を確認してみると「10月29日~可」となっているので本日から営業開始かも分からない。

 このホテルはこのブログ「№757 小さなホテル」でも紹介したが、木造二階建・客室7室の小さなホテルである。客室定員は16名で和室もあるらしい。一人部屋7,020円、二人部屋5,940円からとありビジネスホテル並みの料金となっている。

 このホテルが建ち始めたころ、このホテルは宮島に来る外国人専用のホテルだろうと地元では噂しあっていた。今朝は雨のためこの付近までは行かなかったが、毎朝の犬の散歩コースであり今後様々な国の人たちを見受けられるようになるのが楽しみである。

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 「MIYAJIMA VIEW」は国道二号線と西広島バイパスの分岐点付近の山の中腹に開業したホテルで、高台にあるため前方に宮島を望み展望の素晴らしい場所にある。

 かつてこの地は厳島合戦の際、毛利元就が陣地を構えた場所で、目の前の浜辺より宮島に向かって小舟で出陣した歴史的に由緒ある場所である。

 このホテルは元ある会社の社員寮を改築したものであるが、全室オーシャンビューであり目の前の広島湾に浮かぶ島々や世界遺産の厳島を望むことが出来る。
 現在18部屋36名の定員となっているが、その内3部屋にロフトを増築し3人部屋とし39名定員とするそうである。宿泊料は一人4,500円からでロフト付であれば4,000円からと安価な料金設定とされている。

 このホテルはすでに8月10日よりオープンしている。展望は素晴らしい場所にあるが、素人考えではビジネスホテルとしての立地は良いとは言えず、その後の利用状況が気になるところである。
# by hirosan_kimura | 2017-10-29 10:24 | Comments(7)
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 長年、空き地となっていた県病院跡地に戸建て住宅が建てられることとなり、7月上旬よりやっと工事が始った。工事現場全体が見渡せないかと近くの丘に登ってみたが、最近では山に登る人もなく手入れが行われないので、以前は入れた小道も雑木が繁り枝も伸び放題で工事現場全体を見渡すことは不可能である。それでも木々の間から工事車両や工事現場を何とか垣間見ることが出来る。

 この写真では工事がほとんど進んでいないように見えるが、既存道路の一部を拡張したり、配水管の埋設等が行われているようである。小さな児童公園は国道よりの進入路に一部掛かり、公園の形状が変わるため遊具等は撤去され更地になっている。この公園が整備されたとき地域の人たちが植え、毎年美しい花を咲かせていた桜の木も根元から伐採されている。なぜ残すことが出来なかったのか聞いてみると、業者の人が間違って切り倒したもので公園整備後は弁償されるとのことであるが本当であろうか。

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 毎朝犬の散歩で現場付近を通りかかるので工事の進み具合を確認することが出来る。

 この工事の工期は平成29年7月3日から30年7月15日までの約一年間となっている。平地での宅地造成工事で規模も小さく、何故こんなに工期が長いのか不思議であるが、来年の今頃のこの付近の変わりようを想像すると楽しみである。
# by hirosan_kimura | 2017-10-11 11:22 | Comments(2)
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 鰆浜の広い空地については何回も取り上げてきた。昭和18年(今から74年前)に開設された教員保養所が昭和26年に県立病院に移管され「県立地御前病院」として21年間開院していた。
 
 この病院も昭和47年に廃止された以降45年間空地のまま放置されていた。この間様々な施設の誘致が検討された。この中でも大竹の山陽自動車道用地内にあった精神病院の移転は、かなり具体的な所まで検討されていたが、地元鰆浜町内会の粘り強い反対運動によりこの計画は撤回された。この間、山陽自動車道の整備工事がストップし大野~大竹間の開通が大幅に遅れたこともあった。

 この間民間による開発計画も浮上しては消えたが、隘路になったのはこの地への国道よりの進入路が普通車の離合も困難な狭い道路しかないことである。

 しかしこの広大な空き地があることで地元ににとっては様々な行事を行うことができた。夏には盆踊り、正月あけには毎年とんどをすることもできた。その他様々な行事も行え、子どもたちは走り回って遊ぶこともできた。

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 45年間空地であった県病院跡地も、このブログ「№751 県病院跡地がやっと動き出した。」で紹介したが民間不動産会社による開発が行われることとなった。

 この計画が発表されて以来いつから具体的に動き出すのかと気を揉んでいたが、先日工事開始の看板が設置された。工期が平成30年7月15日とあり平地の宅地開発にしては工期が長すぎる気がしないでもないが、進入路と国道の接続部分に関して様々な手続きを要するのかも分からない。

 いずれにしても高齢者が増え活気の乏しい鰆浜部落が、一年後には大きく変わっていることが期待される。
# by hirosan_kimura | 2017-07-09 10:13 | Comments(6)
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 この度、鼓ケ浜町内会広報誌「つづみ」が発刊された。一町内会で広報誌を発行するには多くの労力を要するが、町内会役員の方が議論に議論を重ねられやっと発行できたもので苦労の跡が伺われる。

 鼓ケ浜町内会の名称は、海を埋め立てた新しい住宅団地を町が分譲する案内で「地御前鼓ケ浜団地」とあったのでこの団地名を採用したことによるものと聞いている。

 「鼓ケ浜」の地名は海を埋め立てて国道・電車軌道用地を造成する際、隣接の大野村の字名から名付けられたと推測され古来よりの地御前村の字名には無かったものらしい。

「鼓ケ浜」の読み方であるが、大野では「つつみ」と呼称し阿品でも古くから「つつみ」と称していた。しかし辞書で「鼓」を引くと「つづみ」とあり、人によっては「つづみがはま」と言う人もありどちらが正しいのかどちらが間違いなのか判断出来ない状況である。

 今回広報誌の発行に当たり「つづみ」か「つつみ」で議論されたが、「つづみ」で統一されたようである。
 近隣の例を見ると、佐方が「さかた」と「さがた」、佐伯が「さいき」と「さえき」、須賀が「すが」と「すか」の例もあるが、元の読み方はどれが正しいのか分からないが、地域により人により読み方が異なっても、時を経ればいずれも正しいものになるのであろう。

 町内には「鼓ケ浜公園」「鼓ケ浜集会所」があるが市では「つつみがはま」に統一してある。人によって読み方が異なるのもおかしいので統一してあるのか、何か根拠があって統一しているのかは分からないが、市の読み方が絶対正しいのかは結論付けられない。
 
 しかし市の施設の読み方と町内会内での読み方が異なるのも、他地区の人から見れば不思議であろう。
# by hirosan_kimura | 2017-07-05 17:00 | Comments(2)
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 今年の1月4日に投稿しその後さしたる記事もなく今日に至っている。阿品の話題も目新しいものもないが、№567で紹介した「やっと阿品に公共下水が」の工事が我が家付近まで下水道本管が埋設され、この5月30日に公共下水道に接続された。狭い庭の一角を占領していた合併浄化槽も撤去され、猫のひたいほどであるが花畑が広がった。

 昨日は阿品台中学校の運動会に招待され観覧に行った。招待席では子どもたちの演技に夢中であったが、それ以上に阿品台近辺に出没するクマの話題で盛り上がっていた。

e0125014_10421270.jpg 最初にクマの目撃があったのは5月27日であったが誰もが阿品付近にクマが出るわけがない。コグマなので大きな黒い犬か他の動物と見間違えたのだろう思っていた。
 しかし、その後複数の目撃者が出始めて本物のクマの出没に間違いないこととなり大騒ぎになっている。







e0125014_10424454.jpg 7日の午後に阿品公園でも目撃した人が出た。この公園は阿品台ニュータウンのど真ん中に位置し周りは住宅地で囲まれ、阿品台東保育園にも隣接している。
 10日の午後2時ごろにもこの公園内でクマが目撃され、現在公園は閉鎖されている。





e0125014_10432122.jpg 昨日中学校の運動会に行く途中で公園のそばを通りかかると、NHK放送局がクマ騒動を放映するため撮影に来ておられた。
 それにしても阿品にクマが出没した話は聞いたこともなく初めてのことではなかろうか。サルが出ていたずらをする、イノシシが作物を荒らしたなど聞いても驚いていた位である。
 廿日市市でも山間部にクマの出る話を聞くことはあった。また四季が丘団地にクマが出没した際も驚くくらいであった。
 山間部と市街地との間には山陽自動車道が横切っており、まさか阿品地区にクマが出現することなど夢にも想像出来なかったことである。

 一日も早い解決が望まれるが、クマが食べ物を求めて人里まで現れなければならない要因は人間の作ったものである。大人のクマであろうとコグマであろうと捕獲して山奥に放してやり、間違っても射殺などされないよう思うばかりである。
# by hirosan_kimura | 2017-06-11 11:33 | Comments(4)
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 この三が日は天候にも恵まれ三日間とも「初日の出」を拝むことができ、穏やかな平成二十九年の幕開けとなった。一旦閉鎖したブログを再開してみたものの話題もないので、変わったところで阿品町内間の年齢構成を取り上げてみた。

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 平成元年に1.57ショックと国中に衝撃が走った。これは昭和41年の丙午の年の出生率1.58を下回ったことで、このまま進むと高齢化が加速し国の衰退につながると危惧されたことによる。

 このため国から地方自治体に渡るまで少子化対策が急務と様々な施策を講じることとされた。しかし目に見える効果も少なく、当時12%であった高齢化率が27%程度に上昇している。

 わが阿品も例外でなく高齢化率は30%を超えている。0歳から14歳までが年少人口、15歳から64歳を生産人口、65歳以上を老年人口に区分すると国・廿日市市と比較しても大差ないが、地域によって大きく構成比が異なっている。高齢者が少なく年少・生産年齢が大きいほど活気のある町といえる。

 驚くことに阿品台二丁目は高齢化率が50%を超過している。続いて阿品台三丁目・一丁目・四丁目・阿品四丁目と続く。阿品台二丁目は団地が開発されて一番最初に入居が始まっているが、入居した当時は働き盛りの世帯が多かったが、高齢者の移動が少なく子どもたちは成長し転出していった結果であろう。

 高齢化率が少なく年少人口が多いのは阿品台北で、住宅価格も比較的安価で若い世代の入居者が多いのであろう。続いて県営住宅のある阿品台東で両地区とも高齢化率が低く、年少者・生産人口が多くなっている。旧阿品の阿品一丁目(鰆浜)、阿品二丁目(阿品)も比較的高齢化率が少なく、生産・年少者が多いがJR阿品駅にも近く新しい住宅の新築が続いているからであろう。

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 上の表は年齢別の構成比を表しているが、下の表は年齢別の人口を表している。阿品三丁目の人口が飛びぬけて多いいが、この地区は「遊園地ナタリー」の跡地に800世帯を超えるマンションが建てられているからである。極端に人口が少ないのは阿品台山の手であるが、この地区は旧廿日市市と大野町の丘を開発した小さな住宅団地のためである。

 年齢構成の異なる阿品地区ではあるが、本気で少子化対策を講じないと阿品全体が超高齢化社会を迎えることとなろう。
# by hirosan_kimura | 2017-01-04 11:23 | Comments(0)
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 早いもので今年も残り一週間となった。何となく気ぜわしい日々を迎えたが、阿品の氏神様「岩鏡神社」に門松が飾られお正月の準備が進められている。

門松は単なる正月の飾り物と思われているが、来臨する歳神(としがみ)様の依代(よりしろ 神様が意思を伝えるため人間界に現れるとき寄り付かれるもの)である。門松は三つの正月飾り(門松・しめ飾り・鏡餅)の中で最も重要なものである。

 門松を飾って取り外すまでを「松の内」と言い12月13日から1月7日であるが、今ではクリスマス等もあり世間一般では12月28日から飾るのが多いといわれている。

 しかし12月29日31日からは飾り始めてはならない。29日は「二重苦」のゴロになり、31日は神様を迎える正月までに一日しかなく「一夜飾り」「一日飾り」と呼ばれて絶対避けなければならない。

e0125014_1525275.jpg 神社に飾られた門松は離れて見ると大きく見えないが、人の背丈を超える立派なものである。この門松は阿品のある方が早くから材料の準備を始められたが、お正月に参拝される時に一番見ごろになるよう随分苦労されたようである。








e0125014_15253181.jpg 門松を作っておられる途中に見せてもらったが、中心の青竹は阿品では見られない太くて立派な物なので何処で入手されたのか聞いてみると、山口県の岩国の竹林に有った物だそうである。切り口を見栄え良く切断するのも技術を要するらしい。切り口は人の笑った顔に見えるようにするのが本流らしいが、そう言われれば笑った顔にもみえる。

 お正月に参拝される際はこの門松を造られた方のご苦労を忍んで欲しいものである。
# by hirosan_kimura | 2016-12-25 16:27 | Comments(2)

№757 小さなホテル

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 最近、地御前界隈で外国人の姿をよく見かける。これは地御前神社前に出来た宿泊施設に滞在する人々である。大半が宮島への観光客で広電で三駅目の地御前であるが、中にはJR串戸駅から歩いて来られる人もあるようで大層繁盛している様子である。

 宿泊施設はある会社の研修施設であった建物を改造したものである。ある程度まとまった人数が宿泊できるのか大型バスが駐車していることもある。この地には大正の終わりごろ建てられた料亭のような建物があり、のちに旧国鉄の保養所に変わり「鉄道会館」と称した施設が昭和40年代頃まで残されていたような記憶がある。

 鰆浜(阿品一丁目)の西端で先年まで民家があった地が整地され、新しい施設が立てられている。何が建つのか気になっていたが最近工事が始まり「ホテル」が建つようである。

 ホテルといっても敷地面積180坪、建坪36坪、延床68坪の小さな木造二階建ての施設である。部屋数は僅か7室で民宿に毛が生えたようなミニホテルである。

 こんな場所でこんな小さなホテルで、経営が成り立つのか素人判断で心配な気がしないでもない。
しかし地御前の繁盛振りを見れば、広電駅にもJR駅にも近いのでPR次第で外国の人に周知されれば多くの人が宿泊するかも知れない。

 この地は毎朝犬の散歩コースである。来年の春過ぎにはこの付近で外国人を行き来されるであろうが、片言でも駅までの道順を英語で説明できるようになりたいものである。
# by hirosan_kimura | 2016-11-08 11:07 | Comments(4)
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 これは鰆浜に生まれ育ち現在は阿品台に居住しておられる方が、老人クラブの冊子への投稿文をご本人の了解を得て掲載するものです。一部修正した部分もあります。

 「昭和初期に生まれ、戦中戦後昭和二十四年まで、幼少から小学校・中学校・現高等学校に通学、就職までを阿品の地で育った記憶を辿り、今年六十五歳(投稿当時)まで生かして戴いた感謝の気持ちで投稿します。

 阿品の地名は地御前村字阿品(鰆浜・田尻)でした。鰆浜は広電阿品(現 阿品東)電停地区、阿品はJR阿品北地区、田尻は現阿品四丁目地区でした。「お上がり場」より西ナタリー・阿品三丁目は砂浜の綺麗な海でした。広電阿品(現 阿品東」駅に一番近い処が私の生家です。

 私の幼少時代の阿品地区は山あり、谷あり、川あり、海はいつも綺麗で、四季を通じて子供達の遊びには最適の地域でした。
 
 春
 春は今の一丁目(鰆浜)付近は梅樹があり、四月三日は各戸弁当を作り、家族揃って山に登って花見の会をしたり、城を作って戦争ごっこをしたものです。五月の節句は「馬とばし」、地御前神社から役場(シルバー人材センター 註現在は寿司屋さん)までの間を、野武士姿で弓と矢を持って馬に乗り疾走するお祭。神社付近には出店が並び、賑やかな祭だったと記憶しております。今想うと、あんな狭い道路で左右から馬を囃したて、事故もなくよくやったものだと思います。
 
 夏
 七月は管弦祭。その頃の管弦祭は宮島から地御前神社まで、各地から集まったお供船が連なって、御座船の神踊管弦で盛大な祭でした。管弦祭の前日には着飾った牛十頭が地御前神社の浜辺を鋤を曳いて清掃していました。
 又、阿品海岸は海水浴場の適地として,お上がり場・広電阿品駅(現阿品東)はキレイな浜辺であり、飛び込み台等も作られ、子供達の水遊びの天国でした。汐の満ちた時は防波堤から飛び込んで水泳を楽しんだものです。又、私の家の前にはイリコ干し場の広場があり、昭和十年頃は広島市商の生徒や泳ぎの出来ない兵隊さん達の夏季強化訓練で一週間位テント生活で水泳訓練に励んでおりました。疲れをとるために大釜でアメ湯を炊き、それを御馳走になるのが楽しみでした。昭和十六年位まで数年間、毎夏続いたと思います。
 
 秋
 秋祭は、鬼の面をかぶり青竹を持って部落内を走り回り、ガキ大将達は鬼の後を追って走ったものです。その日は若い女性の厄日で、女性を見掛けると相手構わずお尻を竹の棒で突くのです。鬼になる若者も結構楽しそうでした。豊作を願ってのお祭です。
 又、この阿品はキノコの宝庫でした。松茸やオカンスケ(白いキノコ)・黒っこう・ヒメジ等が豊富に生え、山を一日中歩き回る事もあり、キノコ狩りの面白さ、秋の味覚一杯の山と谷と小川のある土地でした。赤トンボ・夕方になるとコーモリ等、網で捕まえられる程飛んでいました。
 
 冬
 正月は早起きをして宮島の弥山に登り、初日の出を拝むのが年初めの行事でした。今の鰆浜運動場(県病院跡地)は全部田んぼで、トンドの行事の場所でした。トンド焼の材料集めは、現阿品台の山林の手入れ掃除を兼ねて行いました。下刈り雑木を部落民全員が持ち寄り、太い青竹十数本とで大きな櫓を組み、注連縄(シメナワ)を張り、火を着けます。竹の割れる音、下刈雑木のパチパチと激しく燃え盛る火柱は盛大でした。皆さんが持ち寄ったお正月の飾りモチを焼いて食べたり、書き初めに一年の願いをこめ、トンド祭を楽しんんだものです。
 子供の遊びは、ハネ突き、タコ揚げ、コマ回し、パッチン、ビー玉等戸外の遊びが中心でした。広場に輪を書いての相撲の取組み、当時は郷土出身の安芸の海が連勝中の双葉山を破った時期で、ひいき力士名を付けての子供相撲も盛んでした。

 纏まりのない文章ですが、数十年前の阿品は私のふるさとである事は間違いない事実です。私の親父さん達が築いた阿品を愛し、我々の時代から孫子まで住み佳い故郷であるよう願うものであります。」
# by hirosan_kimura | 2016-11-03 14:04 | Comments(4)
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№13 造成前の阿品台
 ニュータウウン造成前は阿品の集落から数本谷が奥まで続き、その谷の最深部まで耕され稲作が行われていた。中央右寄りの高台の施設は「光の園」で、当時は地御前神社脇から奥に入る細い道が唯一の進入路であったが、現在は周辺の様子が大きく変わり阿品台一丁目の宅地と同じ高さになっている。

 バイパスが大きくカーブしている上方の山付近が阿品台一丁目、左端上方辺りが阿品台三・四丁目である。
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 №14 阿品に大型住宅団地計画
 昭和40年頃に入ると広島市の人口が増加し住宅地が不足となった。そこで広島県は近郊にニュータウンの造成を計画した。様々な候補地がある中で阿品の地が選ばれた。その理由は①海岸沿いに国道・山陽本線・広電宮島線が並行し、広島市への通勤の便が良い。②造成する山はなだらかで、無人の里山で谷筋に僅かな耕地があるのみで開発が比較的容易である。③広島湾に面し気候が比較的穏やかで年中過ごしやい。等の理由によるものである。

 この地に計画戸数3,500戸、人口12,600人の計画的なニュータウウンを目指したものである。
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 №15 造成中の残土処理
 山を削っての住宅造成のため膨大な残土処理が必要となった。この残土は計画中の廿日市木材港造成のための海面埋立に利用されることとなった。

 阿品の山から木材港埋立地まで運搬する道路の整備が必要であった。阿品台から現在の日赤看護大学・特別支援学校前を通って宮内に抜ける道路が山を削って新設された。これらの道路を土砂を積んだダンプカーが一日何百台も行きかった。

 阿品から宮内に抜ける道路は現在は「阿品・高通り線」としてたくさんの車が通行している。
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 №16 造成中の阿品台
 中央辺りの緑の残された部分は「阿品公園」付近。高い丘の上にあった「光の園」は周囲の山が削られ住宅団地と同じ高さになっている。左上は「阿品台北」、左下は「阿品台西」付近である。

 阿品台と当時大野町の住宅団地の間は山で隔てられているが、現在では貫通し「対厳山線」として多くの車が行きかっている。
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 №17 ニュータウウン完成
 昭和53年8月10日(今から38年前。阿品台で最初の入居者は東の県営住宅178戸であった。当初は小学校・中学校は開校していず、阿品台東小学校が開校するまでは地御前小学校へ、阿品台中学校が開校するまでは七尾中学校へ通学する不便さであった。

 その後続々転入者があり、阿品台東小学校では一時1,100人を超える状態もあったが、高齢化が進み人口は一時より大幅に減少している。

 子どもたちに17枚のパネルで説明したが、振り返ってみればパネル枚数がもう少し少ない方が良かったのではないかと反省している。
# by hirosan_kimura | 2016-10-17 10:04 | Comments(0)
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 №7 今から45年くらい前のおあがり場
 この公園は明治18年8月1日に明治天皇が宮島から広島にむかわれる途中、この地に上陸されたので「おあがり場」と称される。昭和20年代から昭和40年代半ばまで、夏場は海水浴場としてにぎわっていた。松の木が生い茂り公園全体を覆いつくし陽射しをさえぎり、涼しい木陰を造っていた。

 露店が2軒・貸しボートや飛び込み台もあり、遠方よりバスで団体客がたくさん来場していた。今では道路の拡張等で狭くなり、生い茂っていた松も枯れてしまい往年の面影は見られない。
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 №8 埋立前の阿品三丁目
 広電宮島線沖はすべて海であったが昭和41年10月(50年前)から海面の埋め立て工事が着手された。埋め立てが完成後はこの近辺の風景は一変した。
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 №9 今から50年位昔の阿品(今の阿品二丁目)
 山沿いに農家が散在し谷の中央部は三軒の農家があるのみで、残り部分は全て田畑が広がっていた。この写真では分かりにくいが中央部右寄りに、阿品で最後の藁屋根の農家が残っている。中央奥の山は阿品台、左側の山はふじタウンの宅地造成により大きく変わっている。

 田畑の中に家屋が散在していたのどかな田舎風景も、今では民家が立ち並び家と家の間に田畑が残されている状況である。阿品が大きく変わる前の懐かしい風景である。
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 №10 駅前付近と三丁目埋立中
 今から50年くらい昔の風景である。JR駅前付近は荒地状態である。広場と国道の間には調整池が残されている。この調整池も国道の拡幅で埋立てられた。

 電車軌道前の海は埋立中である。右上に№3で紹介した海に突き出た小山があり、麓には僅かであるが砂浜も残されている。埋め立て完成後は田尻沖は住宅地、阿品沖は遊園地「広島ナタリー」として賑わっていたが、遊園地閉鎖後はマンション群と商業施設となっている。
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 №11 遊園地「広島ナタリー」
 遊園地は昭和49年4月23日(今から42年前)に開園した。この遊園地も他の地域に遊園地が開園して入園者が減少したり、プール等の老朽により多額の改修費も必要となり、平成8年3月末(20年前)に閉鎖された。この間22年間で912万人の来園者があった。

 遊園地には当時東洋一の高さ65㍍の観覧車・海に突き出たジェットコースター・大型プール・その他たくさんの遊具が整備されていた。また冬場には屋外駐車場を利用してスケートリンクも開設された。

 ヨーロッパの富豪が所有していた「ナタリー号」は巨大プールの中に設置されていた。この帆船は527トンでエンジン付き帆船としては世界でも有数の大きさであった。全長177フィート。全幅27フィートであった。夏場には巨大プールの外周にあった流れるプールも人気の施設であった。
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№12 ナタリー航空写真
 上空より見るとジェットコースターが海面に突き出していたことが分かる。大型プールに浮かんだ「ナタリー号」、大型プールを取り巻くように一周していた流れるプールも判別できる。

 国道を挟んであったテニスコート、やドライブインも懐かしい。JR阿品駅はまだ開業していない。広電阿品駅も無い。
# by hirosan_kimura | 2016-10-16 13:20 | Comments(0)
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№1 大昔の阿品の想像図。今から約200年前の絵図を元に平地部を海であったと想定して修正したもの。実際の様子は分からないが、阿品の谷の最深部の家で井戸を掘ったところこの辺りが海であったことを示す物質が掘り出されたそうである。
 
 その昔には阿品には平地がほとんどなく谷と谷との間に僅かな平地しかなかったものと推定される。推定に過ぎないものを事実のように話すのは良いことではなかろうが、阿品に昔平地がほとんど無かったと話すと子どもたちは驚いたようである。
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№2 文政2年(1819年)今から197年前の絵図に着色したものである。№1の阿品が山から少しずつ土砂が流れ出たり、海の砂が少しづつ押し寄せて長い期間を懸けて平地が出来ていった。谷と谷との間の平地はともかくとして、海岸沿いの山と海の間の平地は広過ぎ誇張して描かれているようである。
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№3 鼓ケ浜(阿品三丁目)の集会所付近の絵図である。描かれた年代は不明であるが、山際の旧国道や国鉄が敷設される前で少なくとも140年以前の風景である。白黒の絵図に近所の絵の大家に着色してもらったものである。

 現在の風景から想像してもあじなの風景とは信じられないが、広い浜辺の松林や漁師の家こそ無かったが、50年くらい前までは中央の海に突き出た小山は残っており松の木が生い茂っていた。小山の麓には僅かばかりの砂浜もあった。背後の山は団地開発され昔の面影はまったくない。
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№4 鰆浜(阿品一丁目)の100年位前の海岸風景である。中央の小島は「火立岩」と呼ばれ阿品の名称の一つであったが今は無い。火立岩から手前に向けて埋め立てられ広電宮島線・国道に変わり風景は一変している。

 左下に僅かに見えるのは「旧国道」の一部で、海面より道路までの高さが僅かしかないのに子どもたちは驚いていた。
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№5 昭和6年(今から85年前)に廃止された「広電新宮島駅」と鰆浜・厳島間連絡船乗場。広電宮島線の終点は阿品にあり、今では宮島口から出ている連絡船は阿品から出発していた。子どもたちがもう少し興味を持ってくれるかと思ったが案外無関心であった。
 話す時間が短すぎたのか、電車の終点が阿品で宮島へは阿品から乗船していたのは突飛で現実感が無かったのかもしれない。
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№6 今から60年少し前の阿品の航空写真。平地は殆ど田畑で家屋は僅かばかりである。残りの大半は山ばかりで今の阿品台・ふじタウンも見られない。自分たちの阿品の原風景はこの写真の通りであるが、今の子どもたちにはこれが阿品と云っても実感が湧かないであろう。

 ちなみに当時の阿品全体の世帯数は101世帯、人口は552人であった。今年の4月1日現在では5,783世帯、13,502人となっている。驚くことに世帯は57倍、人口は24倍となっている。一世帯当たり家族数は当時5.4人であったが今では僅か2.3人となっている。阿品地区では人口が増加しているが、阿品台地区は減少するばかりである。
# by hirosan_kimura | 2016-10-13 11:40 | Comments(0)
e0125014_11325134.jpg  先日、阿品台東小学校へ阿品の話をしにいった。以前、高齢者のサロンや阿品台西小学校に良く行っていたが、最近では久しぶりの依頼であった。
 
 五年生の総合学習で住んでいる地域の中で何か課題を見つけ、子どもたち個々に興味あるものについて深く調べるもので、今回は課題を見つけるきっかけとするものらしい。

 

 事前の打ち合わせに伺うと、学校としては小学校があり大半の子どもたちが住んでいる阿品台中心の話を希望しておられたようであった。しかし阿品台は新しい街で内容も限られ、むしろ阿品台に居住し詳しい方の方が適任ではと思いその旨話した。その結果、阿品台に限らず阿品全体で話す内容はすべて一任するとのことで引き受けさせていただいた。

 限られた時間で子どもたちが理解してくれるにはと色々思案した結果、17場面のパネルで話すこととした。以前各地で話をした際はA4サイズのパネルを使ったり、パソコンとプロジェクターを接続し白い壁やシーツをスクリーン代わりに投影して説明していた。今回は移動黒板位の大きな液晶画面に鮮明に映し出されていた。名称は分からないが便利な機器があるものと感心するばかりである。

 子どもたちは熱心に聞いてくれたが、どの程度興味をもってくれたのかどの程度理解してくれたのかが気掛かりであった。先日、子どもたちよりお礼の手紙を届けて頂いた。どの手紙も感謝の言葉や、面白かった・分かりやすかったなどとあり安堵するばかりである。

 興味深かったのは30名のこども中18名が「遊園地ナタリー」について関心を寄せたことである。限られた時間でひとつひとつの内容については詳しく説明できなかった、自分にとってもいろいろ学べた貴重な体験であった。

 次回以降はすべて紹介済みのものばかりである、子どもたちに説明した場面を順次紹介してみる。 
# by hirosan_kimura | 2016-10-13 10:28 | Comments(0)
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 平成20年12月13日に開始したこのブログも、阿品限定のため回を重ねるごとにネタも無くなり750回をもって最終回とした。ちなみに第一回目は「№1 広電阿品東駅」であった。

 このブログの最終回から2ケ月以上経過したが、この間コメントを頂いたり思わぬ人から何とか続けて欲しいとの要望をいただいた。今までは何とかブログが途切れないようにと頑張っていたが、今後は何か話題があればブログに投稿する気楽な気持ちで続けようと思う。

 最終宣言をし三か月も経たない時期に再開など、節操のないことではあるがのんびりと続けたい。ブログを続けていて一番勇気づけられるのはコメントを頂くことなので、今まで同様よろしくお願いします。

 昭和47年3月に閉鎖され四十四年間放置されてきた、鰆浜の県病院跡地がやっと具体的に動き出した。この跡地を取得していた不動産会社が、7月の終わりに地元住民に対して開発の概要の説明会をおこなった。

 その概要は周辺道路を整備して、総戸数57区画の宅地開発を行うものである。一区画130㎡~140㎡程度であまり広くない敷地となっている。

 県病院跡地が長く利用されなかった理由の一つに、国道からの進入路が狭く普通車のすれ違いがやっとで大型車両の進入が難しい点がある。今回、公園用地を削って国道に出る道路を拡幅する計画となっている。

 進入路が計画されている出口の国付近は、広島方面への上り車線が大きくカーヴとなり見通しが悪く、カーヴを廻るとすぐ直線となり車がスピードをあげるため、国道に進入する車と衝突し死亡事故もある事故多発個所である。そのため交差点を新設するのは困難らしい。

 この問題が解決すると、平成29年夏ごろまでには市道の拡幅・公園の形状変更が完成し住宅が建ち始めるようである。

 いずれにしても高齢化が進み活気の乏しくなった鰆浜部落も、多くの若い人や子どもで溢れる街になることが期待される。
# by hirosan_kimura | 2016-09-29 13:06 | Comments(4)
 
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 昨晩は厳島神社の管祭があった。夕方海べりに行ってみたが、御座船を囲む船は数隻のみ。海岸で見物する人は数得るほど。往年の絢爛な頃と比較すると寂しい限りである。厳島神社の管絃祭は日本三大船神事の一つで、他は「大阪天満宮 天神祭」「松江城山稲荷神社 ホーラエンヤ」がある。

 平成20年12月13日に開始したこのブログも750回となった。当初から何回目で終了とは決めていなかったが、250回を過ぎた時点でせっかくの記事をブログに終わらすのも残念なので冊子で残すこととした。その後は500回目を目標として2冊目の冊子を作製した。

 500回を過ぎるとさすがにネタも無くなり、いつまでも内容の無い記事を重ねるのも仕方ないので750回を目標に何とか続けることとした。501~750を第三集でまとめ、第四集は何時になるか分からないが「阿品歴史年表」「阿品の地名・地図」「阿品の方言」を纏めたいと考えている。

 当初はブログを公開すれば地域の人に興味を持って閲覧してもらい、新しい情報を提供してもらったり間違いを指摘していただけることを期待したが、地域の方で開いて見る人はほとんど無いようである。

 むしろ他地域の人や阿品を離れて長年経った人たちの目に止まり、情報や貴重な意見をたくさんいただいた。またこのブログをきっかけに数か所の高齢者サロンや、小学校の3、4年生に阿品の昔の話をさせていただく機会を得ることができた。

 このブログを見る人よりいつまでも続けてほしい、新しい記事がなくても何時でも閲覧できるように残してほしいとの声を聞くがそうも行かないので、近々このブログを閉鎖したいと考えている。

 阿品のことで知りたいことがあれば早めに閲覧されたらどうであろうか。ちなみに「ふるさと 阿品 よもやま 〇〇〇〇」のように〇〇〇〇に調べたい「岩鏡神社」「火立岩」を入れるとそれらに関する記事が抽出できます。

 面白くもないブログであるがたくさんの方に閲覧いただきありがとうございました。感想やご意見があればコメントいただければ幸いです。

 上記の航空写真は終戦後間もなくアメリカ軍が撮影したものである。武田団地・阿品台・ふじタウンも造成されていず、阿品三丁目も海中の中。我々が連想する阿品はこの写真の風景そのものである。
# by hirosan_kimura | 2016-07-21 19:48 | その他 | Comments(20)
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 昨年の秋に国勢調査が行われ、その一部の状況について速報値が発表された。この中で阿品の高齢化に関する資料が目についた。通常高齢化を表す場合65歳以上を高齢者としているが上の表は75歳以上の割合を示している。65歳以上と比較するとより厳しい高齢社会を表していることとなる。

 表では75歳以上20%越を赤、以下10%以上、5%以上と白は5%以下である。阿品は大きく分けると阿品地区・阿品台地区と分けられる。

 阿品地区では四丁目が飛びぬけており20%を超えている。四丁目は昭和53年2月に完成した住宅団地であるが、宮島を見下ろす高級住宅地として売り出された。当時は若い人たちや子どもたちばかりで活気溢れる街であったが、40年近く経過した現在では高齢化が進み子どもたちも少なくなっている。この団地は高台にあり麓の駅や買い物帰りの高齢者にとっては大変そうである。

 三丁目は800戸以上のマンションと、180戸くらいの戸建て住宅からなっているが75歳以上は10%を超えている。高台の住宅地に住む高齢者が自宅を手放して空マンションに移り住む方もあるそうである。

 一丁目と二丁目は阿品の大元であるが、古くからの住宅と新しい住宅が混在している。もう少し高齢化が進んでいると思っていたが5%以上と若い人や子どもが多いようである。この地区は平地でJR駅、広電駅もあり人気の住宅地である。近年田畑が埋め立てられ住宅の建設が進んでいる。特に一丁目の県病院跡地は近い将来の宅地開発により、若い人たちで賑わうことであろう。

 阿品台は昭和53年ころより入居の始まった県により造成された住宅団地であるが、早くから入居してる一・二・三・四丁目は驚くほど高齢化が進んでいる。

 阿品台東は390戸、西は700戸の県営住宅があるが、若い方や子どもたちがたくさん住んでおり75歳以上人口は5%未満と驚くほど少ない。

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 阿品台は高台にあり高齢者が低地に転居される方も多いらしい。不動産業者の話によると、阿品台では売り家の話があっても買い手が少ない。反対に阿品一・二丁目で土地を買い求める希望者はあるが、売地が滅多に出ないそうである。

 つい最近、JR阿品駅すぐ裏の畑が埋め立てられ宅地の造成が行われている。
# by hirosan_kimura | 2016-07-07 12:11 | 社会 | Comments(7)

№748 馬飛ばし

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 昨日は旧暦の五月五日のこどもの日であった。例年この日には地御前神社で流鏑馬の行事が行われる。子どもの頃には秋祭り・お正月・管絃祭と並んで年に何回もない楽しみにしている日であった。

 思い出されるこの祭りの日は、小学校は授業は午前で打ち切り、各家では御馳走を作り、神社前にはたくさんの屋台が立ち並び、沿道は人波でごった返し動きもとれないくらいであった。やがて流鏑馬の行事が行われ馬が走り抜け祭りは最高潮を迎えた。

 これらの賑わいは今では夢物語で、6・7軒の屋台・わずかな観客・例年初節句の男の子がお祓いを受けに来ていたが、今年は一人の姿も窺えないような寂しさである。

 何に掲載されたものか不明であるが、古い記事を紹介する。なお写真は昨日撮影したものである。

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 地御前神社では、毎年 御陵衣祭の時、流鏑馬神事が奉納される。御陵衣祭は、旧暦五月五日に端午の節句を祝う祭りで、厳島神社から宮司を迎えて行われる。
 
 この神社は厳島神社の外宮と称され、昔は厳島神社から白い神様と御神体が船に乗ってきて、その神馬を先頭に、白装束の若者が三つの神輿を担いで、参道を歩いたといわれる。しかし現在では、拝殿で初節句の男の子にお祓いをするなどの神事が行われるのみである。  

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 その後、舞楽「後の舞」が納められるが、これは厳島神社で舞楽面陵王をつけて元旦に奉納される「環城楽」「越天楽」で、舞い手も厳島から迎える。

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 そしていよいよ、流鏑馬神事である。古式ゆかしい狩人の衣装を身につけた騎手が馬に乗り、まずは客殿の前で天地、東西南北の六方向に厄除けの矢を放つ。その場で馬が三回まわされ、それから参道を三往復する。衣装はすべて昔から使われているもので、笠には「慶長十三年(1608)五月吉日」と書かれており、その頃から行われていたと思われる。当時、安芸の守が私有馬を奉納馬に仕立ててこの神事を行ったのが始まりらしい。

 この地域では、端午の節句に菖蒲と蓬(よもぎ)を束ねて軒に挿して祝う風習があり、端午の節句は菖蒲の節句とも呼ばれる。その菖蒲の読みに勝負・尚武という言葉が掛けられ、流鏑馬神事が行われるようになった。

 地元では「明神さんの馬とばし」と親しまれていたが、馬が居なくなったこと、参道がアスファルトに舗装され馬が走れなくなったことなどから、昭和四十二年を最後に廃止されていた。それが地元住民の熱意で、昭和五十七年六月に十五年ぶりに復活。昔のように馬を勢いよく走らせることはできないが、その勇壮な姿は時代を逆行させてくれる。

 この日にはちまきやかしわもちを食べ、また軒にさしていた菖蒲と蓬を風呂に入れて菖蒲風呂にする風習もある。
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 この「ちまき」は地御前の友人が家で作ったと届けてくれた。子どもの頃には各家で必ずと言っていいくらい粽(ちまき)を作っていた。他の地区では「かしわ餅」を作っていたようであるが、阿品にはかしわの葉っぱが無いのでかたる「サルトリイバラ」の葉で包んだ「かたる餅」を作っていた。かたるをかたらと云うひともある。この粽を包む笹は吉和の方まで採りにに行ったそうである。
 
# by hirosan_kimura | 2016-06-10 12:15 | 行事祭礼 | Comments(3)
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 先日、阿品に関する記事が新聞に掲載されたり、テレビで放映された。
 
 昨年7月に入札された鰆浜の県病院跡地が、土砂災害警戒区域に指定予定であったのを県が見落とし売却したものである。病院跡地11.500㎡を3億7千万円で売却したが、警戒区域に指定されたことで土地の価値が下がり差額9,800万円を賠償することとなった。

 指定予定を見落としたこと、差額を賠償することはともかくとして、隣接の山が土砂崩れが起きそうとは素人目には不思議な気もする。隣接地は山と云うより小高い丘のようである。元々ある自然の山で傾斜も緩やかで樹木も生い茂っており、崖崩れが予測される危険地域にも見えないが、専門家の目から見れば「土砂災害危険区域」に匹敵するのであろう。
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 阿品区域の山々は比較的緩やかで、土砂災害の起こりそうな場所は他地域に比べて少ないのかと思っていたが、予想以上に危険な場所が多いようである。
 
 中にはこんな所まで危険地域に指定しなければならないのかと思われる場所もあるが、万全を期して万一の災害に備えてあるのであろう。
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 急傾斜地危険地域に指定されている場所で、素人目に見ても明らかに危険な場所もある。

 この写真だけではあまり窺えないが、下から上を見ると見上げるような急斜面である。斜面も堅固とは言えず一部 玉石状の物が積み上げられたり自然の土肌のみの場所もある。斜面の上の方では土を掘り起こして野菜が作られている。

 崖上の家屋は崖地ぎりぎりに建っているものもある。上に住んでいる人は足元は気にならないかも分からないが、崖下に住んでいる人はいい気はしないであろう。

 この団地は阿品で一番古い団地であるが、現在の厳しい決まりではこのような崖地は許可が降りないかも分からない。
# by hirosan_kimura | 2016-06-09 12:54 | 行政 | Comments(0)