№1007 老齢福祉年金   

 昭和60年より開始された国民年金は、20歳から60歳までの全国民が対象であった。年金の受給資格は保険料の納付機関が25年必要であった。制度発足当時50歳以上(明治44年4月1日以前出生者)には救済措置として70歳から老齢福祉年金が支給されることになった。50歳以上であっても最低10年保険料を膿すれば、拠出年金が受給できる暫定措置も設けられた。これらの人は任意加入か福祉年金のいずれかを選択できた。

 福祉年金は保険料を納付しなくても受給できるが様々な制約があった。老齢福祉年金は月額1,000円支給された。しかし他の年金を受給していたり、本人・配偶者・扶養義務者のいずれかの前年所得が一定以上であれば、年金の支給は停止された。高齢任意加入の人は年齢が来れば所得に関係なく、保険料を納めた年数に応じた額の年金が支給された。

 老齢福祉年金の支給額月1,000円は、現在の価値から比較すると驚くほど低額で、子どもの小遣いにも満たないと思われるかもしれない。しかし当時は高齢者に収入があったり裕福な家は別であるが、僅かの現金でさえ手にすることも無く「これで孫に飴玉の一つでも買ってやれる。」と感謝されたものである。所得制限等で年金支給が停止されるものもあった。停止された一部の人は「なぜ支給されないか。」と役場に怒鳴り込んでくる人も珍しくなく、いくら説明しても納得されない人もあり、この人たちの対応に苦慮したものである。
 
 福祉年金は4・8・12月の年三回支給されていた。一回の支給額は4,000えんであったが、支給日になると金融機関にはたくさんの高齢者が訪れ、年金の活用に花が咲いたそうである。

 勤務し始めの昭和38年の福祉年金受給者は927人との記録である。この人数は高齢者数の増加により年々増えていった。年に一回は定時届けと称し、所得状況による支給・不支給の決定をする申請の受付を行っていた。この届をするため高齢者に役場まで来ていただくのは困難なため、担当者が受付場所に出向いていた。旧町村ごとに集会所・公民館等を会場としていた。明石・後畑地区は余りにも遠方なので別の会場を設けていた。

 各会場に出向くのに上司と二人で行っていた。当時は事務用の庁用車は無く、自転車の荷台に段ボール箱を括り付け事務用品を運んだ。明石と後畑は余りにも遠方で坂道が続き自転車で行くのは難しかった。上司の方の私用オートバイに二人乗りで行っていたが、事務用品を入れた段ボール箱を抱え後席に乗っていた。片方の手で段ボール箱を抱え、もう片方の手で手掛りを掴み油断すれば落ちそうで必死であった。

 明石はバスも通る道であったが、当時は舗装もされていず曲がりくねっていた。集会者を会場としていたが来場者も僅かで、受付事務より世間話に花が咲いていた。お年寄りから随分いろんな話をしてもらったものである。

 後畑は当時廿日市の原側から谷底に沿った細い道しか無かった。自動車などで行く場合は五日市町の奥から山道に入り、川沿いの細い道を経由して行った。廿日市の原経由で通行できるようになったのは随分後のことである。
 後畑は明石地区より辺鄙で、当時は廿日市の秘境とも呼ばれていた。受付会場は民家を借りていた。この家は商店もしておられたが土間の一角に僅かの商品が陳列してある程度であった。福祉年金受給者も僅かで、ここでも受付事務に要する時間よりたまに来られる人との世間話に花が咲いた。

 受付事務は提出された定時届書に記入漏れ・押印漏れは無いか点検。年金証書を預かり年金の受給漏れは無いかの確認をしていた。受領日に来ると待っていたように、金融機関で年金の支払いを受けられるので受領漏れは皆無であった。

 受け取った定時届書と年金証書を元に、全員の所得状況を確認期限までに大わらわで整理していた。これらの書類と年金証書は広島西社会保険事務所に提出し安堵したものである。
 
 西社会保険事務所では所得状況を確認し、支給者には証書に支給額の記入・支給停止者には「支給停止」と記載される。証書の整理が終わると西社会保険事務所まで受領に行き、申請書の受付を行った会場まで出向いていた。
 高齢者は支給額の記入された証書の受領を楽しみしておられた。ごく一部の方ではあるがは所得制限等で不支給になり、がっかりされる顔を見るのは忍び難かったものである。

 当面の間、不支給になった本人はもとより身内の方などが、役場に入れ替わり立ち代わり来られることを思うと憂鬱になってしまう。

# by hirosan_kimura | 2025-01-17 11:51 | Comments(0)

№1006 国民年金   

 国民年金は昭和34年に法が制定され福祉年金は昭和34年、拠出年金は昭和36年に発足している。当初は職員一人で年金事務を行っておられたが、業務量の多さからか担当者の性格によるものからかは分からないが、事務が滞り精神的に行き詰まり、欠勤される日が続いたそうである。

 このまま放置するわけにも行かず、優秀な職員が配置された。就任された方も何処から手を付けて分からないくらい業務が溜まりにたまっていたが、少しづつ整理していかれた。いくら頑張っても一人の担当では難しいので、職員を一人増員することとなり、その部署に配属され勤務することとなった。

 当初は停滞した事務を整理していくことと、西も東も分からない新任職員の育成で混乱する日々が続いたようである。それでも少しづつ業務の整理が出来、新しい仕事にも慣れて軌道に乗っていった。

 国民年金は加入者と国が一部負担する拠出年金。制度発足時に一定の年齢を超えていた人のための福祉年金があった。福祉年金はともかく拠出年金については様々な抵抗があった。既存の企業年金・公務員の共済年金等に加入していない自営業者とうは強制加入で、年金保険料を納付する義務があった。

 その保険料は発足当時は35歳未満は月100円、35歳以上は月150円であった。この額は改定が続き増額され今年4月から17,510円と、発足当時と比較すると100倍以上となった。

掛け金が一か月100円・150円と現在では考えられない額であるが、これでも当時は強い拒否反応があった。様々な考えがあり、将来の年金原資を国民に負担さすのはとんでもない国費で賄うべきとの考えがあった。何十年も先に年金を受給できる頃には国政が変わり、すべて国費で賄うこととなる。年金保険料を払っていようが、払っていなくても等しく全員に年金が支給される。国民年金制度に加入しなくても良い。今保険料を納めているものは支払う必要はないと強硬に運動をする勢力があった。

 当時は強制加入でも国民年金に加入しない人。加入していても納付を拒否する人もありこれらの人を説得するのが大きな業務の一つである。保険料を納めない人には「あなたが納めなくて将来年金を受給できないのは勝手であるが、納めている人にたいして納めるなと言うのはやめて欲しい。」とお願いに行っても自分たちの主義に凝り固まっている人たちには聞く耳が無いようである。

 納めていない人には二通りあって、自分の主義で納めない人と、納めていなくても将来年金がもらえるのなら納めないほうが良いと思う人である。

 毎日納めない人宅を訪問して「将来は分からないが、国民年金法と言う法律があるのだから納めて欲しい。将来政治がどうなるか分からないが、納めていない人・納めた人に同じ対応は無い。他の人が年金をもらう年になっても、あなたはもらえないこととなるが良いのか。」等、説得する日々であった。

 この程度で了解してもらえることは少ないが、「納得は行かないが、国民なら法を守る義務がある。」「全体納得は行かないが、若い職員が何回も来て気の毒だから払おう。」などと渋々でも了解してもらったときはうれしかったものである。

 現在、ごく一部の人を覗いては一定の年齢がくれば額はともかく月々年金が入っているが、当時、年金加入・保険料の納付を拒否した人は後悔はないのだろうか。納付を拒否して年金を受給できないのは当然であるが、他の人達に年金の加入・保険料の納付を否定する言動をとった人たちは責任感をかんじているのであろうか。

# by hirosan_kimura | 2025-01-13 11:52 | Comments(0)

№1005 住民課厚生係   

 勤務して最初の配属先は「住民課厚生係」であった。この年の新規採用者は2名。もう1名は「水道事務所」に配属された。この人とはとても縁があった。後に同じ部署に配属された際、何もわからず困った時 一から親切丁寧に押しえてもらった。とてもユーモアがあり大変お世話になり、生涯忘れられない人の一人であったが、惜しくも若くして亡くなった。

 住民課は住民係・厚生係の2係のみであった。このうち厚生係の国民年金担当であった。係と言っても所掌範囲は広く、福祉・国民年金・国民健康保険・生活保護・戦傷病者・遺族関係・保健衛生・廃棄物・火葬・公害関係等の事務があり、今でいう福祉保健部関係を1係で行っていた。

 厚生係は、係長・福祉担当2名・国民健康保険2名・国民年金2名・保健関係は保健婦と若い男性の2名・ごみ処理火葬公害関係で1名等10名であった。

 課長は日比野さんで旧宮内村役場から廿日市町へ移籍された。とても温厚で小柄な方であった。当時はとても高齢者の方と感じたが50代後半の方ではなかったろうか。

 厚生係長は岡さんで平良村役場移籍された方である。この方は後に教育長を務められたがあるが、長期間 懇意にしてもらい忘れられない方の一人である。

 国民年金担当は2名であったがもう一人は増井さんで30代くらいの男性であった。この方は働き始めて初めてご一緒させてもらった方で何もわからなかったのを一から指導してもらった、生涯忘れられない方である。国民年期では二年のみであったが、水道事務所に移動すれば後に一緒になり、福祉関係に移動すれば後に一緒になり、不思議な縁を感じたものである。通算42年勤務した役所であるが、四分の一位ご一緒させてもらった残念なことに定年を前に病気で亡くなられた。

 退職するまで十数か所の部署を担当したが、最初に勤務した部署が一番印象に残っている。少ない人数で家族のような付き合い、懇意にしてもらったことが忘れられない。

# by hirosan_kimura | 2025-01-11 14:00 | Comments(0)

№1004 廿日市町に勤務   

№1004 廿日市町に勤務_e0125014_12420489.jpg
 昭和38年4月今から62年前、廿日市町役場に勤務することとなった。
 前年より伝染病の赤痢が廿日市で発生し、全国名を留めやっと終息を迎えようとしていたが、庁舎内では慌ただしい雰囲気が残っていた。

 三階建ての庁舎は、一階が住民がたくさん来られる住民課が占めていた。
 二階は役所の中枢の町長室・助役室・総務課があった。三階は議会関係で議場・議会事務局・委員会室等があった。

 現在では部整となり各部とその下にたくさんの課があった。

 当時は三課のみで行政課は総務係・税務係で構成されていた。来客の多い住民課は住民係・厚生係の二係、産業建設課は産業係・建設係・水道係の三係で構成されていた。

 その他に教育委員会・会計室があり、企画室等があった。


 本庁舎の裏側は、消防庁舎があった。この建物は昭和36年4月に旧廿日市町役場を解体した木材を利用した、木造モルタル瓦葺二階建て、建坪50坪・延70・5坪の建物であった。一階は車庫で消防車・救急車が格納され隊員の仮眠室があった。二階は消防署の事務室となっていた。

 消防署と並列で「青年研修所」と呼ばれていた、あまり大きくない平屋の建物があった。この建物は本来の研修所として使われたことは殆どなく、昼休みは職員が休憩室として使ったり、会議室として使われていた。

 中庭を挟んで庁舎と並行して簡易な駐車場があった。当時、庁用車としては町長車・住民課に一台・産業建設課にジープが一台あった。住民課分は検診や予防注射等の際、お医者さんを病院から検診会場まで送迎するためにあった。産業建設課のジープは旧宮内村より廿日市に引き継いだものと聞いていた。

 記憶違いでなければ当時、役場の車はこの三台と消防用の車のみであった。職員が公務で出かけるときは自転車を利用していた。今では考えられないが、税金の滞納分を徴収するのに税務の担当者は広島市内で自転車で行っていた。中には岩国まで自転でに徴収に行ったことがある聞いたことがあるが、今の若い職員が聞いたら何と思うであろうか。在職中は佐方から阿品方面に行くのに自転車を利用していた。原方面は坂があるのでバスを利用していた。自転車で行けるのは速谷神社くらいまでであるが、中には川末・長野方面まで自転車で行った強者もいた。

 今の職員が聞くと信じられないようなことも沢山あった。思いで多いこの庁舎も自動車学校跡に立派な庁舎が建てられ今は跡形もない。

 

# by hirosan_kimura | 2025-01-09 13:39 | Comments(0)

№1003 旧庁舎   

№1003 旧庁舎_e0125014_20084867.jpg 昭和38年4月より旧廿日市町に勤務することとなった。当時の庁舎は可愛川傍の国道沿いにあった。

 廿日市町は昭和31年9月に旧廿日市町、平良村、原村、宮内村地御前村の5ケ町村が合併して、新生廿日市町が誕生した。面積42・89㎢、人口19,211人であった。合併当初は旧廿日市町役場を本庁舎とし、他の村役場の一部も庁舎として使用していた。

 庁舎が分散しているのは不便でもあり、非効率であったため新しい庁舎を建てることになったが、選ばれたのは旧廿日市の可愛川横の国道沿いであった。国道付近には民家が立ち並んでいたが、海側ははるか沖まで田畑が広がっていた。この辺りは県立宮島工業高校が新設される際、候補地に挙がったくらい建物一つない新開地であった。

 新庁舎が建設された当時は、近隣の町村の役場は木造二階建てくらいが当たり前で、廿日市に鉄筋コンクリート三階建ての建物が建つと評判になった。建物が完成前後に、は山間部の人達がわざわざ見物に来る人もあったそうである。

 この建物は一階・二階が事務関係部署。三階は議会関係で議場・議会事務局等があった。この庁舎は近隣でも羨まれるくらいの建物であったが、急激な人口増で事務量・職員増え手狭となり、隣接の民間建物を借りたりプレハブ建物を増築し一時しのぎの状況であった。

 昭和60年10月には人口52,020人となり、町としては人口日本一までになった。当時、遠方より廿日市に視察に来られた自治体が廿日市町役場を探された際、人口日本一ならさぞ立派な大きな建物だろうと思い込み、庁舎前を通りすぎても分からず探すのに苦労したと、笑い話のような話もあった。

 平成9年4月には元自動車学校跡地に、文化センター等を併設した新庁舎が完成し、長年慣れ親しんだ旧庁舎とも別れることとなった。旧庁舎は解体され商工保健会館が整備されている。

# by hirosan_kimura | 2025-01-06 15:09 | Comments(2)