№1030 「午前 本庁」「午後 水道事務所」勤務   

 職場で配置転換があった場合、相互で事務の引継ぎを行い余程のことがない限り新しい職場に勤務するが通常である。余程 高度の技術で習得に長期を要する場合を除き、一般事務の場合は長くて二・三日で引継ぎを終えるのが慣例である。

 今回の配置替えでは二人しかいない担当者が同時に移動になったにせよ、当面の間 午前は旧職場で午後は新職場に勤務するとは異例の措置だろう。新担当者が上司にどのような交渉をした結果は分からない。自分としては釈然としないが、住民課長・水道事務所長が協議の上決められたことであり指示通リに従った。

 こちらとしては新しい職場に迷惑をかけて申し訳ない気持ちであった。しかし新年金担当者はこちらが思うほど気の毒がることも無く,至って気楽で気を使っているようでも無かった。

 古いメモを見ると「4月14日(水)午前年金未納者督促」とある。年金担当在職中に年金未納者の納付督促には力を入れていたので、残っているのは一筋縄ではいかない人たちばかりであった。督促に行くと何回も来てくどい、二度と家に来るなと追い返されるような方ばっかりであった。このような人を訪問しても怒鳴られるのが分かっていたが、新担当者に机の上の事務ばかりでないことを知ってもらう思惑があった。今から60年くらい昔のことでハッキリ記憶しているわけではないが、おそらく訪問に行っても怒鳴り返されたような記憶が残っている。同行した若い職員はびっくりして「このようなことまでしなければならないのか」と驚いていた。

 このことがあって職務に対する取り組み方が少し変わったようであった。その後もここまで詳細に指示しなければならないかと思うほど、微に入り細に入り同じことの繰り返しのような日々を繰り返し、5月末までこの状態が続いた。

 この間、午後は水道事務所の業務の習得に取り組んだが、何もかも新しいこと、経験したことのないことばかりで戸惑うばかりであった。水道事務所では事務の補助、水道メーターの検針、機材の管理、水道施設・設備の勉強、各種機器の運転操作の習得等、ずいぶん苦労したものである。

 この間 常に気になっていたのが、近日中から夜勤・日直当番をしなければならないことであった。これらの当番は一人でこなさなければならず、その日の水道の使用量に応じて送水ポンプを始動したり停止した、その他機器の操作を行う必要があった。
 最初は何を聞いてもちんぷんかんぷんであったが、空き時間を利用しては何回も繰り返し教えてもらった。他の人はそんなに深刻にならなくてもだれでも出来るとは言うが、頭の痛いことであった。
 
 6月1日(火) 本日より水道事務所常時出勤とある。早速その日より3日間、水道メーター検診。とある。

# by hirosan_kimura | 2025-03-13 10:32 | Comments(0)

№1029 水道事務所初出勤   

 昭和40年4月1日(木曜日)、定刻に出勤し移動辞令を受領。旧職場の住民課厚生係職員に最後の挨拶、新年金係員二人に簡単な打ち合わせを行い水道事務所に出勤する。

 今までなじみのない職場であり、職員も初めて会う人ばかりでとても緊張した。しかし二年前役場に就職した二人の内の一人が同僚になったこと、年配の事務員の人が同郷の地御前の人であり顔なじみであったため少しは気分が楽になった。

 全職員を紹介してもらい、当面の間 旧職場と掛け持ちのようになり午前は役場庁舎、午後は水道勤務となるが主体は水道であること等を説明してもらった。

 その後、廿日市の水道の概況や施設等について説明をしてもらった。ただ、早いうちに他の職員と同等に交替で当直があり、その際は一人で機器等の操作をしなければならないとのことで戸惑った。

 一般事務ならともかく、機器の操作等極めて不器用でありこの先どうなるのか不安であった。水道の仕組みは何となく理解できても、機器の操作となると自信は無かった。

 当時、事務所の職員は所長1名、事務員2名、現業5名程度でこの内所長を除いた7名程度で毎日の夜勤、土曜日の半直、日曜・休日の日直を交代でしていた。日中の業務は通常に行い、その上に当直の頻度も多く、厳しい勤務体制であった。数年後、当直勤務専任の職員が採用されるまでこの状態が続いた。

 2ケ月間は午前は役場に勤務し年金係の指導、午後は水道勤務であった。係員二人が移動し年金事務経験者が居なくなったとはいえ、余りにも理不尽な勤務体制なので再考してもらうよう申し出ようかとも思ったが、議論の上このような措置になったのだろうと従った。

 前任者が二か月間もついているので、年金係にとってはこの上もないことであろうが、こちらとしては慣れない業務を習得せねばならず悪戦苦闘の日々であった。その上気になるのが近々、日直・当直の当番が当り、一人で機器の操作をしなければならないのが頭から離れなかった。水道の人に「当直が不安でたまらない。一人で機器の操作をする自信がない。」と話しても、「そんなに苦にすることは無い。必要なことは教える。皆で助けるから心配しなくて良い。」と言ってくれたが、かえって心配が増すばかりであった。 

# by hirosan_kimura | 2025-03-11 10:14 | Comments(0)

№1028 歓送迎会   

 現在では同じ職場の職員同士の付き合いは希薄になっているらしい。昔は何かあれば上司も部下も一緒になって飲食等をする機会が多かった。今では職務以外で自費まで取られて、いやな上司等と付き合わなければならないのかと、職場の旅行・忘年会など行わないのは珍しくないらしい。

 以前は同じ職場の者同士で、桜が咲けば花見・夏になれば船を借り切って水泳や釣り、秋になれば紅葉をを楽しんだりしていた。歓送迎会はもとより、忘年会・新年会等、何かにつけてお酒を飲む機会を作っていた。お酒を飲まない女性も嫌がることも無く良く付き合っていた。

 中でもそれぞれの職場ごとに毎月積み立てを行い、年一回の一泊二泊程度の旅行は楽しみにしていた。昔は成人男子は酒が飲めるのは当たり前で、飲めない酒を無理やり飲まされて鍛えられた。今の世ならこのようなことを無理強いすれば問題になるかもわからない。

 6月6日(日)、厚生係送別会 9時30分廿日市バス停集合とのメモが残っている。行き先は「湯来温泉 広電観光ホテル」とある。当時は旅館も多数経営していたが、今では民間の旅館は皆無で、公営の湯来ロッジのみと言う寂れようである。
 現在では湯来温泉にバスで行くには「楽々園」に集合するはずであるが、当時は岩国から湯来温泉行のバスがあり廿日市から乗車したようである。今ではバスの便も減っているが、当時は乗降客も多く登山等で山間部に行くにも多くのバス路線があったが、今ではバスの便が減り吉和に行くにも広電バスは廃止になっている。

 7日(月曜日)住民課の送別会 18時より商工会館 との記録がある。商工会館は現在では取り壊されているが,須賀の千日酢近くにあったモルタル二階の建物であった。一階は商工会の事務室で外階段を上がると二階は広い和室の部屋であった。当時は集会所等も少なく何かと良く利用していた。

 10日(木曜)水道事務所歓送迎会とある。水道事務所では常時上水道を送水しているため、全員不在と言うわけにも行かず事務室の一室で仕出し弁当を取り寄せ、ささやかな歓送迎会であった。公の施設内で飲酒など現在では大問題になるかもわからないが、当時はお大らかな時代で問題とも思うことも無かった。事務室はポンプ室の二階にあったが、この建物も今では見ることは出来ない。

 いずれにしても、その後も職場の仲間と飲酒等の機会は多くあった。飲酒と言えばよい印象は持たれないが、昔は酒を酌みあかし遠慮なく上司とも語り合い、家族の一員のような雰囲気で付き合い、日々の業務に和気あいあいと取り組んでいた。
 たまに現在の職場の雰囲気を伺うことがあるが、誠に殺伐としているように思えてならない。

# by hirosan_kimura | 2025-03-10 10:28 | Comments(0)

№1027 廿日市の上水道   

 廿日市は大きな河川も無く沿岸部の平地部の大半は埋立地で、昔から水不足に悩まされてきたそうである.

 旧廿日市地区では大正12年2月に上水道組合が設立され給水事業が開始されている。詳しいことは不明であるが、天神山に配水池が設けられ各戸に給水されたが常に水不足で、浄化設備も不十分であったのか水も奇麗でなく、各戸では蛇口に布を充て濾過していたようであるがそれでも濁っていたそうである。

 合併前の宮内・地御前村の沿岸部は大半が埋立地で生活水に苦労していたそうである。地御前村では井戸水を使っていたが塩分が多く、地御前では塩水を生活用水として使っていると揶揄されていたそうである。

 そのような中、両村が共同で上水道事業に取り組むこととなった。浄水場は元の水道局の川向いの御手洗川沿いであった。総事業費は11400万円で内700万円が国庫補助であった。現在から判断すると大した金額で無いように思われるが、当時としては大変な決断であった。この施設は昭和29年に着工し31年に給水開始されているが、小規模で水道法上では「簡易水道」と称されていた。

 こうした中で町全体では深刻な水不足が続いていた。昭和33年に水道事業計画が策定された。総事業費は1億2千万円、厚生・大蔵省よりの借り入れが9千万円と言うものであった。当時の廿日市町の年間予算が7,500万円程度の中、余りにも巨額な事業費のため議会でも賛否両論の大激論でもめさん返したそうである。

 しかしこのままでは廿日市には人や企業は来ず、廿日市町には将来性は無いとの悲壮感が優先しついに町始まって以来の大事業に取り組むこととなった。

 この事業は昭和34年に着工し昭和37年に完成している。この事業が完成してからも水源が小規模で水不足となり断水したことが数回あった。小規模の井戸をあちこちに掘ったり、新幹線のトンネルの湧水を利用することもあった。そのうち県事業により大竹の弥栄ダムよりの送水により水不足は解消したようである。
 今では水道事業そのものが広域事業で行われており、廿日市独自の水道事業は消滅しているようである。

 昭和40年4月から5年6月、水道事務所に在籍していたがその当時は簡易水道に施設も残されていた。新しい施設・簡易水道のポンプを操作したり、濾過地の目詰まりを削り取ったことなど様々な作業をしたことが目に浮かぶようである。


# by hirosan_kimura | 2025-03-09 10:55 | Comments(0)

№1026 忘れえぬ上司   

 長年役所に奉職し、たくさんの上司・同僚・後輩に巡り合うことが出来た。中でも最初にお世話になった年金係の増井さん、次の職場の橋本所長は生涯忘れえぬほど懇意にしていただき、一方ならぬお世話になったお二人である。

 年金係の増井さんは初めて社会に出て西も東も分からない状態の中で、手取り足取り教えていただき多くのことを学ばせてもらった。

 この方はとても几帳面な性格で、何をするにもきちんと完璧にしないと気が済まない人であった。なれない最初の頃は何をしても注意され、手直しばかりで戸惑うばかりであった。

 仕事をする前に段取りを考え、必要な文具・書類のみを用意し机の上があまり乱雑すぎると注意された。不要になった書類等は直ぐ片付け、次に必要なものだけを取り出すようくどい程指導された。

 一つの仕事も完璧に処理し、次の仕事に取り掛かる。紙を半分に折るときも角と角をピタッと合わせ奇麗に折ること。身の回りも机の引き出しの中も乱雑にしないこと。

 集合時間等も遅れていくなどもっての外、ピタッとかけり込んでやっと間に合ったもだめ、早く行って無駄話で時間を費やすのもダメ。
 定刻の五分前に集合し余裕をもって会議等に臨むこと。なんでこんなに、厳しいのだろうとも思ったが、時間厳守の習慣は身についてその後も、何かにつけて定刻の五分前集合の癖が身に着いた。

 大変厳しい方であったが、社会のことが何も分からない自分に随分たくさんことを教えてもらった。増井さんとは年金係の二年のみの付き合いかと思ったが、水道事務所に配置換えになった暫くして水道事務所で一緒に仕事をさせてもらった。その後数年して福祉担当になった際、上司として一緒になり保育所の新設や児童担当として長く指導してもらい、不思議な縁を感じたものである。この方は病気で奥さんんを亡くされ気落ちされたのか早くに亡くなられ残念である。

 水道事務所に代わってからの上司は橋本所長であった。この方は性格の穏やかな方であったが、芯が通リ人のお世話もよくされる方であった。このような方なので誰にでも好かれる方であった。

 この方の自宅は水道事務所の近くであった。当直などの際 機械の操作で困り一人でどうしてよいか分からないとき、電話でお願いするとすぐ駆け付けて来られ、何回助けてもらった分らない位である。

 橋本さんは水道事務所では二年くらいしか一緒でなかったが、その後、様々な役職に就かれ商工会の会長や心配事相談員等に従事された。

 後に福祉担当に従事した際、民生委員を受けてもらい長く助けてもらったことも忘れられない。また、たまたま総務部に移動した際 選挙管理委員長の職についておられたが、選挙のことなど素人で途方に暮れていた際、懇切丁寧に教えてもらったこともあった。

 このお二人への感謝の気持ちを文章で表現するのは難しいが、長いお役所勤めの中で、このような素晴らしい方に懇意にしてもらい感謝しきれないくらいである。

 余談であるが、人から呼ばれる時「ひろさん」と呼称されていた。親兄弟・親戚・近隣のひと・友人・職場の人等からもこの呼称で呼ばれていた。しかし上司からは「木村さん」「課長」などの職名で呼ばれていたが、何故かこの二人は「ひろさん」と呼んで懇意にしてもらっていたのが懐かしい。

# by hirosan_kimura | 2025-03-08 11:04 | Comments(0)