素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura
e0125014_14383548.jpg 明治30年、今から117年前の地御前村の人口は男1,443人・女1,362人で計2,805人であった。

 生年毎の資料によれば、明治30年生まれが当然0歳で遡ること慶応・元冶・文久・万延・安政・嘉永・弘化・天保・文政・文化生まれと遡り,まるで時代劇に出てくる年号が続く・

 一番高齢者は文化12年生まれで82歳、何れも女性の方である。82歳といえば今と比較すると驚くほどの高齢者ではないが、現在の平均寿命男79・94歳・女86・41であるが、当時の平均年齢は男42・8歳・女44・3歳から比べると相当の長生きであったのであろう。
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 現在少子高齢化が進み日本の未来が危惧されている。117年前の地御前村の年齢構成と比較しても参考にはならないだろうが、当時の地御前村の未成年者は45㌫を占めていたが、現在日本全体の未成年者は17㌫に過ぎない。

 60歳以上の高齢者は地御前村が6.3㌫であったのに対して、現在の日本全体では31・3㌫を占めるすさまじさである。

 現在日本人全体の年齢を均すと44・9歳であるが、当時の地御前村は平均年齢26・1歳となっている。単純に現在と比較しても意味はないが、60歳を過ぎれば立派なお爺さんと呼ばれていた時代で、今のような医学も進んでいず早死にをしていたのであろう。 

e0125014_14401458.jpg 統計上15歳から64歳までを生産年齢と言うが、当時と比較すると生産年齢者の比率は余り変わっていない。しかし14歳未満の比率は、今と比較すると驚くほど高かった。

 反対に高齢者の比率は当時と比較すると、驚くほど高くなっている。
# by hirosan_kimura | 2014-07-14 15:36 | 人口 | Comments(0)
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 鰆浜の海岸は干潮になると沖合いまで磯が広がり、あさりを掘りに行くと子どもでもたくさん採ることが出来た。火立岩に近い磯では大貝・ミル貝なども面白いほど採れていた。お上がり場に近い浜辺ではたくさんは採れなかったが、蛤(はまぐり)が見つかることもあった。

 浜のすぐ沖の水中には藻もたくさん生えており、えびやたこ・小魚などもいて夏の夜にはカーバイトの灯りで浅瀬を網を押して行くと獲物が獲れ、この漁りを楽しみにする人もあった。

 夏の蒸し暑い夜に堤防で夕涼みをしていると、闇夜の中を漁火が行き交い夏の風物詩でもあった。

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 昭和43年には西広島バイパス工事のため、道路の拡幅・広電の移設・堤防沿いの道路の新設用地として、海岸沿い長さ920m・巾最大35mの埋立が行なわれた。埋立面積は7,268㎡であった。

 昭和49年には無くなった浜辺を再生するため、沿岸漁業改善事業により鰆浜沖に人口干潟が造成された。干潟には山砂が入れられこれによりあさりなどは消滅してしまった。

 人口干潟には牡蠣の稚貝を育成するため、竹ひびがたくさん建てられた。あさりの稚貝も放流されたが浜は山砂のせいか元のようにたくさん増えることもなかった。

 人口干潟は工費8,600万円でフジタ工業が造成した。

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 昭和43年に人口干潟造成された人口干潟も、埋立てにより潮流が変わったせいか搬入された砂が沖合いに流され浜はやせ細るばかりであった。

 このため平成8年に人口干潟改修整備工事が行なわれた。この工事は南北延長700㍍・東西巾95㍍、工事面積6・7㌶の干潟の整地や牡蠣棚の復旧が行なわれた。

 また土砂の流失を防ぐため沖合いに土止溜堤が新設された。この堤は基礎捨石の上に巾4・2㍍・高さ2・5㍍のコンクリートブロックを設置し、沖側には波除の被覆石が積んである。

 この堤は2ケ所設けられそれぞれ延長182・25㍍と115㍍あり、総延長297.25㍍となっている。

 これらの工事は工費3億6,668万円で五洋建設が施行した。

 これらの工事により浜辺の砂の流失は止まったが、あさりなどは以前のようにたくさん見かけられない。潮の良い時にはたくさんの人達が潮干狩りを楽しんで居られるが、掘れるあさりはほんの僅かで貝を入れたバケツの底が見えるくらいで、見ていて気の毒なような人もある。
# by hirosan_kimura | 2014-07-08 13:27 | 鰆浜 | Comments(2)

№641 釈迦の寝姿

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 日本三景の一つ、世界遺産にも登録された宮島は阿品の目の前に浮かび、原生林の緑に覆われ美しい風景である。その稜線は凹凸し変化に富んでいる。

 この稜線は見る方向により、釈迦の寝姿・観音さんの様にも見られ昔から神の島として崇められている。

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 どの方向から見るのが釈迦の寝姿に相応しいのか分からないが、阿品の海岸から見えるのは宮島の山の中央当りの左側が頭で、真ん中辺りが鼻と唇に見える。

 見方によっては数年前の豪雨で崩壊した、白い山崩れの跡が目にも見える。

 阿品から眺めるより五日市か西区の方から眺めるほうが、よりお釈迦様の美しい姿が見えるのかも分からない。

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 人によっては、裸の女性が横たわったように見えると言う人もある。神の島を女体に例えるのは恐れ多いことであるが、そう言われば女体に見えないこともない。

 右側が頭で、出っ張った顎があり中央部分が乳房で、左に腹部から足に続く。

 この女性は顎が出っ張りすぎで首は短く足もスマートでなく、余り美しい女性には見えない。

 違った方向から見れば、もう少し美しい女性に見えたり、他の形に見えるのかも分からない。
# by hirosan_kimura | 2014-07-06 10:24 | 地形 | Comments(0)
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 鰆浜の県病院は昭和47年3月に廃止され,以来42年間空き地のままであった。この間跡地には様々な施設の案が浮上しては消えいずれも実現に至らなかった。

 その後、県職員が野球やテニスなどに利用することもあったが使用する回数は限られ、地域のでの盆踊り・とんど・高齢者がゲートボールに使うぐらいで永らく放置されたままであった。

e0125014_13402477.jpg 最近になって県有地売出しの幟や看板が設置された。地元では跡地にマンションや戸建住宅が建てられるなど噂をしていたが、やっと県が売出しに動き出した。

 この地を売出すに先駆けて土質調査が行なわれ、極狭い部分であるが水銀が検出されたそうである。 
 
 検出された場所は病院時代に塵芥を処理する施設が有ったらしく、今ほど規制の厳しくない時代であったため医療廃棄物の処理がずさんに行なわれていたらしい。

 汚染された場所の土は掘り起して処理をするらしいが、極狭い場所に限られ大きな支障はないらしい。

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 設置された看板によると、近々一般競争入札により業者が選定されるようである。

 面積は11,498.73㎡(約3,400坪)とある。以前県病院跡地は16,500㎡と紹介したことがあるが、今回の売出し面積と約5,000㎡の差がある。

 これは恐らく県が阿品台ニュータウンを整備した際、地元対策として周辺道路の整備・公園の新設・集会所用地の確保に県病院用地を充当したものであろう。

 阿品地域は前は海に面し、後方は山を控え平地が限られている中で、県病院跡地は最後に残された纏まった土地と言えよう。

 鰆浜地区も他に漏れず高齢者が増加し、子どもが少なくなりかつての様な活気が見られないような気がする。

 跡地に何が出来るのかはわからないが、たくさんの住宅が建てられ子どもたちの歓声が溢れるような町になって欲しいものである。
# by hirosan_kimura | 2014-06-29 14:17 | 鰆浜 | Comments(0)

№639 台風の被害

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 昭和30年9月21日に発生した台風22号(ルイーズ)は9月29日に鹿児島県薩摩半島に上陸し、日本各地に大きな被害をもたらした。北陸地方にも強風が吹き荒れ、新潟大火の原因にもなっている。

 瀬戸内海沿岸でも突風や強風が吹き、満潮時とも重なり各地で大被害が発生した。山間部では豪雨となり山崩れや河川の氾濫により、田畑や家屋に甚大な被害を蒙った。

 地御前では扇新開や宮内側護岸・地球館沖・地御前港に面する中国石油沖などの堤防が破壊され甚大な損害が発生した。

 阿品では火立岩附近の電鉄海岸で、堤防が延長50㍍くらい損潰している。またお上がり場海岸の護岸が延長50㍍、雁木一箇所が破壊された。阿品新開も冠水などの被害を受けている。

 10月3日には台風23号が通過し、沖山西側の堤防2箇所延長50㍍が決壊しさらに大きな被害をもたらしている。

 阿品は海岸線に面しているため、台風の都度堤防などが決壊しているが、その度に広電の電車が不通になっている。

 台風22号が来襲した時は小学校5年生であったが、家の近くの頑丈なコンクリートの堤防が破壊されたのを目の当りにして驚愕した記憶が残っている。
# by hirosan_kimura | 2014-06-16 10:39 | 災害 | Comments(2)
e0125014_1491641.jpg 昭和4年、地御前村の車等を調査した資料がある。

 昭和4年当時の国道は明治12年に開通した旧国道のままで阿品附近は海岸沿いに整備されていたが、地御前神社から東は地御前の町の中古い道路を通っていた。新しい国道が整備されたのは昭和7年であった。

 明治30年に山陽鉄道が開通しているが、当初「地御前停車場」が設けられる予定であったが、地元の大反対により地御前を通過して大野の赤碕に駅が設けられた。JRの阿品に新駅が設置されたのは平成元年になってからである。

 広電の宮島線は大正14年に地御前駅が設置されている。同時に今の阿品一丁目の東海岸から宮島に渡る連絡船が就航している。翌年大正15年に宮島航路渡船場のそばに宮島線の「新宮島駅」が開業している。当時は当然今の「阿品駅」「阿品東駅」も無い。

 昭和5年1月には、己斐~宮島口間に乗合自動車が開通し地御前・鰆浜(今の阿品一丁目)にバス停留所が設けられている。

 昭和4年の地御前村の車等の調査によると、「馬車 乗用0・荷積用1台」「牛車 0」「荷車 129台」「自動車 乗用0・荷積用0」「人力車 0」、自転車は「自動 乗用0・荷積用0、通常 乗用141台・荷積用0」となっている。

 自転車が自動と通常に分かれているのも面白いが、自動とはは今のバイクのようなものを指し通常とは人がこぐものであろう。

 その他「一輪車 33台」「無税車 2台」とある。一輪車とは今の鋼鉄製でタイヤの付いたものでなく、木製の猫車のことであろう。以前は良く見かけていたこの猫車も今では見かけることもなくなった。無税車とはどんなものを指すのか不思議である。

 調査項目に「牛車」「人力車」の欄があるのも珍しいが、この時点で地御前村に自動車が一台も無いのも以外である。 

 現在では各家庭が自動車を所有し、JR阿品駅・広電停留所も新設され移動手段も格段に便利となっているが、今から85年前には人の移動も荷物の運搬も人力による場合が殆どであった。
 
 小さい頃にお年寄りから、隣村に行くにも歩いて行くのは歩いて行くのが当たり前であったと良く聞かされていたものである。
# by hirosan_kimura | 2014-06-14 15:25 | 交通 | Comments(0)
e0125014_1072421.jpg 阿品の氏神様は神社庁での正式名称は「岩鏡神社(いわかがみじんじゃ)」となっている。
 
 しかし地元の人達で「いわかがみじんじゃ」と呼称する人はまず無く、「いわがみじんじゃ」と言うのが通常である。また親しみを込めて「岩神(いわがみ)さん」とも呼んでいる。

 この神社は本来「岩神社(いわがみしゃ)」「磐神社(いわがみしゃ)」と呼ばれ、「岩神大権現(いわがみだいごんげん)」が正式名称と伝えられている。

 神社に小さな石碑が残されているが、表に「岩神大権現」、右横に「文政十二年」、左横に「九月吉日」と今から185年前に彫られたものも残されている。

 「岩神社」が「岩鏡神社」となった詳しい経緯は不明であるが、大正7年に「佐伯郡史」が編纂された際、阿品の習慣により「神」に「鏡」の字を使用していたので「岩鏡神社」と届け出られたため、この名称が正式神社名となったとある。

 しかし阿品の古い人達の言い伝えにも、「岩神」に「岩鏡」の文字を当てはめていた習慣は聞いたことも無いそうである。

 「鏡」の字を当てはめた経緯は分からないが、神社には鏡のように光る岩が祀ってあったが、戦後間もない台風で神社の建物が濁流で押し流された際、祀ってあった鏡も行方不明になってしまったそうである。

 神社名を届け出る際、「岩神神社」では神の字が重なり紛らわしいので、「神」の字に「鏡」を当てはめて「岩鏡神社」と届出たのかも分からない。読み方も「鏡」の字を当てはめても「いわがみ神社」のままであったのが、手違いで「いわかがみじんじゃ」となったのかも分からない。

 仮に神社名を「いわかがみじんじゃ」と届出たのなら氏子の人達にも周知してある筈であるが、阿品の人々の大半が「いわがみじんじゃ」と総称しているのも不思議であるが、今となっては真相は分からない。

 今では祀ってあった鏡のような岩も所在不明であるが、ある人の話によると密かにこの岩を持ち帰り家の中に隠している者が居ると聞いたことがある。神社に祀ってあった物を家に隠しているような恐れ多いことをする者が居るとは考えられず単なる噂話であろう。
# by hirosan_kimura | 2014-05-22 11:29 | 神社 | Comments(0)
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 この図は大正14年調査の阿品の民家を示したものである。今から89年昔である。

 右側の緑丸は鰆浜で今の阿品一丁目である。中央の青丸は阿品で今の阿品二丁目。左側の赤丸は田尻で今の阿品四丁目。阿品三丁目は海の中、阿品台は山を削って宅地造成されたもので民家は一軒も無い。

 当時の鰆浜は世帯数18で人口は68人であったが、今の阿品一丁目は世帯数301で人口は731人に増加している。

 阿品は32世帯176人が455世帯1,164人に、田尻は2世帯18人が615世帯1,354人となっている。

 当時3部落合せて52世帯・262人が阿品全体の世帯・人口の全てであったが、今では3地区合せた世帯数・人口は1,371世帯・3,249人と、世帯数で26倍・人口で12倍となっている。

 鰆浜・阿品・田尻のみでなく現在の阿品・阿品台すべてで比較すると、世帯数は5,857世帯・人口13,929人となっており、世帯数で112倍・人口で53倍と増大している。

 このように大きく発展した阿品ではあるが、当時一世帯あたり家族数は5.03人が2.37人と核家族化し高齢化が急速に進んでいるのは気になることである。

 なお当時の調査によると、鰆浜に海上生活世帯が1世帯・男子のみ12人と記録が残されているが上記の数字からは除外している。漁を行なう船団の人達が、調査時に鰆浜の海岸に停泊していたものであろう。
# by hirosan_kimura | 2014-04-28 14:10 | 衣食住 | Comments(0)
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 昭和5年(今から84年前)の地御前村の死亡者の資料がある。現在とは死亡原因の分類の方法が異なっているので単純には比較出来ない。

 現在の日本国民の死亡原因の順位は、悪性新生物(癌)・心臓病・肺炎・脳血管障害となっているが、現在一位の癌は当時の分類では「伝染性及び全身病」の中に含まれ、はしか・猩紅熱・コレラなどと同分類に含まれている。

 昭和5年の村の人口は不明であるが、3年後の昭和8年の統計では557世帯、2,641人となっているがこの数字と大きな差は無いと思われる。人口比と比べた死亡率は現在と比較するとどうなのであろうか。

 分類は上記より多数の項目があるが、死亡者の無い項目は除いているが自殺者や不慮の事故等での死亡者は無かったようである。

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 年齢別に見ると10歳未満が三分の一を占めているが、この中でも一歳児が10名で全死亡者の27㌫を占めており当時の乳幼児の死亡率が高いことが伺える。

 当時の統計では0歳児の項目が無いので、数え年での標記で統計の一才はは現在の0才に当るのかも分からない。

 一歳児の死亡原因は、伝染性および全身病が男2名、急性気管支炎男2名、肺炎男2名・女3名、消化器疾患1名とある。

 ちなみに老衰が死亡原因の年齢は、84歳女性一名、86歳男一名・女一名、89歳男性一名で、最高年齢は91歳の女性とある。
# by hirosan_kimura | 2014-04-16 13:18 | 人口 | Comments(0)
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不鮮明であるが村の隔離病舎のあった場所

 今から85年前の昭和5年1月7日に、地御前村長より広島県知事への報告書による。

医師
 村内の医師は男1名、女1名の計2名で、両者とも「官公私立(指定)医学専門学校卒業」による医師資格取得者とある。

歯科医師
 村内の歯科医師は男性1名で「試験及第」による資格取得者とある。

産婆
 村内の産婆は3名であるが性別の記録はない。恐らく全員女性であろう。いずれも「試験及第」による資格取得となっている。

隔離病舎
 伝染病患者が発生した場合隔離する施設で、「町村若しくは之に準ずべき者の設立に係るもの」とあり、病舎数は一箇所で病床数は8床とある。

患者
 成人のトラホーム・花柳病(性病)患者は37名で、内トラホーム患者5名とある。

種痘
第一期
       善感人員   不善感人員   合 計
第一回     78名        0名    78名
第二回      1名        0名     1名
第二期
第一回     13名       72名    85名
第二回      3名       57名    60名
とあるが、種痘接種をした結果を示すものであろう。
# by hirosan_kimura | 2014-04-11 13:52 | 医療 | Comments(2)
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# by hirosan_kimura | 2014-04-08 11:09 | 水産 | Comments(0)

№632 遊魚船の係留

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 阿品附近の海岸では魚を釣る人が多く見受けられるが、海岸から釣りをする人たちは小型の自家用船を所有するのが夢らしい。

 自家用の小型船を持っている人は、お上がり場附近・鼓ケ浜海岸・阿品川河口に船を係留している人があるが、海での係留は自由なのかどうか分からないが、河口への係留は河川法で厳しく規制されているらしい。

 いずれも違法に係留されているのか黙認されているのかは分からないが、管理が充分されていないのも結構見受けられる。

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 阿品川河口にも数は少ないが係留された船が見受けられた。船が石垣に当って壊れないよう発泡スチロールが岸に結びつけられているが景観上誠に見苦しい。岸から船に乗るために手作りの階段等が設けられているものもあるがこれらは違法なものであろう。

 またこれらは岸や船に擦り付けられて砕かれ海を汚染してしまう。廃船は処理もされずに放置され朽ち果てて景観を損ね川の漂流物が引っ掛かったり、川の流れを邪魔したりする場合もある。

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 人目に付く河口に朽ち果てた廃船が横たわっているのを見るたびに、無責任な船の所有者がなんとかすれば良いのにと思っていたが、先日レッカー車が来てこれらの廃船を引揚げて処分していた。

 恐らく船の所有者が経費を負担したのでなく、県か市が公費を使って処分したのであろうが、廃船の放置した人の無責任さに呆れるばかりである。

 阿品川河口の廃船は処分され、それ以降小型船の係留は見受けられないが、相変わらず発泡スチロールなどの残骸がありこの附近を通るたびに見苦しく思うばかりである。

 釣りを楽しむ人たちの大半はマナーを守っているのだろうが、相変わらず堤防の上にゴミを放置したり、釣り針の付いたままの釣り糸を捨ててままにする人も結構ある。余った餌や持ち帰らない小魚を投げ捨て悪臭を放ったり、自家用船の管理が杜撰だったり呆れるばかりである。
# by hirosan_kimura | 2014-04-05 11:09 | 釣り | Comments(0)

№631 鉄塔2

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 №444で紹介したが、阿品には山の上に二本の携帯電話の電波を送信する塔が建てられている。日本とも標高30~40m程度の見晴らしの良い山の上に、それぞれ30mと35mの塔の高さがあり地上からはかなりの高さとなっている。

 この3月の末には更に一本新しい送信塔が建てられた。写真の右端の山の上の二本が既存の塔で、左端が今回新設されたKDDIの塔である。

 e0125014_10364954.jpg この塔は鰆浜のJR線路の奥側すぐ傍の平地に建てられている。この場所は三方を山に囲まれた谷で、開けているのは海側の一方のみである。塔の高さは地上20mであるが、海抜でも塔の頂上は25mにも満たないのではなかろうか。

 素人考えでは電波を飛ばす塔は、見晴らしの良い高い場所に更に高い塔を建てるのが当然と思うが、三方を山に囲まれた平地に20m程度の高さしかない塔が建てられたのだろうか。

 設置場所の選定に当っては、当然電波の届く範囲等の調査を行なったのであろうが不思議でならない。
# by hirosan_kimura | 2014-04-04 10:39 | 通信 | Comments(6)

№630 国道沿いの桜

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 阿品では今が桜が満開で身頃である。そろそろ花びらの散り始めたものも見受けられる。

 沖島橋下りの左側の国道すぐ傍の左側法面に桜があり花が咲き誇っている。巨木とは言えないが見ごたえのある桜である。すぐ脇を走る自動車が排気ガスを撒き散らし、バイパス高架が上を通り条件の良い場所とは言えないが枝全体に花びらが広がっている。

e0125014_11441632.jpg この桜は小学校時代の通学時にも綺麗な花が咲いているのを見た記憶があるので、植えられてかなり年数が経っている筈でである。当時でもかなり大きな樹木であったような記憶がある。

 誰が何時植えたものか分からないが、この附近の新国道が開通したのが昭和6年であるがこの桜がその当時植えられたものなら80年以上の樹齢となる。

 木の根元を見るとかなり太く植えられて相当年数経過しているように見受けられる。

 昨日は廿日市の桜の名所「住吉土手」に花見にいったが、殆ど満開で見頃であった。しかし桜の木を良く観察してみると花の付いていない枝も相当見受けられ、枯れ枝もたくさん見られここの桜は相当弱っているようである。

 また最近有名になった「阿品桜」も満開は過ぎたが、花の付かない枝や枯れた枝が目立ち、桜の木が相当弱っているようで数年前より随分見劣りするようになった。

 これらの桜よりずっと前に植えられ、自動車の排気ガスに晒されている沖島橋麓の桜が元気良く枝一面に花を咲かすのが不思議な気がする。
# by hirosan_kimura | 2014-04-02 13:20 | 植物 | Comments(0)
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 国道を挟んでお上がり場附近の山側は高いコンクリートの擁壁となっている。昭和7年に新国道が開通するまでは山がお上がり場附近まで延びていたが、国道の工事のため山が大きく削られ急斜面となっている。

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 この山ではまつたけも採れ、国道側には山の上から清らかな水が流れ落ちていた。終戦間近には弾薬を貯蔵するために、この山の下に阿品側から鰆浜側まで大きなトンネルが掘られ弾薬庫として使用されていた。このトンネルも昭和30年代までは残っていたが、今では潰されて跡形も無い。今ではかつての面影は無く、荒れ放題のやまとなっている。

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 昭和30年代の初め頃、この山を削り高い石垣をつき別荘地が造成された。鰆浜側から国道沿いに別荘への急な坂道が設けられたが、今でもこも坂道は当時の面影を残している。

 別荘地は数区画有ったが、広さは異なり二~三百坪程度から百坪に満たない区画もあったような記憶がある。長いこと更地のままであったが、一番狭い区画に木造平屋の小さな建物が建っていたが、その他の区画は家も建てられず放置されていた。

 この小さな別荘のような建物に人が住んでおられたような記憶が無いので、たまに来られることは有ったのかも知れないが、ほとんど使用されることもなかった。この小さな建物もいつの間にか朽ち果てて今では跡形も無い。

 前面に広島湾を望み宮島も指呼の間にある素晴らしい別荘地であるが、相当のお金をつぎ込んだ筈の別荘地が殆ど活用されなかったのが不思議でならないが、何か特別の支障でも有ったのだろうか。

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 長年活用されなかった別荘地は雑木が生い茂り、一時はここに住み着いていた不良者が残した廃物が散乱し、国道のすぐ傍でありながら様子を見に行くのも不気味な荒地となっている。
# by hirosan_kimura | 2014-03-15 13:44 | 鰆浜 | Comments(0)

№628 下水道工事

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 現在、お上がり場公園と広電軌道の間の狭い道路を片側通行にし、重機が入り盛んに工事が行なわれている。これは阿品地域に公共下水道を整備するため、放流管を埋設するための工事である。

e0125014_11125663.jpg 2月の中頃より、お上がり場公園の東側半分にある樹木が掘り起され、西側半分に移植された。何の為か不審にに思っていたが、下水道工事のため東側を空き地にし、工事や資材を仮置きする為であった。

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 東側半分は樹木が取り除かれ空き地となっている。西側の公園部分との境に危険防止のため囲いが設けられている。お上がり場公園のシンボルである「西幸記念碑」ぎりぎりの地に仮囲いが設置されている。

e0125014_11414418.jpg №567で「やっと阿品に公共下水が」で紹介したが、沖島橋附近の縦抗より埋設された下水管が「広電阿品東駅」附近まで到達し、更に西側に伸ばすため中間点の縦抗を設けるための工事である。

 今回の工事は「広電阿品東駅」附近から西に588.5㍍延長され、径800㎜のヒューム管が延長されるが、工事期間は9月下旬となっており、今回の工事が終了すれば更に西に延長する必要があり、我家周辺に公共下水道が整備されるのはまだまだ先になるようである。
# by hirosan_kimura | 2014-03-13 12:06 | その他 | Comments(0)
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 №54で紹介したが、鰆浜の語源はこの海岸で「鰆」がたくさん漁獲されたことに由来する。上図は鰆を捕獲する「さわら流し網」という漁法である。
# by hirosan_kimura | 2014-03-09 03:50 | 水産 | Comments(0)
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 地御前では昭和20年代まで鰯漁が盛んであった。№408でも紹介したがその漁法は何種類かあった。上図は、鰯巾着網といわれる漁法である。

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上図は、鰯建曳網。
# by hirosan_kimura | 2014-03-08 11:17 | 水産 | Comments(0)

№625 黄色の溜池

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 鰆浜(現在の阿品一丁目)にはJR線路から奥に延びる谷と下水処理場から奥に延びる二つの谷があった。真っ直ぐ奥に延びる谷は「権四郎谷」、下水処理場から右手に延びる谷は「大谷」と呼ばれていた。

 二つの谷は現在の阿品台団地の下をかなり奥まで延びる谷であった。大きな川はなかったが両方の谷の奥から小川が流れきれいな水が絶えず流れ出していた。

 この谷も阿品台団地の造成で埋め立てられ、小さな川も消滅してしまった。鰆浜の谷もJR線路から奥に家屋が立並び田畑も殆ど無くなっているが、昭和30年代頃まではJRの奥には民家が一軒あるのみで、平地は全て田畑が耕作されていた。現在では田畑も少なくなっているが農業用水が必要なため小さな溜池が作られている。

 阿品(現在の阿品二丁目)ではかなりの規模の調整池が作られ、大水が出たときの水量調整や田畑の潅水用の役割を果たしているが、鰆浜では田畑も少なく小さな溜池である。

 この小さな溜池でも水が切れることは無くいつも水を湛えているが、赤茶色の不思議な色をしている。阿品の川は昔から鉄分が多く川底などに赤い藻のように色が付着していることはあったが、流れる水は清水のようで赤い色が付いていることはなかったが、この溜池は常に赤茶色の水を湛えているのが不思議である。阿品台を造成した際地下を流れる水脈が変わったのかも知れないが、このような水を農作物の耕作に利用しても害はないのか心配である。

 鰆浜の谷で稲作をする農家も僅かで、近いうちに田畑が消滅し農業用水が不用になればこの小さな溜池も埋められてしまうのだろうか。
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# by hirosan_kimura | 2014-03-06 13:06 | 鰆浜 | Comments(0)

№624 新開の樋門

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 JR駅前あたりは現在では駅前広場、駐車場等が整備されているが、昭和40年代までは国道より一段と低地で一面田畑が広がっていた。この地は明治12年(今から135年前)に海岸を埋立てて造成され阿品新開と呼ばれていた。低地のため台風や大雨の際は度々田畑が冠水していた。

e0125014_133537.jpg この写真は三丁目の海岸が埋立てられ調整池を埋立てる直前であるが、左側の国道と比較するとかなり低地であったことが分かる。




e0125014_1343545.jpg 上流より流れ出た川の水は、干潮時にそのまま海に流し、満潮時には池洲に貯留されていた。上の図の赤線辺りに国道と広電軌道下に排水管が敷設され海と繋がっていた。池洲の水が流れ出る場所に満潮時に海水が逆流しないよう樋門が設けられていた。

e0125014_1383763.jpg この樋門は水の流れにより自然に開閉する「無動力自動開閉ゲート」と呼ばれるもので、干潮時には海側に開いた樋門より自然に川の水を海に流すようになっていた。満潮時には海側から押される海水の圧力で自然に樋門が閉じて海水が内側に流れ込まないようになっていた。

 樋門にゴミや流木などが引っ掛かると満潮時でも完全に閉まらず、海水が内側に逆流することもあった。このため、毎日二回ある潮の満干の際には樋門にが完全に閉まっているか点検する必要があった。何かが樋門に詰まっている際にはそれを取り除いたりする必要があり、日々の管理を怠ることは出来なかった。

 満潮時には樋門が閉まり川の水は池洲に溜まるが、大雨の際には池洲の貯留能力を上回るほど溜まった水が、田畑や附近の民家まで冠水することも珍しくなかった。

e0125014_1373480.jpg 三丁目の海岸が埋立てられ阿品新開が整備された際、池洲は埋め立てられ二丁目の公園の地下に貯留池が設けられた。また、三丁目の海岸沿いに排水ポンプが設けられ、大雨が降ってもポンプで排水出来るので阿品二丁目が冠水することも無くなった。

 かつての駅前あたりは田畑がひろがり田畑と田畑の間には池状になっていた。子どもの頃はここで鮒を釣ったり亀やドジョウなどを獲って遊んでいた。水際に繁る蒲の穂でチャンバラ遊びなどをしたことが懐かしく思い出される。
# by hirosan_kimura | 2014-03-05 14:01 | その他 | Comments(0)

№623 山道の通学路

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 阿品一丁目の東端に「光が丘」という小さな住宅団地がある。この地はかつて地御前の田屋部落に所属していたが、昭和57年2月の町名設定により阿品一丁目となっている。しかし一丁目の鰆浜部落とは山や道路で隔絶されており阿品一丁目に編入されたのが不思議なくらいである。

 この団地は阿品台東小学校区であるが、正規の通学路は団地から国道沿いに鰆浜に到達し、奥に入り阿品台団地に登り東小学校に行くルートとなっていた。(上図の青い線)

 しかしこの団地のすぐ傍を通るJRの線路の向かい側が阿品台団地となっているが、間にJRトンネルの上に木の生い茂った山がある。

 光が丘の子供たちは正規の通学路を行けば遠いので、この山を越えて小学校に通学する者が大半である。(上図の赤い線)

 山道は僅かの距離があるが、人の滅多に通らない険しい細い山道と水道の管理道があるのみで(上図の緑の線)通学路としては危険で望ましくなくこの道を通って通学するのは禁止されていたが、正規の通学路と比較すると遥かに近いので子供たちは山越えをして通学していた。

 余りにも危険な通学路であるため、地元より光が丘と阿品台団地の間に新しい道路を造るよう陳情書が出されたこともあるが、トンネルの上部はJRの用地でもあり道を作るのは困難との結論になったらしい。

 小学校も危険な山道を通学路と認定するわけにも行かず、今では黙認と言う形で相変わらず山道を越えて通学しているようである。

e0125014_11174876.jpg この写真は団地を登りきって山道に入るあたりであるが、フェンスがあるのは水道の管理道。手前の道を進むと木の繁った細い山道を越えて、阿品台団地に至る。
# by hirosan_kimura | 2014-03-04 11:22 | 道路 | Comments(6)
 現在、地御前での地御前での漁業といえば牡蠣養殖が大半でその他の水産物は殆ど皆無に近いようであるが、戦前までは様々な魚の水揚げがありその漁獲方法も様々であった。阿品沖でも漁獲する魚の習性により工夫された漁法により水揚げされていた。
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いかなご船曳網
 漁具は大体他の地曳網と同様であるが、揚網場所が狭小な船の中であり、また機動力を要するため地曳網より規模が小さいのが普通である。

 船曳網は一隻の網船で操業する。1艘船曳と2艘船曳に分類され無動力船で行なう小型のものから、動力船で行なう大型曳船や、網舟は無動力船であるがその変わりに動力付の引船を使用するもの等、種々雑多である。

 一艘船曳を基本型として、その操業方法は漁具の一端に樽を付し投入すると同時に、魚群を包囲するように漁具を順次投入しながら漕ぎ進み、再び元の○の○に帰り○○○に錨を投入して船を固定した後、引網にかかり網を船中に引揚げる。(○~判読不能)

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いかなご袋待網
説明なし
# by hirosan_kimura | 2014-03-02 15:33 | 水産 | Comments(0)
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平成8年3月8日 廿日市市議会一般質問

質問
 ナタリーの閉鎖に伴い、JR阿品駅周辺の整備と阿品の開発について伺います。西広島タイムス平成8年1月26日付けでは、「市長自らフジタ工業と話合い中」と報道されています。ナタリーの跡地計画はどうなっているのか。第3次総合計画のアーバンリゾート計画の変更はあるのかどうか。変更がないのならば、どのように考えておるのか。また、アーバンリゾート計画そのものの見直しを含めて、市としての考え方をお聞きしたいと思います。

 廿日市市の観光の目玉、また大型娯楽施設の閉鎖により、子供たちの夢と遊び場が一つなくなることになります。プールの年間利用者は約20万人、またアイススケートは年間7万人の利用者があります。市民の多くはこれらの施設の存続を望んでおりますので、市としてこれらの施設を存続させる考えはないかどうか、お聞きしたいと思います。また、フジタに協力を依頼することはできないかどうか。

 そして、JR阿品駅周辺の開発はどのように考えるか。アーバンリゾート計画との整合はできるかどうか、回答をお願いしたいと思います。

答弁
 ご承知のように、もう30年近くもナタリーがこの地域の遊園地として皆さんがたに愛され、そうして長年利用していただいたわけでございますが、閉鎖は誠に残念と言わざるを得ません。宮島を中心に岩国、そうしてこのナタリーが一連の観光コースとして多くの皆さんに利用されたわけでございますが、現在の状況で、ご承知のように事業主の意向としては、遊園地及び屋外プールを閉鎖して、屋内プール、サッカーグランド、テニスコートを存続させると聞いておるところでございます。

 ヒロシマナタリーの跡地利用としては、現段階において事業主の計画は、マンション及び商業施設を中心に検討しているということでございます。事業主とまちづくりについて協議を進めており、ナタリーの跡地の一部を利用し、国の管理運営する保養施設等を中心とした跡地利用、まちづくりの計画を検討をいたしておるところでございますが、社会保険庁は昨年、経済成長が鈍化している理由に、新規の保養施設の設置は原則凍結する方針を打ち出しております。

 高度成長とバブルによって繰り返してきた年金資産の流用は、少なくなってきておるところでございます。全国で厚生年金、国民年金の施設は172か所あり、そのうち広島県には、市民病院を含めると6か所の施設がもう既にあるわけでございまして、私ども今厚生省といろいろ折衝を続けておりますが、まだ発表の段階ではございませんが、引き続き努力をしていきたいと、かように考えておるところでございます。

 阿品駅周辺整備事業においては、民間の開発事業に合せて、駅前広場、都市計画道路田尻線、公園等の公共施設を一体的に整備したところであります。開発宅地の土地利用については開発事業者が計画するものであるが、市としては駅前にふさわしい土地利用の要望を行なっており、阿品地区は臨海性の優れた立地条件を持ち、この地域特性を活かした本市の西の玄関口にふさわしいまちづくりの計画を進めたいと思っておるところでございます。
以下省略
# by hirosan_kimura | 2014-02-26 14:02 | その他 | Comments(0)

№620 地御前の伝説

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 昭和16年に発行された「神武天皇聖蹟誌」に地御前の伝説と言う項目がある。

 {芸備国郡誌「挨宮恐謂地御宮乎」芸藩通史巻二安芸国古跡考埃宮の條に「或は埃宮を佐伯郡地御前社とする説あれど何の據も見えず」とある以外に同村並に飯田社家にも何等伝所がない。

 厳島神社禰宜野坂元定氏の談に據(よ)れば、現在神社の西側にある極めて狭小の入江があるが、之は有府(ありふ)之水門(みなと)と称し、これ即、神武天皇埃御着岸地なりと、今此水門は鉄道と宮島電車軌道に挟まれて東面する長さ約廿間幅員約十間、深さ六尺程度の楕円形を為しているが昔はやゝ西方に擴(ひろが)り二倍大であったと言われるに過ぎない。

 半ば磨滅した説明標に「旧六月十七日厳島管絃祭の当日御座船渡御の時風波高ければ此水門に繋船す」と読得が、今は勿論、かかることは不可能で、今の繋船場所は社殿の東前海岸で、玉の池と言う所で行なわれる。}

 日本書紀に記されている神武天皇東征の際の行宮の地は、今では安芸郡府中町と言われているが地御前神社との説もあるが何等根拠がない。

 神社西側の有府の水門は鉄道と電車線路に挟まれているが、かつてはこの二倍程度の広だがあり管絃祭りの際風雨が激しいときはこの港に管絃船を繋いでいたと説明されている。

 上図では「有府の水門」の様子は分からないが、海上の鳥居の前には「玉の池」が描かれている。
# by hirosan_kimura | 2014-02-22 12:05 | 伝説民話 | Comments(0)
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 明治16年の地御前村の調査表が目に付いた。県か国に提出したものであろうが調査項目が今と随分異なっている。村の所在が「安藝国佐伯郡地御前村」と標記されている表もある。最初に神社の調べが有り、「村社・三社、雑社・九社」でお寺は「末寺・有住・二ケ寺」とある。

 現在では廃止されているが、華族・士族・平民等の調べが有り華族は無く「士族3世帯 男7人 女8人」とあり残りは平民となっている。

 村の全世帯は471戸で人口は2,381人。男1,225人、女1,156人、計2,381人で内訳は
        男     女
 7歳未満 217人  212人
 7歳以上 352人  336人
20歳以上 482人  414人
50歳以上 167人  188人
80歳以上   7人    6人
となっており現在と比較すると、随分年齢構成が異なっている。 

 その他の調べは、「戸長役場 一箇所、戸長 一人、筆生 一人、学務委員 一人」とある。

 学校は「公立小 一校、学校教員は準小学卒 副導補 男 一人」となっているが意味はよく分からない。

 出生数は前年一年間分であろうが76人で、男37人・女39人となっている。

 死亡者数は44人で、男19人・女25人となっている。このうち14歳以下の死亡者は8人で、男8人・女0人となっている。80歳以上の死亡者は6人で男3人・女3人となっているが、当時としては随分長寿であったのであろう。

 ちなみに昭和31年に地御前村が5ケ町村と合併した際の人口は4,357人であった。明治16年の人口と比較すると73年間で1.83倍の人口数となっている。

 旧地御前村の地域の昨年の人口は21,354人となっている。130年前の地御前村の人口と比較すると約9倍になっている。世帯数でみると当時の471世帯が8,938世帯となっており、実に19倍近くに増加している。

 ちなみに一世帯当り平均家族数は、明治16年は5.05人であったが現在では2.38人と半分以下になっている。
# by hirosan_kimura | 2014-02-20 14:45 | 行政 | Comments(0)

№618 古い地図

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 阿品近辺の古い地図がある。手書地図で概略図であるが、位置や方位はほぼ正確である。海岸沿いの赤い線は旧国道を示しているものと思われる。

 書かれた年代は分からないが旧国道は明治12年、旧国鉄は明治30年に開通している。広電宮島線が「新宮島駅」まで開通したのが大正15年である。この図には宮島線は描かれていない。

 従ってこの図が描かれたのは明治30年以降、大正14年前の間であろう。

 図に色が塗ってあるが、赤色の山は「田尻」・黄色「阿品」・緑「鰆浜」、薄い赤は阿品の隣の「田屋」を示している。

 阿品に二ヶ所ある国鉄のトンネルは省略して描かれている。「阿品」「鰆浜」部落内に描かれている赤い線は村道・里道等を示すものであろう。

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 この図も同年代のものであろうが、旧国道がはっきりと描かれている。
# by hirosan_kimura | 2014-02-18 14:30 | 地図 | Comments(0)
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 平成8年3月に遊園地「広島ナタリー」が閉鎖され、その跡地利用として様々な案が計画された。商業施設等の案が出されたが、当時廿日市には宿泊施設がほとんど無くホテル等の案もあった。

 以前阿品四丁目の市有地に宿泊施設を備えた保養施設を整備する案もあったが、市内には特別養護老人ホームは一箇所しか無く入所待機者が急増する中、福祉施設の整備を優先しこの地には高齢者用の複合施設が整備された。

 こうした中、ナタリー跡地に宿泊施設を備えた保養施設の誘致をするため様々な検討が行なわれたが、全国的に合理化のためこれらの施設が廃止されたり、民間に売却されている中で新しい施設の誘致の見込みは皆無であった。

 上図のナタリー跡地利用計画では、右側に宿泊施設・テニスコート等を備えた保養施設が計画されている。

 また商業施設も多く計画に有り、中央やや右側海岸沿いには「フジタドルフィングクラブナタリー」も残されている。

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 宿泊施設の誘致が困難な中で大型のマンションが計画されているが、商業施設も現在より広い敷地が確保され、プールの施設もそのまま残されている。

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 商業施設は大きく縮小され、プールも撤去され今では位置を変えて電車線路沿いの建物の中に、新しいスポーツ施設が整備されている。

 ナタリー遊園地の後地は当初計画と大幅に変更され、一角に大型スーパーが出来た他は全てマンションが沢山建てられている。
# by hirosan_kimura | 2014-02-15 14:18 | 三丁目 | Comments(0)
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 昭和59年7月30日、地御前漁業協同組合により地御前と阿品の海岸に「あさり」の稚貝約3・5㌧が放流された。

 この放流は毎年行なわれているが、予想されたほど「あさり」の生息量は増えていない。「あさり」の稚貝は一年で3cm以上に育ち初めて産卵出来るようになる。

 小さいうちに採ってしまうと「あさり」はいなくなるので、繁殖保護を考えて小さな「あさり」は採らないような潮干狩りを行なうようにしよう。

 潮干狩り開放区域は、地御前神社前から鰆浜海岸までとなっている。
# by hirosan_kimura | 2014-02-14 11:42 | 水産 | Comments(0)
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新駅の設置は、地方自治体が要望するケースや宅地開発業者などの民間や地元の期成同盟会などが求めるケースがあるが、JR側はいずれも自社の必要に迫られて造る駅ではないので、設置を要望する側が全額負担すべきだと主張してきた。

 これに対し自治省は「黒字の見込める新駅については、JRにもメリットをもたらす筈にも拘わらず設置費用を全く出さないのはおかしい」との見解を示し、自治体が出資するケースについては自治省側と協議するよう求めていた。

 JRの社長はこの問題について「自治省との協議の結果、採算に合わないところは別として、地方自治体とともに新駅設置を促進する場合は一割程度、最高二割の範囲内で負担することとした」と発表した。

 JRは方針変更の理由として①全額地元負担のため難航している新駅設置問題が多く、JRの一部負担により交渉の打開を図る。②新駅設置が進めばJR全体の採算性からも、より効果的な運営が出来る。③私鉄・バスなど競合交通とのサービス競争が厳しく、新駅設置が求められている等を挙げた。

 阿品二丁目に設置を要望している「新阿品駅」は、JR側が負担を渋っていたことがネックになっている典型的なケースであった。地元とJR側との調整が難航し新阿品駅設置問題は事実上暗礁に乗り上げていた中、JR西日本が応分の負担を決めたことに対し地元は一様に歓迎の声をあげている。

 廿日市市は、先の臨時議会で予算化した同駅周辺の整備計画を策定する。一方JR側の具体案が提示されればすぐにでも、県を通じて自治省との協議を再開する考えである。 
# by hirosan_kimura | 2014-02-12 11:15 | JR | Comments(0)
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 廿日市町内に新駅設置しようという機運が高まったのは、昨年十一月(昭和61年)に国鉄が分割民営化されJRとして出発するのを機に、「地域に密着した利用しやすい鉄道を目指す」という趣旨のもと、沿線の自治体に新駅設置希望を聞いてまわったのがことの始まりであった。

 都市の基盤整備を考えていた廿日市町はその一環として、串戸・阿品地区の二ケ所に新駅設置を申請した。ことし三月には役場内に「新駅設置推進本部」(本部長・半明英夫町長)を設け、JRに対して設置を本格的に働きかける一方、両地区の住民も期成同盟を設立して、新駅建設の募金活動を開始した。

 このうち「串戸駅」については建設費の地元負担を主張するJR側の条件を整え、約三億円の建設募金は周辺に進出した大手団地造成企業の大口寄付もあり、「串戸駅」設置期成同盟会」が全額確保し来年四月の開業に向けて駅舎建設工事が始まった。

 一方「串戸駅」と同時期に動き出したはずの「新阿品駅」設置計画は、今のところ自治省と広島県の間でストップしたままである。

 「新阿品駅」の設置に関して「串戸駅」と同様にJR側は建設費の地元全額負担を主張した。現段階で見積もられている「阿品駅」の建設費は約二億四千万円。串戸地区の場合と違って阿品地区は大口の寄付が期待できないことや、町は将来同地区を観光の拠点として整備したいなどの意向を持っていることから、町が総額の七一・一%に当る一億七千万円を負担し、残りの約七千万円を「新阿品駅設置期成同盟会」が募金によって確保することで計画は進められている。

 ここで鍵を握るのが自治省。地方公共団体が寄付をする場合、自治省の認可を必要とする。そこで町は県を通じて自治省に協力依頼をしているが、県によると「JRが応分を支出して新駅を設置し、それに地方が協力するのが筋」という見解を得た。

 これはJRのいう「地元全額負担」に対する実質的な反対意見。新阿品駅の設置申請は国鉄民営化後、地方公共団体の寄付が絡む初のケースだけに、県は自治省見解の解釈に苦しんでいるのが実情である。

 JRはJRで「まだ足腰が弱いので、地元全額負担という方針を変える予定は今のところない」ことから、新阿品駅設置問題は平行線のままで現在暗礁に乗り上げている格好である。この現状を打開する鍵は全て自治省裁定が握っている。

 新阿品駅設置期成同盟会の山本会長は、「地元住民は一日も早い設置を願っている。 当面、期成同盟会としては県と自治省の協議の年内完結に向けて各方面に働きかける一方、企業からの募金に重点を置いて活動を続けたい」と話し、廿日市町は「近日中にJRと自治省に足を運び協力依頼したい」としている。

 JR串戸駅は来年四月開業に向けて工事が着々進められているが、その一方「新阿品駅(仮称)」は設置の目途が立っていないのが現状である。
# by hirosan_kimura | 2014-02-10 13:48 | JR | Comments(0)