素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura
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北の町の巻
 丸子山と智秀山(観音山)は元一連であり、明治の中頃迄大前氏が渡海屋といって、宮島への出船場であったとは嘘のような変り方です。宣なるかな、、村は中町を中心としてその南町その北町この三つが繁華街という所であったものでしょう。

 今この部落は世帯数四四、人口男七八・女九九 計一七七を有し、店舗一八、農家八 其他から成り、町内には郵便局、消防機具庫、組合配給所、歯科医、西向寺、それに広島新四国八十八ケ所四番の霊場、行基菩薩の作と称せられる十一観世菩薩を祀る観音堂があります。大風などで屢々老木が倒れましたが、一度も被害が霊験新とも申しましょう。

e0125014_4345715.jpg 両日は三月一日、八月九日(四万八千日)の縁日で相当の参詣者もあって賑わっています。只境内が狭小なので信徒の中にも之には色々心配しているようです。

 大鐘再供養のため着々歩を進めているようです。

 町費は数個の街灯料或は善行児の奨励金等を差引残額三、一二三円を有しています。

 部落の大部が低湿なのと排水が不良なのとは部落民の最も苦慮している所です。

 浪の音 松のひゞきも 智秀山 風吹きわたす 宮島の里

(昭和29年8月1日 北之町総代吉本記)
# by hirosan_kimura | 2014-11-29 05:43 | 地名 | Comments(0)
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ひと目で見渡せる田屋の巻
 
 田屋町は戸数二十七戸 人口一三二で農業、漁業、土木工業等、種々な職業を営んでいる小部落です。

 中央には、昔より一本大松があり、西には地御前共同農園として、過去約二十年前、地御前村発展のため、約五町幾反歩の山林を村民の力によって開墾した果樹園があります。ただしこれは、戦時中の人手不足と、食糧増産のため、協議のうえとうとう果樹を倒し、各町々に分配して農場とし現在に至っております。

 また南は沖山別荘地帯です。そして後に国鉄山陽線、前に電鉄宮島線、その沖は観光道路で、毎日毎夜、通行する汽車、電車、自動車、人それに加えて海を走る船などとても賑やかです。

e0125014_4334144.jpg さて、眼前に迫った管絃祭には、地御前より続く海岸に見物の人や自動車の波でごった返すことは御承知のことです。

 つぎに部落の衛生上では、後側に鉄道用地を拝借し、十分なる下水道を部落民共同によって竣工させ、臼井を中央より両側に分け海に流れるようにしております。下水道は常に清潔に使用しなければならないと思います。

 終りに部落として御礼申し上げたいことがあります。それは終戦後今日まで、あらゆる建物改築所処の改修、防火用水溜池、農道復旧等を着々と進められることに対し、関係各位の御苦労をお察しする次第です。
 特に目下工事中の田屋町浦、平原谷水道改修は大変ご心配を頂き、喜んでおります。

 現在部落として一番お願いしたいことは防火用溜池に、有府港(地御前神社横)西側下水道、土管口の東を掘って万一の場合に備えたいことです。どうか一日も早くこれが実現しますよう、各位のご理解を得たいと存じます。

(昭和29年7月1日 田屋町総代住川記)
# by hirosan_kimura | 2014-11-28 05:42 | 地名 | Comments(0)
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鹿之子町の巻

鹿の子群れ飛ぶ
 書けと言われるまゝに筆を取ったがさて、何を書いてよいやら少々まごつくが、久し振りにわが部落の昔を想い出してみよう。

 まず厳島神社と言えば鹿が思い出されるが、明神様と鹿の子町は結びついたものゝようだ。その昔は未開の山また山を思わせるそれこそ鹿の子でも住んでいた平和な山間だったにちがいない。大昔のことは私どもの知る由もないが、われわれの古い先祖は一体どんな暮らしをしていたろうか。

 御承知のように小学校の裏に当たる当部落は、戸数三十五戸、世帯数三十九、人口百九十五の小部落で、南に御山をめぐらし、西北に神鹿山、神之子山を背負い、東は地御前村内につらなる。

 このように町名また山々の名をもってみても明神様の御山にして、多くの鹿が群がり遊んでいた平和な山野だったにちがいない。

 鹿之子山には十五の地歳が鎮座します御堂が有り、毎年八月二十四日がお祭りである。神鹿谷より流れる小川は当部落を通り地御前港に至る。

 道路は四方八方に通じ交通は至極便利である。最近神鹿道は村当局を始め、関係諸氏の協力により改修工事が着々と進み四月いっぱいには完成予定で、将来の発展には大きな役割を果たすことゝなろう。

 現在産業方面はあまりみるべきものはないが、当部落は大半が農家で田五町三反、畑六反部を耕し、すでに苗代期に入った今、ことしこそはと張切っている。

 終りに衛生方面では、年々婦人会の御協力によってうるさい仕事をやっていただいているが、一般の方々もこれに協力し完全にカやハエを退治したいものである。

(鹿之子町町総代川本記)
# by hirosan_kimura | 2014-11-27 05:43 | 地名 | Comments(0)

№667 地御前の地名

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要町の巻

村の標準部落
 当部落は地御前の入口と言ってもよい所ですが、土地が低いので大暴風になると沖の土手が崩れるかといつも心配します。あまりよい部落でもありませんが、いろいろな点からこの村の標準的な部落ですから次にそのあらましを知らせましょう。

 人口=二六三、世帯数=六三、小学校在学児童数=約三十、世帯別職業数=勤め二十、農業二一、商業八、漁業四、工業一、無職九、以上六三世帯。

 この部落には先ほど、村当局や消防団の御尽力によって火災用の溜池が作られました。その際には当部落はもとより浜町金剛寺の一部の皆さんに、二日ないし三日間の御奉仕を頂き一同喜んでいる次第であります。

 終りに今市川の清潔についてですが、これは浜町、砂畠の皆さんと共に今少し注意して、いつもきれいに水の流れるようにしたいと思います。

(昭和29年4月1日 町総代佃記)


追記
「オヒラオツボ」は方言かと思い辞書も調べなかったが、ある方より調べれば分かると教えてもらった。

おつぼ(御壺)
膳部にのせる、壺に入れた食べ物。

おひら(御平)
平椀(ひらわん)に盛った料理。
# by hirosan_kimura | 2014-11-26 04:47 | 地名 | Comments(3)
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港町の巻

龍宮さんと魚市場
 当部落は、人も知る地御前港を控えた戸数四一・人口二二六の港町?です。部落の周りは風光明媚な瀬戸の海と青年連盟のドル箱たる池洲とに囲まれ、ノド元を細長い国道によって断ち切られ、肩を寄せ合ったような部落ですが、何といっても、魚市場の有ることによって毎朝賑やかな風景が見られることで知られています。

 聞くところによると一年の魚介類取扱量は、二万八千八百二十四貫目ということです。本村唯一の魚介類集荷場たるこの市場は「地御前漁業協同組合」によって管理運営され、郷土産業発展の為に大きな力となっております。

e0125014_109364.jpg この重要な市場の運命を左右する「港」の堀上げ工事も先ほど完了し、皆から喜ばれております。

 次に港をずっと海橋の方へ出る所に「龍宮社」というお社があります。これは祭神を「綿津見神」といって、海の神をまつり扇新開守護神として鎮座しておられます。毎年、春と夏にお祭を開きますが、春祭は旧二月九日、夏祭は旧七月九日です。どうぞ沢山お参り下さい。

 終りにお知らせしたいことは部落環境衛生のことです。すでに鰆浜その他でも相当の活動をしておられるようですが、当部落にも衛生組合を作り環境改善に万全を期しております。これまでに一斉ねずみ取りなど三回にわたって実施し、ことしこそは楽な夏を過ごそうと一同張切っています。

 終りに、今部落で一番不自由なのは良好な水に恵まれていないことです。水道になって、おいしい水が飲めるようになればよいと思います。

(昭和29年3月1日 港町総代勝谷記)


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 慢性的に渋滞の続く阿品の国道、宮島の紅葉が見ごろの三連休は特にひどく、朝から一日中車が連なっていた。昨日は夜になっても渋滞が続いていた。
 
# by hirosan_kimura | 2014-11-25 04:03 | 地名 | Comments(0)
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中之町の巻
 当部落は前は山陽本線の鉄道線路と後ろは瀬戸川にはさまれて、町の中央の通りは旧国道と云われる通りで、この道路を中に両側に細長く(約百米)並んだ小部落であります。

 戸数二十九で(内商家四、勤務人、農業、漁業)等であります。この旧国道は今を去る幾百年前徳川三百年鎖国時代の時国の大名が、「下に下に」と通った(今は少しずれております)と思われる道路であります。

 当時を偲ぶ松の大木が昔の遺跡と名残を秘めて、地御前村内にもこの旧国道の所々に一筋の関連性をしめして存在して居りますが、当部落のの近所にもあり昔の面影を添えておりました。

 今はあまり云われて居りませんが、昭和初年頃まで地御前を大別して「町」「浜」に別れて色々の催し物をしたものであります。

 当部落はその町の中心地帯で、となりの部落には南に南町、北に北町のあるのも何か当部落の銘々のいわれのある様な気が致します。

(昭和29年2月1日 中之町総代中山記)


追記
 №661で「オヒラオツボ」と表記したが意味不明であった。これを見た方のコメントでも意味を知りたいとあった。色々聞いてみると「オヒラ」は浅い器で皿のような物。「オツボ」は底の深い鉢などでは無いかと教えてもらった。「オヒラオツボ」は皿やお椀・鉢などに盛った料理のことかも分からないが真相は不明である。
# by hirosan_kimura | 2014-11-24 09:23 | 地名 | Comments(3)

№664 JR阿品駅前

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 平成元年8月に開業したJR阿品駅前に、ガソリンスタンドとパチンコ店が営業を開始した。しかし数年前にガソリンスタンドが閉鎖され、パチンコ店のみが残り空き地のみが目立っていた。

 昨日、空き地の一角にディスカウントショップが開業した。都市中であれば店が一店開業しようが閉店しようが話題にもならないだろうが、田舎の阿品では新店の開業は久し振りで、新築工事中からどんな店が出来るのか話題になっていた。

e0125014_1152316.jpg この店の開店により近隣の者は便利となり、寂しい駅前広場が少しは人通りも出るかも分からない。しかし余り遠くない場所にある既存のドラッグストアーや、すぐ近くの大型スーパー内にある薬店は大きな打撃をうけるかも分からない。

 新しい店がオープンし賑わいが増すことは結構なことであるが、集客人口の限られた狭い阿品の中に競合店が進出し共倒れにならないのか心配である。

 それでなくても来年春には市役所近くに超大型スーパーが開業し、阿品のスーパーも大きな打撃を受けることが予測されている。
# by hirosan_kimura | 2014-11-23 08:50 | 阿品 | Comments(0)
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堀之町の巻
 わが部落は、戸数六十余戸、人口約三百です。西北の山のふもとに毘沙門さんが鎮座しまして、「働け 働け むかでの足ほど」といつも励ましておられますし、部落全体を睨んでおいでになるせいか、部落には一人の怠け者も居りません。

e0125014_9291993.jpg 衛生方面も、村当局の御指導の下に婦人会のお方が御尽力され、大変きれいになりハエや蚊の非常に少なくなったことを喜んでおります。今後はみんなで協力して、ハエや蚊の一匹もおたないように致しましょう。

 


 

毘沙門さんのお祭りは旧の三月十五日ですからみんなお詣り下さい。

(昭和29年1月1日 町総代北野記)
# by hirosan_kimura | 2014-11-22 09:02 | 地名 | Comments(0)
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旭町の巻 工場地帯
 当部落は御承知のように工場や病院で部落面積の多くを占めております。そのために現在世帯数は三十二に過ぎないのに人口は二四五名ですから、一世帯当たり約八名ということになりますがこれは従業員が沢山居るためでしょう。

 この部落は、元来「扇新開」と呼ばれ昭和十六年までは水田あったのを埋立て、兵器工場を建てた時、これを「旭兵器」と名々しそれ以来終戦後は「旭町」と称するようになったものです。

 今部落として一番要望されていることは、水道を設置することですが地御前の発展からもぜひ望ましいことです。
(昭和28年12月1日 町総代勝谷記)

旭町の「日本綿麻工業株式会社
当社は昭和二十四年六月、それまで「旭兵器工場」と言ったのを買収改名し、資本金壱千万円で創立、主としてロープ漁網を製造、従業員二百五十名の株式会社です。
 最近、梶川紡績織布工場を吸収して前記製造の他に綿糸綿布も加えた多角経営によって社会に貢献しております。

e0125014_134984.jpg (中央は国道。右の建物が日本綿麻)
 将来は紡績機械設備の増設等も考慮中で、そのために従業員も遠からず三百五十名位にはなるでしょう。

 原料機械等は大日本紡績株式会社から入り、製品の積出は廿日市駅から出しています。従業員の大半、約八割は女子でそのうち百名は寄宿舎に入っています。また本村居住の方は約三十名です。郷土産業発展のため益々努力するつもりです。
(日本綿麻工業株式会社 庶務課記)
# by hirosan_kimura | 2014-11-21 09:18 | 地名 | Comments(0)
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砂畠の巻
ー生活改善と稲荷さんー
 当部落は後は山で前に川が細長く流れている小部落です。戸数は四十八戸(農家四十一、商家一其他)で、耕作地は水田約十三町歩・畑約一町二反であります。

 中央部に稲荷神社が鎮座ましまして、毎年二月の初午の日にはお祭をしておりますから多数御参拝下さい。この神社は皆様の絶大な御寄附によって昭和二十四年十月、総工費九万六千円で再建したものであります。

 次に御参考までに砂畠の生活改善についてお伝えしましょう。これは砂畠だけでも実行するように部落総会で申し合わせたもので、まず冠婚葬祭の冗費を節約する第一歩として葬儀の面を取上げ次のように決定しております。

料理=三品以内とし、オヒラオツボ等一切無し
酒  =三升以内(勝手、家族親類二升)但し近所の人に火葬手伝いされ
     た時は、一升の追加を認む
お寺=本坊・五百円以内、役僧・弐百円以内(二ケ寺のときは一方をそれぞれ三百円と百円以内とする。包は一切帳場で作る
お鉢=通常二升六合以内。なお、お通夜の菓子を廃してお茶だけとする。

 衛生については毎年夏になればハエと蚊でやせる思いでありましたが、本年は村当局の御苦心と婦人会の皆様の絶大なる御協力によって私の部落でも実に少なく、楽に夏を過ごすことが出来ましたが部落としては、月二回づつ便所掃除を行い必ず蓋をすること、このため薬品を増加してもらうようにするということを確認しております。後一・二年も続ければハエや蚊は一匹も居らぬようになる事を信じております。

(昭和28年10月1日 砂畠総代記)
# by hirosan_kimura | 2014-11-20 08:19 | 地名 | Comments(2)
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 昭和二十五年九月のルース台風による阿品部落第一の被害は、岩鏡神社が裏山の崖くずれの為一瞬にして形も分からない位バラバラにコワレタことです。

 その後再建の話がもち上りましたが、なかなか具体化されなかった。ようやく昨年の夏祭の際、話がまとまり再建に決定して、まず一戸当り経費千二百円見当で工事に着手したが予算が足りず二千三百円見当に修正されました。

 幸いに村当局より多大の援助を始めとし他部落・他村より寄付を賜り、総工費十七万円、氏子奉仕日延五百人夫を費やし、遂に本年四月完成したのであります。

 この大事業を完遂できたのは、何と云っても「一致協力」の賜物でありましょう。
  (昭和28年9月15日 世話人本田記) 
# by hirosan_kimura | 2014-11-19 08:57 | 神社 | Comments(0)
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 阿品限定のブログも回を重ねるごとにネタも無くなり最近は休みがちである。今回は阿品を離れて地御前を紹介しようと思う。

 №414で紹介したが村時代の地御前には17の字があった。村時代の住所の表記は「広島県佐伯郡地御前村字阿品○○○番地」であったが、旧5ケ町村が合併してからは「広島県佐伯郡廿日市町地御前○○○番地」に変わり、現在では住居表示もされ「広島県廿日市市阿品○○丁目○○番○○号」となっている。

 上図は村時代の字であるが、阿品地域は「青 鰆浜」「黄 阿品」「緑 田尻」である。今回は昭和28年8月15日発行の「広報ぢごぜん」に紹介されている「金剛寺」の記事を掲載してみた。上図のピンク色の地区である。

 「金剛寺」は広島総合病院裏のJR軌道の奥部分であるが、御手洗川を挟んで宮内村と接していた。狭い地御前村であるが幼い頃には「阿品」から見るととても遠く感じていた。普段この地区に行くことはめったになかったが、村の共同墓地がありお盆などに墓参りに行っていたくらいである。

「宮内村との村境 金剛寺の巻」
 当部落は、戸数八十七、人口三百六十六名の大部落であります。部落の年間行事として、水田五畝を共同作としております。昨年の収穫五千円は町会費に振向けましたが、この外のものと纏めて表にしますと
水田利益金  5,000円
道路出不足  3,680円
会    費  14,940円
(一戸当一五円年計)
合    計  23,620円
となります。そのうち支出の方は
水田肥料代   七七四円
盗難防止用其他電灯料 一三、七五五円
消耗品      四、一二三円
合    計  一八、六五二円
差引残高    四、九六八円であります。
 差引残高四千九百五十八円は預金にしてあります。(五月二十八日現在。)

 地御前村を明るく住みよい良村に建設するには、各部落がお互いに協力し合わなければなりません。皆様の一層の御協力をお願い致します。  町総代坂井記
# by hirosan_kimura | 2014-11-18 15:16 | 地名 | Comments(0)

№658 崩壊した堤防

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 昭和45年8月15日に台風9号が来襲し、沖山手前付近の海岸堤防が決壊した。堤防の決壊により広島電鉄宮島線の電車軌道が一部損壊し電車の運行が一時中止された。

 堤防が決壊したのは広電と国道が交差する沖山橋の西側付近で、以前宮島に渡航する連絡船乗り場や、昭和6年3月に廃止された「広電新宮島駅」があった付近である。

 この付近では昭和30年9月30日の台風22号、同年10月3日に来襲した台風23号でも延長50m程度堤防が決壊している。
 
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 決壊した堤防は国道の改修や広島電鉄軌道を宮島口まで延長するため海面を埋め立てた際、新しく設けられたものである。

 
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この堤防は西広島バイパスが新設された際、海面を埋め立てて道路用地や広電軌道を沖合に移設するため取り壊されて無くなり、さらに沖合に新しい堤防が設けられている。

 この工事では宮島線を延長920m、最大幅35mを沖合に移設するため鰆浜海岸が約7,200㎡埋め立てられた。この工事により昭和の初めに新設された鰆浜の堤防はすべて消滅してしまった。

 なお、お上がり場付近から競艇場付近までは当時新設された堤防が広電軌道沿いに残されている。
# by hirosan_kimura | 2014-10-31 14:59 | 災害 | Comments(0)
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 阿品の地御前寄りの沖島は現在では開発されかつての面影はないが、海辺に突き出た小山にも関わらず鬱蒼と木々が繁り美しい景観であった。

 山中には栗の木があったり季節には「あけび」なども熟し、小学校の帰りには山に登って遊んだりもしていた。麓の海岸には「あさり」や小魚などもたくさん居り、これらを夢中で獲った記憶も残っている。

 この山の海側の岩肌は、海水に浸食され小さな洞窟が出来たり複雑な地形となっていた。その小さな洞窟の一つに「岩国通し」と呼ばれる洞穴があった。
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 沖島周辺は国道や広島電鉄軌道敷設のため海が埋め立てられ陸続きとなっている。
 地御前神社から阿品方面に向かう絵図を見てみると、国道と電鉄軌道が交差する辺りにすでに細い道が通っておりかなり昔から沖山は陸続きになっていたようである。

 しかしこの地が「沖島」となっているので遠い昔には狭い海を挟んで独立した島であったのだろう。海砂が海流で移動し埋め立てられ自然に島が陸続きになったのかも分からない。また狭い海峡を人の手で埋め立てて陸続きにし、人の歩く道を作ったのかも分からない。
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 「岩国通し」と呼ばれた岩穴は沖島の先端に近い場所にあったらしい。この岩穴は入り口部分は高さは2~3㍍あったが、幅は人がやっと通れる程度しかなかった。奥行きも数㍍程度しかなかった。狭くなった奥に小さな穴があったが人も入れずその穴の奥行きがどの程度あるのか確かめようもなかった。

 昔からの言い伝えでは、この穴は岩国まで続いているので地元では「岩国通し」と呼んでいた。なぜこの岩穴が岩国まで通じていると言われ始めたのかは分からない。

 昔の人は確かめようも無いこと、不思議なことがあれば様々なことを想像し作り話を言い伝えてきたが、この「岩国通し」も誰かが根拠のない想像で作り上げたものがあたかも真のように伝わってきたのであろう。作り話にしても何故「岩国」の地名が出たのかが調べようもない。

 古い阿品では大人でもこの話を信じている人も有ったようであるが、まして子どもたちはこの穴が岩国まで通じていると思っていたらしい。

 小さい頃からこの話を良く聞いていたが半分は疑問・半分はひょっとしたら本当のことだろうと思っていた。今の子どもたちに話せば一笑に付されるであろう。

 昔から言い伝えられてきた不思議な「岩国通し」であるが、この話を知っている人は阿品でもほとんど居なくなってしまった。
# by hirosan_kimura | 2014-10-24 14:58 | 伝説民話 | Comments(0)
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 現在の学校では入学式や卒業式など全校生徒が集合する際は体育館を利用している。昔の学校には体育館など無く大半の学校には講堂があった。今の子どもたちには講堂と言っても分からないのではなかろうか。

 昭和26年4月に小学校に入学した時は、地御前小学校では大正12年に建築された木造の校舎のままであった。正門の正面に二階建ての管理棟があり、その裏に二階建ての教室と平屋の教室がコの字形に建っていた。

 管理棟の一階は職員室・校長室・保健室がありその二階が講堂となっていた。しかしこの建物はあまりにも古く、二階の講堂にたくさん人が入ると建物が揺れるとか潰れるのではないかと言われていた。講堂に全校生徒が集合したような記憶は残っていない。

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 こうした中、昭和26年10月に管理棟の脇に新しい講堂の新築工事が開始された。
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 この建物は翌年春に完成し、5月3日には落成式が盛大に行われ餅まきなども行われた。今では餅まきも余り目にすることも少ないが、当時は一般の家でも家を新築すると餅まきを行うのが当たり前で、餅まきがあることを聞きつけると大勢の人が集まり、撒かれる餅を夢中になって拾い集めたものである。

 新しい新しく出来た建物は赤い瓦にピンクのような壁で当時ではとても洒落た建物におもえた。この建物は講堂として学校の行事のみに使われるのでなく、村人の集まる行事にはいつもこの建物が使われていた。講堂に併設して当時は活発であった青年団専用の部屋もあり、学校の講堂と公民館を合わせたような施設であった。

 今では余り聞かないが年に一回小学校の学芸会では、大勢の村人がご馳走を持参で一日中楽しんだものである。また年に何回かは映画の上映会が行われ、娯楽の少なかった当時、家族や兄弟総出で見に行くのも大きな楽しみであった。何回か見に行った映画ではあるが不思議とどんな映画であったか記憶に残っていない。

 その後木造の校舎は昭和30年ころ解体され新しい校舎に生まれ変わっている。木造の管理棟も今は無く、新しい講堂もしばらく利用されていたがいつの時代か分からないが解体された。今では道を挟んで立派な体育館が整備されている。
# by hirosan_kimura | 2014-10-22 14:15 | 幼小中 | Comments(4)

№655 収穫の秋

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 阿品では稲刈りの真っ最中である。連休が始まるが台風が来そうなので、その前に刈り終えようと平日にも関わらずあちこちで稲刈りが行われ、稲の残された田んぼは僅かとなっている。

 かつて阿品の平地部分の大半では稲作が行われていた。今では住宅団地となっている阿品台も、幾筋の谷が枝分かれして山奥まで伸びて、細い谷あいの奥まで開墾されその大半が田んぼとして稲が作られていた。

 その山奥まで伸びていた田んぼも、団地造成のた山を削り谷を埋めて住宅地となり多くの田んぼが消滅してしまった。田尻地区も「ふじタウン」造成のため田んぼのあった谷が埋められ、住宅地となり田んぼは消滅してしまった。

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 それでも平地部分の耕作地はの大半は田んぼで、秋になると稲が黄金色に輝き、黄色い絨毯を敷き詰めたような美しい景色が広がっていた。

 残された田んぼもJR阿品駅が開業してから、虫食い状態に住宅地となっている。

 古い資料であるが嘉永15年(1638年)、今から376年前には田尻23畝、阿品汐入新開80畝、阿品607畝、鰆浜379畝の田んぼがあったとの記録が残されている。

 今では田尻と阿品汐入新開は埋め立てられすべての田んぼは消滅している。

e0125014_1226595.jpg 左図の緑部分は残された田んぼで稲が植えられている場所である。

 鰆浜(阿品一丁目)では数年前までは僅かな田んぼで稲作が行われていたが、今では稲作は全く行われていない。

 阿品のJR線路から沖側では、小さな田んぼで一ヵ所のみ稲が植えられている。田んぼの残されたのは阿品(阿品二丁目)でも、どんどん田んぼが埋め立てられ住宅地に変わっている。

 かつては秋になると黄色い絨毯を引きつめたような風景が広がっていたが、今では住宅と住宅の間にある田んぼがいつまで残されて行くのであろうか。
# by hirosan_kimura | 2014-10-10 12:02 | 農業 | Comments(2)
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 №654で紹介した「阿弥陀坊」のすぐ南寄りの谷は「神馬の窪」と呼ばれていた。その右側の海に突き出た山裾は「じんねいばな」とも呼ばれていた。神馬とは厳島神社の神馬でかつては厳島神社で大切に飼われたいた白馬である。

 厳島神社入口すぐ傍に「神馬舎」があるが、数十年前まではここで白い白馬が飼われていた。その神馬が言いなくなってからは造り物の馬が展示されていた。

 この馬が生存していた頃には、毎年旧暦5月5日に行なわれる地御前神社で行なわれる御陵衣祭に、厳島神社から地御前神社にこの神馬が連れて来られていた。

 この神馬は厳島から宮島口までは船に乗り、宮島口から地御前神社までは国道沿いを歩いてきていた。毎年この日には午前中は地御前に向かって、祭りが済むと宮島に向かって我家の前の国道を白装束姿の人に引かれてポッカポッカと歩く姿を目にしていた。この白馬を阿品では「じんねんさん」と呼んでいた。

 御陵衣祭は「うまとばし」と言っていたが、流鏑馬で走る馬は別にいて「神馬」はお祭りの儀式のために連れてこられていたようである。

 いつの時代か分からないが地御前神社に向かう途中に白馬の乗った船が嵐で沈み、白馬は溺れて死んだそうである。白馬の遺体は阿品の海岸の山裾に埋葬されこの地を「神馬の窪」と言われるようになった。

 夏の夜などに年寄りから子どもたちは恐ろしい話を聞かされていたが、「神馬の窪」の話も良く聞かされていた。夜の暗いときにこの附近を通りかかると、この馬の亡霊が「ヒヒーン ヒヒーン」と泣くのでこの近くを夜に通るのが恐ろしかったそうである。

 本当に馬の幽霊が出ていたのか単なる作り話かは分からないが、阿品の人に言い伝えられてきた話である。

 今ではこのあたりの谷は造成され住宅地となり、夜に馬のいななきを聞くことも無い。いつの頃か厳島神社の白馬も目にすることも出来なくなった。御陵衣祭りでは道の両側の露店を蹴散らかして馬が走り抜けるような勇壮な姿も見られたが、今ではこのような光景も目にすることも出来ない。
# by hirosan_kimura | 2014-10-01 12:34 | 伝説民話 | Comments(2)
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 先日、JR阿品駅下りすぐ傍の線路脇法面崖の樹木などが綺麗に伐採された。この法面は樹木が生い茂り蔓などが木に巻きつき地形が良く分からなかったが、整備されたので崖を掘削した当時の様子が良く分かるようになった。

 この場所は阿品の山が谷別れし何本か海岸まで延びていた峰の一つであったが、明治29年(今から118年前)に山陽鉄道(今のJR)の線路を敷設する際、海に向かって突き出ていた山際を削ったもので地肌は当時のままの面影を残している。

 当時は写真の崖地の上には山が続いていたが、昭和40年代に造成された住宅団地「ふじタウン」の工事により山が削られ住宅地となった。

e0125014_149102.jpg 山が削られ崖地となった場所は、左図の赤線部分である。

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 今から460年前、毛利軍と陶軍が戦った厳島合戦の際、阿品附近にはたくさんの戦死者が流れ着いた。漂流した戦死者を弔うため旅の僧がこの附近に小さなお寺を建てたので、この地を阿品の人々は「阿弥陀坊」と呼称していた。

 地御前の人々は海岸の小島や海に突き出た岬を「小坊主(こんぼうず)」と言っていたが、地御前の「金剛寺二つ山」「観音山」「沖山」と阿品の「火立岩」「神馬の鼻」「田尻山鼻」とともに「阿弥陀坊」を合わせて、地御前の「七小坊主」と称していた。

 またこの崖裾に阿品の「火葬場」もあった。火葬場と言っても特別の施設は無く野焼きに近いものであったらしい。この火葬場は明治17年9月に鰆浜へ移転している。この火葬場も昭和43年1月に町営火葬場「霊峯苑」の完成とともに廃止された。

 かつては火葬場もあった辺鄙な地であったこの場所も、JR・国道・広電の自動車や電車が行き交い、山の上には「ふじタウン」、海側には「鼓ケ浜」の住宅やマンションが立並び大きく変容している。
# by hirosan_kimura | 2014-09-23 15:06 | 地形 | Comments(4)

№652 村の孝子

e0125014_913511.jpg 昭和9年の「地御前村基本調査」に人物の欄があり、孝子について紹介されている。
 「孝子(こうし)」とは「親孝行な子供」とある。









惣七妻さつ
 惣七は地御前村の惣十郎が子なり。幼いと時広島に出で人に仕ふ。己が身の価も年に増して受けるるが残らず親下に送りぬ。
 加え珍しき物を得れば使を求めて遣わしける。されど心安からずやありけん。遂には仕を止めて取り養う。
 家貧しく田畑も無け父が業を継ては、毎に魚を釣り歩き力を極めて親の衣食を営む。
 妻を迎えて名を「さつ」といふ。これも心優しき者にて舅姑によく仕へり。惣十郎行商の帰り遅き時は、惣七自らは如何に疲れたりとも之を途中に出迎え籃(かご)を受取り伴いたれば、さつは盥に(たらい)に湯を立てゝ置き草履を脱がせ父の足を荒い、食事を勧むなど夫婦限りなし。
 母いつの頃か狂気して無理を言い出ることあれども、夫婦同じ心にて良く言いきかしなだめいたわるなど、愛嬌深き者なればよくごとしを得む。
寛政五年七月十六日 夫媲(つれあい)に米五俵賞し賜る。

仁左衛門女もと
 「もと」は早く母に別れ父に仕へて孝なり。家極めて貧し。兄十蔵は運船を業とし。
 もとは十四・五才頃より同村の源右衛門に仕へ、凡十年主人より給へる故衣の類は皆父に送り、兄弟力を併せて孝養せり。
 父病みて手足言語不自由になりしかば、兄は運業を止めて近き辺に人仕事を求めて看病に力を尽くしけるが、其の身も亦病みて父に先立ち逝くきぬ。
 もとは主家に暇を乞い家に帰り父を介抱しけるが、債務に迫り家宅調度皆人手に渡れり。されど旧主源右衛門の助力によりて買取りて、これを貰いたり。
 父は病み、物のたくわえもなくなりたれば一入(ひとしお)生計に励み日毎に人に雇われ、婚姻などは固く拒みて父の療養のみ力をつくせり。
文化中四年六月 米五俵を賜りて賞せらる。 
# by hirosan_kimura | 2014-08-26 10:27 | その他 | Comments(0)
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e0125014_10512637.jpg パチンコ店しかなかったJR阿品駅前に先月頃より建物を建設する工事が始まっている。ドラッグストアーが新規開店するようで、11月に完成予定である。
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 現在のJR駅前附近は元々海面であったが、旧国道を新設するため現在のJR線路沖が埋め立てられたもので、明治12年7月5日に汐止めが行なわれ総面積38反に2畝余の「阿品新開」が築調されたものである。

 この新開は国道堤防敷きより一段低くなっており田畑の中には水路が張巡りされていた。子どもの頃にはこの水路で鮒や亀などを獲ってよく遊んでいたものである。中央の三角部分が「阿品新開」で現在のJR駅前である。
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 昭和30年代の終りごろから昭和40年代ごろには現在の駅舎前辺りの田畑が埋め立てられ、「樋口工業」の鉄工所の建物が建てられ営業していたがいつの間にか廃業された。
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 この写真は鮮明でないのではっきりとは見えないが、左上の海面の埋立が行なわれている。この部分は現在の阿品三丁目鼓ケ浜で昭和41年10月に埋立工事が着手された。阿品新開の田畑は殆ど埋められ、国道と新開の間には調整池を見ることが出来る。
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 中央は昭和46年3月に完成した「阿品陸橋」である。この写真では見えないが現在のマンション前向かい側国道沿いにはドライブイン「サウナ新宮島」も営業していた。またテニスコートも何面かあった。
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 「JR阿品駅」が開業した当時は駅前も整備されていず駅前には土砂が山盛りされたり、周辺道路も整備されていず陸橋を下るとすぐ右折し国道に出入りしていた。広場と国道の間には調整値の名残が残されたままである。
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 駅前広場も整地され、陸橋を降りてすぐに右折し国道に向かっていた道路も東に側に延長され迂回するようになっている。国道を挟んで向かい側にあった遊園地「広島ナタリー」は平成8年3月に閉園している。
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 駅前広場国道沿いにあったガソリンスタンドは一昨年に廃業し撤去された。
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 ガソリンスタンド跡地は現在駐車場として利用されている。
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 広場の右手にはパチンコ店が開業し、国道向かい側のナタリー跡にはマンションが立並び駅周辺の風景も大きく変容している。
# by hirosan_kimura | 2014-08-18 12:15 | 阿品 | Comments(2)
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# by hirosan_kimura | 2014-08-16 08:39 | 娯楽 | Comments(0)
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 昭和40年代・50年代頃までは、夏になると自転車や徒歩で周遊する学生などがお上がり場にテントを張って泊まっているのを良く見かけていた。今では松枯れで無くなったが、十数本の松の大木が公園に生い茂り公園全体が松の枝葉で日陰があった頃である。最近ではテントが張られていることは見られなくなった。

 平成10年の初め頃、一つのテントが張られ住所不定の人が住み着くようになった。お上がり場公園には汲取りながらトイレも有り水道も自由に使えるので日常の生活は何とか送ることが出来る。

 その内一つのテントが二つになり、廃車寸前の車を持ち込み、車の中で寝泊りする人もあった。

e0125014_9471610.jpg その内、どこから集まるのか分からないが数人の人が集まり、日中は日陰に寝転んでいたり談笑しているのを見かけることもあった。夜になると酒盛りをしているようなこともあった。

 この人達は働いていないので生活費はどうしているのだろうと思っていたが、ある人の話によると近くのスーパーで賞味期限切れた廃棄寸前の食料を貰っているのだろうとのことであった。

 また、近くの浜辺で「ごかい」などの釣餌を掘って釣り人に売ったりしていた。釣餌は釣具店で購入するより安く新鮮なので釣り客のお得意さんも出来ていたそうである。釣り客の中には何時どの位の量の餌が欲しいと予約をする者もあったそうである。

 またそばの海岸で「あさり」を掘って売ることもあるそうである。この当時でも阿品で獲れる「あさり」は少なくなっていたが、この人達は時間だけは持て余しているので結構な量の「あさり」を獲っていたらしい。

 しかし身元の分からない人が常時数人たむろし、不気味なので公園に近づく人も少なくなり8月の初めに近所の人が市役所に苦情を申入れ退去してもらうよう依頼した。

 市役所では現地に行き度々退去を申し入れたが、この地の居心地が余程良いのか中々退去されることもなかった。

 12月になると新に男女一組がテントを張って住み着いた。この男女一組は自転車で日本各地を旅行している人であったが、市役所の度々の退去要請により暫くしてこの地を離れられた。

 再三の退去勧告によりその内一人の人が退去されたが、何のことはない。国道を挟んで向かい側の小高い山の中腹に移動されたただけであった

 翌年2月になっても退去されないので市役所も痺れを切らして水道を止めること含め厳しく指導した結果、一週間以内に退去する旨の確約を得て2月中旬に3名全員がやっと退去された。

 この3名も公園からは退去されたが向かい側の山に移動するだけであった。この小高い丘は別荘地として開発されたが利用されることも無く雑僕が生い茂り荒れ果てた地である。

 周辺から見てもこの地で何人かが住み着いて居られるとはうかがい知れないが、暫くこの地で生活をして居られた数組の人達もいつの間にか退去され、今では敗れたテントの残骸や生活用品が散乱しているだけである。
# by hirosan_kimura | 2014-08-03 10:59 | その他 | Comments(2)
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平成7年6月 廿日市市議会 H議員の一般質問

 ナタリーの閉鎖とその後の影響についての質問する。

① 平成8年から平成13年まで毎年(マンションを)ずつ建設し、販売される予定と聞いている。この期間に入居され、廿日市の人口増ともなるわけであるが、学校建設、特に阿品台西小学校は十分対応できるかどうか。

② 下水道処理施設はどうするのか。串戸の廿日市浄化センターとの接続はいつごろになるのか。

③ ナタリーの閉鎖に伴う廿日市市の経済的損失はいくらぐらいになるのか。財政面にこうむる損失は幾らぐらいになるのか。

④ ナタリーに現在ある遊具類の一部を例えば迷路とかを廿日市市のアルカディア敷地内に移設する考えはないか。


市長答弁

① 計画どおりマンションが建設されても、既存の施設で対応ができるが 建設年次が未定であるので、今後業者との協議をしていく中で、具体的な対応を考えていきたい。

② 公共下水道の事業認可区域外であることや、現在の幹線整備の状況からも当分の間、公共下水道への接続は困難である。
 事業として行なう場合は、開発区域内に事業者が汚水処理施設を設置し、公共下水道に接続するまで維持管理を行なうこととなる。

③ ヒロシマナタリーの平成6年の推定観光消費額は8億3,000万円と思っている。 
 従業員数は通常約20人と夏のシーズンにはアルバイトが100人から120人となっている。
 飲食関係のテナントも5軒あり、その従業員数が通常10名から15名、シーズンには50名から70名程度ある。
 本市の観光消費額9億5,600万円のうち、ナタリーが8億3,000万円であるから、非常に減少・減額となる。雇用面からも220名ぐらいの雇用関係の問題が起きてくる。

④ ナタリーの遊具であるが、アルカディア創出事業は自治省のリーディングプロジェクトとしての採択を受けている。採択を受けるに当り特定政策課題が与えられている。これらの課題を十分考慮しなければならない。
 利用可能な遊具があったとしても、移設費用や維持管理に多大な経費を必要である。
 また遊具の大部分はほとんどリースである。現在の計画では設置場所がなく、新に設置場所の確保も必要であり、ナタリーの遊具の移設は非常に困難でないかと考える。
# by hirosan_kimura | 2014-07-28 13:32 | 経済 | Comments(0)

№646 調整池

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 このブログ№99で「阿品のダム」を紹介した。地元では「ダム」「調整池」とも呼称している。この調整池は農業用ため池との兼用で昭和50年11月に完成している。

e0125014_11132556.jpg この調整値池は阿品台ニュータウン造成時に造られ、団地の西側98㌶の流域から流れる雨水を調整し下流に放流している。

 調整池の貯水面積は約8,600㎡で平常時の水深は約4・6㍍、満水時の水深は6・6㍍で見た目よりは深くないようである。貯水量は4万2,500立方㍍とされている。

 この貯水池は団地内に大雨が降った際、一気に下流に大水が流失しないよう水量を調整しながら放流しているが、阿品二丁目地内の田畑などの灌漑用水の役目を果たしている。

 しかしこの調整値池の完成時には下流にたくさんの田畑があったが、JR駅の新設などによりこの地の利便性が増し、田畑を埋め立てて住宅地が造成され残された田畑も僅かとなってしまった。

 流出水の調整機能としての役割は残るが、溜池用としての役割は近い将来には終わるのではなかろうか。

 ダムが完成して誰かが放流したのか鯉などが繁殖し、子どもたちがダムの周辺で魚釣りをしていたが、遊んでいた子どもが溺れ死んでからはダム周辺は立入禁止となっている。

 また堰堤の脇に歩行用階段があり、阿品駅を利用する廿日市西高校の生徒や地域の人達が利用していたが、この通路も防犯上の理由から閉鎖され、ダム周辺には近づく人も無くひっそりとしている。

 しかしダム周辺の法面には自然の樹木が残された場所もあり、小さな湖水ではあるが水鳥などが遊泳していることもある。

 周辺が開発し尽くされた阿品ではあるが、唯一残された広い空間ともいえる。
# by hirosan_kimura | 2014-07-24 11:51 | その他 | Comments(4)
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 本日は毎年恒例の海のクリーンアップ作戦が行なわれた。この作戦は平成5年に第一回目が行なわれ、和歌山県から大分県に至る瀬戸内海に面した県で一斉にに海の清掃が行なわれる。廿日市では地御前神社前と阿品のお上がり場周辺で清掃に取り組んでいる。

e0125014_11365277.jpg 第一回目が行われる際、生活環境課に属していたので最初から拘わっていた。初めての取り組みで戸惑うばかりであったが、大勢の人に参加してもらうため、町内会・子ども会・老人クラブ・その他の団体に呼びかけた。 予想以上にたくさんの人に集まってもらい主催した方がビックリするくらいであった。

 海のゴミは海草などが浜に打ち揚げられた物も多いいが、相変わらず牡蠣養殖による廃棄物、針金・プラスチック管・発泡スチロールの残骸などが特に目立つのは、以前も現在も変わりない。
# by hirosan_kimura | 2014-07-19 12:02 | その他 | Comments(0)
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 学校は今日で一学期が終わり来週から夏休みに入る。夏休みは昔の子も今の子も楽しみであるが、今の子は家族で旅行に行ったりするが、昔は家族旅行などする家は僅かで、近所の子どもたちと朝から晩まで勉強もせず遊びまわるのが普通であった。
 
今でも夏休みの思い出として残っているのは、小学校五年生の時に子ども・先生・母親などで宮島の裏にキャンプにいったことである。

 キャンプと言えば今では立派なテントや炊事道具・シェラフなど何でもあるが、当時はそんな便利なものは無かった。炊事は家で普段使う鍋や釜を使い、煮炊きは転がっている石を並べ小枝などを拾い集め行なった。

 テントは家庭で使っている蚊帳で代用し雨でも降れば大変なことになるが、幸い天候に恵まれ蚊帳の中で夜遅くまで皆と大騒ぎをしながら寝た。

e0125014_918341.jpg 炊事は殆どの母親が付添いで来ていたので、子どもたちが遊びまわっている中母親たちが作ってくれた。食料も現在のような保存食も無く単調なものであったが、子どもたちはいつもと違う環境の中で美味しく頂いた。

 母親たちは炊事以外のときは木陰に茣蓙をを引き寝転んで、皆で他愛の無いおしゃべりに華が咲いていた。普段は家事や仕事などでゆっくり出来る時間も無いので、こんな何でもないくつろぎの時間を持っただけで、「命の洗濯が出来た」と喜んでいた。

e0125014_919571.jpg キャンプをした浜辺は砂浜と松林があるのみで勿論水道施設などは無い。炊事に必要な水は海水を使ったが、米を磨ぐのは浜辺の海水で子どもたちが行なったが、普段と違うので面白がって米を研いだ。

e0125014_9192915.jpg 地御前漁港からキャンプをした砂浜までは同級生の家庭が牡蠣養殖をしておられたので、牡蠣の作業船に乗せてもらい行った。今の時代なら小さな船に大勢が乗れば危険だと許可も出なかっただろうがのんびりした時代であった。

 潮の良いときに地引網をしたが、取れた魚は小さなものまで大はしゃぎで拾い集め、海水で骨や内臓を皆で取り除き焼いたり煮つけにして食べたのも忘れられない思い出である。

e0125014_9195130.jpg 宮島は神の島と言うことで農業も許されていなかったが、戦後の食糧難の時代に開拓の人が入植され、キャンプをした浜辺の山裾にも数件の農家があった。

 この地は土地の関係か米を耕作することが出来ず、持参した米を持っていくと喜んで野菜や西瓜などと交換してもらった。米と交換した西瓜で西瓜わりを皆としたのも楽しい思い出である。

 楽しいひと時はあっと言う間に過ぎ去り、子どもたちや母親には忘れられない楽しい思い出として残ったが、引率された先生方はキャンプが終わり地御前港に到着するまで、事故は無いかと緊張ばかりであっただろう。

 キャンプに引率された先生の多くは既に亡くなり、子どもたちの中でも何人かはこの世を去っておられる。

 キャンプをした入浜海岸は、白い砂浜と鬱蒼とした松の木が生い茂り、これぞ「白砂青松」と絵に描いたような美しい景色であったが、今では松枯れで浜辺の松の木は一本もなくなり悲惨な風景に変わってしまった。
# by hirosan_kimura | 2014-07-18 10:57 | 子どもの生活 | Comments(2)
e0125014_14383548.jpg 明治30年、今から117年前の地御前村の人口は男1,443人・女1,362人で計2,805人であった。

 生年毎の資料によれば、明治30年生まれが当然0歳で遡ること慶応・元冶・文久・万延・安政・嘉永・弘化・天保・文政・文化生まれと遡り,まるで時代劇に出てくる年号が続く・

 一番高齢者は文化12年生まれで82歳、何れも女性の方である。82歳といえば今と比較すると驚くほどの高齢者ではないが、現在の平均寿命男79・94歳・女86・41であるが、当時の平均年齢は男42・8歳・女44・3歳から比べると相当の長生きであったのであろう。
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 現在少子高齢化が進み日本の未来が危惧されている。117年前の地御前村の年齢構成と比較しても参考にはならないだろうが、当時の地御前村の未成年者は45㌫を占めていたが、現在日本全体の未成年者は17㌫に過ぎない。

 60歳以上の高齢者は地御前村が6.3㌫であったのに対して、現在の日本全体では31・3㌫を占めるすさまじさである。

 現在日本人全体の年齢を均すと44・9歳であるが、当時の地御前村は平均年齢26・1歳となっている。単純に現在と比較しても意味はないが、60歳を過ぎれば立派なお爺さんと呼ばれていた時代で、今のような医学も進んでいず早死にをしていたのであろう。 

e0125014_14401458.jpg 統計上15歳から64歳までを生産年齢と言うが、当時と比較すると生産年齢者の比率は余り変わっていない。しかし14歳未満の比率は、今と比較すると驚くほど高かった。

 反対に高齢者の比率は当時と比較すると、驚くほど高くなっている。
# by hirosan_kimura | 2014-07-14 15:36 | 人口 | Comments(0)
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 鰆浜の海岸は干潮になると沖合いまで磯が広がり、あさりを掘りに行くと子どもでもたくさん採ることが出来た。火立岩に近い磯では大貝・ミル貝なども面白いほど採れていた。お上がり場に近い浜辺ではたくさんは採れなかったが、蛤(はまぐり)が見つかることもあった。

 浜のすぐ沖の水中には藻もたくさん生えており、えびやたこ・小魚などもいて夏の夜にはカーバイトの灯りで浅瀬を網を押して行くと獲物が獲れ、この漁りを楽しみにする人もあった。

 夏の蒸し暑い夜に堤防で夕涼みをしていると、闇夜の中を漁火が行き交い夏の風物詩でもあった。

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 昭和43年には西広島バイパス工事のため、道路の拡幅・広電の移設・堤防沿いの道路の新設用地として、海岸沿い長さ920m・巾最大35mの埋立が行なわれた。埋立面積は7,268㎡であった。

 昭和49年には無くなった浜辺を再生するため、沿岸漁業改善事業により鰆浜沖に人口干潟が造成された。干潟には山砂が入れられこれによりあさりなどは消滅してしまった。

 人口干潟には牡蠣の稚貝を育成するため、竹ひびがたくさん建てられた。あさりの稚貝も放流されたが浜は山砂のせいか元のようにたくさん増えることもなかった。

 人口干潟は工費8,600万円でフジタ工業が造成した。

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 昭和43年に人口干潟造成された人口干潟も、埋立てにより潮流が変わったせいか搬入された砂が沖合いに流され浜はやせ細るばかりであった。

 このため平成8年に人口干潟改修整備工事が行なわれた。この工事は南北延長700㍍・東西巾95㍍、工事面積6・7㌶の干潟の整地や牡蠣棚の復旧が行なわれた。

 また土砂の流失を防ぐため沖合いに土止溜堤が新設された。この堤は基礎捨石の上に巾4・2㍍・高さ2・5㍍のコンクリートブロックを設置し、沖側には波除の被覆石が積んである。

 この堤は2ケ所設けられそれぞれ延長182・25㍍と115㍍あり、総延長297.25㍍となっている。

 これらの工事は工費3億6,668万円で五洋建設が施行した。

 これらの工事により浜辺の砂の流失は止まったが、あさりなどは以前のようにたくさん見かけられない。潮の良い時にはたくさんの人達が潮干狩りを楽しんで居られるが、掘れるあさりはほんの僅かで貝を入れたバケツの底が見えるくらいで、見ていて気の毒なような人もある。
# by hirosan_kimura | 2014-07-08 13:27 | 鰆浜 | Comments(2)

№641 釈迦の寝姿

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 日本三景の一つ、世界遺産にも登録された宮島は阿品の目の前に浮かび、原生林の緑に覆われ美しい風景である。その稜線は凹凸し変化に富んでいる。

 この稜線は見る方向により、釈迦の寝姿・観音さんの様にも見られ昔から神の島として崇められている。

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 どの方向から見るのが釈迦の寝姿に相応しいのか分からないが、阿品の海岸から見えるのは宮島の山の中央当りの左側が頭で、真ん中辺りが鼻と唇に見える。

 見方によっては数年前の豪雨で崩壊した、白い山崩れの跡が目にも見える。

 阿品から眺めるより五日市か西区の方から眺めるほうが、よりお釈迦様の美しい姿が見えるのかも分からない。

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 人によっては、裸の女性が横たわったように見えると言う人もある。神の島を女体に例えるのは恐れ多いことであるが、そう言われば女体に見えないこともない。

 右側が頭で、出っ張った顎があり中央部分が乳房で、左に腹部から足に続く。

 この女性は顎が出っ張りすぎで首は短く足もスマートでなく、余り美しい女性には見えない。

 違った方向から見れば、もう少し美しい女性に見えたり、他の形に見えるのかも分からない。
# by hirosan_kimura | 2014-07-06 10:24 | 地形 | Comments(0)
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 鰆浜の県病院は昭和47年3月に廃止され,以来42年間空き地のままであった。この間跡地には様々な施設の案が浮上しては消えいずれも実現に至らなかった。

 その後、県職員が野球やテニスなどに利用することもあったが使用する回数は限られ、地域のでの盆踊り・とんど・高齢者がゲートボールに使うぐらいで永らく放置されたままであった。

e0125014_13402477.jpg 最近になって県有地売出しの幟や看板が設置された。地元では跡地にマンションや戸建住宅が建てられるなど噂をしていたが、やっと県が売出しに動き出した。

 この地を売出すに先駆けて土質調査が行なわれ、極狭い部分であるが水銀が検出されたそうである。 
 
 検出された場所は病院時代に塵芥を処理する施設が有ったらしく、今ほど規制の厳しくない時代であったため医療廃棄物の処理がずさんに行なわれていたらしい。

 汚染された場所の土は掘り起して処理をするらしいが、極狭い場所に限られ大きな支障はないらしい。

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 設置された看板によると、近々一般競争入札により業者が選定されるようである。

 面積は11,498.73㎡(約3,400坪)とある。以前県病院跡地は16,500㎡と紹介したことがあるが、今回の売出し面積と約5,000㎡の差がある。

 これは恐らく県が阿品台ニュータウンを整備した際、地元対策として周辺道路の整備・公園の新設・集会所用地の確保に県病院用地を充当したものであろう。

 阿品地域は前は海に面し、後方は山を控え平地が限られている中で、県病院跡地は最後に残された纏まった土地と言えよう。

 鰆浜地区も他に漏れず高齢者が増加し、子どもが少なくなりかつての様な活気が見られないような気がする。

 跡地に何が出来るのかはわからないが、たくさんの住宅が建てられ子どもたちの歓声が溢れるような町になって欲しいものである。
# by hirosan_kimura | 2014-06-29 14:17 | 鰆浜 | Comments(0)