素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura
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 国道二号線にそって地御前浜を宮島方面に向かうと、宮島線「地御前県病院前」停留所付近から道路はゆるいカービとなり、景色のよい御上がり場海水浴場を過ぎるところから山手を見ると、小さな開けた部落が見えはじめます。ここが阿品部落であって、家の割合に農地が広く、一見平和な農村を連想させます。

◎阿品のようす
 この部落には東と西に小さな谷川が流れていて、西を本谷と云いこの谷川が堆積した小さな三角州に部落が形成されています。今は山陽線や国道二号線が海岸沿いに走っているので、海へのみはらしが悪くなっていますが、そのため堤防の役目を果たし高波の心配をなくしています。

 それでも昔名残りの潮まわしが残っており、先年までは青年団の養魚池となっていました。南は海に面していますが谷川の働きは割合活発で、どんどん土砂を堆積しているので、浅海となり、いずれ近い日に埋め立てられることでしょう。

一、阿品の本谷の奥あたりに、「岩神」さんがあります。昭和二十五年の台風で社殿が倒れ、今はその附近の山に移されていますが、この神社の祭神が「アシナヅチ」と伝えられています。

 昔「高天が原」から出雲に来られ「ヤマタノオロチ」を退治された「スサノウノミコト」の伝説はよく聞きますが、そのときの姫「クシナダヒメ」の父親にあたる方で、土着の神で農耕の神とされていますが、その名前から「アジナ」になったというもの。

二、「アジナ」は葦でなでるという意味で、葦の生えていた所というもの。

三、昔弘法大師が諸国を廻られたとき、ここに来られて水を飲まれたところ、「味のない水だのう。」と云われたので「アジナ:になったという。

 以上三つの説が、土地の人に語りつがれています。

◎新しい阿品
 阿品も御多聞にもれず、東の丘に団地がつくられています。また宮島遊園地もあり、海水浴場と共に観光に役立っています。鉄工所も出来ていましたが、倒産し近代産業の複雑さをこの土地でも身を持って感じられます。

                         昭和41年 廿日市町広報より
# by hirosan_kimura | 2015-03-26 11:34 | Comments(0)

№699 鰆浜町内会

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 魚ヘンに春と書いて「さわら」と読みます。これに「浜」がついて「鰆浜」がわが町内会です。むかし、ここらは浜辺で、さわらの水揚げ場所だったのでしょうか。

 海岸に松林があって、明治天皇が沖の宮島などでご賞覧されたとかで、「しょうらんば」、それが「さわら浜」とダブって「そうらんば」となったという人があります。世帯数は五十、とにかく小さくても古い町内会です。

 わが町内には、電車もバスも阿品停留所があります。ラッシュ時は、阿品台一丁目から三丁目の人が多く、町内の半分から沖へ行列ができます。

 古い人も新しい人も早く心安くなるために、「お盆のつどい」と「新年のつどい」を始めて五年になります。これを「そうらんばのつどい」といい、町内会のど真ん中の広場でやっています。

 三年前、「さわらはま音頭」という町内会の盆踊り唄を作り、8月14日「お盆のつどい」に踊っています。「つどい」には、周辺から参加される方がふぇてきました。この次は皆さんもぜひお越しください。

昭和58年3月24日発行 
        阿品地域コミュニティをすすめる会「コミュニティ広報」より
# by hirosan_kimura | 2015-03-25 11:11 | Comments(0)

№698 新しい施設

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鼓ケ浜集会所が完成
 この度、鼓ケ浜地区に集会所ができました。鼓ケ浜集会所は、鼓ケ浜地区の南端部に位置し、木造平屋建てで約108㎡の広さがあります。

 鼓ケ浜町内会では、これまで集会等を行う場合、阿品公民館を利用していましたが、これからはこの集会所が利用出来て大変便利になります。落成式は、4月5日に行われる予定です。

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阿品地区に待望の公園建設中
 阿品地区に永年望まれていた公園が、現在、岩鏡神社の裏隣に建設中です。
 仮称岩鏡公園は、岩鏡神社の裏隣に神社と同じ高さで造られ、ゲートボールができる広さがあります。また、公園には、遊具・便所・公園灯等が整備される予定です。

 公園建設は、昭和61年度に造成工事を行い、62年度に進入路工事、施設整備を行うもので、今年度の盆踊りには、一応利用できるようになる予定です。

 完成は今年の秋ごろになるようですが、完成後は、ゲートボールや子供達の遊び場・盆踊りができるようになり、地区の憩の場としてみんなで大事に使いたいものです。

     昭和62年3月31日発行 阿品地区コミュニティ広報紙より抜粋
# by hirosan_kimura | 2015-03-24 11:29 | Comments(0)

№697 地名「田尻」

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 1月28日に阿品台西小学校三年生の総合学習で説明した「阿品の昔の風景と建物」について、子どもたちが纏めた資料・子どもたち一人一人が書いた礼状が届いた。

 今の風景しか知らない子どもたちは、ふじタウンや阿品台が昔は山だったこと、阿品三丁目は海を埋め立てて住宅地となったこと。 昭和30年代頃まで残っていた阿品の家は、屋根は藁ぶき、壁は土、建具などは木で出来ていたことなどに驚いていた。

 また今ではマンションが立ち並んでいる場所には「遊園地ナタリー」があり、ジェットコスター・プール・スケートリンクなどの設備があったことなどに大変興味を持っていた。

 ある子どもが「昔はなぜ田尻とよんでいたのか知りたいです。」と書いていた。阿品には鰆浜・阿品・田尻と三つの大字があるが、地名阿品についてはこのブログ№16で、地名鰆浜については№17で紹介したが、「田尻」については取りあげたことがなかった。

 平成13年に「広電田尻駅」が「広電阿品駅」に名称変更されて以来、「田尻」の地名が残されているのは町内会の名称、公園名と集会所名くらいになってしまった。

 「田尻」が阿品の三つの大字の一つと言っても、地域も極めて狭く、僅かの田畑、一・二軒程度の民家しかなく部落の機能も成り立たず、阿品部落の一部としての付き合いをした時代が長く続いた。

 「田尻」の地名の由来は、色々調べるが残された資料もなく推測するしかない。「田」はその通り「田んぼ」から来ているのであろう。「尻」は人体の部分を想像するが、この字には「最後の部分」「端っこ」「うしろ」等の意味をもっている。

 田尻の田んぼは谷と谷の間や山裾などに僅かな耕作地しかなかったが、阿品部落の農民が耕作をしていた。「田尻地区」は阿品全体や阿品部落から見ると端の方に有り、端っこの方にある「田んぼ」で「田尻」と呼称されるようになったのではなかろうか。

 あくまでも推測の域を出ない。どなたか「田尻」の地名の由来を知っている人があれば、ご教示いただきたい。
# by hirosan_kimura | 2015-03-23 10:49 | Comments(0)
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 今は亡き従兄が写した写真である。この写真は国道脇に造成された別荘地から、海やお上がり場を見下ろした写真で昭和31年1月に撮影されたものである。

 今は消滅してしまったお上がり場の松も生い茂っている。現在では桟橋沿いには沢山の釣り船が係留されているが、この写真では牡蠣養殖用の作業船が二隻繋がれているのみである。その左側の海は埋め立てられてマンションが建てられている。船の手前には宮島線を走っている電車の頭が僅かに見られる。

  左下手前の白い部分は造成された別荘地であるが、今では雑木が生い茂っている。

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 造成中の「新宮島遊園」の写真である。右中央の赤い屋根の建物は阿品で唯一の集会所である。様々な会合・催し物・選挙の投票所等に利用されていたが、阿品公民館の開設と同時に閉鎖されている。

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 同じく新宮島遊園の造成地であるが、上の写真よりJR軌道寄りから写したものである。中央やや右側の国道沿いに見える家屋は、国道の拡幅により立ち退きとなっている。 昭和31年1月に撮影されている。

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 昭和49年5月に撮影された「広島ナタリー」の様子。

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 現在の「広電阿品東駅」前の海岸から撮影された「管弦祭 御座船」の様子。昭和49年8月に撮影。以前は地御前神社に向かう御座船には沢山の漁船が伴走していた。この写真では伴走の船も少なく寂しくなっているが、現在ではこれ以上に寂しい状況になっている。

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 この写真は昭和51年4月に撮影されたものであるが、阿品沖を写したというより地御前寄りの山の上から写したものであろう。

 写真の中央やや下に縦に薄く写っているのは西広島バイパス出口の光が丘付近。中央右端に近い海にうっすら縦に写っているのはナタリーの観覧車。分かりにくいがそのやや左にナタリーのジェットコースターが写っている。
# by hirosan_kimura | 2015-03-18 08:36 | Comments(0)

№695 惜しい写真

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 阿品の昔の写真を探すが中々見つからない。古い写真の残っていそうな旧家の人に尋ねると、お年寄りが亡くなられた際に中身も確認せずにごみとして処分したと言われることが多い。中には二度と手に入らない貴重な資料も有っただろうに誠に勿体ないことである。

 今は亡い従兄はカメラが好きで良く写真を撮っていた。東京に在住している従兄の子どもさんが帰省し整理していたら古い写真が出てきたと提供して貰った。珍しい写真も有り随分助かったが、一部保存状態が悪く汚れ等などもあり残念なものもある。

 上の写真は昭和38年1月に写された鰆浜の風景である。今から50年前のものである。県病院・吉田病院の建物を見る事が出来る。海岸線も埋立前で、火立岩・波止と言っていた防波堤もある。今から80年前には宮島線の終点はこの辺りで、すぐ傍からは宮島に渡る連絡船の発着場もあった。

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 これは約50年前のJR阿品駅前付近である。今のJR駅舎すぐ前には樋口工業と言う鉄工所の工場が見られる。

 国道も自動車が殆ど走っていずのんびりしたものである。当時の国道脇の調整池の様子も良く分かる。

 同じアングルから撮られた写真もあるが、白黒写真でピンボケの物が殆どである。この写真に汚れなど無ければと思うばかりである。

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 同時期に撮影された写真であるが、中央縦にJR軌道がある。Jr駅裏付近の民家も僅かで大半が田畑ばかりである。中央右側の山は住宅地に造成される前のふじタウンで、今では景色もすっかり変容している。

 この写真は汚れも少なく、パソコンに精通した人ならかなり修正出来るのではなかろうか。

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 この写真は昭和49年5月、今から41年前の物で鰆浜の海岸から「お上がり場」「ナタリー遊園地」方面を撮影したものである。撮影場所は「火立岩」があった付近の堤防の上からと思われる。

 汚れは少ないがピンボケなのが惜しい。
# by hirosan_kimura | 2015-03-17 11:38 | Comments(2)
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 阿品に住んでかなり年数を経た人でも、地名の「鰆浜」が出てくると「鰆浜」とは何処ですかと尋ねる人がある。鰆浜で生まれ鰆浜に長年住んでいた者としては寂しい思いをすることがある。

 鰆浜の名称は「町内会」「子供会」「集会所」「公園」などに使われるのみで、鰆浜以外の人たちにとっては馴染みの無いものとなってしまった。平成13年には「広電阿品駅」が「広電阿品東駅」に名称変更されたが、せめて「広電鰆浜駅」にでもなり「鰆浜」の名称が後の世に残ればと悔やまれる。

 地御前村の時代には本郷に対して、飛郷の阿品には「鰆浜」「阿品」「田尻」と三つの大字があった。当然これらの地名は日常茶飯事のように使われていた。

 「田尻」は家も数える位しかなく部落としては形成されていなかったが、阿品では「鰆浜部落」と「阿品部落」の二部落で成り立っていた。鰆浜部落は一つの町内会であったが、阿品部落は何時の時代か分からないが西と東に別れていた。
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 地御前村時代の住所の表示は「佐伯郡地御前村字鰆浜○○番地」のように表示していたが、廿日市町になってからは「佐伯郡廿日市町地御前○○番地」のような表示になった。

 土地の表示には耕地番と山番地があり山を造成して住宅地にした場合、山番に枝番を付けたり新しい番地を付けたりしていた。住居表示前のふじタウンは4000番台、阿品台は3000番台の番地であったように記憶している。

 このように番地は複雑となり番地を頼りに家を探し当てるのも困難となり、阿品では昭和57年に町名の設定と住居表示が実施された。概ねであるが鰆浜は阿品一丁目、阿品は阿品二丁目、田尻は阿品四丁目と設定された。町名の設定に当たっては、主要道路などを町境としているため旧字境とはかなり異なっている。

 上図の青線で囲まれた部分は「阿品一丁目」に設定された区域である。概ね旧字の鰆浜区域であるが、左の赤い区域は旧字阿品の一部が阿品一丁目に編入されている。

 字鰆浜と字阿品の境は山の稜線を境としていたが、過去に県病院に隣接する山を造成し住宅地に開発する計画があったが、山の稜線を町境にすると住宅地の真ん中に町境が生じるので、山の南端を境としたのかも分からないが今ではこの計画は白紙となっているらしい。

 上図右側の薄い青と緑の部分は旧字田屋区域に属していたが阿品一丁目に編入されたものである。薄い青色地区は別荘や広島に支店の有る会社の社宅などがあったが、田屋部落とは隔たっており古くから鰆浜の町内会に属し、子供会活動を始め各種行事なども一体となって行っている。

 緑色の部分は厳島合戦の際に毛利軍が陣地を構えていた山があった。後に射撃場が設けられていたこともあったが今では小さな住宅団地となっている。

 旧字に属していた田屋部落とは西バイパスとで分断され阿品一丁目に編入されたが、小学校も公民館も遠く阿品区域に属するのは無理があるようである。道を挟んだすぐ向かい側はコミュニティも小学校も地御前に属している。

 一昔前までは、民家が一軒しかなかったJR奥の谷にも今では沢山の住宅が建てられている。しかしこの地域も高齢者が多くなり、子どもも少なくなり活気が無くなっているそうである。

 今県病院の跡地が売りに出ている。この地に住宅がたくさん建てられ若い人と子どもで溢れるような町になれば良いと考えるが果たして跡地はどのように変わるのだろう。
# by hirosan_kimura | 2015-03-16 13:00 | 鰆浜 | Comments(0)
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 阿品地域には現在阿品台東小学校、阿品台西小学校と二つの小学校がある。

 阿品の子どもたちは曽祖父の時代から地御前小学校に通学していた。しかし阿品台ニュータウウンの開発により昭和54年に阿品台東小学校が新設され、長年地域の人たちが通いなれた地御前小学校と別れ新しい小学校に通学することとなった。

 団地の入居者の増加により阿品台東小学校のみでは対応しきれなくなり、昭和58年に阿品台西小学校が開校した。阿品台西小学校区は、阿品台の西と山の手、阿品一丁目から四丁目地域に設定された。しかし阿品一丁目は阿品台西小学校よろ遠いので、平成元年には阿品一丁目は再び阿品台東小学校に校区が変更となり現在に至っている。
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 阿品地域は「地御前地区コミュニティ推進協議会」に属していたが、阿品地域の人口が増加し小学校も新設されたのに伴い、昭和56年11月には地御前地区より分離し、「阿品地区コミュニティを進める会」が結成されている。

 昭和58年には阿品台西小学校が開校したのに伴い、阿品地区より阿品台地区が分離し「阿品台地区コミュニティを進める会」が結成され現在に至っている。

 コミュニティ組織が分離する際、小学校区とコミュニティ区を一致さす案も検討されたが、阿品一丁目は旧阿品との結び付きも強く、阿品台地区に所属するのも不自然なので阿品地区のコミュニティに属することとされた。

 また、西小学校区の「阿品台西」と「阿品台山の手」は地形的にも阿品台と一体であり、阿品台地区のコミュニティに属している。
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 こうして阿品一丁目はコミュニティは阿品地区・小学校は阿品台東小学校区となり、阿品台西・山の手はコミュニテイは阿品台地区・小学校は阿品台西小学校区と変則的となっている。

 地域のコミュニティと小学校の活動は切っても切り離せないものがあり、コミュニティ区と小学校区が異なることにより様々な障害や弊害を期しているが、どうにもならないようである。

 旧廿日市地域では廿日市小学校・佐方小学校等に於いても、小学校区とコミュニティ区との整合していない地区もあるが、これを解消しようと関係者が協議を重ねられても良い知恵が浮かばないらしい。

 コミュニティとは異なるが、上図右上の「光の園」は土地の地番は地御前に属している。阿品台が開発されるまでは「光の園」と「阿品」の間には高い山で隔てられていたが、この山が削られ今では阿品台と地続きとなり小学校は阿品台東小学校区、コミュニティ活動も阿品台の属して居られるが、町名の設定を阿品台に編入されないのかいつも不思議に思っている。

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 阿品一丁目に「光が丘」と言う小さな団地がある。この地区は東小学校区であるが子どもたちは正規の通学路を通らず山道を越えて通学しているらしい。正規の通学路は大廻りになるためである。

 この団地は元々阿品に属せず以前は地御前の田屋地番であった。町名設定の際、地形上阿品一丁目に組入れられたが少々無理があったようにも思われる。選挙の際の投票所は阿品地域は阿品公民館であるが、この地域のみは地御前小学校が投票所となっている。何か不自然な思いがしないでもない。
# by hirosan_kimura | 2015-03-15 13:25 | Comments(0)
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 山の斜面などに苔が長く延びたような特徴のある植物を見掛けることがある。苔のように見えるがシダの一種らしい。正式な名前は「日陰蔓(ひかげのかずら)」と言うが、日陰より比較的日当たりの良い場所に生えているようだ。

 古老の話によると「狐はこれを頭に乗せて花嫁さんに化けるそうな」との言い伝えがある。子どもの頃には正式名称が分からず「狐の襟巻」などと呼んでいたような記憶がある。

 何故、狐と結び付けられるのかは分からないが、この植物は切り取って日数が経っても形が損なわれたり緑色が退色しないため、古来より生命力の象徴とされ神事に使われていたそうである。このように不思議な植物なので狐に結び付けられたのであろう。

e0125014_661325.jpg この植物は形状から女の子は髪飾りや王冠のようにして遊ぶこともあった。近年ではリースとして活用されることもあるらしい。またこの胞子は「石松子」と言われ丸薬の衣や、傷口に塗って血止めとして利用されていた。

 
 この植物の呼び名は各地で異なり、「狐の襷(たすき)」「天狗の襷」「山の神様のふんどし」「狐の首巻」「猿の襷」「ウサギの寝床」「神だすき」などの呼称がある。遠く離れた地域でも狐に結び付けているのは不思議でもあり面白い。調べればまだまだ面白い呼び名があるかも知れない。

 この植物は阿品でも見る事が出来る。そこらじゅうに生えている訳ではないが、少し探せば簡単に見つける事が出来る。

 「ヒカゲノカズラ」と良く似た植物で「ヒゲノカズラ」があり、「マンネンスギ」「ビロードスギ」「マンネングサ」があり混同されることがある。
# by hirosan_kimura | 2015-03-14 06:26 | Comments(0)
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 数年前より行われている公共下水道管本管の延長工事が鼓ケ浜地区まで進んできた。更に本管を延長さすためバス回転所の敷地の大部分を占める広さの建物が建てられている。

 同じような建物が沖山橋近くにも建てられていたが、その付近の工事が終了し今ではその建物は撤去されている。仮施設なのに何故あのような立派な建物を建てる必要があるのか。無駄使いでは無いかとの声を聞くこともあった。

 公道の地下に後から押しながら本管を埋設する工事を進めるためには、かなり大きな騒音が出るため防音対策が必要なため強固な施設が必要らしい。また建物内でクレーン車の操作も必要で大掛かりな建物となっている。

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 建物のすぐ脇の道路にも地下深く穴が掘られ蓋がしてある。この穴は建物の中と繋がっており公道上で作業を行わなくても、建物の内部から下水道本管の延長工事が行われる仕組みとなっている。

 一昔前の下水道管埋設工事では、道路を掘削し管を敷設し埋め戻すのが当たり前であった。現在行われている工事方法は、道路に掘られた竪穴の部分から一定の長さの下水管を入れ、それを後から強力な力で押し前進させては継ぎ足すらしいが、素人考えでは中々理解できない工事方法である。

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 作業が行われていない時に建物の中を覗いてみたが、様々な機械設備などがありどのような工事が行われているのか判断できない。

 道路を開削する工事であれば何処までで下水道管が埋設されたのか判断できるが、地中深くの工事では何処まで進んでいるのか全く分からない。

 いずれにしても主要道路に下水道管を埋設し、さらに各家庭まで支線を張り廻らすまでには相当の期間を要し、阿品に下水道が供用開始になるのは相当先のことであろう。

 現在延長工事が行われている下水道管は阿品で行き止まりと思っていたが、この管は宮島口付近まで延長されるらしい。
# by hirosan_kimura | 2015-03-13 10:29 | Comments(0)
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 いつも水を湛えている調整池の水が抜かれダムの底が見えるようになっている。以前は水辺まで自由に入れていたが、釣りをして遊んでいた子どもが溺れて亡くなってからは立入禁止になっている。しかし池の底まで入れる機会は今後無いかも分からないのでこっそり入ってみた。

 ダムの底には土砂がかなり堆積しているが、堰堤傍でも水はほとんど残っていない。僅かな水溜りに魚が取り残されていないかと思ったが一匹の魚もいない。水が干上がり魚が死んだのかとも思ったが、干からびた魚の姿も見られない。

 ダムを放流する際、魚も一緒に流されたのか、それとも水が少なくなった時野鳥にでも食べられたのであろうか。いずれにしても満水時には鯉などの魚がいたのは間違いないが、あの魚たちは何処に行ったのであろう。
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 今回ダムの水が抜かれたのは何かの工事の為であろうが、どんな工事をするのかは分からない。堰堤の外側・内側の両方に防護ネットが張られているが大工事ではなさそうである。

 堰堤の隅の方でビニールパイプが埋められ、その上をコンクリートで塞ぐ作業が行われていたが何のためのものかは不明である。

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 この調整は阿品台団地の雨水等が一気に流れ出ないよう調整する役割と、阿品地区の田畑の灌水用目的に作られている。

 このダムに流入する水路は二か所あるが団地造成で木々の大半は切り倒されているので水源も乏しく、降雨時に水が流れ込む以外の自然水は殆ど無いに等しいくらいである。

 上図の流入口はダムの左奥側のものであるが、この上流には開渠部分があり自然の倒木の破片や、投げ入れられたゴミがダムにまで流れ着き散乱している。

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 ダム右側奥にある水路は道路側溝などに流れ込む雨水などが流れ込むが、上流部に開渠が無いのかごみは殆ど流れ込んでいない。
 自然水は流れ込んでいないに等しいくらいのチョロチョロ水しか流れていない。

e0125014_92454100.jpg この写真では良く分からないかも知れないが、堰堤に近い場所で僅かに水溜りがある部分で、地下より水が湧き出している様子である。この清水の水源はどこにあるのか不思議である。
# by hirosan_kimura | 2015-03-12 10:23 | Comments(8)
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 この写真も昭和38年(今から52年前)に撮影された鰆浜(阿品一丁目)の写真である。

 手前の建物は廃止された県立地御前病院で今では空き地となっている。中央上部の二階建て建物は吉田病院でいまではマンションが建てられている

 海岸付近は大きく変わり、バイパス工事の為、帯状に海が埋め立てられ広電軌道は海側に移設されている。この工事の為上部に見える「火立岩」と海岸に突き出た「波止」も無くなってしまった。

 鮮明ではないが海中に「牡蠣ひび」が建てられている。今では牡蠣の養殖は海岸より遥か沖の筏に吊下げて行われているが、当時は海岸沖に竹を建てそこで牡蠣の養殖が行われていた。現在、浜辺にある牡蠣ひびは牡蠣の幼貝を育成するものである。

 余り鮮明な写真では無いが、「鰆浜」と言えば長年見慣れたこの写真の風景が思い出される。
# by hirosan_kimura | 2015-02-09 10:27 | 鰆浜 | Comments(4)
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 今では特別な場所でないと走っていない蒸気機関車も昔は極当たり前のものであった。JRを走るのは殆どがが電気機関車で田舎などに行くとジーゼル機関車がみられる。

 山遊びなどをしていてトンネルの上付近にいると、白い煙や時には黒い煙がトンネル入り口上にに舞い上がり、周りの景色が見えないほどになり石炭の独特の臭いを嗅ぐのも面白かった記憶がある。

 この写真は鰆浜(今の阿品一丁目)の線路を、白い煙を吐きながら蒸気機関車が走っている珍しい写真で、昭和38年(今から52年前)に撮影されたものである。

 写真右側の赤い瓦の建物は今は無い県立地御前病院である。ここに写っているのは炊事棟や職員宿舎などで、平屋の病棟は右側手前の方にあった。

 県病院閉鎖後この地は空き地となり、長年地域で盆踊り・とんどなどの催し物際利用され、お年寄りがゲートボールなどに利用されていてが、県が売却することとしている。何に活用されるのか分からないが住宅地にでもなれば賑わいを取り戻すであろう。

 線路右側、病院の建物と山の間の一枚の田んぼには現在ではアパートが建てられている。トンネルの上付近とそれに連なる右側の山の地形は殆ど現在と変わらないが、木々が生い茂り足も踏み入れられない状態である。

 線路左側の山は阿品台ニュータウンの造成により地形は大きく変わっている。列車の中央左側辺りから阿品台に上がる階段や下水処理場などに変わっている。

 線路の左側奥の谷には、現在民家やアパートなどが沢山建てられているが、この写真が撮影された時代には一軒の民家が有るのみで火葬場もある寂しい場所であった。

 この写真と比較するため現在の様子の写真を撮ろうと、鰆浜と阿品の境の山に登ったが長年人の入らない山は荒れ果て、木々が生い茂り比較する写真を撮影することは出来なかった。
# by hirosan_kimura | 2015-02-08 10:27 | 鰆浜 | Comments(2)
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 阿品の昔を知らない人が見れば、この写真は何処の風景かと思うかも知れない。

 この写真は昭和38年(今から52年前)にJRトンネル付近から撮影した、阿品二丁目の谷の風景である。今では住宅に埋め尽くされているが、当時の阿品では山際に農家が散在しその他は大半が田畑であった。中央の田畑の中には3軒の民家が有るのみである。

 中央奥の山は阿品台ニュータウン造成の為、山が削られ谷が埋められ住宅が立ち並び、風景は一変している。左側の山はふじタウン開発の為、今では大きく変容している。

 中央を奥に伸びている道路が阿品の谷の主要道路であるが、位置は殆ど変っていないが拡幅され舗装されている。

 左端中央の田んぼの中に一軒家があるが、今ではその家のすぐ前に「佐伯中央農協阿品支店」が建てられている。

 比較の為、この写真と同じアングルで撮影しようとJRトンネル付近の山に登ってみたが、何十年も人が入らない山は荒れ果て木々が生い茂り、残念ながら同じ構図の現在の写真を撮影できなかった。

 この写真とほぼ同じ場所より撮影した写真も持っていたが、小さな写真でピントもはっきりせず白黒写真である。この写真はカラーでもあり貴重な写真であろう。
# by hirosan_kimura | 2015-02-07 11:27 | 阿品 | Comments(4)
e0125014_11365947.jpg 阿品二丁目のとある山中の小道に小さな注意書きが建てられている。
 この注意書きがあるのは下の図の○印のある辺りである。







e0125014_11373767.jpg この山道は今では滅多に人の通ることもないが、かつては広電を利用して広島方面に通勤・通学などをする、阿品団地の人たちの近道として利用されていた。

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 今では阿品一丁目から奥に入り団地内を抜ける道路が整備されている。また途中から別れて注意書きのある少し下辺りを二丁目に抜ける道路も整備されている。

 しかし阿品団地に入居が始まった昭和38年頃(今から52年前)位はこれらの道路は整備されていず、この団地の人たちが阿品駅(今の広電阿品東駅)を利用するには、一旦阿品二丁目に降り中央を通る道に出て、国道まで行き電車に乗っていた。

 この道を利用するには遠回りなので、阿品団地の人たちで団地の奥側の人たちな道とも言えない急な山道を下り鰆浜側(今の阿品一丁目)に出て、あぜ道に毛の生えたような細い道を通り電車駅まで行っていた。
 (図の右側の青い線)

 団地の沖側の人たちも細い山道を降りて(注意書きのある道)途中で合流して、鰆浜の谷を通り電車駅までいっていた。

 これらの道は今でこそ車道が整備され街灯などもあるが、当時は一輪車がやっと通れる程度の小道で民家も街灯もなく、夜になると通るのが恐ろしいようなばしょであった。

 おまけに途中には火葬場もあり、幼いころ母の里に行き夜鰆浜の自宅にこの付近を通って帰ることもたまにあったが、恐ろしかった記憶が残っている。

 いくら近道とは言え昼間なら兎も角、一人の時でも暗い懐中電灯を頼りに寂しい道を阿品団地の人たちが利用されていたと驚くばかりである。

 今では道路や街灯も整備され、自家用車も普及しているので恐ろしい夜道を歩く人も少ない。
# by hirosan_kimura | 2015-02-06 12:19 | 道路 | Comments(0)
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 先週の水曜日に阿品台西小学校三年生を対象に、阿品の昔の話をしに行った。平成18年に話をしに行ったのが最初で、今年で10回目位になる。

 当初は児童5~6名に保護者一人が付き添い、近くの集会所や自宅に子どもたちが来て話をしていた。子どもたちも学校から自宅まで歩いてきたり、話が済むと学校まで帰るのも大変であるし、たくさんの保護者が協力しなければならないので、今では話をする者が学校に行っている。

 三年生の子どもたちが一グループ15人程度に別れ、昔の阿品についての話を聞く。①昔の学校 ②昔の風景・建物 ③昔の祭りや芸能 ④昔の道具 ⑤昔の遊びの5グループでそれぞれ地域の人が一人か二人で子どもたちに話すものである。

 自分がいつも担当するのは「阿品の昔の風景・建物」である。相手が三年生とは言えいい加減な話も出来ないので、毎回かなりの事前準備をしていく。他のグループではどのようにしておられるのか分からないが、自分は昔の写真や絵図を小さなパネルにして説明を行っている。

 子どもたちは熱心に話を聞いてくれるが20分くらい説明し、後で子どもたちが様々な質問をする。あらかじめ子どもたちの質問内容を確認し事前に先生が連絡してくださるが、突然子どもたちがとんでもない質問をして呉れるので、いつも緊張をしている。

 例年の通り、阿品は海と山に囲まれ田畑がたくさんあり家も人口も少なかったが、山を削り谷を埋め「ふじタウンや阿品台ニュータウン」が造成され家がたくさん建てられた。阿品三丁目は海の中であったなどの説明をした。

 説明が終り質問の時間にある子どもが「三丁目の人たちは息が苦しくなかったのか」と尋ねてきた。一瞬何を言っているのか戸惑っていると、「三丁目の人たちは酸素マスクをしていたのか」と聞いてきた。

 これを聞いて理解できたが「三丁目は昔海の中であった」と説明したのを聞いた子どもは、「三丁目は海の中に家があり、人々は海中で生活をしていた」と解釈したらしい。

 改めて、昔は電車線路までが陸地で、その沖の海を土砂で埋め立てて陸地にして家を建てて人が住むようになったと説明しなおしたが、子どもの思いつきにビックリすると同時に、三年生にも易しく理解出来るような説明が必要だと反省した。

 数年前のことであるが一通りの説明が終わって質問で、「昔は阿品から中国まで歩いて行けたが、何日あれば中国まで行けたのか」と言うような質問があった。何千年か何万年前か分からないが、大陸と日本が続いた時代の話をどこかで聞いた質問であろう。

 「阿品の昔」とは関係の無い想定外の質問で、「大昔のことで調べていないので、先生に調べてもらってください」とお茶を濁しておいたが、先生もさぞ迷惑であっただろう。子どもたちの発想には驚かされるばかりである。

 昔の話では無いが今は無い「ナタリー遊園地」の話をしたり、写真を見せると子どもたちが目を輝かせて聞いてくれるのは面白い。
# by hirosan_kimura | 2015-02-05 11:43 | 幼小中 | Comments(4)
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 阿品二丁目の国道沿いに「阿品二丁目公園」がある。広さは2,058㎡(620坪)でそんなに広くは無いが、近隣の子どもたちが遊ぶには丁度良い広さである。

 早朝にはお年寄りたちがゲートボールやグランドゴルフをしておられるのを良く見かける。

 この場所には依然ドライブインがあり食堂や大広間・サウナなどがあり、阿品の人たちや国道を走行する人たちが良く利用していた。

 JR駅前広場が整備される前には国道沿いに雨水の調整池があった。阿品は比較的低地であるが、干潮時には川水が海に自然流下するが、満潮時には海水が逆流し川水も溜まるので調整池に滞留させていた。

 阿品駅前を整備する際調整池が撤去された。二丁目の公園は外部から見ると分からないが、公園の下に大きな調整池が整備され、その上を蓋架けして公園に利用している。
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 公園には立派な遊具が設置されているが、遊具の傍にたくさんの禁止事項が表示されている。

①てすりにむりやり のぼってはいけません。
②すべりだいを、かけあがってはいけません。
③こわれているゆうぐで あそんではいけません。
④ぬれているゆうぐで あそんではいけません。
⑤ゆうぐにひもなどを まきつけてはいけません。
⑥たかいところから とんではいけません。
⑦ゆうぐのうえから ものをなげてはいけません。
⑧ゆうぐのすきまに ゆびをいれてはいけません。

 公園を管理する者にとっては事故でも起これば親から訴えられたり、マスコミも騒ぐので様々の注意事項を表示するのだろうが、これを全て守らなければならなかったら子どもたちは創意工夫して自由に遊べないのではなかろうか。

 子どもたちの遊びをみていると単に滑り台を滑って遊ぶのみでなく、滑る面を下から両手両足で踏ん張って上っていったり、横の方から上って行ったり飛び降りたり様々な遊び方を見つけて楽しんでいる。

 勿論危険な遊びをしてはならないが、子どもたちは様々な経験をする中で、危険なこと・安全なことを学んで行くのではなかろうか。
 昔の子どもたちは小さいうちから大きな子どもたちのすることを見ながら、様々なことを学びながら育ったものである。

 子どもたちから危険を除くのは大人の責任であるが、物事の善し悪しの付かない小さな子には親が目を離さず危険から守り、少し物事の判断が付くようになったら、子ども自身が自分から安全か危険かを判断できるように力を持てるよう育てるのが大切ではなかろうか。

 ここの公園ではないが、「サッカー禁止」「ボール投げ禁止」の公園を良く見掛ける。小さな子どもたちが遊んでいる傍でサッカーやキャッチボールなどをすると危ないが、ほとんど誰も遊んでいないような所で、あれもダメ、これもダメと言うのもどうであろうか。
 立派な広場が整備されているが子どもたちが遊んでいる姿を見掛けずひっそりした公園を見ることも珍しくない。
 他の子どもが誰も遊んでいない場所では、サッカー遊びもキャッチボールも良いが、外の子どもたちが遊びに来たら自主的にその子たちに遊び場所を譲ってあげるような、思いやりの持ったこどもになれば良いと思う。
# by hirosan_kimura | 2015-02-04 12:43 | 遊び | Comments(0)

№683 大学の艇庫

  沖山の海沿いに広島大学と広島工業大学のヨット部の艇庫がある。このあたりに広電宮島線の終点「新宮島駅」の線路の引込線があった場所である。
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 広島大学の艇庫は平屋で骨組みにスレートの外壁を貼ったような簡易な建物である。この建物の建築年度は不明であるが、昭和40年代の初めごろでは無いかと思われる。現在、広大のヨット部は広島の観音の方で部活をしているため長年この艇庫は使用されていず、まるで廃墟のようになっている。

 この艇庫で活躍していた頃は土・日などには大学生がここに来て目の前の海でヨットを走らせていた。夜になると学生たちは酒盛りを始め大騒ぎをしていたこともある。ある時、「お上がり場」に学生が集まり酒盛りをしていたことがある。大学生でそれも医学部の生徒であり優秀でエリートばかりと思っていたので、近寄りがたい存在と思っていたが、酒盛りの仲間に入れてもらい他愛の無い話で盛り上がった懐かしい思い出がある。

 この艇庫は長年放置状態であるが、なぜ撤去されないのか不思議に思う。

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 広大の艇庫と並んで広島工業大学ヨット部の艇庫がある。この施設は昭和51年に整備されているが、広大の艇庫と比較すると立派な施設に見える。

 外から見ても分からないが、一階部分は艇庫となっており15艇程度のヨットが格納されている。二階は30畳程度の広間と炊事・浴室・トイレがあるようである。外部にはヨットを海に降ろしたり陸に揚げるクレーンのような設備がある。広大艇庫にはこのような施設が無く、台車にヨットを載せて学生たちが手作業でヨットの揚げ降ろしをしていたような記憶がある。

 工業大学の艇庫は学校から車で10分程度で来ることが出来て、平成16年に創部40周年を迎えたそうである。ヨット部は観音マリーナの方でも活動しているようであるが、拠点は阿品の艇庫で土・日には学生たちがここで活動しているそうである。
# by hirosan_kimura | 2015-02-03 12:13 | 高大学 | Comments(0)
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 このブログ№661で地御前の砂畠地区の紹介で葬儀の料理欄に「オヒラとオツボ」の文言があった。これを見たある方より「オヒラ・オツボ」とは何のことだろうとの質問があった。

 何気なく紹介した言葉であるが、地御前の人だけが使っていた昔の方言くらいにしか思っていなかった。念のため辞書を引いてみるとちゃんと載っており「おひら」とは、御平と表記し①平椀に盛った料理②平椀、平型かぶせ蓋の椀③鯛等の説明がある。

 「おつぼ」は御壺と表記し、①膳部にのせる、壺に入れた食物②御所などの中庭の敬称よある。ちなみに御壺に口を附けると、御壺口(おちょぼぐち)となるそうである。

 また別の人のコメントでブログの「廿日市ぶらり 2012年2月13日掲載(大原講中 講中膳)」で「おひらとおつぼ」を紹介していると教えていただいた。また「廿日市町史 通史編(下)」の998頁に宮内の佐原田講での葬儀の食事で紹介してあるとも教えていただいた。

 「おひらとおつぼ」を紹介して頂いた方のブログ「廿日市ぶらり」は、驚くほど各所に足を運ばれ専門的知識で記事を書いておられ驚くばかりである。興味のある方はこのブログを覗かれてはどうだろうか。

 いずれにしても何気なく訳も分からず紹介した「おひらとおつぼ」であるが、そう遠くない昔に当たり前に使われていた言葉が、今では死語のようになっている。阿品の地域でも自分たちが子どもの頃に極自然に使っていた言葉でも、今の人たちには意味が通じない場合が沢山見受けられる。
# by hirosan_kimura | 2015-02-02 15:39 | 冠婚葬祭 | Comments(0)

№681 じんねんさん

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  このブログ№654で「厳島神社の神馬」を掲載したが、今ではこの白馬も居なくなり厳島神社入口の白馬舎に作り物の神馬が展示してあるのみである。厳島神社の神馬は色の付いた馬が奉納されても、数年経つと白馬になると年寄りなどから聞いたことがあるが本当だろうか。

 毎年、地御前神社の「馬飛ばし」の日には、厳島神社の人が白馬を引き連れ阿品の国道を地御前神社に向かう姿が見られた。夕方には地御前神社から厳島神社まで連れて帰っていた。

 阿品ではこの白馬を親しみを込めて「じんねんさん」と呼んでいた。阿品には「神馬のくぼ」「じんねいばな」の地名が残されている。「神馬(しんめ)」が「じんね」となり「じんねんさん」と変わったのかも分からない。

  流鏑馬で走る馬の写真はたまに見掛けることはあるが、この白馬が地御前神社に連れて来られた時の写真でも無いかと探してみたがなかなか見つからなかった。先日、いつもブログの材料を提供して下さる方より白馬が写った写真を提供してもらった。

 写真の場所は、地御前小学校脇の「大歳神社」下の「釈迦堂」の前である。写真を提供して貰った方は昭和初期のものでは無いかとのことであるが、傍に写っている子どもの服装から見ると昭和20年代か30年代のものでは無いかと推測されるが、詳しい年代は分からない。

 この写真を見ると、祭りの朝に阿品の道路を地御前神社に向かい、夕方になると厳島神社に歩いて帰る白馬の姿が思い出される。

 また祭りの日には授業中もそわそわして、学校が終わると沢山の露店や祭り見物の人たちの中を急いで家に帰り、僅かな小遣いをを貰って祭り会場に行っていたことなどが懐かしく思い出される。
# by hirosan_kimura | 2015-01-31 11:14 | 行事祭礼 | Comments(5)
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滅多に手紙やはがきを郵送する機会もないが、近くに郵便ポストがあれば至極便利である。幸い我が家では歩いて数分も掛からない場所に郵便ポストが設置されている。

 現在阿品全体では18個の郵便ポストが設置されている。阿品一丁目2か所、二丁目2か所、三丁目3か所、四丁目1か所、阿品台10か所で全部で18個の郵便ポストが設置されている。

 郵便ポストはメールの普及や人口減で、全国的にみれば設置数が減少しているらしい。ポスト1個当たりの人口は全国で700人程度となるが、阿品ではポスト数と人口からみれば780人程度にポスト一か所ととなるので全国平均よりやや少ない程度で、ほぼ全国平均に近いポストが設置されていることになる。

e0125014_11414985.jpg 現在ではこのようにたくさんあるポストも、かつては阿品全域で1個のポストがあるだけであった。場所は鰆浜(現在の阿品一丁目)の広電停留所前にあった藤川商店に設置してあった。図の赤丸の場所である。

 阿品で最初に開店し唯一の店であった「藤川商店」も店主の方が亡くなられ、一時親戚の方が引き継いで居られたが間もなく閉店された。その後鶏肉の加工場になっていたがこれも無くなり、今では一般住宅が建てられている。

 いつの時代に設置されたのかは分からないが、このポストは三丁目の埋立、ふじタウン・阿品台が開発されるまでの長い間、阿品の人たちの唯一の郵送手段として利用されてきた。この地にあったポストは現在では鰆浜の集会所脇に移転されている。

e0125014_10555981.jpg 当時のポストの写真でもあれば良いがなかなか手に入らない。

 阿品で唯一のポストは壁掛け式で、現在では余程田舎の方にでも行かないと見る事が出来ない。
# by hirosan_kimura | 2015-01-30 14:05 | 通信 | Comments(4)
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 昭和31年3月16日、本村と大野町との境界を明らかにする必要が生じたので、緊急に村議会の協議会が招集された。問題は阿品部落、田尻の村境から、山頂のオドネ境に連なる境界の不確実な箇所を明らかにする方法であった。

 これは、相当意見を闘わせた結果、早急に大野町に連絡して双方協議のうえ、要所要所に境界標を打ち込む、ということに落ちついた。要所とは大体神馬谷、ナマコ山、赤子谷などである。

 この協議に附随して、阿品の奥の村有林を間伐する問題についても審議された。その結果、
一、間伐本位に切ること。
二、伐採は阿品部落の希望者のうち出来得る限り経験者とすること。
三、間伐に対する日当は出さないが、切った木は個人の取得とする。
四、無暗に切ってはならないので監督者を一名つける。

 伐採者を阿品部落の経験者としたのは、間伐現場が大変困難を極める所なので、実際問題として考慮が払われたわけである。

 今一つ当日協議されたのは、スリコギ谷及び長サコの谷の立木売却についてであった。これは、三月二十日に指名競争入札することに一致し十三名の指名、その他入札日に関する重要事項等が決定された。
# by hirosan_kimura | 2015-01-21 14:19 | 地形 | Comments(4)
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 昭和7年3月に、五日市~阿品付近まで新国道が完成している。この写真は余り鮮明ではないが、開通当時の沖山橋付近のものである。この付近の風景は今では大きく変わっているが、自分たちが小学校に通学していた頃はほとんどこの風景と一緒であった。

 旧国道は電車軌道左側を地御前神社付近まで狭い道路であった。新国道と広電軌道を新設するため、海を埋立て山を削って用地を確保するという大工事であった。

 特に沖山付近は国道と電車軌道を立体交差さすために難工事であったと言われる。

 新国道開設当時は道路は舗装されていず、砂利道のままであった。

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 鰆浜側も海を埋立て山を削って用地の確保が行われたが、現在のように重機もなく人手による作業が大半だったらしい。

 左下電車軌道のすぐ上側に、広電の「新宮島駅」が設けられ、宮島に渡航する連絡船乗り場もあった。この電車駅も宮島への渡船場も、広電軌道が宮島口まで開通すると同時に廃止された。

 この付近もバイパスの橋脚が架けられ、今では風景も大きく変わっている。

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 この写真は上の新国道開通場所とほぼ同じ場所から写した写真であるが、沖山の山は削られ建物が建てられ大きく変わっている。
# by hirosan_kimura | 2014-12-07 11:29 | 交通 | Comments(2)
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 昭和28年7月15日号「ぢごぜん広報」に7月1日現在の部落別世帯数・人口が掲載されている。記事の内容は

「男女のつり合は?
 戦争によって女が男より大分多かったが神様はよくされたもので、終戦後八年、男女数の平均がほぼとれてきた。」

 当時の村全体の世帯数は869世帯、人口は3,932人となっている。村の内、「鰆浜」「阿品」部落は飛郷で「阿品地区」、阿品地区を除いたものが本郷と区分されていた。

 当時、飛郷の阿品地区は世帯数は101世帯で村全体の11.6%を占めていた。人口は552人で村全体の14%であった。

 平成26年10月現在では地御前地区と阿品地区を合わせると、世帯数は9,049世帯で当時と比較すると10.4倍、人口は21,370人で5。4倍となっている。当時一世帯当たり4.5人の家族が2.3人となっており核家族化の進んだ状況が良く分かる。

 阿品地区のみでみると、世帯数が101世帯から5,796世帯と57.3倍、人口は552人が13,864人で25.1倍と脅威的に増加している。

 ちなみに地御前地区では、世帯数が768世帯から3,253世帯へと4.2倍、人口は3,380人が7,506人と2.2倍の増加であるが、如何に阿品地区の世帯数・人口の伸びが大きいか伺える。

 当時阿品地区は世帯数で11.6%、人口で14%を占めているに過ぎなかったが、現在では世帯数で64%、人口で64.5%と本郷と飛郷の比率が逆転してしまった。
# by hirosan_kimura | 2014-12-06 11:55 | 人口 | Comments(0)
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 地御前の地名を紹介したが、これらは部落毎の地名でいつの時代から名附けられているのか分からない。

 上図はいつの時代のものか分からないが、海岸線は現在のJR線路より山側になっている。観音堂は離れ小島となっているが、今では周囲は埋め立てられ家屋が密集している。金剛寺の沖には「二ツ山」の地名も見える。

 この図に「砂畑」「八ツ面」「余田」等の地名があるが、この図の時代からあった地名か後から書き加えられたのかは分からない。

 文政二年(1819年 195年前)の「国郡志御用下調書出帳」に当村小名が記録されている。

「金剛寺(コンゴウジ)」 「今市(イマイチ)」 「ヤリコ廻(ヤリコザコ)」 「八ツ面谷(ヤツヲモテダニ)」 「野坂谷(ノザカタニ)」 「見上寺(ケンジヤウジ)」 「若宮谷(ワカミヤタニ)」 「横竹(ヨコタケ)」 「大迫谷(ヲヽサコタニ)」 「大神谷(ヲゝカミタニ)」 「氏ノ面(ウジノメン)」 「我が迫谷(ワガサコタニ)」 「花香林(カコウハヤシ)」 「志和久谷(?)」 「臼が迫(ウスガサコ)」 「本サコ(ホンサコ)」 「蛇が谷(ジャガタニ)」 「権四郎谷(ゴンシロウタニ)」 「牛が谷(ウシガタニ)」 「水木が谷(ミズキガタニ)」 「サバゝ谷(サババタニ)」 「塩鳥(シオトリ)」 「前ケ谷(マエガタニ)」 「挽木谷(ヒキギタニ)」 「椿谷(ツバキタニ)」 「ジゴク谷(ジゴクダニ)」 「隠亡谷(ヲンボウダニ)」 「釜が休(カマヤスミ)」 「ナカイケ」 「観音谷」 「晒シ越谷(サラシゴエタニ)」 「竹ノ内} 「神馬ガハナ(ジンメガハナ)」 「「松が久保」 「見ノ越(ミノコシ)」 「ヱノシリ」 「灰床(ハイトコ)」 「田屋」 「平原(ヒラバラ)」 「宮崎(ミヤザキ 平原之内)」 「キヨヒラ」 「神家(ジンガ)」 「鹿ノ子谷(かのこだに)」 「三枚田(サンマンデン)」 「鴨原」 「阿品」 「鰆浜」 「上田尻」 「下田尻」

 上記の内、「蛇が谷」「権四郎谷」「牛が谷」「塩鳥」「前が谷」「挽木谷」「椿谷」「ジゴク谷」「隠亡谷」「晒シ越え谷」「神馬ガハナ」「見ノ越」は阿品地区の小字であった。「灰床」は沖山と火立岩間の海岸付近である。

 また、「阿品」「鰆浜」「上田尻」「下田尻」については「飛郷」と注釈が付けられているが、地御前村時代は「大字」であった。
# by hirosan_kimura | 2014-12-05 05:46 | 地名 | Comments(0)
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後に控えた後山町の巻

 「部落めぐり」の最終回として、当後町がその名にふさわしく最後の便りをいたします。この部落は、役場の後に当たり、また背後に山を控えているので「後山」と言われるのかも知れません。狭い地域ですが、家屋が密集しているので世帯数は六四もあり、人口は二七一(男一二六、女一四五)となっております。

 部落の特徴といっては別にありませんが、他部落に無いものとしては建具店が二軒(高橋、小方)あります。また特記事項としては消防用水池が有ります。逓信病院へ通ずる広い道路端、山の下に有るこの池洲は、一昨年の二月下旬から三月上旬えかけて完成されたもので、消防用水として万一火災の折の力強い水源であります。これは消防団の方々と部落民および周辺部落の労力奉仕によって堀り下げられたものですが、当時の御協力を振りかえり、深い感謝を捧げる次第であります。

 「部落のお金は会計担当の方に聞かなければよく分かりませんが」毎月電燈料を各世帯から二十円徴収して支払った余りと毎年二回行われる道作り奉仕出不足代金とを合わせて積立になっているものと思います。

 保健衛生その他の面で他部落との協力をお願いしてこの稿を終わります。

(昭和30年1月1日 総代木戸記)


注 一部紹介の無い部落は{ぢごぜん広報}が欠番しているため。
# by hirosan_kimura | 2014-12-04 05:03 | 地名 | Comments(0)
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えびす町の巻

 当部落は、役場・農協を結ぶ線より北に展開する村内の中心街であります。胡子町といっても胡子神社はありません。昔は新宅(しんや)部落と言っておりましたが、明治以降いつごろから現在の胡子町と呼ぶようになったということです。

 戸数は四六、世帯数五二、人口二一九で男女の比例はほぼ相半ばしております。職業別には給与生活者二四軒(四七%)、農業及び商業それぞれ八軒づつ(各一五%9、その他一二軒(二三%)で、前記役場、農協の外に医院、呉服屋、醤油屋、食料品雑貨、花屋、理髪店等,仲々賑やかです。

 隣接部落に比べて土地が高いので、毎年の風水害の心配は少ない割に、井戸水は良くない家が多いので困ります。

 またお宮やお寺のような宗教的な建物がなく淋しいので、有志の方々が大歳神社前の仮堂に居らっしゃるおしゃか様をお迎えしようとして場所を当たっておられますが、仲々適当な土地が見当たらず未だに実現していない状態です。

 部落には衛生組合を組織し、婦人会の方々のお骨折を主として、衛生に意をそゝぎ、かやはえの居ない部落を目指して努力して年々実績をあげ、部落民感謝の的になっております。

(昭和29年12月1日 胡子町総代江盛記)
# by hirosan_kimura | 2014-12-03 05:37 | 地名 | Comments(0)
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新港町の巻

 当部落は、人も知る郡下屈指の地御前海水浴場を控え、瀬戸の海とみなとぢごぜん及び国鉄山陽本線とに囲まれた一団の部落です。この中に人口一四八、世帯数三八、内男七三、女七五の善良なる村民が住んでいるわけです。職業別には、農家三、漁業六、商業二、その他二七の割合になりそれぞれ一致協力して仕事に精出しております。

 部落の中央を国道と電車線路が突っ走り、半分は国道より沖にはみ出しておりますが、夏は海水浴客で賑わい村の人々に地宮館の昔懐しい呼び名で通っていることはすでに御承知のこと、廿日市鉄道職員会館は先ごろ宮島鉄道職員会館と改名されているようですが、いっそのこと「地御前鉄道職員会館」になればよいと思います。

 その外、名産地御前イリコの網干場や石油の海上中継所たる中国石油株式会社、あるいは本村の産業で重要な地位を占めつゝある広島ベニヤ工業株式会社の原材料集積場等、仲々誇れるものも沢山あるわけです。

 どうぞ地御前神社にお参りの節や御用事でお通りなるときなど、こういうことを思いだして下さい。

(昭和29年11月1日 新港町総代羽佐田記)
# by hirosan_kimura | 2014-12-02 05:59 | 地名 | Comments(0)
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濱町の巻

 当部落はその昔浜辺であったので浜之町と名附けられた。浜の町は戸数五十七戸で農家三十四、商家三、その他二十、人口約二百五十名、内男五、女五・五の割合であります。

 部落の中程に鉄筋コンクリートの警鐘台があって、村の大部分を一望の内に眺める事が出来、この警鐘台は大正十二年秋浜、砂畠有志の思案により始めは木造であった。建設に当たっては有志の方々杉柱を寄付され多くの人々が労力奉仕をし、火の見櫓として建設された。

 先端に吊された半鐘は当時米国より帰朝された元山彌七氏が記念として寄付された物で、一打すれば一円はもとより村外に迄も響き人々の胸を警しております。年月と共に老朽化したので危険を恐れ、昭和十一年鉢月鉄筋コンクリートによる動議が起こり、当時多額の経費を仰ぎ労力奉仕により、高大な警鐘台が建設され水火防犯等の危急を報じております。

 衛生改善としては地元関係者が多年悩みの種ともなっていた下水溝でこの改善に思を寄せていた処、昭和二十三年春村当局により資材の提供を受け、関係者各位の熱心なる労力奉仕と共にコンクリート施設工事が遂に出来上がり、衛生改善の基盤を築上げその後村衛生主催を中心に衛生組合を作り、部落組長・婦人会の協力を得て、野壺の蓋を作り便所の予防消毒、室内煙霧等施行して蝿や蚊の発生を防ぎ、屋外の清掃は各家庭共に(児童の協力を含む)お互いに気を附け、清潔と健康を促進しては薬代の縮小を計り、便所の蓋を作ると共に便の早期汲取り等各家庭にお願いして蝿の発生を事前に防止することに努力致したいと思います。

 終りに名声薫四海、清河活力も香よく当部落より湧き出し愛飲家の色を飾って居ります。

(昭和29年10月1日 浜之町総代吉本記)
# by hirosan_kimura | 2014-12-01 04:57 | 地名 | Comments(2)
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南町の巻

 「南町」の町名は、いつ頃つけられたものかよく分かりませんが、北は大小路を境として中の町、東は山陽線の鉄路を隔てゝ新港町、西は瀬戸川向こうの鹿の子町とに囲まれたいわゆる地御前街の南にある部落であることから言われたものと思います。

 世帯数は五十九で、内農業は十二、漁業七、その外会社その他に勤めておられます。当部落には小学校あり、公民館あり、青年会館あり、氏神さんの大歳神社(近く再建)あり、また有名な地御前神社あり等々、とても文化教養施設の多いところで、他部落に誇れるわけです。

 部落の南側に鉄道の踏切が有って、昔こゝには踏切番がおられたのは皆様御存じのことですが現在はどうしたわけか有りませんので、時々事故を起しています。特に学校の子供などが通うのに非常に心配です。十分御注意願いたいと思います。

e0125014_14453019.jpg 次に有名な地御前神社の祭神は厳島神社と同じく市杵島姫命外十柱で航海守護の神様です。鎮座の起元は神武天皇東征の時お立ち寄りになった所だというもの、推古天皇の時、厳島神社と同時に鎮座されたというもの、あるいは風波で神官が宮島え渡れない時厳島神社を遥拝する所であったとゆうもの等の諸説がありますが、平清盛の時代に存在していたことは確実とゆうことです。

 郷土史に出ていたように「地御前」の地名もこの社殿名「地の御前」の略称をとったと言われています。詳しいことは先ほど掲示されましたから御覧下さい。たゞ旧五月五日の御綾夜祭と六月十七日の管弦祭は余りにも有名です。

(昭和29年9月1日 南町総代 松本記)

追記
 氏神社、大歳神社の再建改築工事は、十月上旬より基礎工事に着手していたが、近く木取りに取りかかることになった。工事完了は大体来春五月末日ごろの予定。
# by hirosan_kimura | 2014-11-30 05:39 | 地名 | Comments(0)