素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura
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  昔、神武天皇が阿品に来られ水を飲まれて「此処の水は味が無い(あじがない)」と言われた。これが阿品の地名の由来である。子どもの頃、お年寄りから良く聞いた話であるが本当のことだろうと思っていた。

 しかし神武天皇は神話の中の人で、歴史学者の中には神武天皇の存在そのものを否定する説もある。

 神武天皇は前667年10月5日に日向の国を出発され、大和国を目指し東征され、その途中で宮島に寄られた後、船で地御前の「有府の水門」に着岸された。有府の水門は地御前神社南の入江で、現在でも僅かに面影が残されている。

 地御前で休憩された後、海岸沿いに船を進め串戸に入られしばらく宮内に滞在され、12月27日に府中埃宮を訪問された。 「宮内」「串戸」等の地名は神武天皇に由来すると伝えられている。

 伝説によると神武天皇が阿品に寄られた形跡は無く、神武天皇が阿品で水を飲まれ「味無い」と言われたのが、阿品の地名の由来と伝えられているのは疑わしい。

 この言い伝えは後世の人の作り話で、いつの時代か分からないが阿品の人々に語り継がれてきたものであろう。

1月9日追記
 阿品の水を飲んで「味無い」と言われたのは、神武天皇でなく弘法大師との説もある。弘法大師伝説は全国至る所にあり、その大半は後世の人の作り話が後に、あたかも真実の如く伝わっているものと云われている。果たして弘法大師が阿品に来られて水を飲まれたかは、永遠の謎であろう。
# by hirosan_kimura | 2008-12-25 04:32 | 伝説民話 | Comments(0)
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 昭和8年10月に下田尻の海岸に「田尻飛行場」が開設された。場所は現在廿日市高校の艇庫があるあたりである。

 飛行場と言っても水上飛行機が使用され、滑走路は無く簡単な設備が設けられていたのみらしい。

 この飛行場は「鼓ケ浜航空学校」と「宮島航空研究所」として開設されたものであるが、事実上は二枚看板の一施設で、航空士の養成をするかたわら、遊覧飛行も行っていた。

 遊覧飛行は水上飛行機による宮島一周で、料金は一人五円・飛行時間は約15分・飛行距離は約30㎞であった。

 遊覧希望者は多かったが安全性に欠けていたため、開始されて間もなく遊覧飛行は中止となった。

 養成所は昭和16年頃廃止された。
# by hirosan_kimura | 2008-12-24 05:38 | 交通 | Comments(0)

№11 監視山

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 鰆浜と阿品を分断し海岸まで伸びた丘を「監視山」と言う。また「神馬山」「勘七山」との呼称もある。

 先端部は「神馬鼻(じんねいばな)」「神めいの鼻」「神馬山鼻」「神馬ガハナ」等の地名が伝えられている。

 高さは約40㍍で、拝床山と田尻山の中間にあり、前面に海を控え似の島や厳島が眼下に見える。

 阿品谷の奥から更地峠を越えれば、大野村海岸方面の情報が入手でき、中山峠を通れば旧山陽道の情報が入手できる。

 又、尾根伝いに神能山に登れば遠方まで見渡せるため、敵軍の行動を見守るという軍事上の情報蒐集の拠点と言われた古地名である。

 国道の新設のため先端部は大きく削られているが、かつては松の木も生茂り昭和30年代頃までは「まつたけ」も沢山採れていた。

 今では信じられないが、国道側の丘からから清い水が流れ落ちていたが、いつの間にか涸れてしまった。

 阿品側は一時「新宮島遊園地」として整備され、皐月や桜の鑑賞に人々が訪れていた時代もあったが、次第に廃れて行き今は荒れ放題となっている。
# by hirosan_kimura | 2008-12-23 04:00 | 地名 | Comments(0)
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現在の広電宮島線に今は無い駅があった。それは「新宮島駅」である。西広島バイパス出口が国道2号線を跨いだ橋脚の下の海岸添い附近である。

 広島電鉄宮島線は、己斐~草津間が大正11年8月22日、草津~廿日市間が大正13年4月6日に営業開始された。

 廿日市~宮島口間は地御前以西が海岸の埋立を要し、完成までに日数を要するため開業はとりあえず地御前までとされ、大正14年7月15日に営業が開始された。

 宮島に渡航するには地御前駅から連絡船乗り場まで離れているため、そこまで歩いて行くか自動車を利用するため、人々は不便を強いられていた。

 大正15年7月15日には線路が延長され「新宮島駅」の開業により、宮島へ渡航する人々の利便性が一層増すこととなった。

 新駅は仮停車場であったがその設備は、乗降場・側線・本屋・便所・電話機とあり、列車保安法は閉塞信号機とある。

 昭和6年2月1日に宮島線が宮島口まで延長され、同時に新宮島~厳島間の航路が廃止されたため、同日に「新宮島駅」は廃止された。
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 上の写真は小さな物を拡大したので鮮明でないが当時の駅舎で、左上は今は無い「火立岩」である。

 下の写真は反対方向から見た、駅のあった附近の現在の様子である。
# by hirosan_kimura | 2008-12-22 05:25 | 広電 | Comments(0)
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 現在の阿品は廿日市市の一部であるが、昭和31年9月には旧廿日市町・平良村・原村・宮内村・地御前村が合併し、新廿日市町となり昭和63年4月1日に市制施行されたものである。

 阿品は地御前村の一部であったが、かつて阿品は独立した村であったことがある。

 元和5年(1619年)7月13日の「厳島社家・供僧・内侍三方給地等付立文書」に「河井村(下平良の可愛か?)・宮内村・阿字名村(今の阿品)・地御前村」などの村名が載っている。

 同文書には「座主領として一、地御前・四十五石余 一、阿字名村・九石壱斗」と記されている。

 しかし、慶長6年(1601年)の検地において「阿字名村」は余りにも小さく、時代は不明であるが芸藩成立以前に地御前村の一部となった。

 現在でこそ阿品地域は世帯は5,000世帯以上、人口も15,000人程度の地域となっているが、僅かな世帯・人口しかない地区が、独立した村であった歴史があるのである。
# by hirosan_kimura | 2008-12-21 10:58 | 行政 | Comments(0)

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 現在、宮島へ渡るのは宮島口から連絡船が出ているが、かつて広電宮島線が地御前までしか開通していない時代、鰆浜から宮島への連絡船があった。

 当時、宮島線は地御前小学校の体育館附近に停留所があったが、宮島への乗船客はそこから約800㍍離れた連絡船乗り場まで歩いて行くか、厳島「岩惣旅館」の自動車で行っていた。

 しかし電車で宮島へ参拝する人にとっては余りにも不便なので、地御前より連絡船乗り場附近まで線路が複線で延長され、大正15年7月16日に「新宮島」駅が開業した。

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 連絡船は三菱造船所で建造され、「第一宮島丸」46.53㌧、「第二宮島丸」46.53㌧、「第三宮島丸」71.92㌧の三隻があった。

 船は40分間隔で発着し船賃は15銭であった。この航路は大野町赤碕まで電車が延長し、宮島口に連絡船航路が新設されたため、昭和6年2月1日に廃止された。

 下の写真は、西広島バイパスが整備される前の渡航乗船場のあった附近の写真である。
# by hirosan_kimura | 2008-12-20 07:12 | 海運 | Comments(0)

№7 おしえ地蔵

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 旧岩鏡神社奥の谷に入った古道は、途中で大野の「更地」と「中山」に向かう道で分かれていた。

 このお地蔵さんはその分岐点に設置され、旅人や村人が道を迷わないよう、また旅の安全を見守るために安置されていた。

 地元の人々はこのお地蔵さんを「おしえ地蔵さん」と親しみを込めて呼んでいた。

 阿品台団地造成のため古道のあった谷が埋立てられたため、ふじタウンから阿品に下りる道の傍に安置されている。

 阿品の地域では団地造成等のため、かつての古道の大半が消滅しているが、大野側では当時と余り変わらない状態で残っており、今でも当時の雰囲気を伺うことができる。

 お地蔵さんの横には、由来を詳しく書いた説明板が設置されている。

 地蔵菩薩の手の形にははっきりした決まりは無いが、手に持ち物の無い空手地蔵もあれば、宝珠を持つ宝珠地蔵等がある。持ち物のない場合は「施無畏敬印」か「与願印」と言うのが普通の形である。

 「教え地蔵」は向かって右の手が西の方向を指しており、他に例を見ない形状である。

追記 12月30日 コメント戴いた方の情報
  昔、地蔵さんそばで遊んでいた男の子が、誤って地蔵さんの指を折ってしまった。後にその子が日露戦争で亡くなった時、地元の人は「地蔵さんの罰があたった」と噂したという。
# by hirosan_kimura | 2008-12-19 11:43 | 伝説民話 | Comments(0)

№6 昔の主要道路

e0125014_17135076.jpg 阿品の海岸沿い道路の無い頃、地御前から山を越え阿品を抜け大野に至る道路があった。

 この道は地御前神社附近から山に入り、「光の園」附近から山越えをし阿品に通じていた。鰆浜の「大谷」に下り今の阿品台下水処理場の下附近に抜けていた。

 其処から少し鰆浜の谷を奥に入り、「見ノ越」を越え山道を下り阿品に通じていた。峠を降りて阿品の東側山沿いを奥に抜け、「旧岩鏡神社」附近から奥の谷を抜け、山道を越えて大野方面に至っていた。

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 これらの小道は阿品台を造成する以前には、随所にその痕跡を伺うが出来たが、山を削り谷が埋められ、残った道路も拡幅・改良され殆ど残されていない。

 僅かに残されているのは、「見ノ越」を越え阿品の谷を下る部分と、花野宅裏と丸市宅前のほんの一部のみである。

 「見ノ越」は「蓑越し」「見ノ越峠」と標記されることもあった。
# by hirosan_kimura | 2008-12-18 10:11 | 道路 | Comments(0)

№5 鰆浜の荒神さん

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 鰆浜の丘の上に、めったに人の訪れることもない小さな祠がひっそりと佇んでいる。

 この祠は「荒神さん」を祀ったものであるが、明治30年頃山陽本線の工事に当る人達が、工事の安全祈願のため祀ったと伝えられている。

 設置当時はトンネルの上附近に祀って在ったらしいが、お参りするのに不便なので、地元の人達により現在地に移設された。

 その後、祠は長年の風雪や二度による山火事により朽ち果てていたが、平成8年4月に新しく建て替えられている。

 荒神
 仏・法・僧の三宝を守護する神。民間では「かまど」の神。または防火・農業の神。
# by hirosan_kimura | 2008-12-17 07:14 | 宗教 | Comments(0)
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 阿品は近年、海が埋立てられ山を削って団地が造られ昔の面影は全く失われている。大昔の阿品は山が海まで迫り、鰆浜と阿品の谷は海が奥まで有り大きな湾となっていたらしい。

 平地は殆ど無く、今の阿品台のすぐ下まで海であった。

 
 古い時代の地形について残された物が無いので、推測の域は出ないがその後、長い時を経て川から砂が流れ出し、海の砂が寄せてきて僅かの平地が出来、いつの時代かに人が住み着いたと思われる。

 その後小規模の埋立があったかもしれないが、山陽本線の奥附近まで平地であった時代が長く続いたと考えられる。

 阿品が大きく変わったのは、山陽本線・国道・広電宮島線の敷設により海岸が埋立てられ、近年になって大規模な宅地造成のため、山が削られ谷が埋められて現在の形となったものである。
# by hirosan_kimura | 2008-12-16 10:13 | 地形 | Comments(1)
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 伊能忠敬は全国を測量して周り日本地図を作製したが、当時の地図としては極めて正確で欧米の人々もその正確さに驚嘆したと言われる。

 文化3年(1806年)3月28日には、伊能忠敬が阿品地域の測量を行っている。

 当日の天気は曇天。六ツ時(午前六時)から大野村(現在は廿日市市)丸石峠から測量を始め、地御前神社まで測量を行った。

 測量隊の一行は当日、地御前村本庄茂衛門宅、他に百姓出来蔵宅に止宿した。

 翌日29日は朝曇り、六ツ半(午前七時)頃出立し、地御前神社鳥居より測量を開始し、当日は井口村(現在は広島市)境まで測量を行った。

 写真の地図は伊能忠敬が測量したものの概略図であるが、詳細分があれば今から157年前の阿品地域が詳しく分かるあろう。
# by hirosan_kimura | 2008-12-15 10:06 | 地図 | Comments(2)
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 現在、阿品三丁目のふじグラン・マンションのある場所に,昭和49年4月23日に当時西日本一と言われた「広島ナタリー」がオープンした。総工費は128億円、敷地面積は77,00㎡。

 ナタリー号という帆船が置かれたプールを中心に、当時は高さ65㍍で東洋一を誇る観覧車・ジェットコースター・その他遊園地の基本的施設が整備されていた。

 当時はJR阿品駅・広電阿品駅も無く、自家用車以外の来園者は今の広電阿品東駅を利用し、休日等は海岸沿いを列をなして歩いて遊園地まで行っていた。

 その後、巨大迷路・ループザループ・冬季にはスケートリンク等も整備されたが、入園料・園内の施設使用料も高く、平成に入り「スペースワールド」「呉ポートピア」などの競合施設の登場もあり、徐々に入園客も減少し年間の赤字も数億円に達するようになった。

 施設も老朽化しその補修には数十億円を必要とされ、資金的に対応しきれなくなった。こうして開設以来、近郊の子どものみでなく大人にも夢と思い出を残し、平成8年3月31日に20余年の幕を閉じたのである。

 この間912万人が利用したが、跡地利用として宿泊施設を備えた保養施設の計画もあったが実現せず、大型商業施設とマンションに生まれ変わったのである。
# by hirosan_kimura | 2008-12-14 10:53 | 娯楽 | Comments(3)
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 阿品東駅は宮島線新宮島駅~宮島口間が延長されたのに伴い、昭和6年2月1日に開業した。

 当時の駅は現在の国道2号線下り車線附近にあったが、西広島バイパスの開通に伴い道路が拡幅され、線路・駅舎ともに海側に移設された。

 それまでは下りホームは海に面し、ホームから魚釣りができたり、夏になると子ども達はホームから海に飛び込んで遊んでいた。
 
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 現在の駅名は「阿品東駅」であるが、開業当初は「阿品駅」。昭和29年1月1日には「地御前県病院前」。昭和47年3月1日には県病院の廃止に伴い再び「阿品駅」。

 平成13年11月1日には「JR阿品駅」と広電の駅名を統一するため、「田尻駅」が「広電阿品駅」に改称されたため、「阿品東駅」と改められた。一つ駅でこれほど駅名が変更されたのは、全国でも例をみないのではなかろうか。

 それにしても「阿品東駅」とは味気ない気もする。新駅名に改称するさい地元と協議があったのかは知れないが、「鰆浜駅」にでもなっていればと残念な思いがする。
 
 現在、一日の乗降客は500人を切り宮島線の中でも最も乗降客の少ない駅である。かつてはJR阿品駅もなく阿品で唯一の駅であった。

 ナタリー遊園地が出来た当時は「広電田尻駅」は開業していず、電車での来場者はこの駅で乗降し遊園地まで徒歩で行っていた。

そのため休日には来場者が列をなし、ホームに入りきれないほどの乗降客があった。また、阿品台から広島方面に通勤・通学する者もこの駅を利用していた。
 
 JR阿品駅・阿品台からのバス便・田尻駅の新設のため、阿品東駅の乗降客は僅かとなってしまった。阿品に最初に出来た駅ではあるが、現在の利用状況を見るとまことに寂しい限りである。

 また、この駅を利用するためには高い歩道橋の階段の上り下りが必要で、高齢者の増加も伴い利用者減に大きく影響している。

 しかしこの駅は海岸沿いにあり、上り車線はカーブしており電車の写真を撮るには絶好の場所と言うことで、全国の鉄道写真マニアには有名らしい。
# by hirosan_kimura | 2008-12-13 14:22 | 広電 | Comments(0)