素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

№812 吉田病院

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 もの心ついた頃に、私の家の隣に大きな病院が建った。工事中は広い敷地の中で飛んだり跳ねたりして遊びまわり、職人さんたちによく叱られた。

 本院は広島市の大手町にあって、ここは分院だと聞いたが、最初は精神科専門であった。夜中に泣き叫ぶ声が聞こえたり、セメント塀を飛び越えて逃亡する患者に直接出くわしたこともあったが、不思議と恐ろしいというイメージはなく、いまだに懐かしい感情がある。

 それは多分、病院の売店で働いていた森本という人の子供が遊び友達だったことや、患者の中に窓越しにニコニコ手招きし、空ビンに絵を貼り付けて細工した花立などをくれた人がいたからだろう。庭に植えられた桜の木の下で院長招待の花見をしたことも何回かある。

 時代は変わり、病院の跡地には「南風荘」というアパートが立てられ、今は五十数戸のマンションになっている。なお現在は、マンションの一階には「吉田病院」がある。これは最初の病院建設からいえば三代目にあたる院長さんが開院しておられるものである。                 「そうらんば 鰆浜の昔話 残したい話」より

(吉田病院についてはこのブログ №87 №451 №558 でも関連記事を紹介している。)


# by hirosan_kimura | 2020-05-31 10:15 | Comments(3)
№811 地御前煉瓦製造所_e0125014_11043514.jpg
 明治二十八年(一八九五年)、吉田病院(現在、藤和ハイタウンの建っているいる所)の北側から山の麓にかけて煉瓦製造所が開設された。経営者は諏訪氏といい、現在佐方本町の人である。その翌年に生まれ、幼くしてみなしご状態になった私の父を引き取って育ててくれた人でもあった。

 私が生まれた大正末期にはもう廃業しており、製造所の建物はなかったが、子供の頃、煉瓦造りの細長いトンネルのような焼き窯だけが山の麓に残っていて、雨の日などよく遊んだ記憶がある。

 古い写真を見ると、煉瓦製造所が地元や周辺の人々にとって、相当に大きな働き場所だったことが窺われる、大正二年の記録によると、年間三五七日稼働し、休日はわずか八日。一日九時間働いて賃金は男五十銭、女二十五銭、とある。
 (当時の米価は一升十二銭から四十五銭の間を上下している。
                   「そうらんば 鰆浜の昔話 残したい話」より

(同じ施設である ”鰆浜の煉瓦工場” を、このブログ№27で紹介している。)

# by hirosan_kimura | 2020-05-28 11:23 | Comments(2)
№810 そうらんばのつどい_e0125014_10460283.jpg
 とんど復活の前年、昭和53年(一九七八年)から同昭和六十三年までの十一年間、集会所と県グランドを会場に、子供から年寄りまで楽しめる行事「つどい」を行っていた。

 夏のキャンプファイヤーから始まり、やがてやぐら太鼓を組んだ「お盆のつどい」に発展したのである。年々の祝儀でそろえた道具はボンボリ、大中小の提灯、風車、幔幕、照明設備などかなりのもので、今も夕涼みの会や花見などで大いに役立っている。

 盆踊りは年寄り連中の強力な支えがあって大いに盛り上がったが、三年目には自分たちの唄が欲しいということになり、荒神さんなど地域の歴史や思い出、特徴を歌い込んだ「さわらはま音頭」が誕生し、テープが無料配布された。この唄は将来も続けて作詞できるよう工夫されている。

 「さわら浜音頭」については、このブログ №243 で紹介している。

 子供たちにふるさとの夢を育てつつあったが、故あって中断した。私の請負主義がわざわいし、「みんなのもの」になっていなかったではないかと、心からか申し訳なく思っている。いま、夏には夕涼みの会をしているが、これがいつの日か盆踊りの復活につながれば幸いである。
                      「そうらんば 鰆浜の昔話 残したい話」より

# by hirosan_kimura | 2020-05-25 11:51 | Comments(4)

№809 聖火

№809 聖火_e0125014_10344227.jpg
 今日は5月19日、新型コロナウイルスが流行していなかったら、東京オリンピックの聖火が阿品を走る過ぎていたはずである。

 今から56年前の9月20日に聖火が阿品を通過し沿道にはたくさんの人たちが、聖火が通リ過ぎるのを見守った。

 右の写真は田尻付近を聖火が通過する車列である。右側は団地の開発が行われる前の田尻山。

 左側は美しい砂浜や海岸沿いの小山が見える。きれいな海岸線も海が埋められ、小山も削り取られ無粋な風景になってしまった。
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 丁度上の写真付近を走る聖火リレー。後ろに映る山は削り取られているが、土屋病院の前面付近の国道である。道路は車の通行する中央部分のみがアスファルトほそうされ、道路の両端は砂利のままである。

 この付近は海と山に挟まれ寂しい場所であったが、山が削られ海は埋め立てられ風景は一変している。
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 聖火が通過する前の鰆浜の国道であるが、どこから人が集まったのかと思われるくらいの人出である。

 左側に電車軌道が見えるが、現在の「広電 阿品東」の停留所付近である。当時の駅名は「地御前県病院前」であった。
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 待ちに待った聖火が到着している。

 右上は山を削って別荘地が開発されたが、住む人も無く荒れ果てている。

 左上にお上がり場に生い茂っていた松の木が伺える。この木も一本残らず枯れてしまっている。














 我が家の実家の前付近であるが、選手の交代があったのか、トーチの聖火を次の走者に引き継いでいる。後方の山に生い茂っていた松も枯れてしまっている。

 写真の映りが鮮明でないが、ピントが合っていれば懐かしい顔が判別できるのではと残念である。

















№809 聖火_e0125014_10392915.jpg
鰆浜を通リ過ぎて地御前方面に向かっている聖火。聖火から出る煙が立ち上っている。
 
 この付近は西広島バイパス工事により一変している。 右側の海が埋め立てられ、広電電車軌道が海側に移設されている。

 国道も右側の電車軌道付近まで拡幅されている。阿品の海岸に風情を添えていた「火立岩」も削り取られてしまった。

 前回聖火が阿品の国道を走り抜けて半世紀過ぎたが、この間、阿品では山が削られ海が埋め立てられ、懐かしい風景が亡くなってしまった。

 田尻付近の写真を撮影されたSさん、鰆浜を撮影されたNさん。大変お世話になったお二方とも亡くなられて久しい。

 







# by hirosan_kimura | 2020-05-19 11:43 | 行事祭礼 | Comments(0)
 №808 鰆浜の荒神さん_e0125014_09575120.jpg
 JRガード入口に向かって右側、いまアパートが建つ浅い谷を「荒神谷」といい、その上の山林中にひっそりと鰆浜荒神社が建っている。

 昭和三十一年、この山の町有林が関係者に払い下げられた際、荒神社は共有地とし、社に至る道は里道として残した。  今の社は、二度にわたる山火事被害を経て、平成八年(一九九六年)四月六日に建て替えられたものである。

 鰆浜荒神さんにまつわる文献は残っていないが、言い伝えによれば、起源は明治三十年代前半の国鉄山陽本線の開通時に逆上るらしい。

 地御前村田屋から鰆浜へ抜けるトンネルの掘削時、トンネルを掘る人たちは昼夜を分かたず働き、工事の安全祈願のために小さな祠(ほこら)を据えたのが始まり、というのである。

 同じ釜の飯を食べながらの重労働の中で、「かまど」の神といわれる荒神さん(三宝)を祭ったとしても不思議でない。最初の祠は両手で抱えられるほど小さなもので、トンネルの真上にあったということだ。

 ただそこにお参りするには不便なため、いつの頃か「オカンスケ山」へ移された。山火事による建て替えも含めれば現在の荒神さんは四代目になるが、「かまど」にあるのに御神体の荒神柱は不明のままである。

 荒神柱は仏、法、僧の三宝を守護する三宝荒神をあらわし、三面六肱(三つの顔と六つの肱)の相を示すといわれるが、もしこれが据えられていたとすれば、元通りに安置したいものだと思っている。

 ちなみにトンネルの残土は、線路敷土台と荒神谷の突き当りの田圃ををつぶして積み上げた。耕作者であった西本さん所有地にかかる高台一帯とその左右がこの名残である。
      
「そうらんば 鰆浜の昔話 残したい話 平成十五年早春 著者 長門太郎」より
   

# by hirosan_kimura | 2020-05-13 10:36 | 宗教 | Comments(2)