素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura
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 昔の写真が無いかと探していた所、隣の方がこんな写真があったと見せていただいた。この写真はバイパス出口の道路拡張工事で立ち退きとなった家の二階から撮影されたものと思われる。

 推測では昭和40年頃撮影されたのではないかと思われるが、国道を走る車は僅かなものである。左上の海は埋め立てられマンション群となっている。右下部分には潮廻しの名残が見られ、遠くには池洲も見られる。
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 この写真は現在のJR駅前付近を撮影したものである。この一帯は国道より一段と低地になっており、大雨が続くと良く浸水をしていた。

 右上に工場らしきものが見られるが、「樋口工業」と言う鉄工所でいつのまにか倒産し、廃墟となってしばらく残されていたがいつのまにか撤去された。
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 上の写真が撮影された場所は国道敷地となっており同一地点での撮影は出来ないが、ほぼ同じ角度から撮影した現在の状況である。

 国道は二倍近くに拡張され交通量も増大している。国道の左手海岸は埋め立てられたくさんの建物が建てられている。

 駅前付近は国道と同じ高さに埋め立てられ、ふじタウン・三丁目に進入する高架陸橋や道路が整備されている。JR阿品駅も整備され店舗等の建物が建てられ遠くまで見通すことが出来なくなっている。

e0125014_10584077.jpg 上の写真が撮影された付近の海側の堤防を写したものである。

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 右側の広電軌道は昔のままであるが、左側の海は埋め立てられたくさんの建物が建てられている。この場所から見通すことの出来た宮島は建物の陰となり見ることはできない。
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 上の堤防のすぐそばの「お上がり場」の桟橋を撮影したものである。子どもの頃にはこの桟橋を「長(なが)桟橋」とよび左側にあった短い桟橋からこの桟橋まで、初めて泳ぎ切った時は嬉しかったのをかすかに記憶として残っている。この桟橋は今から130年前に造られたものである。
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 以前撮影された時期と殆ど変っていないように見受けられるが、良くみてみると大きく変わっている。
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 良く見ると元の桟橋の表面をかさ揚げしてその上に重ねて増築されており、堤防が二重になっている。130年前に築造された部分は、長年の風雨・潮の干満などで荒れ果てたのであろうが、何故元の面の上に直接コンクリートで補強せず、わざわざ二重にして間に空間を設けたのか不思議である。
# by hirosan_kimura | 2016-01-06 10:33 | Comments(0)

№731 正月

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 元旦の日は天気も良く暖かい穏やかな一日であった。しかし日の出の時刻は東の空には雲が立ち込めていた。朝早く日の出の時刻頃お上がり場付近を通り掛かると、初日の出を拝んだり写真を撮影するため何人かの人たちがカメラを構えていた。この他三丁目の堤防にも家族連れなどが、寒い中東の空に注目している。

 しかし東の空には雲が立ち込め日の出は拝めそうにもない。暫く注目していた人も諦めて三々五々散らばって行かれた。
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 この写真は31日の朝犬の散歩で通り掛かった際、ほぼ同じ場所から撮影したものである。元旦で無いのでわざわざ写真を撮影する人は見掛けなかった。
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 ほぼ同じ時刻に宮島方面を眺めると連絡船が行きかっている。前夜から・朝早朝から厳島神社が家路に向かう人たちが乗船して居られるのだろう。

 もう少し時間が経過すると、初詣に行く人たちで宮島に向かう連絡船は人で溢れかえるだろう。
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 例年、一日から宮島方面は渋滞する国道であるが、今年は一日は渋滞することも無く、二日・三日が大渋滞であった。一日の渋滞にうんざりした初詣の人たちは車を避けて、JRや広電の公共交通機関を利用した人が多かったのかも分からない。

 相変わらず渋滞にうんざりした人たちや、宮島口附近の駐車場料を節約する人は、宮島口まで電車で一駅の「広電阿品駅」そばのスーパーの無料駐車場に車を駐車し電車を利用する人が多い。スーパーは迷惑なことである。
# by hirosan_kimura | 2016-01-04 11:10 | Comments(0)

№730 餅搗き

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13日の日曜日には鰆浜の集会所では餅つきが行われていた。前年までは子供会中心に行われていたらしいが、子どもの居ない家庭は参加しにくいということ、今年は町内会の行事として行ったそうである。餅つきの周りに子どもたちが少ないとおもったら、集会所の中で搗いた餅を丸めたり食べたりしているようである。

 今では家庭で餅を搗くことわ滅多になく、店で買ったり中には正月でも餅の無い家も珍しくないらしい。昔は正月前になると各家庭でたくさんの餅を搗くのが当たり前であったが、廃れゆく風習を子どもたちに伝える目的で餅つきの行事が行われたのであろう。

 現在行事などで行われる餅つきは臼と杵を使って行われるのが大半であるが、一昔の阿品では足踏み式の餅つきが通常であった。この餅つきは台唐(だいがら)と呼ばれ阿品の農家ではほとんどの家に有っただろう。

 我が家では母の実家が阿品(今の阿品二丁目)にあったので、年末の餅つきは実家に行って行っていた。餅つきは12月の27日か28日に行うのが通常であった。29日は9が苦につながり31日は一夜餅といって縁起が悪く避けていたそうである。

 当時の餅つきは驚くほどたくさん搗くのが当たり前で、家によっては15臼も20臼も搗いていたそうである。1臼は2升かそれ以上あるので沢山の米が必要であった。このもち米を水に漬けたり餡を作ったり前日から女の人は大忙しであった。

 当日は蒸籠でもち米を熟むし、熟むし次第臼に移し台唐を踏むのが男性でこねるのは女性が担当することが多かった。子どもたちは餅つきが始まるとわくわくし、臼を搗くのやそれをこねるのを飽きもせず眺めていた。

 搗きあがると大急ぎでひらたい板に移し餅の大きさに切り分けられる。子どもたちは争うように丸めたり平たく餅の形に整えるのがとても楽しかった。また餡を中に包むのも面白がって行っていた。形の整った餅は「もろぶた」に並べ箱がいっぱいになると積み重ねられるが、搗く餅の量が多いのでたくさんのもろぶたとなる。

 「もろぶた」と言っても今の人には分からないかも知れないが、搗いた餅を並べておく木の箱である。喜んで餅を丸めていた子どもたちはその内飽きてしまい、炭火で焼いた餅を砂糖醤油を付けたり餡餅を食べるのが楽しみであった。

 餡の入った餅は「あんいり」「あんころ」「あんびん」などと呼称していたが、これらの言葉もだんだん使われなくなった。またもち米と粳米を混ぜて搗いた餅を「あらかね」と呼んでいたが、この餅を食べる機会もほとんどなくなった。

 今のように楽しみも沢山の玩具も無い時代の子どもたちにとっては、餅つきも楽しみのひとつでありやがて迎える正月を目の前にして、胸がわくわくするようなひとときであった。
# by hirosan_kimura | 2015-12-17 06:40 | Comments(2)
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 厳島神社の御旅所なる佐伯郡地御前村の地御前神社は近年痛く破損して修繕もなさず拝殿の如きは建腐の有様、実に見る影もなきことなるを苦に何でも一□修繕せんものと思い立ちしは厳島町の宮田文助なる人にて同人は此の修繕の事を地御前村の人々に謀りしに同村は仏教信者多くして心を神事に委する者なきを以て同村人は、宮田の心配を蛙面水に受け流し一も助力せんとせざりしとか然に宮田の熱心なる遂に自己の力にて同社を修繕することとなり(建腐の拝殿は取り除く)今や旧観に復したりと依て阿品と厳島との間を通航する船は自今宮田をば無賃にて渡すことゝなしたりと神賞として宮田は之を勧受するならん。
明治二十四年七月二日付 芸備日々新聞

 明治20年頃、地御前神社は見る影もないくらい荒れ果てていた。これを見かねた厳島町の宮田文助は、地御前の人々に神社の修繕を投げかけた。

 しかし仏教徒の多い地御前では、荒れ果てた神社のことを気にかける事も無く、、宮田の投げかけを取り合わなかった。それでも神社の修繕に熱心な宮田は自分の力で、元の神社のように復旧させた。

 この功績により、宮田にたいして阿品と厳島間の渡船運賃を無料にすることとした。宮田は神様からの授かりとこれを受けた。

 新聞記事にあるので間違ってはいないだろうが、地御前の人々は地御前神社に特別の思い込みがあると思われ、仏教徒が多いので神様には無関心であるとは考えられない。

 宮田の申し出に対して「蛙の面に小便」と受け流して、全く協力しなかったとあるが果たして真相はどうであったのであろう。

 阿品と厳島間の渡船は、今の「お上がり場」付近から厳島への渡船である。当時この航路には11隻の渡海船があり、運賃は一人6銭とある。

 この航路は後に宮島口に鉄道の駅が開業し、交通の便の悪い阿品からの乗船客は減少し間もなく廃航路となった。

 大正14年7月にはこの航路東側に新宮島~厳島間の新航路が営業開始している。
# by hirosan_kimura | 2015-12-05 10:21 | Comments(0)

№728 郷土史の発行

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 この度「地御前地区自治会」で「郷土史 地御前ものがたり」を発行された。編集に当たられたのは歴史や本の発行に素人ばかりの方であった。資料集め・古文の解釈・文章の区点・句読点の打ち方一つにも議論され、一年半年掛かってようやく発行に至ったそうである。
 
 地御前の歴史について冊子を発行されることはかなり以前から聞いており、発行されたら是非入手したいと伝えていたが、この冊子は地御前地区居住者を対象に配布するがそれ以外に余り余裕が無いと聞いていた。それでも冊数に制限はあるもののようやく手に入れる事ができた。冊数に制限がなければ、地御前を離れて住んでいるあの人にも送ってあげたい、この人にも送ってあげたいと思うが止むえないことである。

 身近な歴史に関する書籍は、廿日市町史を初め行政が発行したものもあるが、それぞれの地域でもさまざまな図書が発行されている。地御前地域を公に纏めたものは今回が初めてらしいが、個人では「地御前史」「昔の地御前と戦争体験」等を纏めた方もある。

e0125014_11153224.jpg 宮内地区では平成17年に「宮内の歴史と文化」が「宮内まちづくり委員会」により発行されている。なおこの図書は平成19年に第二版も発行されている。第一版は101頁であったが、第二版は141頁と内容が充実されている。

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 串戸地区では平成25年7月に「串戸今昔あれこれ」が「串戸地区コミュニティ推進協議会で纏めておられる。

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 その他、廿日市・平良・原地区でも発行しておられるかも分からないが掌握していない。

 佐方地区では「むかしの佐方」を個人の方が発行しておられる。

 この他詳細に調べれば地域限定の歴史に関する冊子が発行されているのであろう。



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 阿品地区では平成15年に長門さんが「そうらんば 鰆浜の昔話 残したい話」として小冊子に纏めておられる。
 
 この冊子を発行されてしばらくして長門さんは体調を崩されていた。それでも阿品の歴史を少しづつ整理している話をするとたいそう喜ばれて、家に資料が色々あるから元気になったら一緒に調べて行こうと話されていた。その後体調が回復されることも無く長門さんは亡くなられたが大変残念なことである。
# by hirosan_kimura | 2015-12-03 13:49 | Comments(0)
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先月家のすぐ傍の広電沿いの三差路に、金属の大きな筒が二本運ばれてきた。この筒は道路に埋められ下水道本管埋設工事の中継点になるらしい。
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これだけの筒を縦に二本重ねて埋設するのは大変と思っていたが、手作業で無く機械で行うので見る見る内に捗って行った。

 掘削地点の道路上にこの筒を置き、筒の中のアスファルトや土砂をパワーシャベルで掻き出すと筒が少しづつ沈んでいく。一本分が沈むとその上に二本目の筒を重ねて削減すると、あっけないほど簡単に道路に縦穴が掘られていった。
e0125014_10365313.jpg 穴は径2.5m位、深さは4m位もあろうか。この水が抜かれ浸水しないように作業が終わると、いよいよ陸橋近くの近くから下水道本管がこの地まで貫通する工事が行われるのであろう。
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 ところが三差路の竪穴工事が終了して暫くしてすぐそばで又道路を掘り起こす工事が始まった。地中を推進してきた本管工事が、途中の岩石に遮られて前に進めなくなり、道路を掘り起こして岩石を取り除く工事らしい。三丁目は海を埋め立てて造成された地区の為、このような岩石が地中にある訳はないが、恐らく埋め立て工事中の不用な岩石を廃棄したものが残されていたものであろう。

 地中に予測の出来ない不用物が見つかり工事のやり直しは止むえないとしても、この工事による騒音と振動は凄まじいものであった。この工事中の何日間は家の中にいても大きな音が聞こえ、振動で家が揺らぐくらいであった。他の工法は無いのかと思いながらも、公共工事でもあり我慢のの日々であった。
e0125014_1038493.jpg 地区内の下水道工事に先駆けバス回転場を利用して作業場が建設された。仮設建物であるのに何故こんなに立派な建物が必要なのかと誰もが感じたが、作業中の騒音が外に漏れて附近住宅に迷惑が掛からないよう防音対策のためこのような建物が必要との説明であった。そこまで配慮されているなら、今回の工事ももう少し他の工法等工夫できなかったのかと思う。
e0125014_10382798.jpg この立派な仮設建物も役目を終わったのか今では撤去されている。
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 下水道工事も一段落したのか工事も一休みである。この縦抗からさらに西側・沖側に分岐され下水道管が延長されるのであろうが、公共下水道工事には膨大な経費と期間を要するものである。

 すぐ近くまで下水道管が敷設されながら、我が家の個別浄可化槽が撤廃され公共下水道に接続されるのは当分先のようである。
# by hirosan_kimura | 2015-11-27 10:41 | Comments(0)
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昭和60年3月31日発行 阿品地区コミュニティをすすめる会 
「さんさん阿品第4号」より抜粋

 東にナタリー、西に競艇場、その間に挟まれたこの団地が出来て、早や13年が経過しました。昭和46年3月」、廿日市町より分譲されたこの団地に、現在「一四二戸」の住宅が建築されていますが、空家もありますので、常時世帯数は一二五、人口四〇〇、その内子供は六十余人、また六十才以上の方も子供と同数程度おられます。

 この町内会は、47世帯で昭和47年5月に発足しましたが、それまでは阿品西の町内会に所属しており、当時の町内会長さんは、岩鏡神社下の西山さんでした。

 また町内会の名称を「鼓ケ浜」としたのは、この団地の分譲案内に「廿日市町地御前鼓ケ浜団地」としていましたので、この名称を採用したものです。

 当時、町尚会の最初の仕事は、宮島線に停留所を設置し、交通の不便を解消することでした。陳情や交渉を随分くりかえしたものですが、漸く53年8月「たじり」が設置されました。

 この他、53年にはニュータウン行きのバスも開通し、海岸には高潮対策として堤防の建設もはじまり、6年経過した今日なお建設中です。

 10年前は小鳥も庭によく来たものですが、昨今は非常に少なくなりました。また海岸では小魚がよく釣れたものですが、貝と共に年々減少しています。

 最後に、現在この団地の課題は集会所を建設してもらいたいことです。公民館は近くにありますが、陸橋と云う障害物がありますので、行政当局に考えていただきたいものです。

 子供達は、この団地が「ふるさと」です。キレイで平和な団地を子供達に引き継ぎたいものです。                      記 望月圭三
# by hirosan_kimura | 2015-11-25 06:11 | Comments(2)
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 このブログ№131「結婚式とお地蔵さん」を紹介した。このお地蔵さんは阿品の結婚式の度に引っ張り出され婚家に運び込まれていたものである。ところがこのお地蔵さんが鎮座されていた屋敷が取り壊され、お地蔵さんの姿も見られず更地となっていた。

 お地蔵さんはどこに行かれたのかと思っていたら、JR阿品駅の裏側附近に引っ越しされていた。

e0125014_947366.jpg 元お地蔵さんのあった家の親戚の方が新しい場所に移転されたようである。元あった場所は「鰆浜」で新しい場所は「阿品」、現在の地名で言えば阿品一丁目から阿品二丁目に引っ越された。

 引っ越し先は日当たりも良いが、祠もなく野ざらしである。
 このお地蔵さんの由来を知る人も少なくなったが、いつまでも語り継がれて行くことを願うばかりである。

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# by hirosan_kimura | 2015-11-24 10:08 | Comments(2)
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 この付近を通り掛った時いつも気になっているが、阿品公民館の裏にある消防団車庫に「半鐘」が吊下げられている。緊急時に鳴らすためでなく、どこかで使われていたものを、モミュメントのように飾ってあるようである。

 半鐘とは小型の釣鐘のことで、江戸時代、火の見櫓の上部などに取り付け、火災・洪水発生時などに鳴らし、地域の消防団を招集するとともに、近隣住民に危険を知らせて居たいた。

 余談であるが火事が鎮火の際は2点連打されるが、この2点連打を「おじゃん」といい、転じて今までやって来たたことが全て駄目になることを「おじゃんになる」と言うらしい。

 現在ではサイレンや防災無線などに役目を譲り、残された半鐘は僅かとなっているらしい。平成18~9年前後には国際的に金属の価格が高騰し、日本全国で残されていた半鐘の盗難が相次ぎ、スクラップにされ中国に輸出されたそうである。

 近所の人に尋ねるとこの半鐘は、阿品二丁目に設置されていたものを、撤去後に記念にこの場所に飾っているとのことである。しかし岩鏡神社にも同じような半鐘が保管してある。
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 こちらの半鐘には昭和51年5月に阿品に設置してあった半鐘が、道路工事により撤去されたものを神社で保管していると記入してあるので、阿品二丁目にあった半鐘に間違いないであろう。。

 消防車庫に飾ってある半鐘は一体どこにあったものだろうか。色々尋ねてみるがそれぞれ言い分が異なり詳しいことは不明である。

e0125014_10364271.jpg 阿品二丁目の半鐘は農協の少し沖側の向かい側にあった。小さな写真を拡大したので不鮮明であるが、阿品中央の道路が改修されたさい撤去されたのは間違いないであろう。









e0125014_1037669.jpg 半鐘は二階の屋根くらいの高さのコンクリート柱に取り付けられ、鉄の梯子がついていた。











e0125014_10375533.jpg 鰆浜の半鐘は藤川商店横の国道沿いに設置してあった。明瞭な写真があれば良いがなかなか見つからない。

  高さは電柱を少し伸ばしたくらいであったが、子どもの目から見上げればとても高く感じていた。小さな子どもは恐ろしくて登ることもなかったが、小学校高学年くらいになると悪戯で登る者もいたが、危ないので大人に見つかるとこっぴどく叱られていた。

 それでもスリル満点なので性懲りもなく登っては叱られていた。上から子どもが落ちて怪我をした話も聞かなかった。

 半鐘は警鐘(けいしょう)とも呼んでいたが、鰆浜ではこの鐘が鳴り響いた記憶はない。

 
 それにしても消防車庫の半鐘は何処にあったもので、鰆浜の半鐘は何処に行ったのであろう。
# by hirosan_kimura | 2015-11-07 12:05 | Comments(7)
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 ふじタウンを上りきって対厳山線と交差する場所に「ふじタウン北」のバス停留所がある。広電バスとさくらバスのJR阿品駅・広電阿品駅方面に向かうバスが止まる停留所である。終点まで十分少し歩けば行けるが、近くにある県営住宅に住んでおられる高齢者が、駅やふじグランのスーパーに行かれるため良く利用されている。

 バス停の傍にベンチがあるが、座ってバス待っておられるのを見掛けることは滅多にない。歩道とベンチの間に幅の狭い側溝がある。若い人なら一跨ぎであるが、高齢者にとっては幅が狭いとはいえ側溝を跨いで椅子に座るの危険であろう。

e0125014_131129.jpg 今朝犬の散歩で通り掛かってみると、誰かがベンチを側溝を跨ぐように移動されていた。これなら高齢者も座りやすいようであるが、なんとなく危なっかしい気がする。

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                 ベンチの脚を見てみると歩道に少し掛かっているだけで何かの拍子にベンチずれると側溝にはまり、座っている人は大怪我もしかねない。歩道が広ければ危険もないが、通行人の邪魔になろう。

 僅かな距離で良いから側溝に蓋架けが出来ないものかと、ここを通る都度思うばかりである。

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 このバス停留所の一つ隣のバス停では、緩やかな坂道であるがベンチが傾かないよう片方の脚をかさ上げした、ベンチが設置してある。
# by hirosan_kimura | 2015-11-06 13:36 | Comments(0)

№722 おしえ地蔵

e0125014_13522084.jpg 「教え地蔵」についてはこのブログ№7・№577で紹介したことがある。昭和60年3月31日「阿品地区コミュニティを進める会」の広報紙第4号「御存じですか おしえ地蔵さんを!」の記事を提供して貰ったので掲載してみる。






阿品地区文化財 おしえ地蔵 昭和五十六年十月建立
 昔、国道もなく阿品の平野が海であった頃、大野町更地中山に通ずる山道を、旅人に教えた「おしえ地蔵さん」として古くから伝わっている。
 「左手の人差し指で方向を指し、右手で「おむすび」らしきものを手の平に乗せています。」
 昭和四十九年、阿品ニュータウンの造成工事前は、阿品ダム奥の谷間にありました。
 一時ダムのふもとに仮移転させ、昭和五十六年に、現在地に設けられました。
# by hirosan_kimura | 2015-11-05 14:13 | Comments(0)
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 古い写真が無いかと色々当たってみるが中々見つからない。この写真は昭和40年頃、今から50年くらい前の広電阿品(現 阿品東)駅付近の国道風景である。国道は舗装の更新か工事中である。

 正面は吉岡の牡蠣作業場でオート三輪車やコンベアーが見える。コンベアーの真上には「県立地御前病院」の看板が見える。ここは国道から県病院への入口の一つであった。右側には鮮明では無いが「半鐘台」「藤川商店」「吉田病院の病棟」等が見える。

 今では道路も拡幅され自動車が行き交い、当時ののんびりした様子はうかがえない。
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 この写真も昭和40年頃の鰆浜の海岸附近を見下ろしたもので部落の建物は見えない。同じ場所から写した写真もあったがこの写真はかなり鮮明である。

 お上がり場向かいの山の宅地造成をした間もない頃と思われる。すぐ下の山を崩した場所は、子どもの頃の良い遊び場の一つであった。 はるか遠く宮島が望める・
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 今は無い「火立岩」から鰆浜の海岸を臨んだもので、この写真も昭和40年頃のものである。上部の松の枝は「火立岩」の上に聳えていた松のものである。

 手前の沖に突き出た堤防は「波止(はと)」と呼んでいたが、子どもの頃には小魚を釣ったり海に飛び込んだりして良く遊んでいた。

 堤防付近に長い竹があるが、これは牡蠣筏が壊れて流れ着いたもので風呂の焚きつけなどに利用していた。正面のお上がり場には松が鬱蒼と茂っている。
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 国道を走る車も少なく、大人も子どもも国道と広電線路を自由に横断し、海にあさりを掘りに行ったり、魚釣りや遊びに行っていた。
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 この写真は西広島バイパスが阿品まで貫通する直前のもので、昭和48年暮頃の沖山附近の様子である。

 左側はバイパス下り車線の高架で、右側の上部がバイパス上り車線である。中央は在来の国道二号線で拡幅工事が行われている。

 西広島バイパスは翌年昭和49年4月3日正午に、五日市~阿品間の供用が開始された。
# by hirosan_kimura | 2015-10-01 11:48 | Comments(4)

№720 三丁目の埋立

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 阿品三丁目(当時は住居表示の設定による町名設定は無く「阿品三丁目」の地名そのものが存在しなかった。)の埋立は第一期工事(鼓ケ浜側)昭和41年10月着工、第二期工事(ナタリー側)は昭和42年2月に着工し、ともに43年3月に竣工している。

 この埋立地と国道の間には広電宮島線の線路敷きがあるが、当時のことを知らない人の中には田尻陸橋が先に整備され、この陸橋を利用して埋立土砂を運搬するダンプカーが運行され、海が埋め立てられたと思い込んでいる人が結構あるようである。

 埋立てが完成したのは昭和43年3月、田尻陸橋が竣工したのは昭和46年の3月で、埋立て完成と陸橋竣工まで期間が長いように思われるが、埋め立てた土砂が落ち付き固まるまで待っていたのだろうか。

 上記写真は埋め立て工事中のものであるが、田尻陸橋が整備されていないことが良く分かる。

e0125014_10281077.jpg この写真は現在陸橋のある付近で元広電田尻駅のあったばしょである。広電軌道の上を土砂を積んだダンプが行きかっている。


e0125014_10382739.jpg 広電軌道傍の海岸には今でも旧堤防が残され上部のみ見る事が出来る。ダンプを通す為にはこの堤防が邪魔になるので一部取り壊している。

 この部分では取り壊した堤防後に幅の狭い堤防を新たに取り付けてある。旧堤防は海から陸を守るためのものであるが、沖側の海を埋立後は堤防は不必要と思われるが、なぜわざわざ新たに堤防を継ぎ足したのか良くわからない。

e0125014_10291699.jpg 川から西側への土砂の搬入は陸橋の下付近から線路敷きを横断して行われていたが、ナタリー側は、ふじグランの東端付近で国道から広電軌道を超えて仮の踏切が作られ土砂の搬入が行われていた。

e0125014_10384871.jpg 上部のみ残された堤防を見ると、ダンプを通す為に堤防を一部削り取った様子が残されている。
# by hirosan_kimura | 2015-09-24 11:43 | Comments(0)
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 海面開墾願
広島県佐伯郡地御前村字阿品沖海面、別紙図面之通私費ヲ以テ開墾仕度ニ付該地御払下被成下度、之近村協議仕候処聊(いささか)差支無之、尤満潮水下之場所ニ付本年十月ヨリ向七ヶ年間鍬下年季御聞届被下度、然ル処右御許容相成候ハ、今般本郡廿日市以西中国往還御改線之折柄ニ付、開墾堤防ヲ以テ前後轍道幅員へ做ヒ脩築仕、道路兼用相成候ハ、上下御都合筋ト奉存候付、彼是以速ニ御許容被成下度、図面相副此段奉願候、以上
 明治十一年九月卅日
   第四大区五小区地御前村
    △番邸 願主 △村△三郎
    △番邸 同  △野△太郎 
    △番邸 同  △岡△造
    △番邸 同  △下△右衛門
    △番邸 同  △野△三郎
         戸長 柴田千太郎

第四大区五小区地御前村字阿品沖海面開墾之義、別紙之通図面相副同村平民△村伝三郎以下弐名ヨリ出願候ニ付、実施及検査候処比隣害障等無之、右ハ中国往還通路修築中ニ而兼用仕、予而目論見通リヨリハ里程短縮随テ往復ノ便ヲ得候義ニ付、上願之通御許容被成下度、此段副申仕候、以上
  明治十一年十月二十日 区長 奥村甚之丞
     広島県令 藤井勉三郎代理
        広島県少書記官 平山靖彦殿

「書面海面埋立開墾之儀聞届、満潮水下之地処ニ付無代下与、且来年ヨリ向七ヶ年間鍬下免租申付候条、地所修築之上更面積ヲ量リ地券条可申受候事
 但、道路堤塘溝渠ハ官有地第三種ヘ編入候儀ト可相心得候事
  明治十一年十一月一日 印
# by hirosan_kimura | 2015-08-14 13:19 | Comments(0)

№718 田圃が宅地に

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 「№655 収穫の秋」で紹介したが、阿品の田圃は宅地化により年々少なくなっている。かつては山裾に僅かな農家があり、残りの大半が田圃で夏には緑の、実りの秋には黄色の絨毯を敷き詰めたように一面田圃が広がっていた。

 今では宅地化が進み住宅地に囲まれた中で稲作が行われている。上図の緑は昨年に続き稲作の行われている田圃。青は昨年は行われなかったが今年は稲作が行われている。茶色は昨年は稲作が行われていたが、田圃が埋め立てられ宅地造成が行われている。
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 この場所はJR阿品駅のすぐそばであるが、今年に入って田圃が埋め立てられ、宅地造成の工事が行われている。阿品の残り少ない田圃も宅地化が進み、近い将来には阿品から田圃が無くなる日が来るのではなかろうか。

 この宅地造成が完成すると16区画も宅地が出来るらしいが、噂によるとかなり購入決定しているということである。阿品ではこの場所以外でもかなりの建売住宅等が建てられ売れ残りも無いようであるが、人口が減少しているというのに不思議なことである。
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 鰆浜(阿品一丁目)では、かつてJR線路から奥は民家が一軒のみで、残りはすべて田圃が広がっていた。この地区も宅地化が進み田畑は殆ど無くなっていた。

 昨年は鰆浜では稲作は皆無であったが、今年は一枚の田んぼではあるが復活して稲作が行われている。この稲作がいつまで行われるのかは分からない。
# by hirosan_kimura | 2015-08-02 14:10 | Comments(0)
地域の伝統文化・芸能を保存

 保存会は、私達の住んでいる阿品地区に古くから伝えられている文化・芸能を地域の皆様さんとの交流を図りながら、次代を担う子供達に伝え残していくことができれなと願って色々な活動を行っています。以下、保存会が行っている主な活動を簡単に紹介します。

◎とんど祭り(左義長)
 とんど祭りは、亡者への供養のために行われる火祭りの行事として、昔から小正月(1月15日)を中心に全国的に行われているものですが、阿品地区では1月14日の夕方に行っています。
 田の中に青竹を組み、笹や雑木を積み重ねて火を焚きます。
 この火の中へ正月の松飾りや書初めを投げ入れて燃やし、書初めが火勢にあおられて高く上がると習字が上手になるといわれています。
 火勢が落ちつき炭火ができたところで、正月の鏡モ餅を青竹の先にはさんで焼きます。この餅を食べると一年中病気にかからないといわれています。

◎盆踊り大会
 地御前地区で古くから行われている盆踊りを阿品地区でもということで、多くの皆様方のご協力を得て、昭和53年以降、毎年行っています。
 盆踊りは祖先供養の踊りですが、阿品地区で行われている踊りは、俗に「地御前踊り」といわれているこの地域独特のもので、昔は夕方から朝まで踊り明かしていました。
 盆踊り大会ではその他金魚すくい、かき氷、カラオケなど盛りたくさんの企画を用意しており、老若男女みんなが楽しく参加できるよう趣向をこらしています。

◎こども俵みこし(秋祭り)
e0125014_9513048.jpg 阿品地区の秋祭りは、岩鏡神社の氏子主催により、毎年10月の第2土・日に行われていますが、子供俵みこしは、昭和52年の秋祭りから行っています。当保存会では、準備から当日のお世話まで全面的に協力しています。
 子供俵みこしは、威勢よい「きやり」の音頭に合わせて、ハッピにハチマキ姿の子供たちが「ヤァートコセーヨーイヤナ」と大声を出しながら、各町内を練り歩きます。
 また、秋祭りでは天狗(ハナ)が出て竹棒を持って子供達を追いかけます。ハナの棒でたたかれると病気にならないといわれています。
 子供達はハナは怖いけれども、鬼ごっこのように楽しんでおり、このごろでは、ニュータウンからもたくさんの子供が来ています。

◎餅つき
e0125014_952068.jpg 保存会の餅つきの特徴は、ハッピ姿の若者が昔からこの地域に古くから伝わっている餅つきの音頭に合わせて餅をつくことです。
 昭和56年の阿品公民館新築祝賀行事に参加したのを最初に、成人式、敬老会、公民館祭りなどにも参加し、大変喜ばれています。
 
 以上、保存会の主な活動を紹介させていただきましたが、いずれの行事も地域の皆様方のご支援とご協力のお陰であり、この紙面を借りて厚くお礼を申し上げます。
 今後とも阿品地域のために少しでもお役に立つよう一同頑張りますのでよろしくお願い致します。

昭和62年3月31日 阿品地区コミュニティを進める会
 広報紙第6号より抜粋
# by hirosan_kimura | 2015-08-01 10:09 | 団体 | Comments(0)

№716 ぱっちん

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 このブログ№188で「昔の遊び 4」でぱっちんを紹介している。当時の子どもは夢中になって夕方遅くまで遊び良く親に怒られていた。地御前小学校6年生、今から58年前の「学級通信」にある母親の嘆きの声が紹介されていた。

 最近子供の遊びで「パッチン」が大変に流行している様子でございます。子を持つ親は誰しも同じではないかと思います。
 「パッチンを止めて何か外の事をして遊びなさい。」と言えば「誰も外の事をして遊ぶ者がないから、パッチンをしなかったら一人で遊ばねばならないからおもしろくない。」と言う様な事を言います。お友達のお母様に聞いてみると、やはり同じ事。
 「パッチンをしない。」と約束をして皮のドッジボールを買ってやったけれど、やはり駄目だと言われます。「ドッジなどする者がない。」と言って、やはりパッイチンを持って出ると言われます。
 昼中パッチンをして夜はそれを出して、これ又兄弟げんかのもと「くれる」とか「くれない」とか。先日もそれで子供が三人とも主人に叱られました。

 「もう絶対したらいけない。」「もうしない。」と約束したけれど、それも二日くらいの効き目だけ、私がいくらやかましく言った処で聞くでもなく、と言ってそうそう主人に言うのも考えものだし、どうにかして止めさせたいと思いますが、少し学校の方でも協力方お願い致したいと思います。

 パッチンを始めると時間が過ぎるのも判らないらしく、六時・七時頃に家に帰って来るので勉強は勿論宿題もやっておりません。下級生は「止めなさいね。」と言えば、あれでも止めますが、上級生・中学生等は「あっちでしよう。」と言って、みんな何処かへ行ってしまいます。本当に困った事だと思います。

 子供の為に、もう少し健全な遊びを進めて頂きたいと思います。遊び場所の問題もあるのですけれど、それは早急に解決出来ない問題なので、先ず学校へ行って遊ぶように進めたいと思っています。  一母親

 これを読むと、勉強もせず暗くなるまで遊びまくっていたことが、懐かしく思い出される。
# by hirosan_kimura | 2015-07-15 15:35 | 遊び | Comments(0)
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 JR阿品駅前付近は、明治12年(今から136年前)7月5日に旧国道の付替えに伴い、「阿品浜」の沖に「阿品新開」が築調されたものである。駅前が整備されるまでは国道より一段と低く田畑が広がっていたが大雨が続くとすぐに冠水するような土地であった。

 国道沿いには細長く調整池が広がり、青年団がぼらなどを放流し魚の養殖なども行われていた。この地域については今までこのブログ№377・№441・№460などで紹介してきたが、残念ながら鮮明な写真が見つからなかった。たまたま地御前の方が発行された地御前の歴史の冊子に、この地域の写真が掲載されていたが写真が小さいうえに他より複写したもので残念ながら鮮明とは言えない。

e0125014_1116252.jpg この冊子は130頁余で写真も数多く使用され特に移民関係の資料が詳しく紹介されている。この方は平成20年に地御前の史跡巡りに参加され、地御前に生れ育ちながら地御前のことを余りにも知らなかったこと、史跡巡りでは地御前以外に住んでおられる方が詳しい説明をしておられることに奮起して、地御前の歴史を勉強され5年の歳月をかけて一冊の本に纏められたそうである。
 折角の資料であるが広く多くの人に公表されないようであるが勿体ないことである。

 上の写真は、池洲(調整池)の水を抜いて養殖した魚を、青年団の人が捕獲をしている。捕獲した魚は売られ青年団の活動資金にしたそうである。

 池の左上に広がるのは畑で、畑の間と間は池のようになっておりいつも水が溜まっていた。子どもの頃にはこの池のような所で鮒をを釣ったり亀を捕まえたりしていた。水際には蒲が沢山生えており蒲の穂が実る頃にはこの穂でチャンバラごっこなどをして遊んだものである。国道側は畑が広がり、JR線路沿いには田圃が広がっていたような記憶が有る。

 上部右端はNAさん宅の藁屋根の家が見える。左端はNIさんの家で中央に見える家は比較的新しい家である。の写真が撮影されたのは昭和の初期らしいが、冊子の発行者の方に確認しても何かから複写したとのことである。どこかにこの写真の原本があるのであろうが、鮮明な写真を目にしたいものである。
# by hirosan_kimura | 2015-07-03 11:28 | 阿品 | Comments(2)
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 岩鏡神社は、阿品二丁目の突き当りで阿品二丁目が一望に見渡せる景色の良い山の中腹に鎮ります。昔から岩神神社とも言い通商岩神さんと言われています。ご祭神は手摩乳命、阿摩乳命の二柱の神を、阿品の氏神様として古くから祀られています。ご鎮座年月日は不詳ですが、近辺の神社の中でも一番古いのではと言う説もあります。

 昔は阿品川上流の岩山そばにご鎮座せられていましたが、昭和二十六年の台風で崩壊し昭和二十七年に現在の所にご鎮座されました。その後、戸数も増え拝殿が狭くなりましたので、昭和五十七年に氏子の方々の絶大なるご協力を得て拝殿を改築し参道も階段に整備し老人の方も参拝し易い様に手すりを付けました。先祖代々から守られて来た神社を、私達の代に受け、拝殿を改築し参道も整備して、後世に引き継ぐ事が出来た事を大変嬉しく思っております。

 年間の祭礼等は、正月の参拝と七月の第二日曜日に夏祭り、十月の第二日曜日に秋祭りが行われています。又毎月一日と十五日が参拝日となっています。正月元旦午前零時になりますと初詣でに来られますので、灯明をつけ御神酒を用意して午前二時半頃までと三賀日には、一日数回出向いて、お世話をさせていただいています。

 夏祭りと秋祭りには、氏子の方四世帯づつ持ち回りで祭り一週間前の日曜日に神社前の幟を立て掃除をし又祭りの準備と祭礼のお世話をしていただいております。これを当屋さんと言っています。又数人の方が落葉の掃除を年中して下さっています。阿品二丁目老人クラブの方にも、年数回掃除をして頂いています。 氏子総代   西山敬三

平成2年3月31日発行 阿品地区コミュニティを進める会 
「さんさん阿品」9号より 
# by hirosan_kimura | 2015-06-27 11:33 | Comments(7)
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 今から四三二年前(弘治元年)毛利元就と陶晴賢の間で宮島をはさんでの合戦がありました。毛利の軍勢は対岸の宮島を攻めるために、阿品に兵力を集中させて上陸を企てました。現在、田尻に工事中の土屋病院の所に、その当時ーいたみがくぼーと言う地名があり、ここに毛利の陣屋がありました。

 今は団地に造成され残っていませんが、小さい川が海へ注いでいた所に下がトンネルになった小山がありました。このトンネル山から対岸の宮島の大元まで届く藁縄(わらなわ)を阿品の農民に作るよう毛利軍が要求してきたそうです。この縄を深夜たぐりながら、何隻かの舟で武士を宮島に運んで上陸を企て、途中の海上で戦いが行われました。その時、多くの武士が戦死し、死体が潮流によって阿品の海岸に流れ着きました。

 現在、阿品陸橋の掛かっている山が昔はーじんねい端ーと呼ばれており、また阿品公民館の裏あたりは明治10年頃までは、大洲と言う地名になっていました。このくぼみに死体がたくさん流れ着きましたが、その当時は阿品の平地はほとんどが海であったそうです。

 この山伝いに物もらいのお坊さんが通りがかり、現在、おしえ地蔵がある所の山へ藁屋根のお寺を建て、多くの武士を葬むったと言うことで、この山は今でも寺山と呼ばれています。阿品地区には現在でも山裾に当時の墓(五輪塔)がたくさん存在しています。
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 フジタウン造成工事のとき、これらの墓を集めフジタウンの西側へ廿日市町が供養の合碑を建立しています。その他、現在五か所に墓が残っているのを確認しています。                    中山龍三記

昭和62年3月31日発行 「さんさん阿品」第6号より抜粋
# by hirosan_kimura | 2015-06-26 15:39 | 伝説民話 | Comments(2)
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 JR阿品駅が開業して早いもので26年が経過した。一日の乗客は2,500人程度で多くはないが多くの人々に利用されている。開業当社は無かったエレベーターも整備され、高齢者にも利用しやすい駅となっている。

 最近、偶然に阿品駅に関する面白い資料が目についた。誰が何の目的で書いたのかは分からないが、阿品駅舎が神社風に描かれている。

 駅舎を整備する計画の中で正式に議論された物の中の一つなのか、誰かが興味本位に描いたのかは分からないが、素人が描いたものでは無いようである。

 近くの地御前神社に因んだものか、対岸の厳島神社を想定したものか分からないが、実現していればユニークな駅舎として話題となっていたであろう。

e0125014_17475988.jpg 阿品駅は地域住民にとっては大きく期待されていた。整備に当たっては阿品地域の大半の家庭から多くの浄財が寄せられた。
 
 新駅開業後間もなく、開業記念日帰り旅行が実施されている。阿品駅発のお座敷列車だ仕立てられ、開催中の「アジア太平洋博覧会」を見学するものであった。行きは在来線のお座敷列車であったが、帰りは新幹線利用となっている。

 募集定員200名となっているが、果たして阿品の人たちの参加で満員になったのであろうか。

e0125014_17482573.jpg 駅舎が開業して約一ヶ月後には一泊二日の旅行が行われている。

 9月26日に阿品駅発のお座敷列車で小豆島に行くものであった。行きは在来線をお座敷列車で新倉敷迄行き、鷲羽山・瀬戸大橋・与島で昼食、チャーター船で小豆島に渡り一泊するものであった。

 翌日は小豆島を観光し、岡山駅から新幹線で帰るものであった。こちらも定員200名、定員に達したのであろうか。

 貸切列車とは言え、阿品駅始発の列車は今後とも二度と実現しないであろう。
# by hirosan_kimura | 2015-06-18 14:26 | JR | Comments(0)
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 長年空地のままであった県病院跡地がやっと動き出した。先日この空地の傍を通りかかってみると、売却の入札が7月22日に行われる表示があった。

 県病院跡地については何回も採り上げたが、昭和18年9月に結核教員の保養所として開設され、昭和26年6月に県立病院に移管され昭和47年3月に閉鎖されて、以来43年間空地のままであった。

 この間、空地の一部を県職員の福利グランドとして活用したり、地元では盆踊り・とんど・ゲートボールなどに使用してきたが、利用される日数はわずかで広い空地が放置されてきた。

 ところが3年くらい前に突然、この空地を処分するので地元では利用出来ないと県より連絡が入り、平成25年の1月13日に行われたとんどが最後となった。

 地元ではすぐにでも何か動きがあるかと跡地利用に注目し、戸建の住宅が建つ、いやマンションが出来るなど噂しあっていたが、依然何ら動きも見られなかった。
e0125014_10182160.jpg 昨年6月頃、病院跡地に「売り出し予定県有地」と看板や幟が掲げられ、今度こそやっと動き出すと地元も注目していたが、相変わらず何の動きも見られなかった。

 これまで長年、跡地に何が出来るのかと気を揉んでいた地元の人たちも入札日まで公表されたので、今度こそやっと安心したりほっとされたのではなかろうか。

 入札の受付は7月6日から7月15日入札日は7月22日,面積は11,498・73㎡で約3,471坪、予定価格は2億4,600万円とある。何社くらい応募がありいくらで落札するのか興味のあるところである。

 1㎡当たり21,400円、坪当たり70,800円くらいの予定価格となっているが、広電阿品東駅まで100㍍、JR阿品駅まで800㍍と、交通の便が良い割には安いように思われる。

 上水道・下水道・都市ガスもすぐ傍の道路まで来ているが、仮に戸建住宅予定なら整地・区画割り・上下水道ガス管の埋設・敷地内道路整備等膨大な経費が見込まれ、売り出し価格はどの程度になるのだろうか。
# by hirosan_kimura | 2015-06-11 11:20 | その他 | Comments(0)
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 今はない「遊園地ナタリー」では冬場のみ屋外スケート場が営業していた。リンクは30㍍×60mで1,800㎡の規模であった。
 スケート場が開設する前に、地元町内会と会社(廿日市観光開発㈱)との間で様々なやり取りが行われている。


昭和六十一年十月三十一日
廿日市観光開発株式会社(ナタリー)より鼓ケ浜町内会長宛

屋外アイススケート開催について
 次の要領にて営業開始致したく計画実施中ですが、地元町内会のご理解とご協力をお願い致したく懇請致します。
一、営業形態
 廿日市観光開発㈱所有駐車場の一部を<大阪市藤井寺市 ㈱カヤノに毎年十月一日より翌年三月七日迄賃貸し、㈱カヤノが屋外スケート場を営業する。但し廿日市観光開発㈱は当営業の責任を回避しない。
一、営業時間(休日なし)
(イ)平  日 午前十時~午後九時迄
(ロ)土曜日 午前十時~翌午前四時迄
二、入場料
 大人 1,300円
 中高 1,000円
 小人   700円
三、場内形態
 (イ)売店(飲食)  (ロ)貸靴  (ハ)貸ロッカー  (ニ)休憩室  
(ホ)事務所(券売を兼ねる)


昭和61年11月23日 
地元町内会長よりナタリーへ
 
この度アイススケート場開催についての説明書を受取りましたので、町内会で一次的に検討しました。本町内会としては次の事項についてお願い致します。
一、深夜営業は絶対反対です。
二、特に音楽による騒音を回避すること。
三、町内の道路への不法駐車を回避すること。
四、スケート場横の道路を通行する町民と、利用者の間でトラブルが起きないようにすること。
五、その他問題が起きた場合には、速やかに誠意をもって解決に当たること。
 今回貴社の申入れが急であったため、取敢えず役員会で検討したもので、町内会総意に基づくものではありません。今後町内会内部で意見調整を行う予定であることを申し添える。


同十一月二十四日 
ナタリーより町内会長宛

 十一月二十三日付、貴町内会よりの申入れについて当社及び運営会社㈱カヤノ社長と協議の結果、当面次の通り回答する。
一、深夜営業について
(イ)オープン日である来る十一月二十九日(土)は広告宣伝等の都合もあり、午後十一時まで営業を行いたい。当日は町内各位の理解を得るため、ご来場頂きご意見を賜りたい。
(ロ)以降については、貴町内と協議しながら理解を得られる時期に午後十一時まで営業させていただきたい。
二、騒音について
(イ)平日は午後9時までであるが、この間と言えども騒音にならないよう配慮する。
(ロ)午後十一時までの営業をする場合は、午後九時以降は一切音楽等は流さない。
三、不法駐車について
 当社の駐車場の利用方法等により、貴町内に迷惑をかけないよう努力する。
四、町道とスケート場との関係
 町道との境にフェンスを設置し、トラブル防止に努める。
五、その他について
 貴町内と密接に連絡しながら,且話合いの中で問題点の解決に臨みたい。
# by hirosan_kimura | 2015-06-05 12:24 | 娯楽 | Comments(0)
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七月二十日 中国新聞

厳島の管弦祭 二十六日に執行される
電車も開通したので 例年以上賑ふ見込
 
 厳島の管弦祭は来る二十六日(旧六月十七日)に執行されるが、当日は午後六時頃満潮と共に人崎を発し、海上管弦舞楽を催しつつ地御前神社に渡御し、夫より引返し長浜・大元を経て午後十二時頃に還御になるのであるが、今年は電車も新宮島(現在の広電阿品東駅約三百㍍東)まで開通して渡島には非常に便利になっているので、厳島地御前共に例年よりは数倍の参詣見物の人出を予想され、既に厳島三笠ケ濱には急造の売店がギッシリと建てられ、興行物も沢山出来ているが、従って不正商人やチボ(すり・巾着切り)も多数入込むかもしれぬので、厳島署では夫らを警戒厳重取締るべく準備を整えている。
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七月二十七日 中国新聞

宮島管弦祭 二十六日夜神輿還御
人出無慮(おおよそ・だいたい)十万に達す

 厳島神社の管弦祭は廿六日午後五時より菊池宮司以下総員の出御祭に始められ、式後直に御神輿は同神社禰宜の先導で大鳥居の三舸を組合せ美しく装われた御座船に移され、管弦楽の奏楽と共に江波及阿賀の漕船に護られて、満潮の海上を静に地御前に向い地御前火立岩付近で地御前村長外多数のお出迎え向け、奏楽裡に地御前に至り三代〇の〇御当の奏楽あり。

 式後、再び海上を一路長浜に向い〇〇楽が奏せられ、長浜鳥居前で越天楽神事を終え御座船は大元に至り、老君子の楽神事を終わると〇聲の吹奏と共に大鳥居に帰還され、菊池宮司以下の御迎えを受け〇〇〇の奏楽〇〇に客人神社に向かわされ、続いて枡形に入らせられ〇〇〇の奏楽神事後に、御座船は下先に御帰還され〇〇〇の奏楽裡に御本殿に入らせられ、還〇祭の御式を以て午後十一時に〇祭典は終つたが、当日は大〇雨後の快晴であって近郷よりの参拝者は非常な数で、省線の臨時列車増発・瓦電宮島線及連絡船の増発をなして参拝者の便宜を計ったが、殊に今年は瓦電宮島線の地御前新宮島間が開通した為めに、昨年以上の人出があり何れの船車とも鈴なりの人で運びきれず。

 尚四国九州の遠方よりも汽船や船漁船を仕立て渡島し、大鳥居を中心に大元・長浜の海浜はこれらの船で埋まり数千艘に達した。又数日前より参詣する人も多数ありいづれの旅宿も満員で、祭典当時は厳島全町の道に悉く人に埋まり身動きも出来ぬ有様で、午後六時愈々御座船の出発となるや、全島は勿論海上の数千の船は一斉に献灯し、恰も竜宮の現出の如きの大偉観を呈したが緯午後十一時御帰還と共に、流石の厳島も静寂に夜と共に更けて行ったが此日の人出は十萬を超えて居た。
 
 この雑沓を取締る為厳島全署員及同〇〇軍人消防組合等で海上陸上を警戒したが大なる事故もなく済んだ。

註 文中の〇は判読不能部分
# by hirosan_kimura | 2015-05-08 14:16 | 行事祭礼 | Comments(0)
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宮島線延長・地鎮祭・祈願祭 大正十四年七月十六日 中国新聞

 既報の通り廣島瓦斯電軌株式会社は、郊外電車宮島線の第三延長工事廿日市~地御前間も竣工を告げ、愈々十五日から運転を開始すると同時に、二百五十人乗一艘・百五十人乗二艘の軽快な連絡船を新造し、地御前聖覧場(註 鰆浜の別称「№17地名鰆浜」参照)より宮島商船桟橋間の連絡航路を開始したが、之より先十四日同社では松本社長以下重役及社内幹部一同に、来賓として在廣新聞記者を招待し、廿日市駅前の仮祭壇で午後三時から新設線の地鎮祭を執行し、終了後神官同乗し地御前線及航路の平安を祈願しつつ、宮島に渡り厳島神社に於いて祈祷祭を挙げ、それより亀福別荘に於て、披露宴を張ったが宮島名物の優雅な宮島踊に主客共に夏の宵を興じた。

上掲写真
 左側 大正十四年七月十五日開通宮島航路の新宮島乗船場
 右側 大正十五年七月十五日開通広電宮島線新宮島停車場 宮島線の終点駅 上記中国新聞記事の一年後に開通。場所は現在の阿品一丁目 「広電阿品東」の東寄り約300m附近

e0125014_1143482.jpg宮島線連絡船小火を起す
大正十四年七月二十二日中国

 二十一日午前十時頃、廣島瓦電宮島線の宮島(新宮島)厳島間連絡船機関士○村○○郎操縦の第三宮島丸が、宮島(新宮島)桟橋抜錨間際に突然機関部のタブレーターから火を発し、機関室のデッキに燃え移ったが直ちに消し止めた。乗客も十名足らずであったので幸い怪我人も無く、損害軽微であった。

上図、左下に電車新宮島駅とあるがこの時点では地御前駅が終点で、新宮島には連絡船の乗船場のみあった。
# by hirosan_kimura | 2015-04-23 13:05 | 交通 | Comments(0)

№707 地宮館2

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 「706 地宮館」を見た方より珍しい写真を提供していただいた。このような写真が残っていたとは思いもよらないことである。右下に「松本若次」撮影とあるが、地宮館を絵葉書にしたもので左上に「地御前海水浴場ト魚掛舟」とある。

 左の瓦ぶきの屋根が地宮館の建物で、後に国鉄の保養所となり昭和40年代頃までは残されていた。国鉄の職員のみでなく地域にも開放され、宴会や研修などで利用されていた。この建物の前に海にせり出したように「桟敷席」があった。これらの施設には覚えがあるが、中央より右側の施設には記憶がないので早くから取り壊されていたのかも分からない。

 ちなみにこの写真を提供して頂いた方の祖父が撮影者「松本若次」さんで、若次さんの奥さんは私の父の姉に当たる方である。
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 この写真も「松本若次」さんが撮影され絵葉書にされたものである。管弦祭前にお宮前の砂浜を「お洲堀」をしている風景であるが、驚くほど沢山の人々が行事に参加しておられる。海岸沿いの「桟敷席」の様子も良く分かる。右下には浮き輪を持った海水着姿の子どもも見られる。
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 この写真は地御前出身で東京に在住して居られる方が、昭和44年1月に帰省された時に撮影されたものである。

 地宮館の建物で後に「鉄道会館」と呼ばれていた施設の様子が良く分かる。この建物は今では取り壊されて跡地にはどこかの会社の研修施設のような建物が建てられている。

 写真手前は暗くてよく分からないが、夏の海水浴シーズンのみ宮島線電車が停車していた「地御前海岸」臨時停車場である。小学校に登下校時にはいつも目にしていた懐かしい風景である。
# by hirosan_kimura | 2015-04-20 07:23 | Comments(0)

№706 地宮館

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 地御前の人と話しているとたまに「地宮館」と言う言葉が出て懐かしい思いをすることがある。「地宮館」は地御前神社前にあった海水浴場の施設で今は無い。昭和40年代頃までは堤防の上に桟敷の名残と思われるものや、国鉄の保養所に転用された施設が残されそこで何回か宴会をした記憶もある。

大正十四年七月十五日 中国新聞
「電車の開通と共に 十九日海水浴場開場
  地宮館は薄利主義 地御前村の一大発展」
 
 長汀曲浦に富んだ佐伯郡地御前村の海岸線は、到る所風光絶佳であるが就中(なかんずく)、地御前神社の鎮座します辺はその粋を集めている。奇岩怪石に富んだ沖山を隔てて、日本一の名勝厳島を呼べば答えんとする目睫の間(極めて接近している)に優雅な島影を海面に投げて、那沙美水道を剘して大小の那沙美島はその名の如き優麗なる姿をのぞかせて居る。

 尚忘れたように置かれて居る弁天島の背後には、能美及安芸の連山が緩やかな起伏を搖曳(ようえい)し、左方には宇品から江波及五日市までのんびりした海岸線を、一眸(いちぼう)の間に眺める事が出来る。この間の海の静かな海面を中国船路の汽船が走り、真帆片帆が浮ぶの情景は実に一幅の名画である。

 この風光絶佳とを劃して本年から海水浴場が新設せられ、来る十九日開場式を挙行し二十五日から愈々解放すると言うが、交通不便を以て久しく世に捨てられて居た同所も、今回の電車開通に依りては蓋し廣島附近随一の浴場として、賑盛を呈するに至るであろう。

 既に地御前神社境内の老杉鬱蒼と繁茂した海面に遠く一町余の遠浅を控え、然も天恵の防波堤沖山に擁せられ、渚には岩石貝殻の如き危険物がなく、小児婦女の海水浴も適当であると眼星をつけた広島市中島、竹屋、広瀬、袋町の各小学校及び市商、二中、被服支廠、専売局等の指定海水浴場として交渉を遂げている。
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 尚同所には村内の名望家で製材業を営んでいる渡辺清太郎氏が、本管・別館・海面にかけ出し等で、総坪数百二十坪に工費二万五千円を投じて、地宮館と称する広壮な建物を新築し、浴客の便を計らんとして居る。

 背後の山で夕陽を避けて南面した同館は、常に涼風に見舞われて居る。新築の木の香も高く畳を初め料理用の什器一切も新しく気持ちが良いが何よりも喜ばしいのは、同館が沖の漁業者と契約して溌剌たる鮮魚を発動船で運び来り食膳に供すると言う事である。又同館には四十畳敷の大広間があり団体或いは宴会用にも充て、一般客室は旅宿用になって居るのもある。

 背後には約四千五百坪の芝生の空地があり、近くブランコ・テニスコート等も新設する計画がなって居り、貸ボートの設備もあって海水浴場としての設備には萬々遺漏がない同館は、一時的夏季のみの営業でないから社会奉仕的薄利を以て営業する方針にして居ると言う。

 因みに同浴場では新設電車地御前停留所より一丁足らずで達せられる。
# by hirosan_kimura | 2015-04-17 14:25 | Comments(4)
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 明治天皇妃の昭憲皇太后は傷病兵慰問のため、明治28年に広島を訪問して居られる。その際、日帰りで厳島を行啓されたが阿品の「お上がり場」より御乗船・御帰船されている。今から120年前のことである。当日の様子を広島に置かれていた大本営の「臨戦地日誌」より要約抜粋してみた。

御四月十二日
 皇后陛下は佐伯軍厳島に行啓あらせらる。是先、原郡蔵・小田清・伊集院弥彦・技手中川松次郎は厳島に。松井憲夫技手は佐伯郡阿品に、可児久成は佐伯郡草津村小泉甚右衛門宅に出張。各々諸般の事に従う。

 此日、陛下は御予定の如く午前第八時に行在所御出門。陸軍予備病院第一分院に行啓あらせられたる御列にて、西練兵場通り大手町一町目より右折し横町に。夫より中嶋本町、堺町・天満町より順次国道筋を佐伯郡草津村小泉甚右衛門宅に御着あらせらる。下田佐伯部長が迎え奉る。
 
 暫時御休憩の後,御出発され五海市、廿日市、地御前の町村を経て阿品に御着。仮設営の御休憩所に入られる。有地呉鎮守府司令長官此地に奉迎す。陛下は暫く御休憩の後、仮桟橋よりて差回しある第一呉丸に召させられ厳島に向かわれ、程なくして御召船は厳島東波止場に御着。鍋島県知事が此に迎え奉る。厳島・草津・廿日市各小学校職員生徒・赤十字社員・郡吏員・町村吏員等、濱通に奉迎す。

 陛下は仮設の船桟橋より鍋島知事の奉導にて御上陸。直ちに差回しの御馬車に召させらし北の町濱通、中の町濱通を御通、厳島神社に御参拝あらせらる。此間、神官奏楽す。終りて神社南口より再び御馬車に召させらし。御垣原南町より紅葉澗(たに)岩村平助宅に入らせたる。時に正午十二時。

 陛下は此処に於て御昼餐を御し玉ひ。暫時此所の風景を御覧あらせられし。此家御出発。再び御馬車に召され厳島神社回廊入口にて御下車。西回廊御巡覧終て西口より御馬車にて大願寺前より海岸通り西へ大元神社に成らせられ、尋て千畳閣麓に下車。御徒歩にて此閣御巡覧終て御笠濱通、御通。

 当初の御道筋を東波止場より御発船在らる。鍋島知事、埠に送り奉る。其他奉送の諸員、奉迎の時に異なることなし。午後第五時十五分阿品に御着く。御休憩所にて御小憩され此所御発。

 草津村小泉甚右衛門方に御小憩の後、御機嫌麗しく午後六時五十分、行在所に還啓あらせらるる。
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e0125014_921666.jpg このブログを見た方より、草津の小泉酒造に明治天皇と皇太后が来られた記念碑が残されており、記念の絵葉書が発行されたと教えていただいた。絵葉書の左に「小泉本店」、右上に「明治天皇・昭憲皇太后 御聖跡」と記されている。
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# by hirosan_kimura | 2015-04-07 15:59 | Comments(0)
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昭和42年 2月 田尻地先海岸立造成工事開始
昭和44年 9月 田尻地先海岸埋立完了 80,909,88㎡
       10月 宅地149区画分譲開始 ㎡当37,000~45,000円 
昭和45年12月 阿品陸橋竣工 工費3億4,000万円
昭和46年 6月 入居開始
昭和48年 1月 団地内に「安藤耳鼻咽喉科」開院
昭和49年 4月 隣接地に「広島ナタリー遊園地」開園 
昭和51年 3月 田尻公園完成 1,431㎡ 
昭和52年     高潮対策工事開始
昭和53年 8月 広電田尻駅開業
昭和54年 4月 阿品台東小学校開校 地御前小学校より校区変更
昭和55年 4月 鼓ケ浜公園完成 149㎡
        9月 世帯109  人口339
昭和56年 4月 阿品台中学校開校 七尾中学校より校区変更
昭和57年 2月 町名変更 地御前字阿品→阿品三丁目
昭和58年 4月 阿品台西小学校開校 阿品台東小学校より校区変更
昭和59年 1月 世帯132 人口416
昭和61年     高潮対策工事完了 延長615.7m
昭和62年 4月 鼓ケ浜集会所落成 約108㎡ 
10月 老人クラブ「鼓ケ浜長寿会」発足 会員64名
平成 元年 8月 JR阿品駅開業
平成 2年 2月 世帯160 人口463 
        5月 田尻公園便所 汲取りから水洗に改築
        8月 岡本脳外科クリニック開院
平成 3年 5月 世帯数165 人口473 男221 女252 内小学生43 
           町内会費 年1,500円×2回
       9月 台風19号で町内被害発生
平成 4年 1月 子供会会員43名 男20 女23
平成 6年 2月 世帯169 人口480
平成 8年 3月 遊園地「広島ナタリー」閉園
平成11年 7月 フジグランナタリー開店 
平成12年 1月 世帯数185 人口475 
        6月 JR阿品駅=阿品三丁目間歩道陸橋完成
        8月 広電田尻駅が東70mに移転新設
平成13年 3月 午後3時28分発生「芸予地震」で被害が出る
       11月 「広電田尻駅」が「広電阿品駅」に名称変更する
平成20年 2月 世帯205 人口487
平成21年 4月 「鼓ケ浜町内会憲章」を制定
平成23年 1月 世帯205 人口463
# by hirosan_kimura | 2015-03-30 12:04 | 三丁目 | Comments(0)
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 昭和40年代になると、広島市及びその周辺は人口の都市集中が著しく、強力な宅地、住宅の供給対策が望まれていた。

 この対策の一つとして、主として広島市の業務地域への通勤人口対策を対象とした、健全な居住環境と都市機能を備えた旧宅市街地を開発し、良好な住宅地の大規模な供給をはかることとされた。

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 大規模住宅用地の選定にあたっては海岸線沿いに国道・山陽本線・広電宮島線が平行し、広島市への通勤の便が良い。

 造成する山はなだらかで、昭和40年代まではほぼ無人の里山で、谷筋に僅かな耕地があるのみで開発が比較的容易である。

 広島湾に面し気候も比較的穏やかで、年中過ごし易い等の理由で阿品の地が選ばれた。

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 当時、広島県の輸入木材の6割を扱っていた広島港は、施設が各地域に分散されていたため、廿日市地区に貯木場と係留施設及び企業用地造成を行う木材港の計画が立てられた。

 この木材港造成の為埋立土は、廿日市ニュータウン造成の残土が搬出されることとなった。このため土砂運搬用道路が新設された。この道路は「阿品・高通り線」の名称で、住宅団地造成現場から山を削り宮内の「畑口・寺田線」まで結ばれた。

 昭和46年に住宅団地の造成工事が始まったが、この間一日何百台ものダンプカーが新しい港の新築現場まで行き交った。

 昭和52年には住宅の分譲が開始された。計画戸数3,500戸、計画人口12,600人で一時は若い人や子どもで溢れかえっていた「阿品台」も高齢化と少子化で、かつての活気がやや失われたようである。
# by hirosan_kimura | 2015-03-29 11:37 | 阿品台 | Comments(2)