素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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 この写真も昭和38年(今から52年前)に撮影された鰆浜(阿品一丁目)の写真である。

 手前の建物は廃止された県立地御前病院で今では空き地となっている。中央上部の二階建て建物は吉田病院でいまではマンションが建てられている

 海岸付近は大きく変わり、バイパス工事の為、帯状に海が埋め立てられ広電軌道は海側に移設されている。この工事の為上部に見える「火立岩」と海岸に突き出た「波止」も無くなってしまった。

 鮮明ではないが海中に「牡蠣ひび」が建てられている。今では牡蠣の養殖は海岸より遥か沖の筏に吊下げて行われているが、当時は海岸沖に竹を建てそこで牡蠣の養殖が行われていた。現在、浜辺にある牡蠣ひびは牡蠣の幼貝を育成するものである。

 余り鮮明な写真では無いが、「鰆浜」と言えば長年見慣れたこの写真の風景が思い出される。
by hirosan_kimura | 2015-02-09 10:27 | 鰆浜 | Comments(4)
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 今では特別な場所でないと走っていない蒸気機関車も昔は極当たり前のものであった。JRを走るのは殆どがが電気機関車で田舎などに行くとジーゼル機関車がみられる。

 山遊びなどをしていてトンネルの上付近にいると、白い煙や時には黒い煙がトンネル入り口上にに舞い上がり、周りの景色が見えないほどになり石炭の独特の臭いを嗅ぐのも面白かった記憶がある。

 この写真は鰆浜(今の阿品一丁目)の線路を、白い煙を吐きながら蒸気機関車が走っている珍しい写真で、昭和38年(今から52年前)に撮影されたものである。

 写真右側の赤い瓦の建物は今は無い県立地御前病院である。ここに写っているのは炊事棟や職員宿舎などで、平屋の病棟は右側手前の方にあった。

 県病院閉鎖後この地は空き地となり、長年地域で盆踊り・とんどなどの催し物際利用され、お年寄りがゲートボールなどに利用されていてが、県が売却することとしている。何に活用されるのか分からないが住宅地にでもなれば賑わいを取り戻すであろう。

 線路右側、病院の建物と山の間の一枚の田んぼには現在ではアパートが建てられている。トンネルの上付近とそれに連なる右側の山の地形は殆ど現在と変わらないが、木々が生い茂り足も踏み入れられない状態である。

 線路左側の山は阿品台ニュータウンの造成により地形は大きく変わっている。列車の中央左側辺りから阿品台に上がる階段や下水処理場などに変わっている。

 線路の左側奥の谷には、現在民家やアパートなどが沢山建てられているが、この写真が撮影された時代には一軒の民家が有るのみで火葬場もある寂しい場所であった。

 この写真と比較するため現在の様子の写真を撮ろうと、鰆浜と阿品の境の山に登ったが長年人の入らない山は荒れ果て、木々が生い茂り比較する写真を撮影することは出来なかった。
by hirosan_kimura | 2015-02-08 10:27 | 鰆浜 | Comments(2)
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 阿品の昔を知らない人が見れば、この写真は何処の風景かと思うかも知れない。

 この写真は昭和38年(今から52年前)にJRトンネル付近から撮影した、阿品二丁目の谷の風景である。今では住宅に埋め尽くされているが、当時の阿品では山際に農家が散在しその他は大半が田畑であった。中央の田畑の中には3軒の民家が有るのみである。

 中央奥の山は阿品台ニュータウン造成の為、山が削られ谷が埋められ住宅が立ち並び、風景は一変している。左側の山はふじタウン開発の為、今では大きく変容している。

 中央を奥に伸びている道路が阿品の谷の主要道路であるが、位置は殆ど変っていないが拡幅され舗装されている。

 左端中央の田んぼの中に一軒家があるが、今ではその家のすぐ前に「佐伯中央農協阿品支店」が建てられている。

 比較の為、この写真と同じアングルで撮影しようとJRトンネル付近の山に登ってみたが、何十年も人が入らない山は荒れ果て木々が生い茂り、残念ながら同じ構図の現在の写真を撮影できなかった。

 この写真とほぼ同じ場所より撮影した写真も持っていたが、小さな写真でピントもはっきりせず白黒写真である。この写真はカラーでもあり貴重な写真であろう。
by hirosan_kimura | 2015-02-07 11:27 | 阿品 | Comments(4)
e0125014_11365947.jpg 阿品二丁目のとある山中の小道に小さな注意書きが建てられている。
 この注意書きがあるのは下の図の○印のある辺りである。







e0125014_11373767.jpg この山道は今では滅多に人の通ることもないが、かつては広電を利用して広島方面に通勤・通学などをする、阿品団地の人たちの近道として利用されていた。

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 今では阿品一丁目から奥に入り団地内を抜ける道路が整備されている。また途中から別れて注意書きのある少し下辺りを二丁目に抜ける道路も整備されている。

 しかし阿品団地に入居が始まった昭和38年頃(今から52年前)位はこれらの道路は整備されていず、この団地の人たちが阿品駅(今の広電阿品東駅)を利用するには、一旦阿品二丁目に降り中央を通る道に出て、国道まで行き電車に乗っていた。

 この道を利用するには遠回りなので、阿品団地の人たちで団地の奥側の人たちな道とも言えない急な山道を下り鰆浜側(今の阿品一丁目)に出て、あぜ道に毛の生えたような細い道を通り電車駅まで行っていた。
 (図の右側の青い線)

 団地の沖側の人たちも細い山道を降りて(注意書きのある道)途中で合流して、鰆浜の谷を通り電車駅までいっていた。

 これらの道は今でこそ車道が整備され街灯などもあるが、当時は一輪車がやっと通れる程度の小道で民家も街灯もなく、夜になると通るのが恐ろしいようなばしょであった。

 おまけに途中には火葬場もあり、幼いころ母の里に行き夜鰆浜の自宅にこの付近を通って帰ることもたまにあったが、恐ろしかった記憶が残っている。

 いくら近道とは言え昼間なら兎も角、一人の時でも暗い懐中電灯を頼りに寂しい道を阿品団地の人たちが利用されていたと驚くばかりである。

 今では道路や街灯も整備され、自家用車も普及しているので恐ろしい夜道を歩く人も少ない。
by hirosan_kimura | 2015-02-06 12:19 | 道路 | Comments(0)
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 先週の水曜日に阿品台西小学校三年生を対象に、阿品の昔の話をしに行った。平成18年に話をしに行ったのが最初で、今年で10回目位になる。

 当初は児童5~6名に保護者一人が付き添い、近くの集会所や自宅に子どもたちが来て話をしていた。子どもたちも学校から自宅まで歩いてきたり、話が済むと学校まで帰るのも大変であるし、たくさんの保護者が協力しなければならないので、今では話をする者が学校に行っている。

 三年生の子どもたちが一グループ15人程度に別れ、昔の阿品についての話を聞く。①昔の学校 ②昔の風景・建物 ③昔の祭りや芸能 ④昔の道具 ⑤昔の遊びの5グループでそれぞれ地域の人が一人か二人で子どもたちに話すものである。

 自分がいつも担当するのは「阿品の昔の風景・建物」である。相手が三年生とは言えいい加減な話も出来ないので、毎回かなりの事前準備をしていく。他のグループではどのようにしておられるのか分からないが、自分は昔の写真や絵図を小さなパネルにして説明を行っている。

 子どもたちは熱心に話を聞いてくれるが20分くらい説明し、後で子どもたちが様々な質問をする。あらかじめ子どもたちの質問内容を確認し事前に先生が連絡してくださるが、突然子どもたちがとんでもない質問をして呉れるので、いつも緊張をしている。

 例年の通り、阿品は海と山に囲まれ田畑がたくさんあり家も人口も少なかったが、山を削り谷を埋め「ふじタウンや阿品台ニュータウン」が造成され家がたくさん建てられた。阿品三丁目は海の中であったなどの説明をした。

 説明が終り質問の時間にある子どもが「三丁目の人たちは息が苦しくなかったのか」と尋ねてきた。一瞬何を言っているのか戸惑っていると、「三丁目の人たちは酸素マスクをしていたのか」と聞いてきた。

 これを聞いて理解できたが「三丁目は昔海の中であった」と説明したのを聞いた子どもは、「三丁目は海の中に家があり、人々は海中で生活をしていた」と解釈したらしい。

 改めて、昔は電車線路までが陸地で、その沖の海を土砂で埋め立てて陸地にして家を建てて人が住むようになったと説明しなおしたが、子どもの思いつきにビックリすると同時に、三年生にも易しく理解出来るような説明が必要だと反省した。

 数年前のことであるが一通りの説明が終わって質問で、「昔は阿品から中国まで歩いて行けたが、何日あれば中国まで行けたのか」と言うような質問があった。何千年か何万年前か分からないが、大陸と日本が続いた時代の話をどこかで聞いた質問であろう。

 「阿品の昔」とは関係の無い想定外の質問で、「大昔のことで調べていないので、先生に調べてもらってください」とお茶を濁しておいたが、先生もさぞ迷惑であっただろう。子どもたちの発想には驚かされるばかりである。

 昔の話では無いが今は無い「ナタリー遊園地」の話をしたり、写真を見せると子どもたちが目を輝かせて聞いてくれるのは面白い。
by hirosan_kimura | 2015-02-05 11:43 | 幼小中 | Comments(4)
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 阿品二丁目の国道沿いに「阿品二丁目公園」がある。広さは2,058㎡(620坪)でそんなに広くは無いが、近隣の子どもたちが遊ぶには丁度良い広さである。

 早朝にはお年寄りたちがゲートボールやグランドゴルフをしておられるのを良く見かける。

 この場所には依然ドライブインがあり食堂や大広間・サウナなどがあり、阿品の人たちや国道を走行する人たちが良く利用していた。

 JR駅前広場が整備される前には国道沿いに雨水の調整池があった。阿品は比較的低地であるが、干潮時には川水が海に自然流下するが、満潮時には海水が逆流し川水も溜まるので調整池に滞留させていた。

 阿品駅前を整備する際調整池が撤去された。二丁目の公園は外部から見ると分からないが、公園の下に大きな調整池が整備され、その上を蓋架けして公園に利用している。
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 公園には立派な遊具が設置されているが、遊具の傍にたくさんの禁止事項が表示されている。

①てすりにむりやり のぼってはいけません。
②すべりだいを、かけあがってはいけません。
③こわれているゆうぐで あそんではいけません。
④ぬれているゆうぐで あそんではいけません。
⑤ゆうぐにひもなどを まきつけてはいけません。
⑥たかいところから とんではいけません。
⑦ゆうぐのうえから ものをなげてはいけません。
⑧ゆうぐのすきまに ゆびをいれてはいけません。

 公園を管理する者にとっては事故でも起これば親から訴えられたり、マスコミも騒ぐので様々の注意事項を表示するのだろうが、これを全て守らなければならなかったら子どもたちは創意工夫して自由に遊べないのではなかろうか。

 子どもたちの遊びをみていると単に滑り台を滑って遊ぶのみでなく、滑る面を下から両手両足で踏ん張って上っていったり、横の方から上って行ったり飛び降りたり様々な遊び方を見つけて楽しんでいる。

 勿論危険な遊びをしてはならないが、子どもたちは様々な経験をする中で、危険なこと・安全なことを学んで行くのではなかろうか。
 昔の子どもたちは小さいうちから大きな子どもたちのすることを見ながら、様々なことを学びながら育ったものである。

 子どもたちから危険を除くのは大人の責任であるが、物事の善し悪しの付かない小さな子には親が目を離さず危険から守り、少し物事の判断が付くようになったら、子ども自身が自分から安全か危険かを判断できるように力を持てるよう育てるのが大切ではなかろうか。

 ここの公園ではないが、「サッカー禁止」「ボール投げ禁止」の公園を良く見掛ける。小さな子どもたちが遊んでいる傍でサッカーやキャッチボールなどをすると危ないが、ほとんど誰も遊んでいないような所で、あれもダメ、これもダメと言うのもどうであろうか。
 立派な広場が整備されているが子どもたちが遊んでいる姿を見掛けずひっそりした公園を見ることも珍しくない。
 他の子どもが誰も遊んでいない場所では、サッカー遊びもキャッチボールも良いが、外の子どもたちが遊びに来たら自主的にその子たちに遊び場所を譲ってあげるような、思いやりの持ったこどもになれば良いと思う。
by hirosan_kimura | 2015-02-04 12:43 | 遊び | Comments(0)

№683 大学の艇庫

  沖山の海沿いに広島大学と広島工業大学のヨット部の艇庫がある。このあたりに広電宮島線の終点「新宮島駅」の線路の引込線があった場所である。
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 広島大学の艇庫は平屋で骨組みにスレートの外壁を貼ったような簡易な建物である。この建物の建築年度は不明であるが、昭和40年代の初めごろでは無いかと思われる。現在、広大のヨット部は広島の観音の方で部活をしているため長年この艇庫は使用されていず、まるで廃墟のようになっている。

 この艇庫で活躍していた頃は土・日などには大学生がここに来て目の前の海でヨットを走らせていた。夜になると学生たちは酒盛りを始め大騒ぎをしていたこともある。ある時、「お上がり場」に学生が集まり酒盛りをしていたことがある。大学生でそれも医学部の生徒であり優秀でエリートばかりと思っていたので、近寄りがたい存在と思っていたが、酒盛りの仲間に入れてもらい他愛の無い話で盛り上がった懐かしい思い出がある。

 この艇庫は長年放置状態であるが、なぜ撤去されないのか不思議に思う。

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 広大の艇庫と並んで広島工業大学ヨット部の艇庫がある。この施設は昭和51年に整備されているが、広大の艇庫と比較すると立派な施設に見える。

 外から見ても分からないが、一階部分は艇庫となっており15艇程度のヨットが格納されている。二階は30畳程度の広間と炊事・浴室・トイレがあるようである。外部にはヨットを海に降ろしたり陸に揚げるクレーンのような設備がある。広大艇庫にはこのような施設が無く、台車にヨットを載せて学生たちが手作業でヨットの揚げ降ろしをしていたような記憶がある。

 工業大学の艇庫は学校から車で10分程度で来ることが出来て、平成16年に創部40周年を迎えたそうである。ヨット部は観音マリーナの方でも活動しているようであるが、拠点は阿品の艇庫で土・日には学生たちがここで活動しているそうである。
by hirosan_kimura | 2015-02-03 12:13 | 高大学 | Comments(0)
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 このブログ№661で地御前の砂畠地区の紹介で葬儀の料理欄に「オヒラとオツボ」の文言があった。これを見たある方より「オヒラ・オツボ」とは何のことだろうとの質問があった。

 何気なく紹介した言葉であるが、地御前の人だけが使っていた昔の方言くらいにしか思っていなかった。念のため辞書を引いてみるとちゃんと載っており「おひら」とは、御平と表記し①平椀に盛った料理②平椀、平型かぶせ蓋の椀③鯛等の説明がある。

 「おつぼ」は御壺と表記し、①膳部にのせる、壺に入れた食物②御所などの中庭の敬称よある。ちなみに御壺に口を附けると、御壺口(おちょぼぐち)となるそうである。

 また別の人のコメントでブログの「廿日市ぶらり 2012年2月13日掲載(大原講中 講中膳)」で「おひらとおつぼ」を紹介していると教えていただいた。また「廿日市町史 通史編(下)」の998頁に宮内の佐原田講での葬儀の食事で紹介してあるとも教えていただいた。

 「おひらとおつぼ」を紹介して頂いた方のブログ「廿日市ぶらり」は、驚くほど各所に足を運ばれ専門的知識で記事を書いておられ驚くばかりである。興味のある方はこのブログを覗かれてはどうだろうか。

 いずれにしても何気なく訳も分からず紹介した「おひらとおつぼ」であるが、そう遠くない昔に当たり前に使われていた言葉が、今では死語のようになっている。阿品の地域でも自分たちが子どもの頃に極自然に使っていた言葉でも、今の人たちには意味が通じない場合が沢山見受けられる。
by hirosan_kimura | 2015-02-02 15:39 | 冠婚葬祭 | Comments(0)