素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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 国道を挟んでお上がり場附近の山側は高いコンクリートの擁壁となっている。昭和7年に新国道が開通するまでは山がお上がり場附近まで延びていたが、国道の工事のため山が大きく削られ急斜面となっている。

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 この山ではまつたけも採れ、国道側には山の上から清らかな水が流れ落ちていた。終戦間近には弾薬を貯蔵するために、この山の下に阿品側から鰆浜側まで大きなトンネルが掘られ弾薬庫として使用されていた。このトンネルも昭和30年代までは残っていたが、今では潰されて跡形も無い。今ではかつての面影は無く、荒れ放題のやまとなっている。

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 昭和30年代の初め頃、この山を削り高い石垣をつき別荘地が造成された。鰆浜側から国道沿いに別荘への急な坂道が設けられたが、今でもこも坂道は当時の面影を残している。

 別荘地は数区画有ったが、広さは異なり二~三百坪程度から百坪に満たない区画もあったような記憶がある。長いこと更地のままであったが、一番狭い区画に木造平屋の小さな建物が建っていたが、その他の区画は家も建てられず放置されていた。

 この小さな別荘のような建物に人が住んでおられたような記憶が無いので、たまに来られることは有ったのかも知れないが、ほとんど使用されることもなかった。この小さな建物もいつの間にか朽ち果てて今では跡形も無い。

 前面に広島湾を望み宮島も指呼の間にある素晴らしい別荘地であるが、相当のお金をつぎ込んだ筈の別荘地が殆ど活用されなかったのが不思議でならないが、何か特別の支障でも有ったのだろうか。

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 長年活用されなかった別荘地は雑木が生い茂り、一時はここに住み着いていた不良者が残した廃物が散乱し、国道のすぐ傍でありながら様子を見に行くのも不気味な荒地となっている。
by hirosan_kimura | 2014-03-15 13:44 | 鰆浜 | Comments(0)

№628 下水道工事

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 現在、お上がり場公園と広電軌道の間の狭い道路を片側通行にし、重機が入り盛んに工事が行なわれている。これは阿品地域に公共下水道を整備するため、放流管を埋設するための工事である。

e0125014_11125663.jpg 2月の中頃より、お上がり場公園の東側半分にある樹木が掘り起され、西側半分に移植された。何の為か不審にに思っていたが、下水道工事のため東側を空き地にし、工事や資材を仮置きする為であった。

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 東側半分は樹木が取り除かれ空き地となっている。西側の公園部分との境に危険防止のため囲いが設けられている。お上がり場公園のシンボルである「西幸記念碑」ぎりぎりの地に仮囲いが設置されている。

e0125014_11414418.jpg №567で「やっと阿品に公共下水が」で紹介したが、沖島橋附近の縦抗より埋設された下水管が「広電阿品東駅」附近まで到達し、更に西側に伸ばすため中間点の縦抗を設けるための工事である。

 今回の工事は「広電阿品東駅」附近から西に588.5㍍延長され、径800㎜のヒューム管が延長されるが、工事期間は9月下旬となっており、今回の工事が終了すれば更に西に延長する必要があり、我家周辺に公共下水道が整備されるのはまだまだ先になるようである。
by hirosan_kimura | 2014-03-13 12:06 | その他 | Comments(0)
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 №54で紹介したが、鰆浜の語源はこの海岸で「鰆」がたくさん漁獲されたことに由来する。上図は鰆を捕獲する「さわら流し網」という漁法である。
by hirosan_kimura | 2014-03-09 03:50 | 水産 | Comments(0)
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 地御前では昭和20年代まで鰯漁が盛んであった。№408でも紹介したがその漁法は何種類かあった。上図は、鰯巾着網といわれる漁法である。

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上図は、鰯建曳網。
by hirosan_kimura | 2014-03-08 11:17 | 水産 | Comments(0)

№625 黄色の溜池

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 鰆浜(現在の阿品一丁目)にはJR線路から奥に延びる谷と下水処理場から奥に延びる二つの谷があった。真っ直ぐ奥に延びる谷は「権四郎谷」、下水処理場から右手に延びる谷は「大谷」と呼ばれていた。

 二つの谷は現在の阿品台団地の下をかなり奥まで延びる谷であった。大きな川はなかったが両方の谷の奥から小川が流れきれいな水が絶えず流れ出していた。

 この谷も阿品台団地の造成で埋め立てられ、小さな川も消滅してしまった。鰆浜の谷もJR線路から奥に家屋が立並び田畑も殆ど無くなっているが、昭和30年代頃まではJRの奥には民家が一軒あるのみで、平地は全て田畑が耕作されていた。現在では田畑も少なくなっているが農業用水が必要なため小さな溜池が作られている。

 阿品(現在の阿品二丁目)ではかなりの規模の調整池が作られ、大水が出たときの水量調整や田畑の潅水用の役割を果たしているが、鰆浜では田畑も少なく小さな溜池である。

 この小さな溜池でも水が切れることは無くいつも水を湛えているが、赤茶色の不思議な色をしている。阿品の川は昔から鉄分が多く川底などに赤い藻のように色が付着していることはあったが、流れる水は清水のようで赤い色が付いていることはなかったが、この溜池は常に赤茶色の水を湛えているのが不思議である。阿品台を造成した際地下を流れる水脈が変わったのかも知れないが、このような水を農作物の耕作に利用しても害はないのか心配である。

 鰆浜の谷で稲作をする農家も僅かで、近いうちに田畑が消滅し農業用水が不用になればこの小さな溜池も埋められてしまうのだろうか。
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by hirosan_kimura | 2014-03-06 13:06 | 鰆浜 | Comments(0)

№624 新開の樋門

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 JR駅前あたりは現在では駅前広場、駐車場等が整備されているが、昭和40年代までは国道より一段と低地で一面田畑が広がっていた。この地は明治12年(今から135年前)に海岸を埋立てて造成され阿品新開と呼ばれていた。低地のため台風や大雨の際は度々田畑が冠水していた。

e0125014_133537.jpg この写真は三丁目の海岸が埋立てられ調整池を埋立てる直前であるが、左側の国道と比較するとかなり低地であったことが分かる。




e0125014_1343545.jpg 上流より流れ出た川の水は、干潮時にそのまま海に流し、満潮時には池洲に貯留されていた。上の図の赤線辺りに国道と広電軌道下に排水管が敷設され海と繋がっていた。池洲の水が流れ出る場所に満潮時に海水が逆流しないよう樋門が設けられていた。

e0125014_1383763.jpg この樋門は水の流れにより自然に開閉する「無動力自動開閉ゲート」と呼ばれるもので、干潮時には海側に開いた樋門より自然に川の水を海に流すようになっていた。満潮時には海側から押される海水の圧力で自然に樋門が閉じて海水が内側に流れ込まないようになっていた。

 樋門にゴミや流木などが引っ掛かると満潮時でも完全に閉まらず、海水が内側に逆流することもあった。このため、毎日二回ある潮の満干の際には樋門にが完全に閉まっているか点検する必要があった。何かが樋門に詰まっている際にはそれを取り除いたりする必要があり、日々の管理を怠ることは出来なかった。

 満潮時には樋門が閉まり川の水は池洲に溜まるが、大雨の際には池洲の貯留能力を上回るほど溜まった水が、田畑や附近の民家まで冠水することも珍しくなかった。

e0125014_1373480.jpg 三丁目の海岸が埋立てられ阿品新開が整備された際、池洲は埋め立てられ二丁目の公園の地下に貯留池が設けられた。また、三丁目の海岸沿いに排水ポンプが設けられ、大雨が降ってもポンプで排水出来るので阿品二丁目が冠水することも無くなった。

 かつての駅前あたりは田畑がひろがり田畑と田畑の間には池状になっていた。子どもの頃はここで鮒を釣ったり亀やドジョウなどを獲って遊んでいた。水際に繁る蒲の穂でチャンバラ遊びなどをしたことが懐かしく思い出される。
by hirosan_kimura | 2014-03-05 14:01 | その他 | Comments(0)

№623 山道の通学路

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 阿品一丁目の東端に「光が丘」という小さな住宅団地がある。この地はかつて地御前の田屋部落に所属していたが、昭和57年2月の町名設定により阿品一丁目となっている。しかし一丁目の鰆浜部落とは山や道路で隔絶されており阿品一丁目に編入されたのが不思議なくらいである。

 この団地は阿品台東小学校区であるが、正規の通学路は団地から国道沿いに鰆浜に到達し、奥に入り阿品台団地に登り東小学校に行くルートとなっていた。(上図の青い線)

 しかしこの団地のすぐ傍を通るJRの線路の向かい側が阿品台団地となっているが、間にJRトンネルの上に木の生い茂った山がある。

 光が丘の子供たちは正規の通学路を行けば遠いので、この山を越えて小学校に通学する者が大半である。(上図の赤い線)

 山道は僅かの距離があるが、人の滅多に通らない険しい細い山道と水道の管理道があるのみで(上図の緑の線)通学路としては危険で望ましくなくこの道を通って通学するのは禁止されていたが、正規の通学路と比較すると遥かに近いので子供たちは山越えをして通学していた。

 余りにも危険な通学路であるため、地元より光が丘と阿品台団地の間に新しい道路を造るよう陳情書が出されたこともあるが、トンネルの上部はJRの用地でもあり道を作るのは困難との結論になったらしい。

 小学校も危険な山道を通学路と認定するわけにも行かず、今では黙認と言う形で相変わらず山道を越えて通学しているようである。

e0125014_11174876.jpg この写真は団地を登りきって山道に入るあたりであるが、フェンスがあるのは水道の管理道。手前の道を進むと木の繁った細い山道を越えて、阿品台団地に至る。
by hirosan_kimura | 2014-03-04 11:22 | 道路 | Comments(6)
 現在、地御前での地御前での漁業といえば牡蠣養殖が大半でその他の水産物は殆ど皆無に近いようであるが、戦前までは様々な魚の水揚げがありその漁獲方法も様々であった。阿品沖でも漁獲する魚の習性により工夫された漁法により水揚げされていた。
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いかなご船曳網
 漁具は大体他の地曳網と同様であるが、揚網場所が狭小な船の中であり、また機動力を要するため地曳網より規模が小さいのが普通である。

 船曳網は一隻の網船で操業する。1艘船曳と2艘船曳に分類され無動力船で行なう小型のものから、動力船で行なう大型曳船や、網舟は無動力船であるがその変わりに動力付の引船を使用するもの等、種々雑多である。

 一艘船曳を基本型として、その操業方法は漁具の一端に樽を付し投入すると同時に、魚群を包囲するように漁具を順次投入しながら漕ぎ進み、再び元の○の○に帰り○○○に錨を投入して船を固定した後、引網にかかり網を船中に引揚げる。(○~判読不能)

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いかなご袋待網
説明なし
by hirosan_kimura | 2014-03-02 15:33 | 水産 | Comments(0)