素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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平成8年3月8日 廿日市市議会一般質問

質問
 ナタリーの閉鎖に伴い、JR阿品駅周辺の整備と阿品の開発について伺います。西広島タイムス平成8年1月26日付けでは、「市長自らフジタ工業と話合い中」と報道されています。ナタリーの跡地計画はどうなっているのか。第3次総合計画のアーバンリゾート計画の変更はあるのかどうか。変更がないのならば、どのように考えておるのか。また、アーバンリゾート計画そのものの見直しを含めて、市としての考え方をお聞きしたいと思います。

 廿日市市の観光の目玉、また大型娯楽施設の閉鎖により、子供たちの夢と遊び場が一つなくなることになります。プールの年間利用者は約20万人、またアイススケートは年間7万人の利用者があります。市民の多くはこれらの施設の存続を望んでおりますので、市としてこれらの施設を存続させる考えはないかどうか、お聞きしたいと思います。また、フジタに協力を依頼することはできないかどうか。

 そして、JR阿品駅周辺の開発はどのように考えるか。アーバンリゾート計画との整合はできるかどうか、回答をお願いしたいと思います。

答弁
 ご承知のように、もう30年近くもナタリーがこの地域の遊園地として皆さんがたに愛され、そうして長年利用していただいたわけでございますが、閉鎖は誠に残念と言わざるを得ません。宮島を中心に岩国、そうしてこのナタリーが一連の観光コースとして多くの皆さんに利用されたわけでございますが、現在の状況で、ご承知のように事業主の意向としては、遊園地及び屋外プールを閉鎖して、屋内プール、サッカーグランド、テニスコートを存続させると聞いておるところでございます。

 ヒロシマナタリーの跡地利用としては、現段階において事業主の計画は、マンション及び商業施設を中心に検討しているということでございます。事業主とまちづくりについて協議を進めており、ナタリーの跡地の一部を利用し、国の管理運営する保養施設等を中心とした跡地利用、まちづくりの計画を検討をいたしておるところでございますが、社会保険庁は昨年、経済成長が鈍化している理由に、新規の保養施設の設置は原則凍結する方針を打ち出しております。

 高度成長とバブルによって繰り返してきた年金資産の流用は、少なくなってきておるところでございます。全国で厚生年金、国民年金の施設は172か所あり、そのうち広島県には、市民病院を含めると6か所の施設がもう既にあるわけでございまして、私ども今厚生省といろいろ折衝を続けておりますが、まだ発表の段階ではございませんが、引き続き努力をしていきたいと、かように考えておるところでございます。

 阿品駅周辺整備事業においては、民間の開発事業に合せて、駅前広場、都市計画道路田尻線、公園等の公共施設を一体的に整備したところであります。開発宅地の土地利用については開発事業者が計画するものであるが、市としては駅前にふさわしい土地利用の要望を行なっており、阿品地区は臨海性の優れた立地条件を持ち、この地域特性を活かした本市の西の玄関口にふさわしいまちづくりの計画を進めたいと思っておるところでございます。
以下省略
by hirosan_kimura | 2014-02-26 14:02 | その他 | Comments(0)

№620 地御前の伝説

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 昭和16年に発行された「神武天皇聖蹟誌」に地御前の伝説と言う項目がある。

 {芸備国郡誌「挨宮恐謂地御宮乎」芸藩通史巻二安芸国古跡考埃宮の條に「或は埃宮を佐伯郡地御前社とする説あれど何の據も見えず」とある以外に同村並に飯田社家にも何等伝所がない。

 厳島神社禰宜野坂元定氏の談に據(よ)れば、現在神社の西側にある極めて狭小の入江があるが、之は有府(ありふ)之水門(みなと)と称し、これ即、神武天皇埃御着岸地なりと、今此水門は鉄道と宮島電車軌道に挟まれて東面する長さ約廿間幅員約十間、深さ六尺程度の楕円形を為しているが昔はやゝ西方に擴(ひろが)り二倍大であったと言われるに過ぎない。

 半ば磨滅した説明標に「旧六月十七日厳島管絃祭の当日御座船渡御の時風波高ければ此水門に繋船す」と読得が、今は勿論、かかることは不可能で、今の繋船場所は社殿の東前海岸で、玉の池と言う所で行なわれる。}

 日本書紀に記されている神武天皇東征の際の行宮の地は、今では安芸郡府中町と言われているが地御前神社との説もあるが何等根拠がない。

 神社西側の有府の水門は鉄道と電車線路に挟まれているが、かつてはこの二倍程度の広だがあり管絃祭りの際風雨が激しいときはこの港に管絃船を繋いでいたと説明されている。

 上図では「有府の水門」の様子は分からないが、海上の鳥居の前には「玉の池」が描かれている。
by hirosan_kimura | 2014-02-22 12:05 | 伝説民話 | Comments(0)
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 明治16年の地御前村の調査表が目に付いた。県か国に提出したものであろうが調査項目が今と随分異なっている。村の所在が「安藝国佐伯郡地御前村」と標記されている表もある。最初に神社の調べが有り、「村社・三社、雑社・九社」でお寺は「末寺・有住・二ケ寺」とある。

 現在では廃止されているが、華族・士族・平民等の調べが有り華族は無く「士族3世帯 男7人 女8人」とあり残りは平民となっている。

 村の全世帯は471戸で人口は2,381人。男1,225人、女1,156人、計2,381人で内訳は
        男     女
 7歳未満 217人  212人
 7歳以上 352人  336人
20歳以上 482人  414人
50歳以上 167人  188人
80歳以上   7人    6人
となっており現在と比較すると、随分年齢構成が異なっている。 

 その他の調べは、「戸長役場 一箇所、戸長 一人、筆生 一人、学務委員 一人」とある。

 学校は「公立小 一校、学校教員は準小学卒 副導補 男 一人」となっているが意味はよく分からない。

 出生数は前年一年間分であろうが76人で、男37人・女39人となっている。

 死亡者数は44人で、男19人・女25人となっている。このうち14歳以下の死亡者は8人で、男8人・女0人となっている。80歳以上の死亡者は6人で男3人・女3人となっているが、当時としては随分長寿であったのであろう。

 ちなみに昭和31年に地御前村が5ケ町村と合併した際の人口は4,357人であった。明治16年の人口と比較すると73年間で1.83倍の人口数となっている。

 旧地御前村の地域の昨年の人口は21,354人となっている。130年前の地御前村の人口と比較すると約9倍になっている。世帯数でみると当時の471世帯が8,938世帯となっており、実に19倍近くに増加している。

 ちなみに一世帯当り平均家族数は、明治16年は5.05人であったが現在では2.38人と半分以下になっている。
by hirosan_kimura | 2014-02-20 14:45 | 行政 | Comments(0)

№618 古い地図

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 阿品近辺の古い地図がある。手書地図で概略図であるが、位置や方位はほぼ正確である。海岸沿いの赤い線は旧国道を示しているものと思われる。

 書かれた年代は分からないが旧国道は明治12年、旧国鉄は明治30年に開通している。広電宮島線が「新宮島駅」まで開通したのが大正15年である。この図には宮島線は描かれていない。

 従ってこの図が描かれたのは明治30年以降、大正14年前の間であろう。

 図に色が塗ってあるが、赤色の山は「田尻」・黄色「阿品」・緑「鰆浜」、薄い赤は阿品の隣の「田屋」を示している。

 阿品に二ヶ所ある国鉄のトンネルは省略して描かれている。「阿品」「鰆浜」部落内に描かれている赤い線は村道・里道等を示すものであろう。

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 この図も同年代のものであろうが、旧国道がはっきりと描かれている。
by hirosan_kimura | 2014-02-18 14:30 | 地図 | Comments(0)
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 平成8年3月に遊園地「広島ナタリー」が閉鎖され、その跡地利用として様々な案が計画された。商業施設等の案が出されたが、当時廿日市には宿泊施設がほとんど無くホテル等の案もあった。

 以前阿品四丁目の市有地に宿泊施設を備えた保養施設を整備する案もあったが、市内には特別養護老人ホームは一箇所しか無く入所待機者が急増する中、福祉施設の整備を優先しこの地には高齢者用の複合施設が整備された。

 こうした中、ナタリー跡地に宿泊施設を備えた保養施設の誘致をするため様々な検討が行なわれたが、全国的に合理化のためこれらの施設が廃止されたり、民間に売却されている中で新しい施設の誘致の見込みは皆無であった。

 上図のナタリー跡地利用計画では、右側に宿泊施設・テニスコート等を備えた保養施設が計画されている。

 また商業施設も多く計画に有り、中央やや右側海岸沿いには「フジタドルフィングクラブナタリー」も残されている。

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 宿泊施設の誘致が困難な中で大型のマンションが計画されているが、商業施設も現在より広い敷地が確保され、プールの施設もそのまま残されている。

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 商業施設は大きく縮小され、プールも撤去され今では位置を変えて電車線路沿いの建物の中に、新しいスポーツ施設が整備されている。

 ナタリー遊園地の後地は当初計画と大幅に変更され、一角に大型スーパーが出来た他は全てマンションが沢山建てられている。
by hirosan_kimura | 2014-02-15 14:18 | 三丁目 | Comments(0)
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 昭和59年7月30日、地御前漁業協同組合により地御前と阿品の海岸に「あさり」の稚貝約3・5㌧が放流された。

 この放流は毎年行なわれているが、予想されたほど「あさり」の生息量は増えていない。「あさり」の稚貝は一年で3cm以上に育ち初めて産卵出来るようになる。

 小さいうちに採ってしまうと「あさり」はいなくなるので、繁殖保護を考えて小さな「あさり」は採らないような潮干狩りを行なうようにしよう。

 潮干狩り開放区域は、地御前神社前から鰆浜海岸までとなっている。
by hirosan_kimura | 2014-02-14 11:42 | 水産 | Comments(0)
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新駅の設置は、地方自治体が要望するケースや宅地開発業者などの民間や地元の期成同盟会などが求めるケースがあるが、JR側はいずれも自社の必要に迫られて造る駅ではないので、設置を要望する側が全額負担すべきだと主張してきた。

 これに対し自治省は「黒字の見込める新駅については、JRにもメリットをもたらす筈にも拘わらず設置費用を全く出さないのはおかしい」との見解を示し、自治体が出資するケースについては自治省側と協議するよう求めていた。

 JRの社長はこの問題について「自治省との協議の結果、採算に合わないところは別として、地方自治体とともに新駅設置を促進する場合は一割程度、最高二割の範囲内で負担することとした」と発表した。

 JRは方針変更の理由として①全額地元負担のため難航している新駅設置問題が多く、JRの一部負担により交渉の打開を図る。②新駅設置が進めばJR全体の採算性からも、より効果的な運営が出来る。③私鉄・バスなど競合交通とのサービス競争が厳しく、新駅設置が求められている等を挙げた。

 阿品二丁目に設置を要望している「新阿品駅」は、JR側が負担を渋っていたことがネックになっている典型的なケースであった。地元とJR側との調整が難航し新阿品駅設置問題は事実上暗礁に乗り上げていた中、JR西日本が応分の負担を決めたことに対し地元は一様に歓迎の声をあげている。

 廿日市市は、先の臨時議会で予算化した同駅周辺の整備計画を策定する。一方JR側の具体案が提示されればすぐにでも、県を通じて自治省との協議を再開する考えである。 
by hirosan_kimura | 2014-02-12 11:15 | JR | Comments(0)
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 廿日市町内に新駅設置しようという機運が高まったのは、昨年十一月(昭和61年)に国鉄が分割民営化されJRとして出発するのを機に、「地域に密着した利用しやすい鉄道を目指す」という趣旨のもと、沿線の自治体に新駅設置希望を聞いてまわったのがことの始まりであった。

 都市の基盤整備を考えていた廿日市町はその一環として、串戸・阿品地区の二ケ所に新駅設置を申請した。ことし三月には役場内に「新駅設置推進本部」(本部長・半明英夫町長)を設け、JRに対して設置を本格的に働きかける一方、両地区の住民も期成同盟を設立して、新駅建設の募金活動を開始した。

 このうち「串戸駅」については建設費の地元負担を主張するJR側の条件を整え、約三億円の建設募金は周辺に進出した大手団地造成企業の大口寄付もあり、「串戸駅」設置期成同盟会」が全額確保し来年四月の開業に向けて駅舎建設工事が始まった。

 一方「串戸駅」と同時期に動き出したはずの「新阿品駅」設置計画は、今のところ自治省と広島県の間でストップしたままである。

 「新阿品駅」の設置に関して「串戸駅」と同様にJR側は建設費の地元全額負担を主張した。現段階で見積もられている「阿品駅」の建設費は約二億四千万円。串戸地区の場合と違って阿品地区は大口の寄付が期待できないことや、町は将来同地区を観光の拠点として整備したいなどの意向を持っていることから、町が総額の七一・一%に当る一億七千万円を負担し、残りの約七千万円を「新阿品駅設置期成同盟会」が募金によって確保することで計画は進められている。

 ここで鍵を握るのが自治省。地方公共団体が寄付をする場合、自治省の認可を必要とする。そこで町は県を通じて自治省に協力依頼をしているが、県によると「JRが応分を支出して新駅を設置し、それに地方が協力するのが筋」という見解を得た。

 これはJRのいう「地元全額負担」に対する実質的な反対意見。新阿品駅の設置申請は国鉄民営化後、地方公共団体の寄付が絡む初のケースだけに、県は自治省見解の解釈に苦しんでいるのが実情である。

 JRはJRで「まだ足腰が弱いので、地元全額負担という方針を変える予定は今のところない」ことから、新阿品駅設置問題は平行線のままで現在暗礁に乗り上げている格好である。この現状を打開する鍵は全て自治省裁定が握っている。

 新阿品駅設置期成同盟会の山本会長は、「地元住民は一日も早い設置を願っている。 当面、期成同盟会としては県と自治省の協議の年内完結に向けて各方面に働きかける一方、企業からの募金に重点を置いて活動を続けたい」と話し、廿日市町は「近日中にJRと自治省に足を運び協力依頼したい」としている。

 JR串戸駅は来年四月開業に向けて工事が着々進められているが、その一方「新阿品駅(仮称)」は設置の目途が立っていないのが現状である。
by hirosan_kimura | 2014-02-10 13:48 | JR | Comments(0)
 今から50~60年位前、阿品の子ども達は遊びといえば魚釣りをよくしていた。今と違い海もとてもきれいで簡単な釣り道具でも堤防のうえから、ぎざみ・きす・こち・メバルなどが面白いほど釣れていた。

 小さいながらもカレイ・チヌ・鯛なども釣れることもあった。釣った魚は家に持って帰り夕食のおかずなどにしていた。

 魚は煮魚が主であったが、焼いたり・酢漬け・から揚げなど簡単な調理が大半であった。

 釣れた魚でも阿品では余り食べる習慣も無くその場で捨ててしまう魚もあったが、このような魚でも他の地方では珍味として食べることもあるが、不思議でならない。

e0125014_14554722.jpgわち
 「わち」は正式な名前はサッパというが沖合いで釣っているとたまに釣れることがあった。小骨も多く阿品ではあまり食べる習慣もなく、釣れても雑魚の扱いでその場に捨てることの方が多かった。

 ところが岡山地方では余りにも美味しく食が進み、途中でご飯が無くなり隣の家にご飯を借りに行くこともあるので「ままかり」と呼ぶくらい人気があるらしい。

 この魚を食べることも無かったが、地方によっては焼き魚や酢漬けにしたり「ばらずし」の中に身をほぐしていれて食べられている。

 近辺では雑魚として捨てられたりすることの方が多い魚が、岡山では郷土色として名物料理となっているのは不思議である。

e0125014_14385420.jpgしんぎん
 しんぎんは正式名称は「ひいらぎ」と言うが、魚釣りをしていると良く釣れることがあった。この魚は銀色で平べったく、ぬるぬるし小骨も多くとげもある。この魚も食べることは少なくその場で捨てることの方が多かった。

 この魚は釣れても迷惑がられることの方が多く、殆どの地方でも食べる習慣は無く静岡では猫も食べないので「猫またぎ」などと呼ばれている。

 何故か大阪・島根・福岡などでは食用として高く評価されている。特に大阪の南地方では好んで刺身として食べられているそうである。塩焼き・から揚げ・煮つけにすると美味しいそうである。

e0125014_14392565.jpgトラハゼ
 釣りをしていると「とらはぜ」が釣れることがあった。この魚は見た目も悪くゴリの仲間のようで釣れても嬉しくなかった。家に持って帰って煮つけで食べたことがあるが、先入観もあり余り美味しいとは思わなかった。

 揚げ物・煮物にして食べると美味しくよそでは珍品として扱う地方もあるそうである。竹原の方では旬で身の入った「とらはぜ」は「胴丸(とうまる)」と呼び珍重されているらしい。

e0125014_1440938.jpgからこぎ
 「からこぎ」はおこぜの一種で背びれ・胸びれなどのとげから毒を出し、おこぜに刺されると大の大人でも狂うほど痛いらしい。

 釣りをしているとたまに釣れることがあるが、子どもがおこぜを釣ったときは大騒ぎになり刺されないようにあわてて叩き殺し捨てていた。

 しかしこの魚は刺身やから揚げにするととても美味しいらしいが、毒に刺されるのが恐ろしいのでもって帰ることは先ず無かった。
by hirosan_kimura | 2014-02-07 15:40 | 釣り | Comments(0)
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 昭和54年4月に「阿品台東小学校」が開校した。今から37年前である。阿品台に大型団地が造成されたため地御前小学校から分離したが、開校時の児童数は177名であった。

  この小学校は団地内に新設されたが阿品の子ども達も全員転校することとなった。それまでは地御前小学校に通学していた。今から138年前の明治16年に開校された地御前小学校に、曽祖父の代から通学していた学校と離別しなければならないのは寂しい限りであったが、阿品の子どもが全員転校するので従うざるを得なかった。

 右上の赤い部分は「光の園」、阿品台に属さず地御前地番のままであるが、阿品台に隣接しているので阿品台東小学校区となっている。

 新しい学校は団地の丘の上にあり阿品全体から見れば端の方にあったが、それまで通学していた地御前小学校のことを思えば大半の者は近くなった。

 しかし阿品一丁目の東端の「光が丘」団地は、直線距離でいえば小学校に近いが間にJRのトンネルが通過する山があり、国道を迂回すればかなりの距離があった。そのため道とも言えない山道を越えて通学する子どもたちもいた。

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 開校時には177名の児童数でスタートした東小学校も、団地への入居が進み児童の多いときには1,150名のマンモス校となった。このため昭和58年4月1日に「阿品台西小学校」が開校した。学校区は阿品台西・阿品台山の手と阿品一丁目から四丁目の阿品全体とされた。

 このため子どもの中には、入学は地御前小学校、二年生で阿品台東小学校、六年生で阿品台西小学校と住まいは変わらないのに小学校を何回も転校しなければならな子どももあった。

 阿品一丁目から西小学校は遠いので、校区を変えないで欲しいとの地域の要望も出されていた。

 また地御前小学校から阿品台東小学校へ校区が変わって4年経過すれば、地域と学校の連携や保護者同との交流も深まり転校には強い反発もあった。

 また阿品一丁目と二丁目は振興団地と異なり遠い昔より深い絆で結ばれていたので、一丁目・二丁目が離れず東小学校へ残りたいたの強い要望があった。

 しかしそのような願いも受けいられず阿品全体が西小学校への校区決定がされた。阿品二丁目は比較的西小学校へ近いので止む無く校区の変更に従う者もあったが、絶対認めないと頑張る人もあった。

 阿品一丁目は西小学校が遠いので、西小が開校しても校区変更の許可申請を教育委員会に出し東小学校に通学する子どもたちが大半であった。一丁目で西小学校に転校する者もあったがその人数は僅かで、規則通りの学校に通学する子どもの方が奇異に思われるほどであった。

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 こうした事態に教育委員会も放置することが出来ず、阿品台西小学校が開校して6年目にやっと阿品一丁目の校区が阿品台東小学校へと規則が改正された。

 こうして阿品の一丁目は阿品台東小学校区、阿品二~四丁目は阿品台西小学校区となった。しかし遠い昔から深い絆で結ばれていた阿品一丁目と二丁目は、小学校区とコミュニティ区が異なると言う弊害を生じている。
by hirosan_kimura | 2014-02-05 15:00 | 幼小中 | Comments(0)