素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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 平成元年7月7日(金曜日)の西広島タイムスの記事

 昨年暮れから廿日市市阿品二丁目で建設が進められているJR山陽本線新駅の正式名称と開業日が、六月二十九日(木)と決まった。駅名は「阿品」、八月十一日に開業する。

 駅名決定の理由として、JR西日本広島支所は、①駅周辺の地名が阿品、②広電に阿品駅があるが、新駅から若干離れており、地元の混乱を招くこともない、の二つを挙げた。

 阿品駅は線路をまたぐ橋上駅(延べ三百五〇平方㍍)。駅舎外装には白・青・緑の三色を用い、白と青で海を、緑で山を表現、エーゲ海をイメージする。また、二階フロアの中心に事務室を置いて三百六十度利用可能にし、開放感のある造りとする。ここからは瀬戸内海を見渡すことも可能。

 工事費は二億三千九百万円で、廿日市市が一億四千三百五十万円(負担率六〇㌫)を、駅設置期成同盟会が六千九百十万円(同ニ九㌫)を、JR西日本が二千六百四十万円((同一一㌫)をそれぞれ負担する。JRが建設費の一部を負担して開業するのは、同駅と広島市安芸区の中野東駅が始めてのケース。

 阿品駅長には広島支社管内で初の女性駅長、名智洋子さん(四八)が就任。一日の乗降客数は約三千二百人が見込まれている。
by hirosan_kimura | 2014-01-31 12:18 | JR | Comments(0)

№607 移民

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 地御前は移民の多い村である。小学校時代クラスの中でも、親戚をたどりたどれば大半の者に誰かがハワイやアメリカに親戚が住んでいると言うのは当たり前であった。

 戦後の日本が貧しい頃、ハワイなどの親戚からコーヒー・砂糖・パナップル缶などが良く送られて来ていた。中には子どもの古着などもあったがオレンジ・黄・緑などの派手なシャツなどであったが、他の子どもたちも同じような柄のものを着て遊んでいたので恥ずかしいとも思わなかった。

 地御前は背後地に山を控え耕地が少ないので早くから移民があった。広島県は全国でも第一位の移民数が多かったが、地御前村は飛びぬけて多く明治29年には村の人口の10.8㌫の移民者があったそうである。平均でいうと2戸に一人以上の割合で移民者があった。

 明治17年の統計では給料が一ケ月一人男9ドル、妻6ドルであったが円換算すると17円65銭であった。(当時の為替相場 0.85ドル=1円)当時国内の農作業をする男性の年給が6円であったので35倍相当になった。このため移民による出稼ぎで借金を解消し財産を作る千載一遇の機会として、戸主や長男をはじめ、労働に自信のある家族が進んで渡航していた。

 地御前村では海外からの送金が、村内年間生産総額の114.4㌫にもなり大変なお金が入っていた。これによって出稼ぎに行った家の暮らしや村も潤い、地御前はアメリカ村と呼ばれていた。

 また小学校の増設や地御前神社の改築の際、村の海外在留者から多大の寄付金が寄せられた。

 鰆浜ではあの家は主人はペルーに在住して居られるとか、阿品でも海外で財をなして帰国された家も何軒かある。

 大正9年の地御前村の統計によると、人口は男1,268人。女1,207人・合計2,475人、世帯は540戸であったが、地御前出身の海外居住者はハワイ男327人・女280人・計607人、北米男16人・女10人・計26人、カナダ男4人・女6人・計10人、フィリッピン男8人・女0人・計8人、その他男58人・女39人・計97人とあり、総合計では男413人・女335人・計748人となっていた。
by hirosan_kimura | 2014-01-30 13:45 | その他 | Comments(0)

№606 往古の道跡?

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 阿品台の光の園より少し上の民家の間より地御前に降りる山道がある。平地に降りて海側に向かうとバイパスを横切って地御前神社附近に出ることが出来る。下図の赤線部分が残された山道である。この坂道の上側はニュータウウンの開発で山は削られ昔の面影は残っていない。下った場所も大きな開発こそされていないが、民家も立並び大きく変わっている。

 この山道は犬の散歩をする人がたまに通るくらいであるが歩きやすい山道である。今では殆ど人の通ら無い道であるが、その昔広島方面から西に向かう人達がたくさん行きかっていた道ではないかと推測される。

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 遠い昔阿品附近の海岸は山裾が海まで迫り、海岸沿いの道路は無かったが広島方面から九州方面に向かうのは、串戸附近から宮内を奥の谷に向かい槍出峠を越えて大野に抜けるのが通常であった。この道は余りにも遠回りなので地御前を抜け神社附近より奥の谷に入り、そこから山越えをして鰆浜の谷を抜け阿品に入り、阿品の谷の奥から再び山を越え、大野の中山や更地に抜ける人々も多くあった。

 現在阿品公民館裏に安置されている「教え地蔵」は阿品の谷の奥で、大野の中山と更地との分岐点に旅人が迷わないよう道標として安置されていたものを、ニュータウンの開発により谷が埋立てられるため現位置に移設されたものである。

 以前にも紹介したが今から640年くらい昔九州探題に赴任する今川貞世が、応安4年9月の紀行文に「廿一(21日)は此佐西(廿日市の旧称)から出て、地の御前といふ社の西ひがたより山路に入るほどに」との一節を残している。

 確たる証拠はないものの、様々な文献で推察するとこの山道を越えたことは間違いないのではなかろうか。
by hirosan_kimura | 2014-01-29 12:23 | 道路 | Comments(3)
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 その昔、地御前の漁師の間で不思議な信仰があった。それは「船霊(ふなだま)さん」と呼ばれていた。地御前の浜で作られた船には船霊さんを納めていた。船霊さんは船の守護神として信仰される神様であるが、「船神(ふながみ)」さんとか「おふなさま:と呼ぶ人もあった。

 船霊さんは時化(しけ)や不慮の事故による災難や、大漁などを前もって船頭さんに知らせてくれる神様である。

 地御前では新しい船が造られると船おろしの儀式が行なわれていたが、その儀式の前に船霊さんを新造船に納めていたがこれを「お性根(しょうね)を入れる」と言っていた。

 船霊さんは、男女ニ神・サイコロ二個・五穀・一文銭十二個を小さな箱に納め船の胴梁の中央に納めていた。ご神体は紙を二つ折りにして作り、五穀は米だけを少々入れていた。一文銭はその年の月の数だけ入れるので閏年には十三枚いれていた。サイコロは船大工が余り木などで作っていた。その数字は波が穏やか魚がたくさん獲れて荷が一杯になるようにとの願いが込められていた。

 船霊さんは鈴虫の鳴くような声で、時化(しけ)や災難の前兆の時は激しく、大漁の時は機嫌よく鳴かれるそうである。そしてその声は昼間より夜の方が良く聞こえていたそうである。船霊さんの鳴き声は誰にでも聞けるものでなく船頭か船主だけに聞こえるそうである。船霊さんの鳴き声で吉凶を判断できるのは、長年の経験と勘によるもので船頭の力量にによると伝えられていた。

 また、船霊さんは漁の時だけでなく船頭さんにまとわり付いて、船を降りても付いて来られることもあったそうである。

 不思議な信仰であるが、今でも地御前の漁師さんの間でこのような信仰が残っているのであろうか。
by hirosan_kimura | 2014-01-28 12:27 | 伝説民話 | Comments(0)

№604 テレビ

e0125014_12574114.jpg 今ではテレビの無い家庭はないほどで一部屋に一台、一人に一台のテレビのある家庭も珍しく無い。

 広島でテレビ放送が開始されたのは58年前の、昭和31年3月であった。当時のテレビの価格は1インチ6万円と言われ、所得も少なく今で言う自家用車を買う以上の価格であったらしい。

 このような状態であるので阿品にテレビのある家は無かった。小学校の裏門近くにテレビを購入した家があったが、放課後に子ども達はその家のテレビを見せてもらっていたが一人10円くらいのお金を徴収していた。地御前の子ども達は学校でテレビの話をよくしていたが、貰う小遣いも僅かで学校から家に帰りまた地御前に行くのは遠いので、お金を払ってテレビを見た記憶は無い。

 そのうちテレビの普及とともに価格は下がったらしいが、それでも一般家庭ではテレビに手が届かなかった。昭和34年に皇太子殿下のご成婚を期にテレビが普及したらしいが、それでも阿品にはテレビのある家は数えるほどしかなかった。この日は部落中の女性が集まったのでは無いかと思われるほど、テレビのある家に集まりパレードを見ていた。

 当時のテレビはNHK1チャンネルのみで、放映時間は昼間1時間、夜4時間程度のみであったがその内、放映時間も長くなり中国放送やNHK教育テレビなどチャンネルも増えていった。

 夜の夕食が済んだ頃毎晩のようにテレビのある家に見せてもらいに行っていた。遅くまで見ていたが夜の放映が終わると日の丸のたなびく画像と、君が代の演奏が流されていたのが印象に残っている。

 当時の番組では「ジェスチャー」「連想ゲーム」などの記憶がある。

 我家にテレビが入ったのは遅いほうで昭和36~7年ではなかったかと思うが、それでもテレビの無い家の人が毎晩見に来ておられた。

 カラー放送は昭和39年頃開始されたが、カラーテレビは高価でとても買えるものでなかった。ある時セールスマンが廻って来て、簡単な装置で白黒テレビがカラー放送が見られると勧められ母が購入したことがある。それはテレビ画面と同じ大きさのプラスチックの板のようなもので板全面に細い筋状の線が横に刻んであった。

 テレビ画面にそれを当てて見たが、光の屈折の関係なのか見る方向によっては薄い虹のように見えるだけで、とてもカラー画像と言えるものではなかった。近所でも何軒かは購入した家もあったが騙されたと騒いでいたのが記憶に残っている。

 当時のテレビは価格も高価でブラウン管方式のため奥行きも長く重いものであったが、今では壁に架けられるほど薄く軽くなっている。価格も驚くほど安価になり隔世の思いがある。
by hirosan_kimura | 2014-01-27 13:52 | 娯楽 | Comments(0)
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 子どもの頃にはこの遊びを良くしていた。地面に大きなSの字とその外に〇を二つ書くだけで道具も不用である。

 先ず地面に棒切れなどで10mくらいの「S」の字と、外側の対角にSの字から少し離して半径1mきらいの〇を二つ書く。遊ぶ人数は何人でも良いが最低10人くらいが二手に分かれる。宝は木の棒でも空き缶でも何でも良い。

 ルールはSの字の中と島の中以外は片足の「けんけん」でなければならない。Sの字の中への出入りは字の切れ目からのみで線を越えては入れない。

 遊び方は、例えばチームの人数が5人とすれば一人か二人は自チームの宝を守り、残りは相手の宝を奪う役割とする。最初は全員が自分の陣地内で待機し「よーいドン」で相手の宝を奪う者がけんけんで外に出て相手の陣地に向かう。

 向かう途中で相手に出会うと押し倒したりして、先に両足を付いた方はこれ以上ゲームに参加出来ない。途中で島に逃げ込めば両足を付いても良いし、相手から攻められることは無い。

 そのまま進み相手の陣地に入れば両足を付いても良いが、相手の宝を守る役の者に線の外側に押し出されたらゲームに参加出来なくなる。

 これらを上手く交して早く相手の宝を奪ったチームが勝ちとなる。他愛の無い遊びであるが飽きもせず良く遊んでいた。
by hirosan_kimura | 2014-01-26 14:04 | 遊び | Comments(2)
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 小学生の頃「ろくむし」と呼んでいた遊びをよくしていた。不思議な名前の遊びであったが「ろく」は数字の「6」であろうが今の子どもたちもこの遊びをしているのであろうか。

 ルールは有って無いようなもので、遊ぶ場所の広さや人数によりかってに変えていたのでどれが元々のルールか良く分からない。

 要するに適当な距離で地面に円を描き、鬼とその他の者を決め鬼の投げるボールに当らないように円を往復し、6往復出来れば勝ちという遊びである。

 人数は5~6人くらいから何人でも良いが、あまり大人数であれば勝負がなかなかつかない。鬼は二人の場合もあるし半分が鬼になり残りが子と言う場合も有ったが、集まった子どもの数やその時の気分でルールを決めていた。

 最初は子が全員片方の円に入り鬼が円の外よりボールを投げる。投げられたボールを子の中の一人が平手で出来るだけ遠くに打ち返す。鬼の一人がボールを拾いに行く間に子全員がもう一方の円を目がけて走っていく。円の中に留まっていても良いが、鬼がボールをまだ拾っていればその隙に元の円に走ってたどりつけば「1むし」となる。円の中にいればボールに当っても良いが、円の外で当ればその子はアウトとなる。当った子はその場にしゃがんでゲームには参加出来ない。

 全員が円の中に逃げ込んだらゲームが続かないので、鬼の一人が片足を円の中に架けて立ちその場でボールを真上に投げて自分で取るが、子は真上に投げた瞬間を狙ってもう一方の円目がけて走り出してもようが、ボールが宙に浮いている間に子の一人が平手でボールを打ち、鬼がそのボールを拾らいに行く間に子全員が一方の円目がけて走り出す。

 円の中は安全であるが、鬼がボールを10回上に投げ上げる間に残った子全員が円に留まっていたら鬼が勝ちで子は負けとなる。

 こうして子と鬼の駆け引きでゲームを進め、子が円を往復するたびに「2むし」「3むし」となり6往復すれば「6むし」でその子の勝ちとなる。子が全員ボールに当れば鬼の勝ちで途中でゲームは終了する。

 ゲームが終了すれば最初にボールの当った子が鬼になって次のゲームに入ったり、鬼と子が同数でゲームを行なう場合は「6むし」の人数とボールの当った人数により負けた人数の多いグループが鬼になってゲームを始め全員が疲れるか、暗くなるか,飽きがくるまで繰り返し繰り返し遊んでいた。

 言葉で表現すると複雑な遊びのようであるが、ルールは至って簡単で二つの円を鬼のボールに当らないように6往復する遊びである。

 遠い昔のことで記憶間違いもあろうが、当時遊んだ友人に確認しても「そうではない」「こうであった」とどれが本当のルールで、どれが間違いか分からないが、単純な遊びを飽きもせず繰り返ししていたものである。
by hirosan_kimura | 2014-01-25 14:46 | 遊び | Comments(4)
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 阿品台中学校は昭和56年4月1日(今から33年前)に開校した。この中学校が開校するまでは阿品の子ども達は七尾中学校に通学していた。阿品台中学校の校区は阿品と阿品台地区であるが、中学校のある場所はこの地域の端っことなっている。光の園は阿品台に含まれず地御前の地番であるが、阿品台東小学校区となっている。

 学校から一番遠いのは阿品三丁目であるが、結構遠く坂道を登って行かなければならない。七尾中学校に通っていた当時に比べると比較にならないくらい近くなったが、過去の経緯を知らない人にとっては学校は通学地域の真ん中にあるのが当然なのに、何故校区の外れに中学校があるのか不思議に思う人もあるらしい。

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 七尾中学校から分離した当時の阿品台中学校は阿品台東小学校と地御前小学校が校区となっていた。この時には両小学校区の中間当りに中学校があり違和感はなかった。

 その後宮内地区の人口が急増し七尾中学校では生徒数が多くなり対応が難しくなってきた。阿品台中学校区も人口が急増していた。そのため地御前小学校と宮内小学校を校区とする新しい中学校を新設することとなり、野坂中学校が開校した。

 開校時は校区の真ん中にあった阿品台中学校も、地御前小学校区が野坂中学校区へと分離したため校区の外れに中学校がある状態になってしまった。
by hirosan_kimura | 2014-01-24 13:50 | 幼小中 | Comments(0)

№600 三丁目の変貌

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 この写真は平成7年4月今から約20年近く前の阿品三丁目のである。

 左側には「遊園地ナタリー」の観覧車・ジェットコースター・ループザループなどの遊具が見られる。右端中央海側の丸い白い屋根は屋内プールである。

 右側の住宅地「鼓ケ浜」は現在と殆ど変わらないようにみえるが、当時よりは住宅が立て込んでいる。住宅地の中の電車線路沿いやや右の白い二階の建物は眼科医院があった。

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 この写真は現在の阿品三丁目の様子である。

 「遊園地ナタリー」は閉鎖されマンションが建てられている。その一角には大型スーパーが開店した。

 住宅地側は殆ど変わっていないように見えるが、眼科医院は閉鎖され跡地に住宅が建っている。

 線路手前左下の白い建物は「ふじタウン」の汚水処理施設であるが、阿品地域に公共下水道が整備されればこの施設も撤去されるであろう。
by hirosan_kimura | 2014-01-23 11:57 | 三丁目 | Comments(0)

№599 対厳山線開通

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  西広島バイパスを地御前の鹿の子分岐し阿品台の中央を通り大野方面に抜ける道路がある。この道路は「対厳山線」と言われるが厳島の対岸の高いところを通っているのでこの名称になったのであろう。

 結構通行量の多い道路であるが、阿品台が出来た頃は西の県営住宅辺りで山に阻まれて道路は途切れていた。この山は高畑山より海岸線近くまで峰が続き、その昔は地御前村と大野村の村境であった。

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 大野側の山は削られ住宅団地となり、廿日市側も開発され阿品台山の手の住宅開発により、行止りの道路は昭和57年4月に大野側と結ばれた。

 この道路は海岸沿線を走る国道二号線のバイパス的役割を果たしている。大野方面から広島方面に向かうのに国道二号線を行くより近いので、今では国道に劣らないくらいの交通量がある。
by hirosan_kimura | 2014-01-22 10:59 | 道路 | Comments(0)