素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

<   2013年 10月 ( 7 )   > この月の画像一覧

№581 枯木の芸術

e0125014_1093480.jpg
 阿品三丁目鼓ケ浜集会所の脇に植えられていたマロニエが今年になって急に枯れてしまった。毎年綺麗な花を咲かせていたが、根元を見ると穴が何個か空いており、何かの虫が木の中に入り込んだため枯れてしまったのだろう。

 この木はギリシャ周辺が原産地でヨーロッパでは珍しくもないらしいが、近辺では見かけることは少ない。別名「セイヨウトチノキ」とも言われ、栃に似た実がなるが有毒で食べられないそうである。
 集会所のマロニエは高さ3m足らずであるが成長すると30mを越える巨木になるらしい。

 枯れたマロニエは切り倒されるのかと思ったら、近所の人が枯れた小さな枝を切り払い着色しておられる。絵心の有る人が着色されたのであろうがカラフルな芸術品である。

 枯木であるのでいつまで持つか分からないが、当分の間ここを通りかかる人の目を楽しますであろう。

e0125014_10161633.jpge0125014_10174586.jpg
by hirosan_kimura | 2013-10-30 05:59 | その他 | Comments(2)
e0125014_1047624.jpg
 昭和7年農繁期託児所とある。お寺をを利用して託児所が開かれている。ここに写っている子どもたちも元気でいれば八十数歳になっている。

e0125014_1048034.jpg
 当時の託児所の詳しいことは分からないが、№490で昭和24年当時の託児所の様子を紹介している。

e0125014_10483045.jpg
 昭和9年1月の地御前村の消防車と車庫の様子であるが場所はどこだろうか。当時は可搬式の消防ポンプくらいしかなかったのかと思っていたが、80年前にしては立派な消防車があったものである。

e0125014_104923.jpg
 この写真は写りが悪いが広島総合病院の前身「佐伯病院」の玄関を写したもので、昭和20年代の終わりか30年代の初め頃写されたものではなかろうか。勿論木造で病院名は右から「院病伯佐」と表示してある。 佐伯病院は佐伯郡37ケ町村と農業会が出資し昭和22年12月開院している。 昭和41年に佐伯総合病院、昭和54年に広島総合病院と改称している。

e0125014_1050235.jpg
 中央煙突の場所が「広島ベニア」、今ではイオンの建物となっている。その向こう側には「日本綿麻」の建物が写っているが、今では住宅地となっている。病院が改築されているが昭和40年頃撮影されたものではなかろうか。

e0125014_10514680.jpg
 昭和32年成人式の地御前地区分の写真である。旧廿日市町、平良・原・宮内・地御前村が合併して最初の成人式と思われる。天満宮で撮影されているが、この当時は中央公民館は建てられていず何処で式を挙行したのだろう。この写真に写っている紅顔の美少年美少女も喜寿を迎える年となっている。
by hirosan_kimura | 2013-10-28 04:52 | 写真 | Comments(4)
e0125014_103418100.jpg
 この写真は阿品と地御前境の山より撮影されているが場所は分からない。撮影年月は不明であるが、国道が完成しているので昭和10年頃撮影されたものかも分からない。国道より沖側には港付近を除いて建物がほとんど見当たらず農地が広がっている。
 手前の山には食料不足を補うためか、山頂近くまで段々畑が開墾されている。

e0125014_1034548.jpg
 この写真は地御前神社左側の石碑の完成式のものである。この石碑は大正十二年十一月建立で石碑の正面には「皇威輝八紘」とあるが、西南の役・北清事変の戦没者の慰霊のために建立された。

e0125014_10363762.jpg
 この写真は現在地御前小学校の事務棟の建てられている場所であるが、後方は「大歳神社」である。

e0125014_10374063.jpg
 奉安殿の上棟式であるが明治41年とある。(明治41年は明らかに間違い。昭和4年5月21日と思われる。)

e0125014_10382616.jpg
 小学校の校庭で上棟式の祝賀の行事が行なわれている。これから「餅蒔き」でもあるのだろうか。後の校舎は昭和31年頃解体された懐かしい旧校舎である。

e0125014_103973.jpg
 昭和8年「防空演習」とある。場所は不明であるが海岸端のようである。

 年代については間違っている可能性もあるのでそのつもりで。
by hirosan_kimura | 2013-10-27 11:33 | 写真 | Comments(5)
e0125014_9195033.jpg
 現在では想像出来ないが、かつてのお上がり場は松の木が鬱蒼と繁り日差しを遮る木陰となっており、夏になると沢山の海水客が訪れていた。たくさん人が来た時は木陰に隙間が無いくらいゴザなどの敷物が引かれ座り込んで飲食したり、ひと泳ぎして寝転んだり、おんなの人はおしゃべりに花が咲いたりして大賑わいであった。
 
 木陰には簡単な建物が建てられお菓子や飲み物などを売る店があった。夏になると海水浴客を目当てにもう一軒の店が開店しかき氷なども売られ、二軒の店が競い合っていた。店といっても木の柱を建て屋根はよしずを乗せたような仮設の建物である。

 昭和30年代の終り頃だったと思うが、幅二間半・縦四間くらいの総二階の木造の建物が建てられ、新しい店が開店した。この地は公園で公有地であるので本格的な建物は建てられないので不法建築であったらしい。当時のある議員が建主の便宜を計り役場に圧力を懸けて建てたの噂もあったが真相は分からない。

 水道も在ったが、今の阿品東駅付近からビニールパイプの水道管を堤防沿いに地上に這わせていた。正式な水道工事なら給水管は地中に埋設しなければならないが、なぜこのような水道工事が認められていたのかは分からない。

e0125014_9203353.jpg
 この建物があった場所は公園の東側、上の写真の左側の二階の建ての建物である。一年の内ほとんど毎日開店していた店は公園の中央当り、夏だけ開店する店は公園の右側辺りにあったが新しい店に太刀打ち出切る筈も無く、この建物が建てられた時期に前後して閉店している。

e0125014_921138.jpg 新しい店は「阿品海楽園」との看板を掲げて派手な商売を行なっていた。しかしこの店には背中に刺青をした人たちが出入りしたり、二階では昼間から博打をしているなどの噂が広がり、阿品の人たちは恐ろしいので余り近寄らなかった。

 この店もいつの間にか閉店し、昭和40年代の終り頃建物も撤去された。
by hirosan_kimura | 2013-10-24 10:10 | 鰆浜 | Comments(3)
e0125014_1083018.jpg
 このブログ№7でも紹介しているが阿品公民館の裏側、ふじタウンから降りたところに「教え地蔵」は小さな祠の中に安置されている。

 この地蔵さんは阿品の奥の谷の大野の「更地」と「中山」に行く分かれ道に安置されていた。昭和49年に県による廿日市ニュータウウンの造成により、安置されていた場所が埋立てられることになったため、阿品の有志の人々の手により、調整池ダムの下で「阿品桜」のある付近に移転され仮安置されていた。

 昭和54年に現在の場所に再移転され、傍には説明版も設置されている。

 しかしこのお地蔵さんの指を良く見ると、後から継ぎ足した形跡がある。この指が折れたのは現在地に移転する際、誤って折れたのだと史跡めぐりの際「歴史を語る会」の人が説明されたそうである。この地に移転されて三十数年経過しており、当時移転作業に拘わられた人は大半が亡くなられており真相は分からない。
e0125014_109510.jpg
 阿品の人の言い伝えでは、昔地蔵さんの傍で遊んでいた子どもが誤って地蔵さんの指を折ってしまった。後にこの人が日露戦争に出兵し戦死したのは、地蔵さんの指を折ってしまった祟りだと噂しあったと言う。

 折れた指を良く見ると地蔵さん本体と明らかに材質が異なり、新しく作った指とセメントで接着してあるのが分かる。

 移転作業の際に折れたのなら、慎重に作業を行なったであろうから折れた指先が紛失することは考えられない。その際折れたのなら、折れた指先をセメントで接着したであろうから、継ぎ足した指先とお地蔵さん本体の石質が同じでなければならないであろう。

 昔し指を折った祟りで戦死したと言う話は兎も角、この指は遠い昔より折れていたのではなかろうか。指が折れていないのにこのような言い伝えがあるとは考えられない。

 日露戦争で戦死された人が子ども時代のことであれば、今から120年近く前になる。この頃から指は既に欠けており、現在地に移転されてから新しい指を継ぎ足したと考えられるが、今となっては真相は分からない。
by hirosan_kimura | 2013-10-06 10:55 | 宗教 | Comments(6)
e0125014_8314438.jpg
 昭和3年に広島瓦斯電軌(株)が「宮島広島名所交通図絵」を発行している。現在の広島電鉄(株)の前身会社である。この絵図は吉田初三郎が書き、縦177㎜、横770㎜有り広島市から宮島までの鳥瞰図である。

e0125014_8322142.jpg
 今まで入手していた絵図は拡大すると文字などが潰れて見にくかったが、拡大しても鮮明なものを提供してもらった。

 阿品付近は火立岩と明治天皇御上陸地(お上がり場)が誇張してある。赤線が広電であるが、この絵図のが発行された時点ではまだ宮島口まで延長されていなかったが、線路は宮島口まで描かれている。

 当時の宮島線終点は鰆浜の「新宮島」であったが、新宮島~宮島間の航路は描かれていない。昭和6年には電車宮島口まで開業し「新宮島駅」と宮島航路が廃止され、新宮島駅と宮島口の間に「阿品駅(現在の阿品東)」停留所が新設されている。

 汽車のトンネルは、地御前~鰆浜間は地御前側の入口は見えるが鰆浜側の出口は見えない。また、鰆浜~阿品間のトンネルは阿品側の出口は見えるが鰆浜側の入口は見えない。鰆浜間の鉄道軌道は省略してあるのか、山陰で見えないのかも知れない。

 右側は地御前神社と地御前の港が描かれている。この絵図は大まかに描かれていて一部を省略したり、一部を誇大化したりしてあるが、いずれにしても阿品近辺が描かれている数少ない絵図である。

e0125014_8333154.jpg
 昭和5年には同じく吉田初三郎が描いた「広島県鳥瞰図」も発行されている。
by hirosan_kimura | 2013-10-04 09:21 | 絵図 | Comments(4)
e0125014_857265.jpg
 №12・№386・№507で「阿品の飛行場」について紹介した。このことは廿日市町・市が発行した歴史に関する図書でも紹介されていたが、何時も不思議に思っていた。

 飛行場は阿品の下田尻の海岸にあったとされているが、いくら水上飛行場で滑走路が無かったとは言え、格納庫やそのたの施設を整備する広さの敷地は無い。

 上の地図では「宮島航空学校」とされているが、この中には「鼓ケ浜航空学校と「宮島航空研究所」の二つの施設があったと言われている。

e0125014_1526716.jpg 「鼓ケ浜」とは隣村大野村の古い字名であるが、今の競艇場のある場所付近である。旧地御前村の阿品に「鼓ケ浜」の地名は記録にも残っていないし阿品の言い伝えにも聞いたこともない。

 飛行場の敷地の端っこの方の一部が、阿品の下田尻に引っ掛かっていたかも知れないが、阿品に飛行場が有ったと位置付けるには無理があろう。むしろ阿品に隣接した大野村の鼓ケ浜に飛行場が有ったと言うのが妥当であろう。

 阿品に飛行場が有ったと真に受けて、小学校の子どもたちや地域のサロンで説明したことがあるが、生半可な知識で話をしたことを恥じ入るばかりである。
by hirosan_kimura | 2013-10-02 09:37 | 交通 | Comments(8)