素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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№556 鰆浜の川

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 古い記録によると「鰆浜川 水源権四郎谷より流出、海に入る。凡そ五町三拾九間流出」とある。川と言っても鰆浜地区は奥行きも知れているので、小川に毛が生えた程度のものであるが、それでも水が切れることもなくきれいな水が流れ、鰆浜地区の田畑を潤す水源であった。

 権四郎谷を水源とするとあるが大谷と言われる谷からも水が流れ、途中で合流して海に注いでいた。

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 鉄道が新設され一部川は改修され、左側の川は鉄道軌道下を暗渠で流し、線路沖より高さ2~3mくらいの高さから真下に流されていた。子どもの頃はこの場所を「鰆浜の滝」と呼び水遊びを良くしていた。

 右側は鉄道軌道の奥に行くガードが作られ、細い道の脇に川が流れるようになっていた。この道はめったに人が通ることも無く、沖側から奥に風が通り脇に小川が流れ涼しいので、夏などには小道の上にござを敷き遊んだり昼寝をすることもあった。人が通る時は一旦ござを仕舞い通り過ぎるとまたゴザを敷いて遊んでいた。

 県病院が新設された際、若干川の位置が変わったがほぼ昔の川筋で、今の鰆浜集会所付近で二つの川は合流している。小さな川ではあったがメダカなども泳ぎ夏になると阿品ほどではないが蛍も飛んでいた。この小さな川で鰻を獲ったと言う人もあった。

 春先になると河口では白魚も獲れていた。満潮になると鉄道線路付近まで海の水が流入していた。

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 左側の川は鉄道軌道新設の際に変更されたものか分からないが、天井川とまでは行かないが川が付近の田畑より若干高い位置にあった。川が高いと田畑に水を引き入れるのには便利であっただろうが、少しの大水で田畑に水や土砂が流れ込むこともあった。

 上の写真は昭和26年10月のルース台風で川土手が決壊したものである。川の水が土手すれすれまで増水している。

 写真の写りが悪く鮮明でないが、たくさんの人々が決壊した土手を補修している。左上の民家は鉄道より奥に唯一一軒のみあった家である。この家以外に民家は無いが、今では谷の奥が見通せないほど沢山家が建てられている。

 小さな川であったがいつも絶えることなく清水流れていた川も、阿品台団地の造成により昔の面影は無くなってしまった。権四郎谷から流れる川は奥の山がすべて無くなり、水源が無くなったので川底にチョロチョロと申し訳程度に水が流れているのみである。

 右側の大谷から流れる川は、団地造成で谷が埋められ川そのものが姿を消してしまった。変わりに団地の下水処理場の処理水が海まで放流されている。
by hirosan_kimura | 2013-06-28 09:52 | 地形 | Comments(0)

№555 沖島

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 沖島付近は現在地御前五丁目に属する。元々阿品地域では無いが鰆浜に隣接し、阿品の人たちにとっては古くから親しまれている。今では小高い山も削られ昔の面影もないが、子どもの頃にはこの付近で遊んだりアサリを掘っていた。

 今でこそ地続きになっているが、古い時代には陸地から少し離れた島であったらしい。この島の山は沖山と呼んでいたが、小さな山であるが木々が鬱蒼と繁っていた。この山でアケビなどを採って遊んだことなどが思い出される。

 古い時代の記録によると、万治元年(1658年)にこの山が御建て山に指定されたとある。御建て山とは今で言う保安林のようなものであろうか。広さは竪一町横三十間とある。

 上の図は広電軌道・国道も無い時代のもので道路は旧国道であろう。新国道が整備された際、沖山の山肌が削られ付近の様子は大きく変わってしまった。右下海中の岩は今は無い「弊司岩」である。

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 この地図は明治26年3月に発行された、沖山付近の拡大図である。道路は今の国道2号線でなく旧国道である。この地図をみると遠い昔には沖山が島であったことが伺える。陸地と島の間の狭い地に道路が通されている。

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 この図は文政7年(亜824年)頃の沖山付近である。茶色の線は道路であるが地御前神社前を海岸沿いに通り、沖山の裏側を通って拝床付近の海岸に出ている。それから先は道路が途切れているが、阿品方面に行く際は潮の引いたときに磯伝いに通行していたらしい。

 この時代には阿品付近には海岸沿いに道路が無く、他の地域に行く際は山伝いに行っていたらしい。

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 この図では火立岩脇に道路が見掛けられるので、上の図の何年か後らしい。右側な田んぼは田屋地区であるが、国鉄軌道・広電宮島線・新国道の開通により昔の面影は無い。右端に続いては地御前神社がある場所である。

 川の左側道沿いの松は、昭和40年代頃までは残っていたような記憶があるが今では見ることは出来ない。

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 この写真は昭和の初めか大正時代で地御前側から見た沖山である。磯で潮干狩りをしている人があるが、沖山の山裾には岩礁があり、その左に小さく「弊司岩」が見える。この岩も今では見ることが出来ない。 

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 この写真も上の写真と同時代のものである。右端の地御前神社前の海水浴場の飛び込み台が小さく写っている。

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 鰆浜側から見た沖山であるが、昭和30年代の風景である。この美しい山も昭和38年に山が削られ、地御前側の海岸7,067㎡が埋立てられた。

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 現在の沖山付近であるが、バイパス工事などで周囲の風景はかつての面影は見られない。
by hirosan_kimura | 2013-06-27 13:33 | 地形 | Comments(0)

№554 田尻の海岸

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 昭和40年代の初め頃までは、田尻の海岸に山が残り付近の風景に彩りを添えていた。この付近の写真は遠方より写したものや余り鮮明なものは無かったが、最近かなり鮮明な写真が手に入った。近くで撮影され松の枝まで判別出来るものである。

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 この美しかった風景も海岸が埋立てられ住宅が建てられかつての面影は無い。家が建て込み上の写真と同じアングルで撮影出来ないが、この写真はほぼ同じ場所の現在の様子である。

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 明治の初めごろまでは上図のように、田尻山から海岸まで山が岬のように伸び、このあたりは白砂青松の美しい風景であった。

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 明治の中旬頃、旧国道や山陽線の開通により田尻山から連なる尾根が削られたが、それでも広電宮島線軌道沖には尾根の一部が残され、海岸には美しい砂浜も残っていた。

 昭和44年に田尻沖海岸を埋立住宅団地にするため、残された小山も削り取られてかつての美しい海岸の面影も残されていない。

追記
 一番上の写真は「田尻海岸」の写真と紹介したが、田尻でなく宮島の浦の写真のようである。削除すれば良いのだが、このブログの中には他にも間違いがあろうと言うことでこのまま残しておく。
by hirosan_kimura | 2013-06-25 13:43 | 地形 | Comments(0)
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 昨日は「廿日市縦断みやじま国際パワートライアスロン大会2013」が行なわれた。このトライアスロンは数ある大会の中で走行距離は飛びぬけて長くはないが、海抜0mから吉和までその標高差900mと過酷なレースである。

 今回で7回目となるが、今までツリーハウス入口や魅惑の里付近では何回も観戦したが、近くで観戦するのは初めてである。昨日まで続いた雨も上がりまずまずの大会日和となった。

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 対岸の宮島鳥居付近の出発が9時であり、家の前の海岸堤防に行って出発時間を待っていたが、宮島までの距離が少しあるのとカメラの性能も余り良くないので、選手が泳ぐ姿ははっきり確認出来なかった。しばらく様子を見ていたが仕方ないので、選手が自転車で通過する阿品台まで歩いて行った。

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 コースの分岐点では警備員がすでに交通規制を行なっている。

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 しばらく待っていると早くも選手が通り過ぎて行く。驚いたことに宮島から対岸まで泳ぎ、自転車に乗り換えて40数分しか経過していない。大野瀬戸を泳ぎ切るのみでも随分時間が掛かりそうであるが、ここまで掛かった時間のみで判断すると驚異的である。

 最初3名の選手が通り過ぎて次ぎの選手が来るまで随分時間が掛かったが、この3名はオリンピック強化選手だそうである。

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 阿品台に入って間もなくコースは左折となる。道路の中央には選手に分かりやすいように係員が誘導している。

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 左折するとすぐに「阿品台西小学校」に沿って、かなりの勾配の上り坂となっている。

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 この付近は、全長77.5kmの10分の1にも満たない地点であるが、選手の中には随分辛そうな人も見掛けられ荒い息をし今にも倒れるのではないかと思われるような人もある。果たして最後まで完走出来るのかとこちらが心配になる人もある。

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 阿品付近の上り坂もカーブを曲がり切った「阿品公園」付近までで、それから下りとなり日赤看護大学脇を過ぎ宮内地区に入る。

 再び登り下りをを繰り返し、宮内地区から大野地区・佐伯地区・吉和地区と長い長い過酷なコースが待ち受けている。
by hirosan_kimura | 2013-06-24 10:59 | 体育 | Comments(0)

№552 ルース台風

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 昭和26に発生したルース台風は10月14日に鹿児島県に上陸し、九州を横断後、山口県の防府市に再上陸後山口・島根県を横断し日本海に抜けた。

 この全国で死者572名、行方不明者371名や建物や河川等に大きな被害をもたらした。県内では死者は132名、家屋の全壊716戸・流失350戸、橋梁流失285箇所、道路の損壊2,092箇所と県西部の山間部を中心に大惨事となった。

 地御前村では死者も無く家屋の全壊は1戸のみであったが、248戸に浸水の被害があった他、田畑の流失埋没、道路・堤防の決壊が16箇所あった。

 阿品地域では阿品新開を中心に鰆浜・阿品・田尻などで田畑が冠水し、塩害・害虫の発生などで農作物が大きな減収となった。

 阿品では岩神水路の決壊により、農道や堤防が1,000m近く崩壊すると同時に、ふじタウン崖下に有った阿品の氏神「岩鏡神社」が建物ごとに崩壊流出してしまった。海岸端の樋門も延長80間に渡り観光道路下の樋門囲いが流水により崩壊したとある。

 鰆浜では護岸200m、用水路180mが被害にあっている。

 阿品地域では死者・負傷者こそ出なかったものの、田畑・農道・河川・堤防などに大きな被害があった。特に「岩鏡神社」の流失・損壊は阿品の人々にとっては衝撃的な出来事であった。

 上の写真は「岩神水路」の被害状況とあるが、写りも悪く部分的なもので全体の被害状況は分かりにくい。
by hirosan_kimura | 2013-06-12 11:33 | 災害 | Comments(0)
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 №511で「かまぼこ兵舎」を紹介したが、これを見たある人より写真を提供していただいた。

 国道側の坂道を下った門柵の前で撮影されたものである。撮影された年月日ははっきりしないが、既に米軍の人は住んでいず空家になっていた時代のものかも知れない。

 この写真は建物の裏側から撮影されたものであるが、表側は海に面し広い庭には芝生が敷き詰められとても美しかった。

 当時の日本の家屋と比べると、とてもしゃれた感じで、まるで外国映画に出てくるような建物であった。

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 上の写真より人物を抹消してもらったものであるが、この写真を見ると薄れ掛けていた記憶がよみがえるようで、とても懐かしく思える。

 白黒写真なので色は分からないが、屋根が緑、煉瓦の壁にには白いメチが入り、庭の芝生の緑ととても美しい建物であった。

追伸
  この写真をブログに載せると、早速写真を提供いただいた方から撮影年月日は、昭和35年3月29日と教えていただいた。今から53年前である。
by hirosan_kimura | 2013-06-10 16:34 | その他 | Comments(2)
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 5月3日の中国新聞に「禁止区域で潮干狩後絶たず」の記事が掲載された。

 「地御前と阿品の干潟のアサリを採取を禁止する区域で潮干狩りをする人が目立ち、地元漁協が啓発看板を取り付けて注意を促している。」と言う内容である。

 小さい頃から家の目の前の海岸でアサリを掘ることは極当たり前と思っていたし、潮の良いときには沢山の人が貝を掘っており、この海岸がアサリの採取禁止区域と言う認識は全く無かった。

 以前はたくさんのアサリが掘れていたので良くアサリを掘りに行っていたが、最近ではめっきり少なくなり大潮の干潮の時でもアサリ堀に行く気にもならなかった。

 こんなにアサリの少ない干潟なので、アサリを生業とする漁業者は皆無と思っていたが、漁協では春と秋に2漁業者がアサリの稚貝を干潟に蒔いているらしい。またチヌなどによる食害を防ぐ網を敷いているらし。
 
e0125014_11242630.jpg 新しく取り付けられた看板の横に、昭和50年前後に取り付けられほとんど判読不能な看板が残っている。読めない部分が多いが、この付近でアサリを掘る人は監視人の指示に従ってください。アサリ採取が出来る場所は地御前神社前と阿品海岸。アサリ採取区域は地御前の旭沖と宮内の嘉永新開沖と記してある。

 以前は干潟の降り口に監視人が居り、アサリを採取する人からお金を徴収していた時期もあった。監視人は漁協から地元の老人クラブに委託されていた。母が元気な頃この仕事を引き受けると良い小遣い稼ぎになると喜んでいた。

 はっきり記憶している訳では無いが、一人200円くらい徴収しその半分くらいが監視人に入っていたらしい。お金の徴収もいつの間にか行なわれなくなり、誰でも自由にアサリを掘ることが出来るようになった。

 潮の良いときには沢山の人がアサリを堀に来て、海岸沿いの狭い道路にたくさんの自動車が違法駐車し、誰が通報するのか分からないが、警察署に通報しパトカーが取り締まりに来ることもあった。

 少ないアサリを沢山の人が掘り、小さなアサリまで持ち帰るので鰆浜沖の干潟では益々アサリは居なくなってしまった。

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 今では少なくなってしまったが、バイパス工事で干潟が埋立てられる前は子どもでもバケツ一杯くらいは掘ることが出来た。その時代が懐かしく思い出される。
by hirosan_kimura | 2013-06-09 07:03 | 水産 | Comments(0)
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 現在、街の至る所に電柱などに町名が表示してある。中には町名のみでなく街区番号まで表示されている場合もあり、知らない町などでは住所を探すのに大変便利である。家の近くのスポーツクラブ周辺の電柱にも、病院等の宣伝の看板の下に町名が表示してあるが、以前から気になっている表示がしてある。

e0125014_14311966.jpg 上の写真の①の電柱の表示は当然「ここは阿品三丁目」となっている。

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 すぐ隣の電柱は「ここは阿品ニ丁目」となっている。②の電柱。

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 ②の電柱の角を廻ったすぐ傍の③の電柱は、驚いたことにここは「阿品台三丁目」の表示がしてある。「阿品」と「阿品台」は隣接しているが、「阿品三丁目」と「阿品台三丁目」は何百メートルも離れており、「阿品三丁目」は海岸沿いの平地であるが、「阿品台三丁目」は山の上である。

 各電柱の表側と裏側に看板が取り付けてあるが、片方だけ間違っているのでなく、表裏とも同じ間違いの看板となっている。 まさか「阿品二丁目」と「阿品台三丁目」にあった古い電柱を、看板ごとにこの地に移設したとも思えない。

 何故こんな単純な間違いが起きたのかは分からないが、電柱に看板を取り付けた広告会社が確認もせずずさんな工事をしたとしか思えない。

 この表示は随分前から掲示されているが、誰も気付かないのであろうか。訂正してもらうには何処に言えば良いのであろうか。

 この周辺の人が見れば間違いとすぐ分かるが、この周辺の地理の不案内な人が見れば何と思うであろう。
by hirosan_kimura | 2013-06-06 15:15 | 地名 | Comments(0)