素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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  阿品付近は西広島バイパスの出口に当たるが、バイパスを出てすぐに在来の国道の2車線に合流すると混雑するため、在来の国道を4車線に拡張する必要があった。

  今では鰆浜付近は海面を埋立て広電宮島線を沖合いに移設し、旧線路敷を活用して道路が拡幅されているが、当初計画では国道沿線の家屋が立ち退き道路を拡張することとされていた。

  当初計画ではJR線路を越える辺りから山を削り、鰆浜は民家の立ち退き、お上がり場付近は山を削り、今のJR阿品駅付近は二号線と平行していた調整池を埋め立て道路幅を確保するものであった。上図の青線が在来国道二号線、赤線がバイパスのための道路確保計画である。
(註 赤線は想像で書いたものでその幅は、当初計画の通りでは無い。)

  この計画で大きな影響を受けるのは鰆浜部落であるが、早くも金融機関が立退補償金を目当てに対象世帯を廻り預金獲得に奔走する状態であった。立退き世帯では長年住み慣れた場所を離れなければならない不安もあったが、一旦国が発表した計画が少々の反対運動で白紙に戻ることなど考えられず、早くも移転先の段取りをする家もあった。

  我家も国道沿いにあったので立退きの対象になり、先行き不安でその話にもちきりとなっていた。移転先として町が示したのは田尻沖の埋立地であった。田尻沖の海を埋めて住宅地を造成した目的の一つは、町内でも西広島バイパスの新設により多くの家が立ち退きになりその代替地にすることであった。

  今でこそ広電宮島線の駅<JRの駅もあり、大型スーパーも新設されこれ以上利便性のある所は無いとまで言われているが、当時は駅まで遠く買物も不便で陸の孤島のように言われていた。母親もこの年になって住み慣れた場所を離れ、何で田尻沖の埋立地に移転しなければならないのかと嘆いていた。

  この現状を嘆いていたのは立退きを要する世帯のみでなく、後に残る世帯も同様であった。鰆浜部落は地域が狭い上に県立病院と吉田病院の敷地がかなりの部分を占め、部落全体の家屋も僅かであった。少ない家屋のうえに国道沿いの家が帯状に無くなると、残される家屋数も僅かとなり部落としての機能に大きな打撃を受けるためである。

 そこで部落を揚げて計画の変更を求める運動を行なうこととなった。一旦、国が発表した計画を小さな部落で覆すのは無謀とも思われたが根気強い反対運動を続けた結果、海を埋立てて広電線路敷きを沖に移設し道路拡幅用地を確保することとなった。当時、一旦発表された計画を小さな部落の力で覆したと話題になったものである。
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  計画の変更により海が埋立てられ、広電宮島線延長約920mを最大35㍍海側に移設され、鰆浜の国道沿線の家屋の立退きを逃れることが出来た。光が丘団地付近の山も残り、お上がり場付近では山を少し削る程度で済んだが「お上がり場公園」の敷地が線路の沖出しで少し狭くなった。しかし阿品では2戸の家が立ち退きになり田尻沖埋立地(鼓ケ浜)に移転されている。

  鰆浜では家屋の移転は逃れたものの、鰆浜海岸の景勝地「火立岩」は無くなってしまった。たくさんアサリの獲れていた浜辺も無くなった。人口干潟が造成されているが山土のためか海の汚染によるものかは分からないがアサリも獲れなくなってしまった。

  バイパスのお陰で阿品付近の国道は広くなったが、阿品陸橋を過ぎた所より4車線が2車線のままで、休日や行楽シーズンには車の渋滞が相変わらずである。何とかならないものであろうか。
by hirosan_kimura | 2013-05-31 06:34 | 鰆浜 | Comments(2)
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 鰆浜の国道の傍に駐車場があるが、この場所には沖野さんの家があった。この家は住居の一角が商店となっており、駄菓子・文房具・化粧品・履物などが売られており子どもの頃には良く通っていた。

 この建物はこの場所に新築されたものと思っていたが、元々は3軒くらい先にあった家をこの場所まで引っ張って来たものだそうである。

 元々は上の図の緑色の場所にあったらしいが、事情は分からないが元の家を持ち上げ下に丸太を並べころにして移動させたようである。

 移動さすため一旦、家を丸ごと国道まで出して国道の上を移動させて今の場所まで移動させたようである。

e0125014_10433088.jpg 国道を移動させた距離は数十mとは言え、車の通過している道路上を利用して民家を移動させたとは驚きである。


 家を移動させた年代はハッキリは分からないが、昭和20年前後で今から70年近く前らしい。当時は今ほどの通行量は無かったとは言え、天下の国道で建物を引っ張ったとは信じられない話である。

 国道を利用する際は警察署でもの許可を得たのであろうか。それとも無断で行なったのであろうか。今では建物を移動さすのに国道を利用するなどとんでもない話で、許可申請をしても直ちに却下されるであろう。

 国道を移動させた家も30年くらい前に取り壊されて今は無い。
 
 それにしてものんびりした時代の話である。
by hirosan_kimura | 2013-05-30 11:20 | 鰆浜 | Comments(0)
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 昭和30年代頃までは阿品沖でも漁をする人はクジラを良く見かけていた。そのクジラはこの地方の人は「デゴンドウ」と呼んでいた。クジラを見つけても捕獲することは無かった。

 この地方では「デゴンドウ」と呼んでいたが正式には「スナメリクジラ」である。「スナメリクジラ」はクジラの仲間では最も小さい部類に属し、成長しても体調1.5m~2m位で体重は50kg~60kg程度らしい。

 阿品沖でも見掛けることの出来たクジラも、気候の変化によるものか海の汚染によるものかは分からないが、長年この近辺では見掛けることが無くなった。

 長年広島湾では見掛けられなくなったスナメリクジラではあるが、近年小型飛行機で低空で広島湾上空を飛んでいると、2~3頭で泳いでいるスナメリクジラをたまに見掛けることがあるそうである。

 昨年6月11日に周防大島北方の広島湾入口で約100頭の群れで泳いでいるスナメリクジラが発見され、写真に収められ新聞で報道された。

 海の汚染が改善された結果かは分からないが、瀬戸内海沿岸各地でスナメリクジラを見掛けるのは珍しいことではないようである。

 以前のように阿品沖でも、スナメリクジラの泳ぐ姿を見るのが極当たり前になって欲しいものである。
by hirosan_kimura | 2013-05-28 10:10 | 海洋 | Comments(2)
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 №544で阿品の葬式を紹介したが、元々はこの辺りは海の中であった。

 明治11年9月30日に阿品沖海面開墾願いが出されている。開墾面積は四町六反弐畝拾六歩とある。この願いは明治11年10月20日に許可されているが、「中国往還通路修築中ニ而兼用仕、予而目論通リヨリハ里程短縮隋テ往還ノ便ヲ得候義ニ付」とあるように、山奥を廻っていた旧道を海岸線に新設するため、堤防敷を新道用地に利用出来るためであった。

 明治12年7月5日に阿品新開が築調され汐止めが行なわれている。同時に旧国道も完成している。旧国道の道幅は三間とある。今から134年前である。

 上の図の赤線が元の海岸線。緑が堤防敷。間の白い部分が干拓された新開地で今では鉄道線路が横切っている。
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 ピンクが旧国道。赤は葬式のあった場所である。
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 大正12年12月には広電を宮島口まで延長するため、鰆浜・阿品沖の海面3,256坪の埋立申請が出されている。この埋立地は国道を拡幅する用地としても使用されている。

 広電宮島線は昭和6年2月1日に開通している。新国道は昭和7年3月に開通し幅員11mとある。

 上の図のピンクの部分が新国道であるが、この付近では旧国道に沿って新国道が新設されている。上の青い部分は海面であるが、今ではここも埋立てられ阿品三丁目となっている。

 赤い部分が葬式のあった場所である。№544では写真の撮影年月日不明としていたが、この人が亡くなったのは昭和5年12月1日とあるので、その翌日か翌々日に撮影されたものであろう。

 広電の開通3ケ月前であるが工事はほとんど完成している。新国道開通の1年4ケ月前で写真が撮影された時点では旧国道であったが、この付近では旧国道と新国道が重複している場所である。

 亡くなった人は嘉永2年6月1日なので81歳で亡くなっている。現在では80歳・90歳は当たり前であるが、当時としては随分長生きなのであったろう。

tちなみに当時の日本人の平均寿命は、男性44.83歳・女性46.54歳であった。ここで亡くなったのは女性である。
by hirosan_kimura | 2013-05-19 11:41 | 交通 | Comments(5)
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 この写真は阿品のある人が亡くなり葬式の際の記念写真である。場所は阿品陸橋下の国道付近である。左側の棺桶を中心に参列者が左右に並んでいる。

 棺桶が入れられているのは大名籠のようであるが勿論寝棺でなく、遺体は樽状の桶の中に正座し手を合わせて座っているのであろう。この後、何人かで担いで鰆浜の火葬場に荼毘に向かったのであろう。

 問題は参列者が記念写真を撮影している場所で、国道2号線上を横切って並んでいる。

 阿品付近の新国道は昭和6年4月に着工され、昭和7年3月に完成した。当時の阿品の人々は旧国道と比較して幅の広さにびっくり仰天し、有事の際には飛行機でも離着陸させるのかと思ったそうである。

 新国道が完成した当時は、通る自動車は午前中にチチヤス乳業の車が牛乳を広島まで出荷し、午後にその車が帰って来る程度で、それ以外の自動車が通れば「今日はチチヤス以外の自動車が通った」と噂しあう程であったらしい。自動車以外には馬車や人が引く荷車がたまに行きかう程度で、阿品の人々は何と無駄な広い道路を作ったのだろうと言っていた。

 この程度の交通量なので、国道上に整列して記念写真を撮影するくらいは何の支障も無かったのであろう。

上の写真の中央よりやや右の溝は、国道と広電宮島線の境界である。
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 国道に並びきれなかった参列者は広電軌道の上までならんでいる。この写真の撮影年月日は不明であるが、国道が未舗装であるが舗装されたのは昭和11年。広電宮島線が宮島口まで延長されたのが昭和6年2月。これらから推測すると昭和5年の終わりごろから、昭和10年までの間ではなかろうか。
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 この写真は葬儀の参列者が記念写真を撮るために並んでいた国道と広電軌道とほぼ同一箇所である。撮影した時点ではたまたま国道の交通量も少ないように写っているが、切れ目なく自動車が行きかい休日や行楽シーズンには大渋滞が日常となっている。

 国道の上で記念撮影どころか、信号の無い所では国道を横断するのも命がけである。
by hirosan_kimura | 2013-05-16 11:47 | 冠婚葬祭 | Comments(6)

№543 阿品の集会所

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 地域のコミュニティ活動を推進するため、市内にはたくさんの集会所がある。

 阿品・阿品台地域では市有13(赤)、共同住宅併設6(青)、地元所有2(緑)、各戸区分所有9(ピンク)と30箇所の集会所がある。これ以外に各マンションでは建物内に集会室が設けられている。

 廿日市市では新しく合併した地区では集会所の整備は様々で、用地も建物の地元負担で行なう、用地は地元が提供する、建設費の一部は補助するがあとは地元負担など様々であった。

 旧廿日市市では小学校区毎に11ヶ所の公民館があり多人数の集会は公民館を利用し、地域の少人数の集会は集会所を利用と言うことで、歩いて行ける範囲半径300m以内に一箇所の集会所を整備することとしていた。

 敷地は一箇所250㎡を基準とし、建物は100㎡を目安としていたが後に車椅子で便所を使用出来るようにと110㎡となった。これも目安であり敷地の大小、建物の利用世帯が少ない場合は110㎡より狭い箇所もある。

 集合住宅併設は県営住宅に5箇所、県警官舎1箇所の6集会所があるが建物は県が整備している。

 地元所有は鰆浜とふじタウンの2箇所である。鰆浜は廿日市ニュータウン開発時に県が整備し地元に移管している。ふじタウンは宅地開発をした業者が整備したものである。

 ユニークなのは阿品台北タウンハウスの集会所である。タウンハウスは390世帯程度あるが、3社の住宅メーカーが3期に渡って住宅を建てたが、40世帯程度に一箇所の集会所が整備されている。この集会所は小さな部屋が一室ある程度で、各世帯の区分所有になっている。余りにも小さな集会所で使い勝手が悪く狭い範囲に9箇所もあるので、一時市に引き取って欲しいとか廃止したいとの声が出たこともあったが、今でも活用されているらしい。

 いずれの集会所も管理は地域で行なっており、市からの補助金は僅かな額で維持管理費の捻出に様々な方法が採られているようである。使用者から利用料を徴収する所。町内会・自治会等から支出し地域の人の利用は無料とする所もある。利用の少ない曜日に塾に貸しその利用料で経費を賄う所もあるらしい。

 今では殆ど無いが通夜や葬式に集会所を貸し出し、葬式があれば集会所に利用料が入るので助かると言うこともあった。

 利用に当っては利用者のの責任によりある程自由に使用出来るところ、細かい規則を作り制約の多いところと様々であるが、地域の人が気軽に使える集会所になることも大切である。

 いずれにしても地域の強い要望により整備された集会所であるが、人々の出入りで賑わう集会所、いつも閑古鳥が鳴いており使用されているのがめったに無い集会所もある。

 集会所の利用状況を見れば、その地域のコミュニティ活動が活発に行なわれているか、地域の団結力が強いかを伺うことが出来る。
by hirosan_kimura | 2013-05-10 11:00 | 社会 | Comments(0)
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 阿品地域には小学校区ごとにふたつのコミュニティ組織が結成されている。「阿品地区コミュニティをすすめる会」と「阿品台地区コミュニティをすすめる会」である。

 旧廿日市市区域では小学校毎に11ケ所のコミュニティ組織が結成されているが、最初に組織が結成されたのは地御前地区で昭和52年6月5日に組織が出来た。これは昭和51年に当時の宮沢広島県知事が地御前に来られ、地域コミュニティの重要性を説かれたのがきっかけで、地御前地区を県内のモデル地区に指定されたことによるものである。

 当時は阿品地域も「地御前地区コミュニティ推進協議会」に含まれていたが、阿品台東小学校の開校により学校区の変更があり、昭和56年11月8日に「阿品地区コミュニティをすすめる会」が発足することとなった。この時点では阿品台地区も阿品地区に含まれていた。

 その後、阿品台西小学校の開校もあり昭和58年6月12日に「阿品台地区コミュニティをすすめる会」が発足し、阿品地区と阿品台地区が分離し現在に至っている。

 その後、新しい組織の結成は数年見られなかったが住民間の交流も希薄化する中で、市もコミュニティ組織の重要性を認識し他地域へも組織の結成化を推進することとなった。当時は市民間にもコミュニティの言葉そのものも理解されていず、各地域には町内会・老人クラブや福祉・衛生関係などたくさの組織があるのに屋上屋を重ねることは無い。町内会が中心となって地域作りをすれば住むことであるなどと、中々前に進むこともなかった。

 この間、市も地域に出向いてコミュニティ活動の重要性を説いて回るうち、少しづつ地域に理解も得られることになり、平成元年4月に宮内地区、同年5月串戸地区、同年9月佐方地区に組織が結成された。その後、平成2年宮園・廿日市地区、平成3年平良地区、平成4年四季が丘・原地区が結成の至りとなり、全小学校区への組織化がなったのである。

 結成化されれば市から補助金が出るが、この補助金を目当てに組織が立ち上げられた地区もあった。現在の補助金額は分からないが、当時は一地区均等額10万円に人口千人当り1万円で限度額20万円であった。

 また、結成はされたものの既存の組織との調整で揉めさん返り、今までうまく行っていた地区内がかえって不穏な雰囲気になってしまったと、市に苦情が持ち込まれるような有様もあった。紆余曲折もありながら地域の人たちの創意と工夫により、佐方地区のように市民センターの運営を地域で行なうまでになった地区もある。

 コミュニティ組織も成熟し各地区とも様々な取り組みが行なわれているが、問題なのはコミュニティ組織の地域と小学校区が異なる地域が一部あることであろう。阿品地域でも阿品一丁目は阿品台東小学校区、コミュニティは阿品地区。阿品台西地区は阿品台西小学校区、コミュニティは阿品台地区となっている。

 今では小学校と地域との連携は以前と比べて希薄化しているが、何かにつけて学校区とコミュニティ区が異なるのは問題も多く、そのしわ寄せは子どもたちに行っているのではなかろうか。

 今では世代も変わり以前とは違うが、祖父の時代、曽祖父の時代から地御前小学校と地域は一体となっての付き合いであった。学校区の変更により阿品地区と地御前地区は切り離されてしまった。その時は阿品の人々は一抹の寂しさを感じたものである。
by hirosan_kimura | 2013-05-08 11:27 | 社会 | Comments(0)

№541 手製の土管

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 今では見掛けられることも無くなったが、昔は道路工事などで掘り返すと農民が手製した粗末な土管が掘り出されことがあったそうである。
 右側の土管は筒状のみであるが、中央と左側の物は継手が付けられている。古い時代の筒状のみの物は土管を連続して並べるのみで土管と土管の間からは水が漏れて効率が悪かった。これが改良された物が土管の片方に受け口が付けられたものである。
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 昔は現在のようにコンクリート製の土管などあるはずもなく、水を流すときは大抵の場合開渠で放流していたが、放流先との間に小道などがある場合、地中を流す必要があり止む得ず自分たちで工夫して土管を作っていたらしい。
e0125014_1110201.jpg 土管の製造は中央に竹や木材を芯としその廻りに藁を巻き更にその外側に幅4cm位の肉薄の木板が8~9枚で円状に巻かれていた。
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 このようにして土管の空洞部分の芯が作られた。
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 莚の上に土管の長さと内径の外周長と土管の厚さに粘土を板状に敷き、芯の部分に粘土を巻き付ける。巻きつけた物を荒縄できつく縛り形を整える。
 ある程度落ち着いた点で、片方より小竹を差し込んで中の芯を慎重に抜き取る。
 その後太陽で良く乾燥させて薪炭の上に並べ着火し更に土などで覆って火入れすれば、楽焼程度の硬さとなり、土管としての実用性に耐えることとなる。
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 作り始めの頃は筒状のみの土管であったが、後に継口も付けられるようになっている。粘土の固まらない内に別に作られた受口を継ぎ合わせていた。

 土管の材料には黒粘土や赤土が使われていた。黒粘土は村内では余り産出されなかったが、赤土はツ面谷・鹿の子山・田屋奥のかわらけ迫山などから採取することが出来た。

 これらの土管が製造され始めたのは、赤土土管は今から380年前位、黒土土管は280年前位と推測されている。

 これらの土管は農民が手作業で加工した物なので、同型でも製品は不ぞろいであった。
by hirosan_kimura | 2013-05-07 15:21 | その他 | Comments(0)